拾い猫雑記 その5(1997.11.26)

拾い猫雑記 その5(1997.11.26)



『なぜ、猫とつきあうのか』にいくつか付箋を貼るとしたら、そのひとつに次のようなところがある。
《動物と植物とどっちが好きだっていったら、植物の方がすきです。でも、これもいいかげんで、好きだったら世話してまで育てるかっていうと、いまのところはちょっとそこまではやれないです。そこまでやるには、どうもこの社会と全面的に和解してないと、いけないような気がするんです。それ一見関係ないように見えるけれども、山川とか風景とか植物というものを本当に世話して、来年のためには今年はこういう肥料をやっていてとかって、そこまでやる人は、どっか社会と和解していないとだめみたいなところがあります。いつかできたらいいなとおもうけど、いまのところ僕はそこまでやれないですね。》(強調部分:清水、以下同)
 逆に、安心して山川草木などの自然の風景を見られる、というのは社会と和解しているし、もうひとつ逆に山川草木に過剰な思い入れをすることは、むしろ「和解」ということがそういうところから逆に発生するのではないか、ということがある。もちろん過剰から錯誤は発生するが、それは包まれた形の錯誤である。この辺の経緯を吉本は『戦後詩史論』で書いている。
《しかし、四季派の詩人をとらえていた社会は、資本制の絶対化と組織化とが高度にすすみつつあった戦争期であった。かれらの花鳥風月詠が、『拾遺愚草』における定家とちがって、めぐりめぐって戦争詠にむすびつかざるをえなかった原因は、社会構成そのもののなかにあったのである。》
 この前段に四季派についての記述があり、それは以下のようなものである。
《高度に機械化された産業が立ち並び、高度に機能化されたビルディングのなかの生活が普遍的な様式となった後においても、なおその生活環境を自然物のように自己意識の延長として許容するような感性が根絶されない限り、このような自然意識はのこるものとかんがえられる。(略)これらの詩人たちにとって、「自然」は、恒久的に奉職しうる強固な株式会社であり、そこで生活意識は虚像の形をとって強靱さを保証された。このようにして中世詩人たちがはじめて意識化した詩の世界は、昭和初年の社会で幾度目かの蘇生をとげたといってよい。》
 これらの文章と関係する『吉本隆明歳時記』からも引用する。立原道造の文章の前段に置かれた堀辰雄についての文章である。
《けれどわが自然詩人たちがもっていた〈自然〉の位置は、あまりにfatalだったため感性的な秩序あるいは、土台をゆさぶるほかに抗うことはできぬ態のものだった。断片的なあるいは即物的な反撥はついに、泡沫たるにすぎぬ。この国ではどんなウルトラモダンな衣裳をその時代ごとに身にまとってもそんなものは、信じるにたりない。その意味では堀はただの一度も、彼のいう「fatal」なものと本格的にたたかったことはなかった。けれども病弱な身体を駆使して、かれの追随者たちがかんがえているよりも遥かによくたたかったといってよかった。その戦跡ともいえるものはおおく、生理的人間と生理的人間とのあいだの心理的な齟齬の描写ともいうべきものとしてのこされた。》
 ここまで引用してもまだ吉本の自然に対する思想を説明するには全然足りないと感じる。彼の思想の中心のひとつの自然哲学はもちろん詩についての論評が全てではない。資本制の緊密さと恩恵は、これらの本の後のさらに戦後の延長上もまた進み、むしろくっきりと包囲された自然、山川草木は放り投げられたような雑ぱくさを許されなくなってきているのではないだろうか。その見取り図をくっきりと再生することを除いて現在安心して享受できる山川草木はありえない。多くのエコロジストはその点において騙されているし、システムに嘲笑れる「コップの中の嵐」を演じている。

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