心の景色 その1【夢との接点】(1998.2.4)

心の景色 その1【夢との接点】(1998.2.4)



 島尾敏雄の小説は愛読したことがある。たしか単行本では『日の移ろい』あたりまで、よく読んでいた。『死の棘』などの傑作小説は、第一次戦後派と同じぐらいの戦後文学のラインで読んでいた。愛読していたころは文芸書の単行本が今と違ったふうに書店に並んでいるように思えた。「夢の中の日常」をなんの気なしに電車の中で読む文庫本に選んで読み始めると、詩を書くときにもイメージする夢で得た映像の切片について思い巡らすことになった。たとえば、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』、カフカの『アメリカ』、漱石の『夢十夜』などのイメージの断片がいくつか思い出される。『闇の中の黒い馬』では水中からみる筏の裏の映像、『アメリカ』では不条理に面倒を見られなくなる物語の急転回などである。
 夢かうつつか、というがイメージを記述するときには現実に書き記しているのだから、「ただ今」に加工されているに決まっている。そうすると、材料はたしかに「これは夢を使った」、「これはたった今イメージしたもの、記憶にあったものを使った」というふうには分けられる。たとえば、僕の詩「毒草――夏の旅」の最終連に出てくる、イカは本当に伊豆の海で見たものである。岩場で海水パンツでたたずんでいると、イカが一瞬目の前の海に現れ、それは瞬きの隙にいなくなったのである。17歳ぐらいのときの記憶だと思う。この映像ははっきりと覚えていていまでも、目の裏に再現することができるが、夢には出てくることはないように思える。詩には書いていないが、こういった要になる映像はいくらでも思い出すことができる。
 夢では『アメリカ』などの不条理が、よく「断絶」として出てくる。これは実は物語の語り手にとって、危ないことでもある。「断絶」は捏造することができるからである。島尾の小説はその記述の誠実さに惹かれる。これは夢に限らず、その底にある作家の顔なのだろう。無意識の流れとは、フロイトの出現する近代に成立する概念なのだろう。確かに心は年輪のように記憶の集積ができてくる。大脳皮質のことを持ち出すまでもなく、たとえば心的外傷(トラウマ)とまではいかなくても、ちいさくても強烈な経験、特に幼いころの経験は記憶が「今」に直接通じている。脳が植物的であることを実感するというのであろうか。
 もしこの年輪を父祖まで延長したらどうだろうか。ユングの集合的無意識、柳田国男の常民、などに収れんしていく。話は分裂気味かもしれないが、共時性(シンクロニシティ)は人間の心を集合して考えた場合の巨大な年輪の一面を表しているようにも思える。
 僕のいちばん古い記憶は(これは後で構成された要素があるかもしれないが)、座布団に寝かせられたまま、母が下の家のほうに行ってしまい、起きてみると天井が見えそれがぐるぐる回るような不安な気持ちだったという情景である。このことがあったのは確かだと思えるし、母はこのことを忘れていたことを覚えている。たとえば、そういうものがありありとした現実であることは何か不思議な感じもする。

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