心の景色 その7【ボロを出すことと親友】(1998.5.13)

心の景色 その7【ボロを出すことと親友】(1998.5.13)



 息子が、「親父はほとんど電話でタメ口で話す知り合いがいないね」と言う。タメ口で話せる人、それが親友だとしたら確かにほとんど親友がいないことになる。僕の周りのたいていの人は心の支えになる2、3人の親友がいるように思う。そういえば僕に親友と呼べる人がいるだろうか、と考えてしまう。「水のように淡い付き合い」というのが好きなのは確かだし、本当は人間嫌いなところもあるのだろうかと自分で疑うこともある。友達になるきっかけというのは趣味など共通の話題があることから始まる。「親友」というのは相手が困ったときに助けられる、むしろ困ったらその友人に気軽に言うことができるという仮にひとつの基準を作るとする。でも、そこまで勇気をもって信頼して告白する人というのはざらにできない。
 自分がボロを出すのは勇気が要る。とくに自分の個人的悩みだけでなく、相手に迷惑や思考を迫るときにはよほどの決心が要る。しかし、互いの綻びを理解し合える友人というのが親友というものなのだろう。親友に対しては守秘義務も生じる。防御が強いと親友もできにくいのだろうか。家族関係にまで話をもっていこうとすると、また大きな課題になるのだが、まったくもってボロを出し放題にできる、あるいはそれとなくボロを出しても構わないところが家族関係の一要素なのだと思う。とくに生活史を共にしている、感情のドラマを通りぬけている、というところが家族の有り難いところなのだと思う。
 話は少しずれるが、トイレで全裸になる習慣をもっている遠い知り合いがいる。人間が初めに密室に一人で入る場所はトイレである。トイレの習慣は早い時期から、本人に任せられる。シーラカンスのようにトイレの習慣は、個人の習慣のなかでも化石のように残る。汚穢の場所を生活の場所の、ある一定の好ましい方角に位置させたほうがいい、というのは東洋の陰陽道なんかに関係してくることなのであろうが、確かに一例として汚穢に関係する生活事象は通時的な無意識が古層のまま残っている部分であると思う。
 汚穢フェチというのもあるが、それとは関係なく、心に通じていく人間という動物に生理的に関係する汚穢はじつは「美しい」ものであると思う。
 自分の悩みのなかの軋轢や自問自答、ぬけだせない心理的圧迫を友達に話したとき、あるいは笑われていっそう親しみを湧かせるかもしれない。その友達がクリア済みの問題であるかもしれないから。
 
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