竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その2(1996.10.16)

竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その2(1996.10.16)



 この本について先週書いた分に関連した、竹田青嗣へのインタビューが「樹が陣営」という雑誌に載った。このインタビューの題は「新しい思想の根拠と方法――オウム・超越・吉本隆明」という。実は竹田氏と僕はある席で週刊読書人に連載されて、いま中断している吉本へのインタビューの、吉本のオウム理解について話したことがあって、そのときにも前述の親鸞の悪人正機説の意味についての話が出てきて、およそこの本と同じことを彼は言っていた(竹田氏は小浜逸郎氏に対する吉本の対応をこのインタビューで批判している)。
 僕はオウム事件については、2つの見方をしている。吉本のオウム理解についてはちょっとまだ全面的にはわからないけれども、なぜああいう理解の仕方をするのかはいろいろ考えてはいる。まだほとんどわからない。1つにはちょうど「中央公論」の11月号に載っているウォルター・ラクアー(戦略国際問題研究所国際リサーチ会議議長、註:僕はこの会議については皆目知らない)という人の書いている「ポストモダン型テロリズムの脅威」という論文が分析しているように、まったくテロリズムを問題にした考えで、総体的に現代的なテロリズムにくくって考えるやりかたである。もう1つは竹田もちょっと似たことをインタビューで答えているが、(よく最近の選挙関係のテレビ番組にも出てくるが)現代日本の閉塞感があるとしたら、世捨て人の群れはありうるなという感慨である(もっとも犯罪それ自体を取り出す法治国家がその動機や思想を探りながら裁くのはあたりまえである、これは法の通時的不備は後からわかるという含意もあるが、殺人などの典型的犯罪については法は十分こなれた体系をもっていると考える)。だから法や世界的テロリズムの動向とは別にひとつのイメージを持つべきだと思うし、マスコミとは別に自分で考えるべき問題だとも思う。それは前回の文章とも多少関連してくるが、竹田の「超越」とは別に日本には「回帰」という問題が観念的にあると思うからである。これはとても小さな穴という比喩としてもいいが、これを転倒した小さな穴もたしかにありうる。その点では吉本の小林の『本居宣長』批判はとてもよくわかるのである。この部分は非決定の状態にするのが妥当だと思う。たとえば日本の美しさは確かにあるが、べつに観念的に収れんさせて考えることでもないと思うし、それが重要だと思うからだ。
 と、閑話休題にしては生臭い話になったが、ちょっと横道に逸れた。

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