ゴミ系、電波系(1997.3.6)

ゴミ系、電波系(1997.3.6)



 オルタナティブ(alternative)な流れ、という言い方が使われて久しい。これをおもしろおかしく分類すれば、最近の「〜系」という言い方になる。もともとは「〜系」はそれ自体、深刻な問題をはらんでいる。「変態系」とか「電波系」はそこに関わる人々にとってはそれこそ命を削るところが否応もなく興味の中心になるのである。むしろ、そういう深刻な“掘り起こし”から、底のほうで網の目のようなネットワークが形成されつつあるところに、大きな問題と新しい生成がある。
 だから通常「ゴミ系」「電波系」というとき、もっと底の浅いおもしろおかしく分類したものと僕は理解している。ただ、これらはオルタナティブそれ自体をパロディしているのではない。正統的なものを揶揄しているのであり、実は正統的なものは本当のオルタナティブな流れを恐れてもいる。なぜなら、経済的なパイはオルタナティブな流れに多く乗り、当然カイシャたちは力を入れるのであるが、短いトピックスで流してしまうわけには到底いかないし、構成的なものを壊すイメージにあふれているところは、経済システムに拮抗するからだ。もともと詩の世界にはいくらでもオルタナティブな流れはあった。
 ところで、僕がいま触れることができるのは、現在のトピックスの類である。つまり「ゴミ系」「電波系」「パンダ系」「〜系」……である。インターネットに流れるこれらの「〜系」は漫画みたいに面白い。特に個人があからさまに出てくる場合には、ひそかな楽しみにこちらも浸れるのではないかと錯覚するほどである。
 話は変わるが、泉鏡花の小説の“枕”の風景描写は柔らかく暗示的だが、それだけで優れた叙景詩になっているものが多い。物の怪が出てくるその前に、なま暖かい風景を描写するのである。
《「お爺さん、お爺さん。」
「はあ、私(わし)けえ。」
 と、ひと言で直ぐ応じたものの、四辺(あたり)が静かで他には誰もいなかった所為であろう。そうでないと、その皺だらけな額に、はち巻を緩くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色で、長閑かに鍬を使う様子が――あのまたその下の柔な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅の夕陽のなかに、ひらひらと入って行きそうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり揺ぶって頻に囀っている鳥の音こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付きそうにない、恍惚(うっとり)とした形であった。》(「春昼」冒頭)
 さりげなく置かれた“枕”を鏡花は書き急ぐ場合もあるし、念を入れる場合もあるように思う。この「春昼」の終わりのほう、入眠幻覚のような状態で出てくる、三角、四角、丸、の意味がなく書かれるようなものが何なのか、久しく不思議に思っていた。最近はっと思いついたのが五輪の塔である。五輪の塔には三角、四角、丸の石が使われる。意味は「地水火風空、五大五輪は人の体、なにしに隔てあるべきぞ」(謡・卒塔婆小町)である。「春昼」は“いけない恋”の古めかしい倫理が種として使われるが、気味の悪い空間に誘い込む鏡花の技法はいつも冴えている。
 春の風物の描写は、僕の場合は「街の日常系」で、紅梅、黄梅、白梅の三つを他人の庭に見つけて今度デジタルカメラで撮ってみよう、などと思っているだけなのだが、alt.の流れもまた見てみようなどという「オルト系」も交じったところなのである。けっこう典型的かもしれない。
 
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