「鞭、ありますか?」(1997.9.2)

「鞭、ありますか?」(1997.9.2)



 この間、妻からケーキ屋に行って「シブジスト」というのを買ってきてくれ、と頼まれた。駅のほうのケーキ屋さんに向かって、ふらふらいろいろ考えながら歩いているうちに、すっかり名前を忘れてしまった。いざ店に入って、ケーキ屋さんの白い服装の女性に名前を言う段になって「ジブジス、ありますか?」と、だいたいの音で告げるしかなかった。店員さんはきょとんとしている。「え、何ですか?」と言われて、忘れそうだから妻から聞いておいたそのケーキのすがた形を、「白いクリームの上にチョコレートの細かい粒をまぶしたような、ジブジスとかいうもの」と言うと、「ああ、シブジストですね」とめでたく買い物ができた。実をいえばこの「シブジスト」も正確かどうか、今は忘れている。
 だいたい、もともと帰りにおみやげを買う習慣がないから、女性の好きなケーキなどは向こうから頼まれるかたちになる。息子もサザエさんのお父さんやマスオさんが、四角い紐で十文字にしばったおみやげをぼくが帰りに買ってきた試しがないので、幼いころ寂しい思いをしたという。あの十文字にしばった四角い箱には、たぶんお寿司などが入っているのだろうか。だいたい酔っぱらいが持っている図である。
 日曜に、息子が馬事公苑の近くの本屋さんに行き、世田谷通りにある馬具屋さんに入った。なんでも競馬雑誌のバックナンバーがないかどうか、見てみるつもりだったらしい。彼は馬券はほとんど買わないが、最近サラブレッドとか馬に凝っている。まじめな勉強もしているから、気晴らしでしょう。
 彼が馬具屋さんに入ると、二人の男女が「何をお探しですか?」という具合ににこにこして寄ってきたそうだ。彼が探している雑誌はなく、何か言わなければならないと思いとっさに「鞭、ありますか?」と適当に言ったらしい。実際競馬用の鞭を取りそろえてある。しかし、彼は183センチの大男である。馬に乗るようには見えなかったのだろう。二人はずずずっと身を引いた。
 だいたい「鞭、ありますか?」と言える店は馬具屋ぐらいだろう。彼はわざと言ったのかもしれないが、店の人の様子を想像するとおもしろいのだった。

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