幻の蝶(1997.5.11)

幻の蝶(1997.5.11)



 5月の風は気持ちがいい。「青嵐(あおあらし)」は三夏の季語だが、特に植物に吹き付ける風のさまは窓のこちら側から見ている分には、爽快である。といってもあまり風が強いと葉の呼吸ができなくなりほうっておくと、黒く葉枯れしてしまうので、鉢を取り込むことになる。

青嵐一蝶飛んで矢より迅(はや)し   虚子

 というのが部屋から見られる。とはいってもこの部屋では「幻」で、蝶はこの辺ではまだ見られない。字余りが視界に移動する蝶の時間を表わしているような気がする。生活は常に変転している。5月のようないい季節にも、心情は狂おしい人もいるだろうし、人事は嵐より激しいから、この句のような情景から出発させて自由詩の形のほうに向かって具体的に書いてしまおうとする。俳句は情景以下を切り捨てる。言葉足らずだが、そこに潔いところと、仮の物質性が出てくる。
 今日の朝はあまり風がない。街はほとんど一蝶など自然の風物を幻として、重ね合わすという習慣をつけさせるように思う。ただ、それをのせる風という気象状況は変わらない。微細なリアルなものを見つけるか、あるいは風を公式として記憶や無意識を載せるか、というところか。
 透谷の「蝶のゆくへ」(明治26年、透谷24歳)を写してみる。

舞ふてゆくへを問いたまふ、
  心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
  尋ねて迷ふ蝶が身を。

行くもかへるも同じ関、
  越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
  花なき野辺も元の宿。

前もなければ後もまた、
  「運命(かみ)」の外には「我」もなし。
ひらひらひらひらひらひらと舞ひ行くは、
  夢とまことの中間(なかば)なり。

 これは秋の蝶だが、現在の詩では「運命(かみ)」というような断言は忌避される。それはちょうど、「概念というのはすべて疑問形なのだから、提出したらそこで堕ちる」ということが詩の思想で一般化しているのと対応している。いまから見れば「蝶が身」の「が」は、蝶の身を透谷が内部化している助辞であり、ここがこの詩が現代に通用する一点の穴といっていい。観照者が「蝶になる」助辞が「が」である。野辺の蝶になって、自分の身も「夢とまこと」の中間にいるという叙情的暗喩になっているのである。
「儚いね」などと思ってみるが、自分の情念はほんとうはどろどろしていて、とても「夢とまこと」の中間という情感に浸るわけにはいかない。

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