柿右衛門の器(1997.10.8)

柿右衛門の器(1997.10.8)



 和雑貨をおもしろいと思っている人が増えているように感じる。テレビ番組の「何でも鑑定団」の影響だろうか? ぼくも興味がないとはいえない。招き猫とか、きれいな絵のうちわなどはおもしろいと思う。かといって洋物でもそうだが、身近に置いて楽しむという気にはなれない。
 藤枝静男の小説『田神有楽』は、ほとんど筋を忘れてしまったが、たしか陶器の破片を巡る荒唐無稽の物語ではなかったかと思う。同じ藤枝市生まれの作家・小川国夫の『アポロンの島』などの本は、一時愛読したことがある。この二人の作家は対にイメージしてしまう。
 それはさておき、器など、より生活に密着した素材に美を追求するのは、日本画、油絵、彫刻などと違って「通り過ぎる美」を追求するということになるのだろうか。衣食住に関係する材における美の表現は一瞬目を留めるだけで十分なところもある。
 食器でいえば、長年使っている何かの景品のマグカップとか、縁の欠けた急須だとか、そういったうらぶれたものをぼくは好む。テレビの「何でも鑑定団」で、その柿右衛門の陶像の肩のところが欠けていなかったら、3000万円ですよ、などと言っていても、だったら踵で踏んづけて粉々にして土に返してやればいい、なんて思うこともあった。でも、この頃ちょっと陶器に興味を持っている。骨董の柿右衛門は別格にしても、食べ物が引き立つ皿、器はあるのではないかと思える。年でしょうか。
 江戸初期の酒井田柿右衛門の器はやはり美術品に昇華していると思う。よく知らないが窯は代々続いているとのこと。ぼくにわかるのは柿右衛門は「赤絵」がデコラティフにあっけらかんとしているところが、時代離れしているのではないかということだ。幸福なデザインというものは幸福な人生を想像させる。なんだかやっぱり柿右衛門はかわいいな、と思うのである。でも、皿などはやはりたとえ割れても、どんなに大事でも日常使っているのがいいのだとも思う。
 身近な人で、柿右衛門の器を入れ歯入れに使っている人がいて、骨董をやっている人が「こんなものに使わないほうがいいですよ」なんて言ったそうだ。この話を聞いて、深沢七郎のエッセイにあったフォートリエの扱いを思いだした。額の表面のガラスは虫の糞や埃で汚れている。でもいつかまじまじと見る機会が身辺に置いておけば必ず出てくる。やはり、そのときフォートリエは何か普通じゃないものを発散している。ふと、モノの美に気づくのだ。

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