心の景色 その3【無垢と邪心】(1998.2.25)

心の景色 その3【無垢と邪心】(1998.2.25)



 性格というのは、死ぬまで変わらないものだ、ということは人の死に何回か直面するといやというほどわかってくる。「三つ子の魂百まで」ということからいえば、幼少期に偶然あった環境や人間的関係が最期まで続くということであるから、センチメンタルに考えれば宿命ということになる。でも、幼少期の環境などは単なる偶然と考えて、宿命とか重みをもってみることもないと思う。もちろん、それは文学の大きな主題であることからいえば、古今東西探究されてきた。またさらに探究されていくだろう。
「無垢」という性格、あるいは人格は、興味のある主題だ。ドストエフスキーの未完の大作『カラマーゾフの兄弟』では、アリョーシャのその後の行方として「僕は結婚するだろう、普通に働くだろう」というような独白で暗示することにより終わっている。イワンやドミートリーは、作家の中では虚構できうるいくつかの人格で、ドストエフスキーはそれらの人格を複層として作り上げることができた。ドストエフスキーはいつも、無垢と邪心という対比に興味があったのだと思う。それは作家を病跡学的に見て、てんかんの病いがあり、てんかんの発症の直前に天国を味わうような無垢なヴィジョンがあった経験が大きいという見方が一般的なのだと思うが、いずれにしろドストエフスキーは無垢と邪心の両方の人格をリアルに表現できる材料を持っていたことになる。
 無垢という表象ばかりで、人間を総合的に捕らえられるはずはない。文学における無垢は多数の面を持つ結晶の一面の光を感じるようなものだと思う。無垢は邪心と表裏一体なのだ。
 幼年や少年は、普通無垢の表象で大きくいえば表わせる。しかし、無垢がだんだん汚れていき、ついには大人になる、という見方は間違いだと思う。邪心の体験(これは完全に相対的なもので、些細なことであるか否かは問われない)を経て、無垢なものはそのまま裏面に残るというかたちの重畳的なものだと思う。稚気が残っていて、話していると子供っぽい人には魅力を感じる。それはたとえば、表層的にものすごく素直だな、直接的だな、と感じるときである。もしこちら側にそういう稚気に対応できるだけの稚気があれば、まるで子供時代のような関係を仮構できるのである。しかし、どうだろうか。稚気は邪心について解った後ひと巡りして、彼に現れているのではないだろうか。もし、無垢がそのまま彼のほぼ全体の人格を占めるとしたら、危険な表象でもありうる。逆説を通り抜けた無垢ならば、それは安心して見ることができるし、その人の輝きに算入していいことなのではないかと思う。
 心は連続した波動であるとともに、通奏低音がときにはメロディとしてせり上がって表立ち、また別の和音が響くときもあるという複雑なものなのだ。たぶん、無垢の一片の光を言葉として享受することは文学における得難い体験のひとつなのだと思う。

|
清水鱗造 連続コラム 目次| 前頁(心の景色 その4【精神的経済】(1998.3.4))| 次頁(春泥(1998.2.18))|
ホームページへ