竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その3(その2の補足)(1996.10.23)

竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その3(その2の補足)(1996.10.23)



 先週書いたことにちょっと補足したいことがでてきた。
《もっとも犯罪それ自体を取り出す法治国家がその動機や思想を探りながら裁くのはあたりまえである、これは法の通時的不備は後からわかるという含意もあるが、殺人などの典型的犯罪については法は十分こなれた体系をもっていると考える》と僕が書いた部分であるが、法は制度とちゃんと結びついているし、思想を探るという意味では最後まで流動的であるということである。《こなれた体系》というのはだから、「そういうように見える」と言っておいたほうがいいだろう。
 吉本隆明の原点には「言説空間」(こういうふうに吉本は言っていないが)における幻想の概念がある(「マチウ書試論」など参照)。今度のオウム問題について僕がほとんどわからないというのは、個々の具体的問題である。1つには、ヨガの行者として現存する人では最高のところまでいっているというのは疑えない、というところは麻原の本を読んでいないからとても実感することができないし、よくいわれるように、あれだけの若者が引きつけられたのだから、そこに見えない何か魅力があるというのも実感できない。ただいえるのは、たとえばお金を制度内から全部自分から捨てるという心理は誰でも持っている、ということが関係あるというようなところだ。
 わかるのは「オウム否定」は確かに強固な制度が荷担する「言説空間」にあるということである。制度が荷担する「言説空間」、と荷担できない「言説空間」と仮に分けてみる。そうすると「オウム肯定」の言説空間は制度が荷担できないのは明らかである。せいぜい否定の「時期」をみるぐらいである。
 歴史的にみてナチズムの「言説空間」には制度が荷担していた。これは市民が「それがいい」という選択をしなければできないことである。制度が荷担する「言説空間」の反対の「言説空間」に荷担することができなければならないという思想が吉本にあることは確かだと思われる。制度が荷担する「言説空間」が「虐殺」をやることは血友病HIVの問題という例を出してもいいだろう。
 ところで「オウム肯定」(反制度側として)と「ナチズム否定」(反制度側として)とのあいだにある中心的思想にはぜんぜん種類の違ったところがある。たとえば、ナチズム否定には究極的には「フリーダム・アンド・リバティ」というアメリカのコンセプトと同じものを中心に置ける。しかし、「オウム肯定」の論拠は僕のいまわかるところではいかにも薄い。幾分恣意的な論拠にもみえる。しかし、これにもまた一つの注釈がいる。制度の荷担する言説にも「悪」の雛型がいっぱいあるのも確実だ。そうすると総体的には「言説空間」のぶつかり合いだけを中心的に見て、間違いともいえないことになる。
「フリーダム・アンド・リバティ」という巨大な思想集合のなかに、日本独自の制度的思想集合をおいたとき、特殊な文化的アクセスの可能な「穴」を設定するしかない。《日本の美しさは確かにある》と先週書いたけれども、これはアメリカにはアメリカの美しさがあり、インドにはインドの美しさがあり、ケニアにはケニアの美しさがあり――という言い方と同義であって、あくまでその水準の「非決定的」な習俗的な美しさなのだ。これを小林のように文化として「絶対感情」に収れんさせては絶対にいけない。その可能性があるとしたら、オウムのヨガ修行による「死」への接近もばかにできないと思う。これを暗黙裏に考えるとしたら、吉本の今回の「オウム肯定」言説は理解できるということになると思う。
 これらはたかが床屋談議だよ、と本当は実はリラックスして考えたほうがいい。論議の自由は「犯罪」についての考えをはっきりさせるだけでなく、それを裁く「制度」もはっきりさせるところがあるのだから。

|
清水鱗造 連続コラム 目次| 前頁(竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その4(その3の補足)(1996.10.25))| 次頁(竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その2(1996.10.16))|
ホームページへ