心の景色 その4【精神的経済】(1998.3.4)

心の景色 その4【精神的経済】(1998.3.4)



 フロイトの本はそれほど読んでいない。しかし、誰でもであろうが精神的経済という意味は身をもって理解できるような気がする。いわゆる「ガス抜き」というやつである。僕は酒を飲んで騒いでいる時間がいっこうにストレス解消にはならないことをその場で意識することがある。しかし、翌日なにか少しだけ、二日酔いのなかで気分が変わっているのに気づく。同様に無意識に抑圧が蓄積されていく、というのもよくわかる。それら精神的経済はいわば、心的なダイナミズムのベースにあって、共同的な人間関係に入るとそれは少しずつベースに影響を与える、といういい方ができる。生や死のエネルギーに還元する科学があってもいい、これがフロイトの精神分析の確固とした存在意義だ。フロイト理論から離別したユングは少しだけ、フロイトの表層に新たなものを付け加えた。しかし、フロイトの光源はまっすぐにユングを刺し貫いている態のものだといえるのではないかと思う。ユングはフロイトの光源からでる光を共同的な範型(たとえば曼荼羅のようなもの)に当てた。
 ソシュールもまた僕はよく理解しているとはいいがたいが、フロイトとの別の明らかな光源は言語科学にあるのは明らかだと思う。それは、まず人間の生物学的客観から、恣意的な伝達記号へと派生する。伝達されない隙間にいわばすべてのフロイトの精神的経済の機構が散乱しているとして、いわば脳の電気的流通の微細な経路に還元するのがもうひとつの光源に値すると思うのである。しかし、実際総体的なそのような理論はまだないのだと思う。穿ちすぎかもしれないが、ものすごく高速なコンピュータがシミュレーションする道具として使われるのかもしれない。結論的には「それがどうした」ということに間違いなく、なりそうだ。これは臨床的なものを抜きにしたフロイトはありえないが、仮に抜きにした場合の受け止める側の心の姿に対応している。ただし、「それがどうした」という結論に至る過程で人間が「言葉でない何か」を捕まえるかもしれない、これがフロイトの心理学の臨床的なところに対応する事柄だ。だんだん、H・G・ウェルズのSFのようになってきてしまうのでやめるが、時空の制約のもとに、文学は全精神のエネルギーをぶつけていくことはいつまでも変わらないのだろう。
 ジョルジュ・バタイユは人間の精神にもともとあるエロスの過剰さと経済(戦争)について深く考えた思想家だと思う。ご多分にもれず、僕も手に余るその過剰さに右往左往するときがあるのであるが、気が小さくほんの少しだけ人を愛したり、憎んだりすることができた経験をもとにしてか(おこがましいが)、こうしてコーヒーを飲みながら文章を書いているわけである。探究すべき穴はそこらじゅうにポツポツ開いているが、寝てしまうのである。

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