心の景色 その8【超越的なものへの通路】(1999.1.9)

心の景色 その8【超越的なものへの通路】(1999.1.9)



 本当に精神的に自由になると感じたとき、今度はその自由を律するものを探すことになるのだろうか? というような問いを考えたのは僕が神のような超越的なものをあまり想定して行動したことがないと思ったからである。昨年、自分が心理的に「ふたが取れている」というような感じに襲われたことがあった。その理由は、無意識にではあるがなにかしらしがらみから放たれている、という状態にあるということにふと気づいたことにある。実はそれが僕には危険を伴うことであったことを実証する機会にも遭った。
 神はたぶん国々や民族によって違うようにみえる。しかし、それが自分の上部に居て超越的なものであることは、肉体のように同じだ。
 超越的なものに律されて生活するという感じは、宗教的な雰囲気を持つ他人との付き合いで感じることがあった。誰でも超越的なものに思いが至ることがある。それはたぶん自分を律しきれない行為に遭遇した経験の後かもしれないし、反対に底抜けの「自由」を感じたときかもしれない。
 ただ、生活の中でひとつだけ言えることがあるとすれば、彼岸(超越的なもの)は概念的なものにとどまるからそれは僕を律することはできないが、そこへの「通路」の位置においては僕を律することができるかもしれない、という感じだけだ。親鸞の言い方でいえば「正定聚」(しょうじょうしゅ=必ず涅槃へ至ることに定まっているものたち)という「彼岸へ過程」に似た概念が生活のことどもを律しているということはわかる。西欧の人たちはごく自然にキリスト教信者でなくても、「神」という「一般的」な言葉を発する。これは不思議に思えたが、もし「自由」が実現されたと感じたら、自分をとりまく「しがらみ」がなくなったと感じたら、たぶんその人は超越的なものへの視線を必ずもつと思う。
 僕が「ふたが取れている」とそれ自体メタフォリカルな言葉で自分の感じていることを表現したとき、それはとんでもない喜びなのに違いない。それは律される「しがらみ」がなくなっていると感じるのに似ているからである。しかし、またそれは危険を伴うものであるから、自然、新しい「ふた」のようなものを探してしまう。しかし「ふた」はもうないし、あってはだめなのである。では倫理は神を想定して自分を律するのが神であると想定すべきか。その感じは僕には湧かない。そうではなくて、超越的なものに至る通路によって「生活的なもの」は律されている、ということひとつだけは言えるような気がするのである。そこに「生命」のような「現世的な延長」を等身大に捕らえることができるような気がする。その「現世的な延長」をミクロにもマクロにも観ていくと、たぶん超越的なものの雰囲気を感じることができる。なぜなら「等身大」という言い方自体に生と世界の境界を想定しているからである。しかし、あくまで自分を律しているのは「超越的なものへの過程」に違いないということだけはいえると思う。

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