密室
密室

なめくじが向こう側にたくさん貼りついた丸い窓ガラスを通して
かれは動く人影を見ていた
人影は一生懸命穴を掘っている
そばの電信柱には雀蛾が一匹斜めにとまっている
なめくじがたくさん貼りついた窓ガラスはかれの息で曇るので
ときどきぬぐわなければならない
背伸びして爪先で立って丸窓の位置まで目をもっていかないと見えなかった
一メートルほど掘ると人影はスコップを置いて草むらのほうへ歩いていった
ひととき電信柱だけが遠くに続いている無人の闇の野原になる
かれは素裸だった
部屋には外側になめくじがたくさん貼りついた小さい丸窓があるだけで
ほかの側の壁には四角い窓やドアや戸棚が描いてあった
コンクリートの割れ目から立ち昇る湿気はいつもかれの躯をねばねばさせている
しばらくして人影は草むらに隠してあったバケツを両手にさげて戻って来た
たぷたぷと液体が揺れる音が届いてくる
小さな丸窓からしか外を見ることができないそのあまりの狭さによって
息苦しさが加わってくる
壁に思いきりぶつかりたい欲求がこみ上げてきて躯がぶるぶると震える
そのとき液体が穴に流し込まれる音がした
人影がバケツの液体を注ぎ込んだのだ
その液体が何であるかはよく見えない
つづいて穴の周りの土が穴に投げ込まれる音がする
やがて穴は埋まり平らになった
人影は再び別の穴を掘り始めた
窓ガラスのなめくじは向こう側を縦横に白い筋をつけて行き交う
コンクリートの割れ目から立ち昇る蒸気は部屋全体をねばねばさせている
描かれた窓には山があり前景の庭には雑草が生い茂っている
戸棚には林檎とかレモンが稚拙に描かれている
いまかれは部屋の狭さと同時にこれらの絵ののっぺりした明るさが
息苦しさを加えているのに気づく
丸窓のなめくじの動くさらに向こう側で人影は二つ目の穴を掘っている
もう我慢できない
かれは描かれたドアに体当たりした
どしーんと部屋全体が震動する
三度四度繰り返すと躯の片側が真っ赤に火照った
人影はさらにスコップで穴を掘りつづけパッパッと闇に土が飛ぶ
電信柱の雀蛾は尻から茶色の排泄物をびゅっと流した
描かれた窓の山と生い茂る草や林檎やレモンの置かれた戸棚の明るさは
のっぺりした空白でかれを威圧する
振り向きざまかれは再び躯ごとドアの描かれた壁にぶつけていった
どしーんと部屋全体が震動する
丸窓のなめくじはかれの激突を気にすることなく動き回っている
突然壁の窓の絵の中に数枚の短冊が現われた
山の斜面に貼りついたものや前景の庭の草に結んだものが描かれてある
短冊にはくずし字で叙景的な言葉ばかり書いてある
たとえば山の斜面の一枚には〈しらとりは波ま波まにうかんではきえ〉とある
次々に短冊を読んでいくといらだたしくなってかれは唾を短冊に吐きかけた
壁の絵に貼り着いた唾は筋をひいて床まで流れていく
丸窓の外の人影は二つ目の穴を掘り終わり草むらのほうへ歩いていく
再び液体を流し込む音がした
バケツにたぷたぷ揺れる液体をまた掘った穴に注ぎ込んだのだ
どしーんとドアや窓や戸棚の描かれた壁にぶつかっていく
疲れ切るまで何回も何回も激突していった
素裸の躯が火照り汗にまみれる
疲れ切ってしゃがみこむと部屋の隅によく研いだ手斧が一本立てかけてあるのが見えた
人影は二つ目の穴の周りの土を穴に溜まった液体の中に投げ込んでいる
二つ目の穴を埋め終わるとそれまでの穴を掘る数倍の速さで三つ目の穴を掘り始めた
壁に描かれた絵ののっぺりした明るさが背中にじっとり熱い
電信柱の雀蛾の尻から地面まで茶色い多量の排泄物がつながっている
丸窓の向こう側に貼りつくなめくじも縦横にうごめいている
かれは手斧を壁に振りおろした
合成樹脂でできた壁が鋭く裂けた
床のコンクリートの隙間から立ち昇る蒸気が躯にべっとり凝集し
汗と共にぽたぽたと落ちる
ところが描かれた窓や戸棚の色は壁の奥までつづいていた
削り取っても削り取っても窓やドアの図柄が下から出てくるのだ
窓の山の斜面の短冊の文字もいくら削っても下から出てくる
〈しらとりは波ま波まにうかんではきえ〉と書いてある
かれはさらに壁に向かって手斧を振りおろした
丸窓の向こうでは人影は次々に穴を掘ってバケツに入れた液体を注ぎ込んでいる
電信柱の雀蛾はいつのまにか数匹に増えている
かれの周りは合成樹脂の削り屑でいっぱいになってしまった
熱い躯で座り込んだ
手斧を丸窓のガラスに叩きつけた
丸窓はガチャーンと割れてなめくじとともに散乱する
穴を掘る人影は一瞬作業をやめて丸窓を見やった
電信柱の雀蛾はいっせいに飛び立ち闇のなかをふらふらさまよっている
そのとき壁に描かれた窓の風景にある短冊がすべてぼっと燃えた
部屋に充満した熱気がもわーっと丸窓から出ていく
短冊は皆絵の中で消失した
ひととき穴を掘る人影とかれは見つめ合った
かれの脳裏に削っても削っても出てくる文字が刻み込まれる
〈しらとりは波ま波まにうかんではきえ〉

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