植物、動物 その1(1996.9.25)

植物、動物 その1(1996.9.25)



 動物や植物などを身近に置いておくと、何か自分に反照するものを感じることがある。植物を育てるのがうまい人はもともと性格的にマメな人という考え方をしていたが、どうもそう単純でもないような気がしてきた。
 園芸市などで鉢植えを買ってくるのは、あくまでその場の快楽というのに近い。祭で金魚すくいに「参加」して楽しむのとちょっと似ている。もちろん、「これをあそこに置いて、こう手入れして」などと考えるのだが、帰ってくるともうすっかり忘れてドアのところに半日ぐらい放置しているようなこともある。植物の形というのはそれ自体の形がなんともいえない恍惚とさせる雰囲気があって、無心にさせてくれるから身近に置いておくのだが、鉢植えなどが増えだすと手入れを忘れて放置しておくのも出てくる。ある日、すっかり枯れた多年草などをベランダの隅などで「発見」する。その枯れた形にまた見入る瞬間があり、「まあ、いいや」という思いと、その裏には毎日手入れする人は快楽を捨てて働くような気持ちでやっているのだろうな、と思うこともある。ただ、目の前に置いてある場合は別で、仕事の合間などにいやおうなく目に入るし観察する時間も多いから、気まぐれに「ちょっと植え替えでもするか」ということになり、それが自然に手入れの行き届いた株を作っていく。要するに植物栽培のうまい人は、僕とは違う「哲学」を持っているということなのだと思う。
 犬や動物の場合だと、事情はかなり違う。可愛い、というところから必ず始まるのであるが、子犬などの世話を面倒とは言っていられない。犬は生まれて半年ぐらいは排泄の習慣が身につかない。この世話はもう無心にやるしかない。散歩に連れていってくれ、と側に来る。どんなに忙しくても、自分の日課のなかに犬と共に行動する時間をつくるしかない。そしてある日気づく。犬の澄んだ目で自分が見つめられていることを。言葉を介しないない会話がそのとき始まる。家族がせきなどをすると、心配そうに寄ってくる。老人などが寝ているときは静かにすることを心得る。そして、またある日気づく。「あなたが好きだ」と犬が言っていることを。ここからはまあ、個人的なことになりますね。
 動物の場合は家事の延長から始まり、悲喜こもごもを共有することに必ずなるわけだ。これはマメな性格ということにはほとんど関係ないと思う。植物もよく手入れすると、美しい花などを見せてくれるから、ほんとうは同じようなものかもしれないが、僕の場合はまだその境地には達していない。
 昨日も近所の人から「月下美人が咲きました。玄関のところに出しておきますから、見てください」という話があり、夜、見に行った。僕も月下美人を園芸市で買ったことがあるが、枯らせてしまった。玄関の格子の向こうに2つ、3つ、大きな花を開いた月下美人の鉢が置いてあった。僕は2、3分の快楽の時間を味わったあと、帰ってきた。

|
清水鱗造 連続コラム 目次| 前頁(あんパンと女性(1996.10.2))| 次頁(村上春樹(1996.9.18))|
ホームページへ