竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その1(1996.10.9)

竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その1(1996.10.9)



 竹田青嗣の文章には繊細な神経が感じられる。粘って粘ってブレイクスルーするというのではなくて、繊細な論理で勝負していくところがある。文芸批評家のなかで、詩について書いてもすごいな、と思ったのは磯田光一だった。磯田は繊細だが、内側に粘るタイプだった。その点の過剰が磯田に詩を的確に批評することを可能にさせた要素があると思う。竹田青嗣は繊細な散文家と僕は捉えている。
 今年文庫化された『世界という背理』は、小林と吉本を等位置で批評しようとしている。小林はとんでもない余剰について切り捨てたかたちで書き始めた批評家だと思う。だが、この「とんでもない」という意味は「観念的」な内容を意味しない。観念的な余剰にはどろどろになるまで付き合ったように思う。この点、竹田が受け継いでいないともいえない。ただ、小林と吉本を等位置で果たして批評できるのであろうか。あるいは同じ舞台で。少なくとも観念的には、その思想を同じ土俵にのせてみることはできる。この本はその果敢な取り組みといっていい。
 この取り組みが結果的には、小林の晩年あるいは戦後の思想を救抜することになっている。だがこの本の理路のなかには、観念的な思想の流れを批評する、いわば啓蒙的な記述というものがある。これは同時代の思想の流れを見る一視点として、検討しやすい記述である。これをじゅんじゅんに考えていくことは、現在の思想の流れを確認するうえでやりやすい方法を提示していることになると思うので少しやってみることにした。
 まず最初には適しないかもしれないが、竹田の論理の限界点というようなところから書いてみる(これはこの本の最後のほうにあたるp.231)。
《親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というよく知られた悪人正機の説はどういうモチーフから現われたか。これは、善行を積み心の徳を修めるほど弥陀の本願に近づくという宗派の理念が、先に見た事情で世俗の価値秩序(相対感情)を宗教の中に移し込むことになるのをいかに防ぐことができるか、という発想から現われたものだったと思える。》
 と竹田は書いている。僕はこの記述は少し観念に傾きすぎていると思う。言語についての考え方の吉本、小林の考えを敷衍すれば、竹田も正しく指摘しているように《その関係は、コードによる伝達関係では決してなく、どこまでもただ本質的な断絶を含んだ信憑関係なのである》。とすると、親鸞はむしろ善悪というものの本質の延長という思想を開陳していると、ここでは見られるのであって、もちろん宗派内にヒエラルキーが自然発生するのも否定する論理ではあるのだが、たとえそれが発生しても、本質的には救われるというような親鸞の射程も含むと思う。ただし、それが発生したら、現実的にはとことん闘うよ、という意思まで見える気がする。つまり「箱型」の論理には収まらないように思う。
 これが、竹田の繊細で優秀な論理の限界だと、仮にしておく。これを前提にして、ひとつひとつ竹田の言っていることの現在の思想の流れの分析に役立つことを書いていこうと思う。

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