童話空間(1996.10.30)

童話空間(1996.10.30)



 なんか後戻りという感じだが、昨年から今年にかけての事件(阪神大震災とオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件)は、いろいろな問題を一挙に浮かびあがらせた。早くいってしまえば、避けて通れない新しい経験が考えるときの姿勢になにかを付加した。
 当初、竹田青嗣の『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』がわかりやすく取り出している現代批評の基盤ともなるべき問題をじゅんじゅんに出して考えていくことを考えていたが、どうもこれはじっくりと読んでやるべきものだとわかってきた。でも、これはこのエッセイの流れのなかで続けていくつもりではある。
 もともとは肩肘張らずに自分の考えを書いていく連続コラムだったので、その流れも変えずに書いていきたい。
「煩悩」という仏教用語がよく使われて、どんどん現れる心の困難は取り巻く世界との関係で深刻な思考を強いる。たとえば僕などの経験からいえば小学・中学時代に読んだスウェーデンのリンドグレーンの童話や、「メアリー・ポピンズ」などの童話の世界に、生活上の楽園を見ていた。それが青春時代に跡形もなく、否定されたような気がした。しかし、今思えば子供時代に「この世界で安心して生きていきなさい」というような「煩悩」と対極にあるものをよく味わったことは、とてもよかったことと思える。人間の無垢だけを取り出して、それが生活だというのはたぶん嘘だろうけれども、幼年時代には無垢が支配しているのが人間世界だと思うこともたぶん思考の限界だろう。言い方をかえれば、幼年時代には少なくとも僕の場合、イメージのなかでは楽園が存在した。つまり楽園が普遍的思想だった。その印象は頭脳の奥深くのほうにたしかに存在しているのである。しかもそれは懐かしむべき郷愁ではなくあくまでアクティブである。考えてみればこの童話空間がなければ、大人になってからの「煩悩」はもっと貧しく、もっと悲惨になっていた可能性があると思う。

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