拾い猫雑記 その6(1998.3.11)

拾い猫雑記 その6(1998.3.11)



 ベルはあっというまに大きくなり、子猫の雰囲気が徐々に消えてきた。と同時に妻も僕も息子も、犬派、猫派と分けたら犬派だと思っていたのだが、とんでもない猫好きだということがわかってくる。もちろん犬も大好きなのだが。本によると、猫は飼い主を「親」と見、犬は「仲間」と見る、とある。必ずしもくっきりした規定は成り立たないと思うが、飼い主に抱かれているとほんとうに安心している。子猫のちょこちょこした雰囲気は、落ち着いてのっそり歩く成猫の雰囲気に変わってきた。
 当初、猫好きの親戚がいて一度見せてみようということになっていたが、恐れられ冗談で「いやそれはいけない。1カ月は見ないことにする」ということだったが、もう手放さないという意思が固まっているというか、誰にも渡すものか、という気持ちになっているのが不思議である。
 ベルは今年3回いなくなって探し回った。2回は家の中のどこかにいて(狭い家なのにどこにいたかどうしてもわからない)、数時間後に突然出てきた。3回目が大変だった。3回とも隣り近所の人に、片目の猫を見かけたら教えてください、と言いに回ったが、そのうち2回は家にいたので、そのうち出てくると思って期待していたら1晩出てこなかった。2度目はさんざん半日かけて探し回り、困って居間に横になっていたら、突然顔の前にベルの顔が来た。寝ていれば、もぐってくるかもしれないと思って眠ったのだった。朝、やはり気配はない。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の猫のようにしばらくいなくなるかもしれないと思った。煙草を買いに行ったときにサンダルがドアに挟まって隙間ができていたので、たぶん外だ。日曜だったのだが、すでにお別れの気持ちでしんみりしていた。
 夕方、妻が裏で見つけた。飼い主なのに怯えて、物置の後ろの狭い隙間に入ってしまっていた。息子とやっとのことで出して抱き上げると顔は埃で黒くなり、固くなって怯えが解けない。しばらく息子のベッドの下でつぐんでいて、ようやく居間に下りて魚を食べた。お別れの気持ちは「やれやれ」に変わったが、2、3日してもいまだに心理的にすっきりしない。暗い夜闇にいるベルを何回か想像したときのことが、吹っ切れないで、ベルはまた少しだけ深く住み着いたようなのである。

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