ヨーゼフ・Kを思い出す(1997.1.22)

ヨーゼフ・Kを思い出す(1997.1.22)



 僕の読書の仕方は、メモをとってカード式のデータベースに、部分を入れるというようなものではない。大ざっぱにいえば、雑読と、集中して読まなければならないものの2種類の読書である。
 雑読の類はいくつかを並行して読むやり方だから、読みさしの本も溜まるし、気持ちによってしばらく読まない時期もある。
 ここのところ、日本の思想家で、徐々に読んでいるのは中公文庫版の折口信夫全集があるが、だいぶ前から読んでいるのにいっこうに進まない。日本の民俗学関係でいえば柳田国男は選集版の12巻といくつかのテキスト、対談集などを読んでいるからいちおう目を通したといえるだろうか。そのほかにも日本の思想家の本は読んではいるが、みっちり持続的に読んでいるといえばやはり吉本隆明だけかもしれない。雑読のなかから徐々に集中して読むべき著者の本があぶり出されてくるのである。
 外国の文学書といえば、いろいろ好奇心で読んではいるが、ふと頭をかすめることは、たとえばマラルメについて日本の人が書いたものは、中原中也について書いた外国の人が書いたものと同じだから、つまるところユルスナールの『三島、あるいは空虚のヴィジョン』みたいなもので、ほんとうに中心に届く距離にあるのか、という疑問である。皮相的にいえばパウル・ツェランを訳した人を、なにかパウル・ツェランふうの人かと思ってしまうところがある。でも、やはり幼いころから翻訳ものをたくさん読んでいるから、ものすごい恩恵に浴したとはいえる。そしてやはり、集中して読むべき外国の作家や思想家を自分なりに雑読のなかから抽出する。講談社版の『現代思想の冒険者たち』の全30巻のシリーズはよい読書案内でもあるので、つんどくになるときもあるが新しい巻が出るたびに全部買い求めている。さしあたり買っておいて、気が向いたら読んでいる。最近は、カフカの巻を読んだ。カフカの諧謔的な言い方のおもしろさをもっぱら読んでいたが、これを読むと無論、ユダヤ問題とか、法的な文書などラングとパロールの問題、カフカの「キーイメージ」などわかりやすく書いてある。またカフカ論で著者(平野嘉彦)が重要だと思われる5つを挙げてあって、これらも読みたくなってくる。ヴァルター・ベンヤミン『フランツ・カフカ』、モーリス・ブランショ『カフカと作品の要請』(『文学空間』所収)、エリアス・カネッティ『もう一つの審判――カフカのフェリーツェへの手紙』、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『カフカ――マイナー文学のために』、ジャック・デリダ『カフカ論――「掟の門前」をめぐって』である。この先読めるかどうか、というところだがカネッティのものは早めに読んでみたいと思わされた。
 たしかにヨーゼフ・Kみたいに、言語空間や都市空間を見るときがあって、ただそれだけでカフカは親しい作家であり、またヨーロッパ文化圏から全世界に、日本にまで理解が広がったヨーロッパ的な考えというものに少し触れるということで満足してしまうのであるが、やはり歴史的視点からも空間的視点からもカフカの文学は巨大にそびえているということがわかる本だった。
 前に書いた吉本隆明の『宗教の最終のすがた』(春秋社)も読んだ。これについては後々書くことがあると思う。あと、これも前に触れたM・ミッチェル・ワールドロップ『複雑系』ももうじき読み終わる。こちらの興味の中心にこの本はしばらく腰をおろしそうである。ほかに数冊の読みさしの本があるが、時間も体力も好奇心についていけないし、自分でも無理をしない体質であることはわかっている。カード式データベースはOCRを使いこなすスキャナやソフトウェアを買ったら真剣にやり始めようかと思う。

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清水鱗造 連続コラム 目次| 前頁(複雑系――その1(1997.1.29))| 次頁(都市の俯瞰図(1997.1.15))|
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