お絵描きソフトの楽しみ その6(1998.11.16)

お絵描きソフトの楽しみ その6(1998.11.16)



 風流心みたいなものはいわば生活の余裕で、詩が風流心も要素とするけれども中心ではない、ということからいえば、詩はもちろん余裕ではない。とはいえ、のんびりした気分にしみじみと染みてくる季節感の喜びは、生きる喜びに通じてくる。たいてい、そういった余裕みたいなものは循環してくるもので、本当のことをいってしまえば「尻をまくって生きているくせになんだ」、と僕なんかが風流心を持ち出すと言われるのが落ちのような気もする。でもまあ、韜晦でもなんでも、何か隙があったら自然に触れて楽しんじゃおうじゃないか、という気もまたするのである。僕の奥さんも息子も僕から言うのも変だが、なかなか素敵な家族だ。しかし、本当によく見ればみんながみんな「尻をまくって生きている」ところがあると思う。犬、猫は別ですけどね。
 幼いころ顕微鏡を買ってもらったとき、なんでもかんでも覗いてみた。ゾウリムシや、花粉なんかには飽き足らず、じゃんじゃんその辺のものの表面をプレパラートの上に載せた。
 今度、スキャナを手に入れて、風景写真なんかを高い解像度でスキャンすると、たとえば藪の中にいままで写真では見えなかったものが見えてくることがとてもおもしろい。一枚の風景写真を600dpiの解像度でスキャンすると、70メガバイトぐらいの巨大なファイルになる。これをお絵描きソフトでどんどん正倍率にしていくと、思ってもみない光が見えてくる。なるほど、カメラは微細な光をフィルム表面に捉えている。思ってもみない映像というのはお絵描きの楽しみだ。詩を添えたりする心持ちになってくる。このことも発見だったが、今度は顕微鏡を初めて手に入れたときみたいにじゃんじゃんその辺のものをスキャンしてみるということになってきた。朝、散歩の途中、近所の家のフェンスにあった枯れ草をスキャンして、一部を切り取ったのが上の映像である。
 これは風流心じゃないね。でも、ざらざらした砂のような心情が浮かんだりするのも悪いことじゃない。草の実には思い入れがある景色もあって叙情的な文章だって書ける。でも、なにかこの枯れ草は、今年の11月に見る目が捉えた光そのもので、それだけでいいんじゃないかとも思う。


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