アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」その1(1996.9.4)

アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」その1(1996.9.4)



 タルコフスキーの映画は何回見ても飽きない。前に書いた『死の位相学』で、聞き手の高橋康雄が「ストーカー」について触れていた。高橋はこの映画の最後に出てくる、念力を持った少女(話としては、父が「ゾーン」に出入りしたことから、その娘に与えられたという設定だろうが)について高橋は「いちばん疎外されているその子がそういう力を持っているということのなかに何か示そうとしているような」というような理解をしている。
 僕がこの映画に引きつけられたのは、うらぶれた景色、建物の廃墟の交錯する映像のなかに「火と水」が同じシークエンスで出てくるというところだった。水の近くで火が燃える、というところに映像の理路をもちながら辿りつくのはとても難しい表現の筋道だと思ったからだ。軍隊が全滅するという危険な「ゾーン」にイメージを際だたせていた。
 タルコフスキーの父は詩人だったらしい。この映画にも「鏡」などにもその詩がちりばめられている。主人公が朗読する場面がある。バッハの音楽が憂鬱な映像が聖的なものに昇華されているところに融合しているのと同時に、人間の声が慎ましやかに映像に融合するというリアリティがある。
 憂鬱な時間の流れの映像の連続のなかにせり上がってくるもの、これがタルコフスキー映画の第一の特徴だと思う。

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