拾い猫雑記 その1(1997.10.29)

拾い猫雑記 その1(1997.10.29)



 どうもいろいろなことが重なって、神経を使う日がこの夏から続いた。神経の疲れをうまく解消できる人と、そうでない人がいるだろうけれど、軽い鬱症などかなり多く身近に見られるのは、ひとつひとつが大きくなくても神経を使う場面が次々に来るという現代の生活に関係あるのかもしれない。
 たまに2〜3日休めると、終わりの日の夜にはなにかすっきりするようである。先日、子猫を朝の散歩の途中で拾った。なにか朝から疲れていて、ぼーっとしていたが、やけくそになって拾ってしまったというふうである。でも無意識の中に、まあ、家につれていっても当初は大変だろうが、この際大変になってもいいや、という気分である。
 子猫は顔がぐちゃぐちゃだった。動物病院につれていく前は、ぼくの好きなカラスにつつかれたのではないかと思っていた。病院では即座に「猫ウィルス性鼻気管炎」と診断され、注射を打たれた。なんでも猫のヘルペスウィルスが病原体であるそうだ。猫の病気では代表のようで、猫の病気のパンフレットには最初に書いてあり、片目がぐちゃぐちゃの猫の写真が載っていた。猫のウィルスだから犬には移らないとのこと、安心した。
 病気が治るまで、ぼくの部屋に置いておくことになったが、エディタを起動しておくとアルファベットが入力されていたりする。トイレの躾はその日にできたが、本を読んでいると顔のところまで上ってくるのである。それも「化け猫」の顔で、実はこの顔でなければ拾ってこなかったと思うのだが、やはりもうひとつ神経を消耗する場面が多くなったということである。
 Booby Trap の田中宏輔さんの詩が手元にあって、暇な折、DTPソフトで組版しなければならない。彼のここのところの詩は、徹底的なサンプリングで「ユリイカ」などでごらんになった方もいるだろう。Booby Trap の場合は6ポイントという小さな字も使わなければならない。10代や20代の人がとてもおもしろがる。やっていておもしろいのだが、そこに、顔に向けてニャーニャーと来る。
 というわけで、2〜3日経った。先にいた動物を先に世話しないと嫉妬するというので、猫の食事の前に犬を散歩に連れ出す(やれやれ)。
 ここから先は詩にもしたが、同じ街角の同じ場所、同じ格好、つまり小さく丸くなった同じ柄の猫が顔をぐしゃぐしゃにして、時空間に位置していたのである。まいりましたが、笑ってしまいました。この場合、親鸞の言葉を適用する以外ない。
 猫は看病の甲斐あって元気になって、片目をきらきらさせている。でも子犬よりは世話が楽なような気がする。

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