心の景色 その5【常に描き換えられる地図】(1998.3.28)

心の景色 その5【常に描き換えられる地図】(1998.3.28)



 戦後のいくつかの文芸的な事柄で問題になった、観念的問題の系列を考えることをやることが心の隅にある。怠惰な僕にも、この「戦後の観念的問題の流れ」というのは無視できないパラダイムである。かといってどうだろう、その観念的な流れあるいは空間的地図を描くことはなにかその作業の心理的機構に固定的なものを感じて、その作業中に常に描き換えられる地図として、徒労感があるのではないだろうか。そうすると、宗教的教義の解釈のようなもので、とりあえずは発言し、それからまた他人の文章を読んで考え、自分の参考にするということでしかない。実は思想や心の流れの表層を動く地図が「戦後の観念的問題の流れ」という捉え方だ。
 時系列、空間系列で見るというのは心の構造に対応している、という構造主義のパラダイムにともすれば行き着く。しかし、その構造もカオス・複雑系などの非線形的な捉え方からみていけば、もうひとつ深みに至ることができるということなのだろう。構造主義的な捉え方もまだまだ進行する余地があるということだ。でも僕はむしろ言語や、共同的意識にある「逆説的」ベクトルに興味がいまのところ芽生えている。何かといえば個の心を単に複層的なものと捉えるだけでなく、「歪みの節」を捉えたいということなのである。これはまた別に書いていきたい。
 竹田青嗣の『現代批評の遠近法』(講談社学術文庫)はきわめて明解に一つの「戦後の観念的問題の流れ」を書いている。根元(彼の在日韓国人という立場)から派生する思想を一つにして、影響を受けたという現象学(フッサール)を後ろに置いて、昭和という時代の問題系列、天皇制、(日本の批評における柄谷行人や浅田彰、蓮実重彦らの)ポストモダニズム批判などを、金鶴泳、桐山襲や三島由紀夫などの小説、江藤淳、吉本隆明などの批評を引用しつつ、地図を描き出す。僕は竹田青嗣のこの地図に全面的に納得されられた。しかしながら、逆にその明解さの故に精巧な地図を前にしたときのような、「できあがったもの」を感じるのである。地図は常に描き換えられる必要がある。これは前に書いたように、ナレーターの視点を保つには仮に内部にある、ある関数を一定と見なすという力が働いているのではないかと思う。詩はナレーションを目的としない、いわば全ての関数を流動させるものであるから、そこから齟齬感が出てくるのかもしれない。でももし「戦後の観念的問題の流れ」を書くとしたら間違いなく、参照すべき本だろう。もうひとつ買ったままになっている加藤典洋の『敗戦後論』(講談社)もいま気にかかっている本である。
 で、一度構造主義的な心の流れの捉え方に戻って、構図を描いてみよう。

(詩の書き方)  生体の心の流れをそのままにして対象を捉える。――感性はいちばん微細な局面までが問題となるので、Aという事象の捉え方が1秒後にその裏面を捉えるやり方に変わってもかわらない。イメージをそのまま扱うことにおいては、小説より楽な形式だといえる(その点においては労力がかからない。ただし、その瞬発力が問題となるだけに「心身の即時的なところ」の集中が出るのでその点の生活習慣に生なかたちでかかわることになる。つまり塊茎的構造(ドゥルーズとガタリ観念的範型のリゾーム)ということからいえば、小説より生な形の切片を取り出せる。ただし、心身の歪みは実は「言葉自体」に及んでいて、これを直感的に受け取れる形式であることがなによりの力であることをほとんどの人は言葉でないところで受け取っている。
(小説の書き方) 生体の心の流れを分節的に一定にして対象を捉える。――散文は一つのセンテンスでナレーターを換えると分裂的になってわからない。ただし、ナレーターを意識的に一つの文章で換える場合はあるが、これはもうひとつのナレーター、ナレーターを換えるというナレーターがあるから、事情は本質的には変わっていないというべきである。小説の強みはだから、ナレーターの存在が空間を広く、時間を長く、一定の筆致で書けることが可能だということである。これは何を意味するかというと、重層的なものを読む時間(たとえばひとつのシークエンスが20分だとして)の中に一定の、時間的空間的塊を作りだし、またもうひとつ次に読む時間(たとえばもうひとつのシークエンスを読む時間が20分として)と関係を構成することができる。この関係の網の目はたとえばニューロンの仮構的な塊茎的構造(ドゥルーズとガタリ観念的範型のリゾーム)に擬似的に近づくことができる可能性を示す。詩と対照すれば、「言葉自体の歪み」もまた擬似的に解析することが一部可能である。実はこの一部「可能」であることが「不可能性」から一歩離れることによっていわば常に「化石」になっていく。文学の過渡的な形式である、詩、小説ということからいえば、その過渡的なことも一部俯瞰できるといえる。ただし、言葉による全ての芸術的形式は過渡的であることから、これからも免れない。


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