アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」その2(1996.9.11)

アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」その2(1996.9.11)



 ともすれば映画を分析する文章で、イメージをシンボリックに扱う、というやり方に出合う。しかし、いくつかのシンボルに分断して見ていくのは確かに映画ファンには楽しみかもしれないが、味気なくなることもある。ただし、タルコフスキーの多くの作品が東方教会(ギリシャ正教会)の宗教的方式の影響を受けているのは確かなのだろう。くわしくはギリシャ正教会についてはそこに身を浸して暮らしてみたわけではないからわからない。僕たちを取り巻く宗教的な雰囲気は、まず柳田的な常民意識に付随する民間信仰を引きずり、新しい宗教として神道、仏教、そして伝播の道筋がわかるキリスト教ということになると思う。だから、厳密には西欧の宗教的雰囲気というのは書物のみで知っているということだ。
 物語としてはよくわかる。教授と作家、そして聖なるというところまで連なるストーカー、その妻、知的障害があり、奇跡的な力をもつ娘という登場人物はそれぞれ鮮明だ。これを基にたとえば、水たまりを泳ぐ魚の映像、壊れかかった建物の内部の映像、などが見るものの体験に直接に結びついてくる。そのいとぐちさえあれば、むしろタルコフスキーによって作られた新たな宗教を理解するのは難しくないと思われる。ジャック・ゲルステルンコルンとシルヴィー・ストリューゲルはミシェル・エスティーヴのまとめたタルコフスキー論集『タルコフスキー』に収められた「ストーカー」論の註で書いている。〈イコンにおけるコードは概念の記号学的意味において、数多くのイコン的コードを物質的に総合化していることは確かであるが(色彩的コード、イメージ構成のコード、等々)、それらイコン的コードに、芸術創造の宗教的概念と結びついたコードを付加するという形で、イコン的コードをとらえている。〉こういう文章に深く同意するには、そのコード自体が異国情緒というのに近いので、わからなくなってしまうが、楽しい捉え方だとは思う。「アンドレイ・ルブリョフ」は、「僕の村は戦場だった」から断層をもっているし、まさにイコンの画家そのものを主題にして、「ソラリス」「鏡」と続くのであるが、また「鏡」との間に「ストーカー」は断層をもっている。さらにいえば「サクリファイス」で最後の断層をもっている、と思う。これは映像の思想の流れをそう感じるのであって、ことさらにイコン的コードの変質というふうに概念化する必要もない、グローバルな宗教的思想の流れになっていると思う。

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