時は1990年代初頭、エジプトのアレクサンドリア警察音楽隊が アラブ文化センターでの公演のためにイスラエルを訪れたものの迷子となり 辺境のユダヤ人入植地の町で過ごす一日を描いた映画です。 といっても、迷子になったアラブ人の音楽隊とそれを迎えたユダヤ人の 心暖まる交流を描いた映画ではありません。 むしろ、生き方の不器用な人々のうまくいかないコミュニケーションと 微妙に居心地の悪い時間をユーモアと諦観を含む優しい眼差しで描いた映画です。 そのセンスは斬新というより良い意味で昔ながらのもの、 Jim Jarmusch や Aki Kaurismäki の映画を思わせるものがありました。
この映画の登場人物は アラブ=ユダヤ間の豊かな交流を実現する才気があるどころか、 ことごとく問題を抱えています。 警察音楽隊は合理化のために解散寸前、 団長は堅物で家族を理解することができずに子と妻を死に追いやってしまったという過去を持ち、 副団長は長年その地位に甘んじ自作の曲も完成できないでいます。 そんな楽団を迎えた町は産業も文化もその気配すらない砂漠の中にぼっこり作られた入植地。 彼らが入った食堂も小綺麗なカフェやレストランの類ではなく昼から失業者がたむろしているような店で、 彼らを泊めることにしたその女主人は妻子ある男の愛人でその男ともうまくいっておらず、 住み込みの若い男は女性とのコミュニケーションに問題を抱え、 その店に昼からたむろする男は失業中で家庭はギクシャクしています。 そんな人々の不器用さを丁寧に描くことによって、 登場人物のささやかな心の交流や心境の好転の瞬間をひきたて輝かせています。 そんなわけで、カッコいい男女が出てくるような映画ではないわけですが、 むしろ、いい味を出した老人が出てくる所が観ていてツボにハマりました。 特に不器用で堅物な楽団長。
パレスチナ/イスラエル問題のようなユダヤ人とアラブ人の間の 困難な状況については、この映画の中では背景の大状況という程度で直接的には触れられません。 宗教の違いが引き起こすような問題も映画の中では起きません。 第三次中東戦争時のエジプトへ侵攻するイスラエル軍の戦車の写真を食堂の壁に見付けた楽団員が それをさりげなく帽子で隠すシーンなんていうのもあったり。 あと、入植地を活気や希望の無い場所として描いていたのも、印象に残りました。
セリフは、イスラエルの町の人はヘブライ語、音楽隊員はアラビア語 (エジプト方言)、 その間の会話は (片言の) 英語でした。 音楽隊長を演じた Sasson Gabai はイラクのバクダッド生まれのユダヤ人ですが、 副団長や楽団一のプレイボーイを演じた俳優はイスラエル在住のパレスチナ人です。 映画のクロージング・クレジットはヘブライ語アラビア語の二言語並記でした (といっても、自分はヘブライ文字アラビア文字で書かれているということが判る程度ですが)。 ヘブライ語アラビア語並記のクレジットを見ながら、 イスラエルの人だけでなくエジプトやパレスチナの人たちにも観てもらいたいと考えて この映画を制作したのかなぁ、と思ったりもしました。
音楽については、警察音楽隊を描いた映画の割には あまり積極的な音楽の使われ方はされていませんでした。それは少々残念。 Umm Kulthum の歌が要所で使われていたりしましたが。 ちなみに、警察音楽隊はブラスバンドではなくアラブ伝統音楽をレパートリーにするものでしたが、 楽団のちゃんとした演奏を聴かせたのはエンディングだけでした。
アラブやユダヤの音楽がもっと楽しめるような音楽の使い方をして欲しかったとも思いますし、 アラブ/イスラエル関係のもっと際どいネタもあってもいいようにも思いましたが、 不器用な登場人物によるミニマルなコメディとして充分に楽しんで観ることができました。
(以上、談話室への発言として書かれたものの抜粋です。)