竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その4(その3の補足)(1996.10.25)

竹田青嗣『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』その4(その3の補足)(1996.10.25)



 またしても補足する必要を感じたので、書くことにした。
 まず捉え方として、「事件」「状況」「宗教・思想」「文学」から見てどう僕が感じるかはっきりさせておく。また「吉本のオウム真理教の見方」についてどう思うかもまとめておく。

「事件」――これは大変な事件で、オウムの起こした犯罪は法によって裁かれるのはあたり前。これによってオウムのやったことは全否定されるだろうし、僕もする。だが法律というのも、人間が作っているのを忘れるべきではない。
「状況」――事件は現代日本の内部を映す鏡的要素があり、ここからさかのぼって状況をみてみる必要はある。
「宗教・思想」――宗教の内実はどんな事件を起こした宗教でも、どういうふうに人間がかかわっていったか考える必要があるし、分析しないで、不気味なものとして片づけるやり方は許されない。僕はオウム真理教がマスコミ報道だけでは、まだわからないという印象がある。
「文学」――イメージとしては、人間のやるどんなことでも捉えようとしなければならない。否定するにしろ肯定するにしろ。
「吉本のオウム真理教の見方」――吉本の麻原の宗教への肯定的な見方は、よくわからない。間違えているかもしれないと思う。吉本が状況論の個々の事例でこれは間違えだな、と思ったことはたまにあるからである。しかし、これは誰の状況論においても同じことがいえる。ただし、前に書いたように何故吉本が犯罪から見て物議を醸すような肯定で論評したかはわかる気がする。わかったのは何故肯定する論評をしたかという方向性であり、否定するにしろ肯定する部分があるにしろ(「宗教・思想」「文学」の側面から)いまは唇さむし、というところだろう。

 吉本は以下のオウム真理教にふれた書物を書いている。

『親鸞復興』(1995.7.30、春秋社) この本は親鸞に関する講演録などと、「新新宗教」を扱った合計3つの講演録と批評が収められている。
『超資本主義』(1995.10.31、徳間書店) 「サンサーラ」に連載された状況論と産経新聞でのインタビュー「オウムが問いかけるもの」を収める。
『尊師麻原は我が弟子にあらず』(1995.12.31、徳間書店) 「オウムが問いかけるもの」を再録、この本にはいろいろな人のオウム真理教事件への感想と、吉本の新しい講演録が1本、あとがき風のものが1本で吉本個人の本というわけではない。
『宗教の最終の姿』(1996.7.20、春秋社) まだ積んどくになっていて読んでいない。芹沢俊介との対話。
 このほかにもまだあるかもしれないが、たぶんないと思う。

 参考までに身近にオウムに触れた詩人が関係する雑誌を挙げれば、この秋に出た「樹が陣営」「BIDS」が特集している。ただし、僕はまだ全部読んでいない。

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