「新世紀エヴァンゲリオン」(1997.5.5)

「新世紀エヴァンゲリオン」(1997.5.5)



 この連休、ゼビウス、スーパーゼビウス、ゼビウスアレンジメント、3Dゼビウスの入ったプレイステーション版のCDが発売されたので、どうも時間を食ってしまった。一方でフッサールや現象学の本、マルクスの初期の本、折口の本などを読もうと思いながら、結局なにをやったのだろう、と思うのがいつもの連休である。
『新世紀エヴァンゲリオン』は4分の3ほど見た。前のエッセイで「心身というものはもうそれだけでビークルなのだ」と書いたが、これは補足的に書けば、別に「魂」があることを考えているわけではなく、心身が時間の推移によって空間も旅するビークルという感じがするだけである。「エヴァ」は人間の心身にシンクロする人造人間である。無意識や人間心理の不可知の機構もそのまま使っているので、実験中に「エヴァ」が人間みたいに暴走することがある。『エヴァ』の設定は、ゼーレという謎の組織によって「人類補完計画」が「裏死海文書」にのっとって遂行されている、という闇に吸い込まれるような部分がある。「Xファイル」も同じだが、上位の謎の組織をSFに噛ませているわけだ。
 エンターテインメントとしては、リズミカルにステージの終わりに現れるシューティングゲームのキャラクターのように「使徒」と「エヴァ」の戦いの映像が、次々に意外性をもって出てくるところが面白い。そして、「うつ状態」のような感じの少年少女の心理描写が、「なぜ僕はここにいるの?」というような独白によって形づくられる。ただし、これが厳密に何を言おうとしているのか、せりふをそのまま論理的分析にかけても無駄なような気もする。ただ、SFの中に複雑な心理描写をできれば大成功というところなのだろう。

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