拾い猫雑記 その4(1997.11.19)

拾い猫雑記 その4(1997.11.19)



 吉本隆明の本『なぜ、猫とつきあうのか』(ミッドナイト・プレス、1995.3.15刊)は、雑誌の「ミッドナイト・プレス」で連載中に読んでいたせいもあって、通読していなかった。猫が来た機会に読んでみようと思って読了した。ペットといえば、思い入れの切実さは「身辺雑記」の境界から出ないようにも思われるが、吉本の視線には、どんなことであっても思想に踏み込むための一定の比重があれば、それは重要なことだ、というものがあると思いながら、吉本にしては珍しいこの“猫本”を通読した。岡田幸文さんと山本かずこさんの二人の詩人が長時間インタビューした記事と最後に「月刊ねこ新聞」に書かれた2つのエッセイが収録されている。
 本文とカバーに娘さんのハルノ宵子さんが描いた「吉本家の猫の家系図」というのがあって、周辺の猫の個性もこれに当てはめれば少しはわかるようになっている。この本で読むべきことといえば、先にも書いたように身辺を見つめる吉本の視線であることは間違えない。しかし、一般的な“猫学”にも興味深く接触しているところもある。
《猫は人につくのではなく家につくというのは、ほんのすこし言い方がちがうような気がする。人は竪に親和して住むのに猫は横に親和して住むと言った方がよいのではなかろうか。わたしの家で親和感をしめしている猫が、見知らぬ家でもおなじような親和感をしめしていることがありうる気がする。だから新しく引越した家で逃げられてしまったとしても、どこかでまた親しい家を見つけて暮していることは間違いないとおもえる。ほんのすこし人間の愛惜感と猫の愛惜感とは勘どころが違っている気がするが、猫の人間にしめす愛惜感もほんとうなのだとおもえる。そしてこの勘どころの違いが、あるばあい相互に素っ気なくみえたり、過剰な親和性にみえたりする個所にちがいない。》(〈猫の部分〉より)
 僕の経験からいうと、いままで引越しに関わった猫で知っているのは2匹いる。最初の猫は前に住んでいたアパートで、自然に餌をあげるようになった、どっしりした雄猫で、ほとんど家猫になろうというときにウチの引越しをやった。「家につく」というので、どうにか世話をしてくれる人はいないか探して、預けたが結局その人はちょっと離れた老人夫婦の家にもっていったらしい。やがて、その家でいたずらをやりながらちゃんと住んでいるというニュースが伝わってきた。そのいたずらぶりの象徴は「仏壇を開けたら、ぬーっと猫の顔が現れた」というものだった。そして、ふっとその家からいなくなったという。
 もう一匹はまさに家を建て替えるので、一時的に野良猫化させ、餌をその付近に運んだ、という猫のことである。その猫はちゃんと新しい家に馴染み14歳であるという。すると、家でもなくその周辺地域の「空間」に馴染むということなのだろうか。
 吉本の本では自分の家の周辺の空間が猫の移動や生活によって活写されているところがある。犬のように家の内部や散歩の空間だけではなく、地区の景色に溶け込めるという猫の風景がまさに猫の文学の味付けの特徴のようである。

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