エレキマンガ「ねぎ」Vol.1のこと(1996.11.27)

エレキマンガ「ねぎ」Vol.1のこと(1996.11.27)



 飲みに行くついでにたまたま寄った新宿のパソコンショップで、「ねぎ」Vol.1を買った。ガロ系のマンガを好きだといっても蘊蓄を傾けるほど見てはいない。どこか、湿って暗くて、比喩でいえば汚れた新聞紙みたいなものが好きだということの延長だと思う。それに少し倒錯的な雰囲気にも好奇心を湧かせられる。でも、耽るということにはならないし、どこかで自分の感性に蓋をしないと危ない感じもするので、自然に身についてしまったバランス感覚で、感性を刺激する文学やマンガや映画のなか触手を動かしていくというところなのだろう。
「ねぎ」には変に感性をくすぐるものがあった。これが、1000円で安いこともあるが、部分的に仕掛けられているのが倒錯的性のイメージの羅列だったら、それはたんなる円環なのだから、すぐほうり投げるけれど、ここに収められたマンガは他愛ないものも含めて、円環では終わらないほのかなエロチシズムがある。
 エロチシズムの円環は確実に「死」のイメージで断絶させられる。性の円環を車輪とすると、ほんとうは途轍もなく加速度をつけて、むいてもむいても終わらないラッキョウの皮みたいな喘ぎに飲み込まれる。そして、その摩擦でついには発火する、それが「死」だ。だから、みんなそうなのかわからないが、日常のレベルで僕はそれを封鎖する。だからといって怖いものみたさもあるし、性格の問題もあるだろう。追求しちゃえる人もいるだろうし、それはまた人間の器という凡庸な比喩でも表せるかもしれない。
「ねぎ」を買った夜、僕は画面を見て楽しんで遊んだ。ここに愛すべき作者の顔が見える。

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