春泥(1998.2.18)

春泥(1998.2.18)



 ぽかぽかと朝から暖かく、道すがら紅梅の匂いが鼻についてくる。畑や道端の春の土は蒸気を上げはじめているようだ。
 日に当たる春の泥は、春の息吹を十分に感じさせてくれる。何か妖しいまでのものもある。土の中の菌類がどんどん繁殖して、土自体が生き始める。
 歳時記を引くと、

 春泥や魚屋の荷の鯛鰆           虚子
 春泥や夕暮れすこし冴え返り        余子
 横町の春泥地獄燈をつらね         青畝
 古葎(むぐら)美しかりし春の泥      波郷
 春泥のそこにも瓦斯の水泡(みなわ)かな  白水郎

 というような句が出てくる。初めのと3番目のは、いくぶん人事が入るから、「話」になっているが、春泥はそれだけで恍惚とする気分を裏打ちするように思えるから、2番目と5番目のように春泥自体の雰囲気に呑まれるのが、春の息吹に呑まれることだと思うのだ。3月が来ると雛祭りだが、これには白粉の質感が思い出される。この匂いのいい粉と、盛んに活動する土の対比が春の質感の幅だ。
 もっとも自分の経験からいえば、ひき蛙の産卵時のにおいが毎年初めに強烈に春を感じさせるものだ。東京でも池のある家などのそばを通ると、かすかにひき蛙の産卵時のにおいが流れてくる。東京では自然の具体的な姿が向こうからやってくるのではなく、こちらから求めていかなければならない。でも、そんなことはしていられないだろう。そうするとほとんど不可視の領域のなかに、今までの春のイメージの材料を展開することになる。
 ウチは女の子もいないのに、妻が受け継いできた雛を毎年飾る。今年は去年拾ってきた猫の遊び道具にすぐなるだろうと思ったら、猫はあまり触らないようである。雛はなかなかいい顔をしている。朝の居間のチンダル現象をぼーっと見ていると、確かに春がこの部屋に入ってきたのだと思う。

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