心の景色 その6【ほどほど】(1998.5.6)

心の景色 その6【ほどほど】(1998.5.6)



「なんでもほどほどにしといたほうがいいよ」と言われる。主に妻からだが。
 どうも、僕は粘着気質で、ある種の神経症になりやすい性格らしい。ものごとにこだわる、些細な出来事をずっと問題にする。これがいいほうに向かえばいいのだが、日常ではたいてい悪いほうに向かうということである。「ケセラセラ」というふうに気分をうまく自己管理できている性格の人を見ると、なにか頼りになる感じがある。でも一方で、粘着気質は「恥も外聞もなく目的に向かう」といういい面もあって、本当に解決しなければならない問題に直面するとそれはかなり「しつこい」かたちで、追及される。裏にはすぐ忘れてもいいような場面を覚えていたりするから、問題の腑分けができていればいいのだと思う。したがって、「しつこい」のが、頼りになる場面もありうる。僕は高所恐怖症があるのだが、森田療法では無理やり屋上に連れていったりするらしい。たしかに、恐怖をブレイク・スルーしたところで、なんでもなくなる人もいると思う。しかし、恐怖が「こびりついている」場合、(高所恐怖はひとつの例だが、ほかにも無駄な恐怖はたくさんある)そう簡単には直らない。おおむね「こびりつく」度合いは、粘着的であるかどうかに関係しているように思う。神経症は「間違った反応の習慣」だが、トラウマ(心的外傷)は性格からは少し離れて考えるほうがいいのだろう。トラウマによる神経症は、奥が深い。多くの神経症は外因的なものと内因的なものが複合しているのだろうが、性格にほとんど関係なく神経症が現れる場合もあるだろう。
 で、処方箋は何か。リハビリには言葉が介在する。妻が言うのはカール・ロジャースのカウンセリング法にある、「受け入れ」である。神経科医は「そういう恐怖は誰にでもあることで、自分だけではない」といういい方をする。僕が愛読した『不安のメカニズム』(邦題、英語の題を直訳すると「自分で自分の過剰な敏感性を直す」というような本)では、「受け入れ」によってアドレナリンの分泌を自分で制御することになる。あるいは「誰にでもあるんだよ」ということで納得する瞬間、アドレナリンの分泌が減る。
 というわけで、日常でひっかかる問題に遭遇したとき、バランスをとるために問題の腑分けをしているわけだが、これは前に書いた「心理的準備」と対になっているのかもしれない。しかし、本当は「ほどほど」ということはとても難しいことであることは確かだ。

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