先週末土曜は日帰りで箱根へ。会期末になってしまったこの展覧会を観てきました。
現代美術の文脈で1990年代から活動するフランス出身の作家 Philippe Parreno の個展です。 Nicolas Bourriaud: Esthétique relationnelle 『関係性の美学』 (1998; 辻 憲行=訳, 水声社, 2023) で言及され、 リレーショナル・アートの作家として知られます。 個展としてまとまった形で観る良い機会かと、会期末に駆け込み鑑賞しました。
リレーショナル・アートというと、ワークショップを多用したりワーク・イン・プログレスの展示だったりで、 展示自体はそれらのドキュメントだったり、DIY色濃いとりとめないものだったりすることが多いものですが、 今回の展覧会はポーラ美術館という場所のせいか、その後の作家の作風の変化か、むしろ、しっかり構成演出された展示でした。
最も印象に残ったのは、Marilyn Monroe が1955年に住んでいたニューヨークの高級ホテル Waldorf Astoria のスイートルームを題材とした作品です。 人のいた気配はあるけれども無人のスイートルーム内を漂うように捉えつつその様子を語るようで微妙に食い違いのある女性のナレーションが添えられたビデオが大きく投影されます。 ほぼ同じナレーションで2巡目に入ると、軽い機械の音を背景にホテルの便箋に文字をダブらせるようにペンを滑らす様子が投影されるのですが、 やがてカメラが引くとペンを走らせていたのはプロッターであり、スイートルームもセットであったことが明かされて、ビデオは終わります。
そのビデオは壁自体もしくは壁掛けの薄いスクリーンや液晶ディスプレイで上映されるのではなく、 ステージのように張り出して設置されたうっすら半透明のパネルに投影され、 パネルの後ろにスピーカーや照明が置かれ、 ビデオが投影されていない時は後ろに枠状に並んだ照明がポツポツと透けて見えます。 また、ビデオの伴奏の音楽も、録音を流すのではなく傍に置かれた自動ピアノで演奏されます。 さらに、上映されている空間はブラックボックスのままではなく、上映が終わる度に暗幕がひらき、外の可動式のリフレクタを使い外から陽が差し込ませられます。 そんな仕掛けもあって、ブラックボックス内でループで上映されているビデオ作品を鑑賞しているのとはかなり違う、 ピアノ伴奏も機械仕掛けて映像の中も無人であるものの、ライブでの上演を観たのに近い感覚になりました。 ラストでメタな視点が入ってくるビデオの構成も舞台上演を収録した映像に近く感じられ、そういった時間空間の演出に合っていました。
ビデオ作品 Anywhen (2016) の上映も Marilyn ほどでは無いものの、 他のインスタレーションの動作と組み合わせて上映されていましたし、 ドローイングの展示でもガラスケースのガラスを調光ガラスにして断続的に不透明化してケース内と手前の視野を切り替え、 空間の奥行きや時間展開を鑑賞させることで、Marilyn に類似した、時間空間を忘れた鑑賞とは異なる体験をさせるようでした。
そういった時間空間演出とは違うものの、窓越しの周囲の緑と外光が美しい展示空間を生かし、 そんな空間にヘリウムガス封入の魚型のバルーンを漂わせた My Room Is Another Fish Bowl (2018) も、 親しみやすく空間を異化する楽しさを感じました。
展覧会を観た後は森の遊歩道へ。 2019年の『シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート』展以来常設の Susan Philipsz: Wind Wood (2019) [鑑賞メモ] や、 2021年の Roni Horn: When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You? 展以来常設の Air Burial (Hakone, Japan) (2017-2018) [鑑賞メモ] と再会してきました。 しかし、2010年代末から現代アートの企画展が増えたのでもっと足を運びたいと思いつつ、2〜3年に1回程度。 箱根という好ロケーションですし、もっと足を運びたいものです。
この週末は、新国立劇場バレエ団 『DANCE to the Future 2024』はチケット争奪戦に敗北。 同じく会期末になってしまった大阪中之島美術館 の 塩田 千春 『つながる私』 とどちらへ遠征すべきか悩んだのですが、天気が良かったこともあり、温泉もある箱根にしてしまいました。 Philippe Parreno の方も、いかにもリレーショナル・アートな展示では無いかと危惧していましたが、結局、よく演出されたとても好みの展覧会でした。 紅葉はあまり綺麗ではありませんでしたが、美術館レストランのランチはもちろん、日帰り温泉では野生猪の温泉しゃぶしゃぶで晩酌。 日帰りながら箱根を満喫できました。 直前に行くのを決めるので日帰りになってしまいますが、やはり、一泊で行くくらいのんびりしたいものです。
先週末土曜は午後に新宿東口へ。新宿シネマカリテでこの映画を観てきました。
セリフをぼぼ使わない映画を撮ることで知られるドイツの映画監督 Veit Helmer の新作は、 グルジアの山間の村の谷を渡るロープウェイのゴンドラを舞台にした、女性乗務員2人が主人公のロマンティックなコメディです。 父の死をきっかけに戻った村でロープウェイの乗務員と働き始めた Iva と、 航空会社の客室乗務員を志望している先輩乗務員 Nino の、2人の間の関係をセリフを使わずに描いていきます。 最初のうち、ロープウェイを行き来しながらチェスをするあたりまでは、長閑な田舎でのちょっとギクシャクしつつの微笑ましい交流かなというところですが、 相手を喜ばすために仮装したりゴンドラを改造するようになるあたりから、次第にリアリズムから外れてファンタジー色濃くなります。 中盤頃までは2人の間の関係、気になる相手から次第に好意を寄せる相手に、そして、仲違いから仲直りへ、などの二人のロマンチックな関係の機微を、 表情や仕草、音楽や環境音はもちろん仮装やゴンドラ改造の方法などを使って、微笑ましくもコミカルに描いていきます。 しかし、終盤に入って、それまで駅長 (Chef) に乗車拒否されていた車椅子の男をゴンドラから吊り下げて谷を渡らせてあげるあたりから、 シスターフッドによる現状の打破というほど強いものではないですが、現実からの飛躍が寓話的に描かれます。
登場するゴンドラが Veit Helmer の親友だったタジキスタンの映画監督 Бахтиёр Худойназаров [Bakhtyar Khudojnazarov] [関連する鑑賞メモ] Кош ба кош [Kosh ba kosh]『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』 (1993) と同じ型式のもので、 ファンタジー色濃い展開になってからは Лунный папа [Luna Papa]『ルナ・パパ』 (1999) も思い出させられました。 Бахтиёр Худойназаров [Bakhtyar Khudojnazarov] の作風から、 ポストソ連の混乱に対する風刺 (とセリフ) を抜いて、優しい寓話に寄せたような作風に感じられました。 セリフを使わず状況と動きでクスッとした笑いをとる所は Jacques Tati も思い出します [関連する鑑賞メモ]。 相手の気を引き喜ばせるための仮装やゴンドラ改造、車椅子の男に谷を渡らせること、ラスト近くの村人総出の鳴り物演奏も添えられた夜のゴンドラパーティの場面などは、 ファンタジックなクレイアニメーションなどで使われそうな表現でもあります。 しかし、そういったことを実写でこんなにチャーミングな映像にできるのか、と。 もう少し風刺を効かせてもいいのではないかとも思いつも、このご時世、この邪気のない浮世離れ感が貴重に感じてしまいます。
派手な映像効果演出は無くファンタジックな場面でも手作り感満載で、そこが味わい深いのですが、 当初予定していたロープウェイが故障で使えず、代わりのロープウェイは単線だったため、ロープウェイのすれ違いの場面などはコンピュータでの合成とのことでした。 駅の乗り場が片面しかないので少々不自然に感じていたのですが、そういうことかと。
監督の Veit Helmer は Чулпан Хаматова [Chulpan Khamatova] 出演作を度々撮っているので名は知ってましたが、作品を観るのは初めて。 こんな面白い映画を撮る監督と知り、今まで観ていなかったことを悔やみます。 Tuvalu (1999) や The Bra (2018) など、他の作品も特集上映して欲しいものです。
ジョージア映画祭2024で予告編を観て、これは良さそうだと楽しみにしていたのですが、期待違わず大変に好みの映画でした。
映画の後、夕方には鎌倉へ移動。マスター復活、営業再開を祝いに鎌倉、カフェ・アユーへ。 さらに、二軒目に雪の下の喫茶邂逅へ初めて足を運んでみました。 こんな所に店あるのかなと住宅街を進んだ先に、個性的なお店がひっそりと。 渋谷に居場所がなくなりつつある中、小杉からの便はいいし、鎌倉かなあと思いつつあったり。
先の水曜晩は万難排して仕事帰りに三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
スウェーデンのコンテンポラリーサーカスのカンパニー Cirkus Cirkör の6年ぶりの来日公演は、2013年の作品の再演です [2018年の鑑賞メモ]。 「平和の編む」というタイトルで、Call to Knit という編み物を通して平和を呼びかける運動も公演と並行して進められています。 といっても、舞台作品中の中では前回の来日作品 Limits のような映像投影などによる直接的なコメンタリはなく、 毛糸の編み物に着想した舞台の優しい雰囲気を通して平和への気持ちを感じさせるような舞台でした。
開演直後の舞台上で目に付くのは、上部に回転する吊り下げの機構を持つ高さ約7メートル径約12メートルの櫓、 そこから下げられた解れかけた毛糸の編み物を思わせる白のロープで編まれた穴のあちこちにある巨大な編み物のようなものです。 これは装飾としてだけでなく、上り下りしながらエアリアル的な技を見せる場としても使います。 前半の中頃でそれは下がってしまいますが、代わりに出てくるものも、シルクやトラペーズのような分かりやすくサーカス用の器械を使うことは極力避けられ、 ロープやスラックラインを使うときも複数本を組み合わせ、玉乗りの玉や倒立の台にも毛糸玉をしたテクスチャを付けるなど、 白い毛糸による編み物のイメージでビジュアルが統一されていていました。 基本、白で色が統一されていたので、時々使われる流血を思わせる赤が効果的でした。
そんなビジュアルもあってか、複数本のスラックラインを使って綱渡りしながらフィドルを弾いたり勢いよく回転するスリリングな技も、ほんわかとした柔らかい雰囲気に包むような印象を残しました。 エアリアルやハンドスタンドを使った表現が多用され、エアリアルでも落下技のようなダイナミック技は控えめ。 シルホイールも他のパフォーマーたちにに見つめられながら回ります。 派手な動きで目を引くというより、落ち着いた動きの中でバランスの良さを感じさせるパフォーマンスが多く、それも柔らかいビジュアル・イメージに合っていました。 そして、そんな技とビジュアルに、平和への思いを感じた舞台でした。
音楽は前回来日作品 Limits を含めて Cirkus Cirkör の多くの作品で音楽を手掛ける Samuel “Looptok” Andersson がライヴで伴奏していたのですが、 Knitting Peace では舞台後方の中央上方に演奏ブースが設けられ、 フィドルで時折北欧フォークらしいフレーズも織り込み、 ルーパーなどのライヴエレクトロニクスを効かせたフィドルやパーカッションの演奏の様子を見せるよう。 伴奏の様子が見えることでパフォーマーとの絡みがよりはっきりとして音楽が生きて聞こえました。 ちなみに、2010代前半 (ちょうど Knitting Peace 初演の頃)、 Looptok はスウェーデン/フィンランドのフォーク/ロック/エレクトロニカ混交 (日本ではラジカルフォークと呼ばれていた) のバンド Hedningarna のメンバーとしても活動していました。
この週末土曜の午後は少し遅めに京橋へ。 国立映画アーカイブの上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』も後半。 16日に「田坂監督ゆかりの人々とその作品」からの2プログラムを観てきました。
小津 安二郎が「愉しき哉保吉君」として企画したものの松竹では実現できず、内田 吐夢 が日活で映画化したものです。 元々99分の長さがあったものの、戦後のリバイバル公開の際にハッピーエンドになるよう改変され、 1954年に内田が中国から復員した後、改変版から意に沿わない部分を削除して本来の演出意図を字幕にして挿入したといいます。 今回上映されたものは、その英語字幕版77分でした。 そんな経緯のある映画で映画本での言及や資料展示では度々目にすることはあったので、これも良い機会と観ました。
小杉 勇 演じる50代半ばのサラリーマンが定年制の施行により退職となり人生設計が狂う様を コミカルに描いた小市民映画です。 物価上昇や娘の嫁入りの準備などに苦慮しつつのサラリーマン生活の描写はいかにも小津らしく、それを奇を衒わず映像化していました。 しかし、急遽定年退職を言い渡されるも、その現実を受け入れられず、部長に昇進したという妄想に取り憑かれてからは、ほとんど妄想の中の場面しか残っていませんでした。 現実と妄想が交錯するようなプロットは小津だけでなく松竹大船の映画で見らるようなものではなく、それをどう映画化したのか興味を引かれるだけに、その点が惜しまれます。
このプログラムでは、併映で『トーキーステージ竣工式実況』 (日活, 1936, 10 min.) も上映されました。 こちらは式の様子というより当時最新の鉄筋コンクリート建てのステージの様子が伺える点が興味深い物でした。
様々な家の事情を超えて童謡歌手デビューを果たす少女、そしてそれを通しての一家の和解をを描く、 主題歌『母に捧ぐる歌』をフィーチャーした歌謡メロドラマ映画の童謡版です。 女給ゆえに亡夫の実家に受け入れられず娘から引き離される、というのも戦前映画らしいプロットでしょうか。 はっと目を引くような場面はありませんでしたが、ストーリーも演出も堅実で、メロドラマらしく泣かせる映画でした。
伊奈 精一 は 田坂 具隆 と同じく1926年に日活で監督デビューし、長年交友関係があった縁でこの企画に取り上げられたようです。 『母に捧ぐる歌』の併映で以下の映画の部分も上映されました。
小説 Hector Henri Malot: En Famille 『家なき娘』 (1893) の翻案映画化です。 同小説に基づく 田坂 具隆 『愛の町』 (日活太秦, 1928) [鑑賞メモ] との翻案や演出の違い、 特に戦時色濃くなる1939年という時代にパターナリズム的とはいえ労働問題を扱った原作をどう翻案したのかという興味がありました。 上映されたのはオリジナル73分のうち断片的に残存した中間部分32分で、上映された部分もかなり傷が多いものでした。 主人公の父親にして社長の息子の葬式以降の労使対立やその後の労働環境改善の場面がほとんど残っておらず、それらがどう描かれたのかは伺えませんでした。 『愛の町』との翻案の相違点といえば、『愛の町』ではあまり目立たなかった工場での Perrine の親友 Rosalie 相当の役が時子として、また、 Perrine の味方となる技師 Fabri に相当する相川が時子の許嫁という関係となっていました。 『母に捧ぐる歌』と同じ年に同じ監督とスタジオで撮られ出演俳優も美嶋 まり、宇佐美 淳、浦邉 粂子など重なっており、『家なき娘』の断片からも似た雰囲気を感じました。
上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』で足を運んだのは 前半10月の3プログラム [鑑賞メモ] と合わせて5プログラム。 田坂 具隆 『愛の町』 (日活太秦, 1928) に出会えたのは良かったのですが、 田坂 具隆 監督作品を3本 (うち1本はダイジェスト版) しか観られませんでした。 戦前日本映画はここ10年余り現代劇映画中心にそれなりに観てきましたが、松竹がメイン、次いでPCL/東宝で、それ以外はあまり観られていませんでした。 この上映企画で日活や新興キネマの映画を観て、少し幅を広げることができたでしょうか。
この日曜にあった兵庫県知事選挙で、パワハラなどの内部告発を巡り県議会で不信任決議を受けた知事の当選が確実になりました。 まさか、アメリカ大統領選挙と同じような流れになるとは。言葉もありません。
11月上旬はドイツ出張。 過密スケジュールだったのですが、最終日8日は帰国便待ちで2〜3時間の余裕があったので、Frankfurt 旧市街の散策。 Kleinmarkthalle でランチした後、 近接してある現代美術館 MUSEUM MMK (Museum für Moderne Kust) を覗くも展覧会はやっておらず、 Gallusanlage 公園に面した高層ビル内にある TOWER MMK を案内されたので、そちらへ。
Metzger は1926年ドイツ・フランケン地方のニュルンベルグ生れながらユダヤ系のため1939年に最後の Kinderstransport (ナチス支配地域からの子供たちの組織的な救出活動) でイギリスへ。 戦後に Fluxus にも近い位置で活動した作家で、 1960年に提唱した Auto-destructive art (自動破壊芸術) は、 Ealing Art Collage 時代に彼に師事した Pete Townshend のロックバンド The Who の破壊パフォーマンスの着想源としても知られます [NME Japan の記事]。
そんな背景から、お騒がせ荒っぽいパフォーマンスを記録したドキュメントを中心とした雑然とした展示を予想したのですが、むしろ、会場はスッキリ。 最初期のドローイングに始まり、ユダヤ系の背景を持つ作家らしくホロコーストを題材としたコンセプチャルでミニマリスティックなインスタレーションなど。 ボコボコにした自動車 “Kill The Car” (1996) など、らしい作品もありましたが、むしろ、結果として現代アートのトレンドに沿うような作風。 Auto-destractive art の腐食する物体をとらえた写真や動画なども、むしろ、同時代の抽象表現主義 (Abstract-Expressionism) にも近いものを感じました。
Metzger の作品をまとめて観る機会など日本では滅多になさそうなので、観てよかったでしょうか。 伝説的に言われていることを通して知ることと実際に作品を観ることの違いを実感した展覧会でした。
MUSEUM MMKからTOWER MMKへは、せっかくなので、中世の雰囲気の残る Dom St. Bartholomäus (大聖堂) や Römer Platz を経由しつつ。 展示を観た後は hauptwache 駅まで Goethe Haus、 Die St. Katharinenkirche と Johann Wolfgang von Goethe 聖地巡礼 (生家と洗礼した教会)。 のふりをしつつ実は『アルプスの少女ハイジ』聖地巡礼 (クララの家のモデルとハイジが登った教会の塔)。 時間がなく前を通過しただけですし、教会は外装修復中でしたが。
ドイツへ往路の機中で映画 Alex Garland: Civil War 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 (DNA Films / IPR.VC, 2024)。 近未来、分断が進むアメリカ合衆国で、テキサスとカリフォルニアからなる西部連合と政府軍の内戦を戦場カメラマンの視点から描いた映画です。 内戦となった経緯・背景が全く描かれないのですが、 テキサスとカリフォルニアという正反対の性格の2州が連合するという設定からして、 その推測すら排除して、内戦という状況のみにフォーカスします。 その結果、登場人物へ降りかかる災害のように内戦を扱った災害映画のようでした。 映画中に Lee Miller への言及があり、dOCUMENTA(13) [鑑賞メモ] を少し思い出したりもしました。
そんなアメリカは11月5日の大統領選挙で Donald Trump が大差で勝利し、次期大統領として再任されることに。 世界状況はまだまだ先の見えない状況が続きそうです。
先週末の土曜は、京橋の後は与野本町へ移動。この公演を観てしました。
Chaillot - Théâtre national de la Danse 芸術監督 Rachid Ouramdane の今回の来日では、 2022年来日公演でのCompagnie XYとのコラボレーション Möbius [鑑賞メモ] に続き、 アクロバットのパフォーマンスを使った作品を上演しました。 それも、2名の女性フライヤー (上でバランスを取ったり投げられたりする役) を含む8名のアクロバット・パフォーマーに、 ハイライン (highlining) とフリークライミング (free climbing) という2種のエクストリーム・スポーツのパフォーマーを1名ずつ加えた編成です。 ハイラインは崖の間のような長距離高高度の2点間に張った幅数センチのベルト (スラックライン / slackline) の上を歩いて渡るもので、 フリークライミングは安全確保目的以外で人工的な支点を使わずに岩壁を登るというものです。
舞台後方にはボルダリング (bouldering) 用のホールドが配された白い人工壁面が立ち、 高さ5m程の所に上手前方から下手後方へスラックラインが張られていました。 ハイライナーの1名は終わり近くを除きほぼスラックラインの上でしたが、 フリークライマーの女性1名はアクロバット・パフォーマーたちと入り混じり、 フリークライマーもフライヤーになったり、アクロバット・パフォーマーもボルダリングもこなして、パフォーマンスを繰り広げます。
人工壁面はビデオ投影用スクリーンとしても使われ、 最初に、自然の中の極限的な環境でハイライニングする様子を捉えたビデオが投影され、 パフォーマンスの動機や最中の感覚などの証言が (日本語吹替で) 流されます (証言はビデオ中のパフォーマーのものですが、舞台上のパフォーマーは別の人です)。 その映像の後、それを受けるかのように、スラックライン上のパフォーマーと アクロバット・パフォーマーたちが触れ合いそうで届かないようなパフォーマンスが繰り広げられます。 中盤にはビデオ投影なしでフライヤーの証言が舞台上のフライヤー1名 (やはり証言者と舞台上のパフォーマーは別の人) の静かな身振りを重ねつつ流される場面が、 後半にはフリーフライミングする映像を投影しつつその証言が流される場面がありました。
アクロバットのパフォーマンスでは、フライヤーを投げる技、壁面のボールドから飛び降りる技も使いましたが、力強くダイナミックに大技を見せるような技の使い方はせず、 むしろ、大きな動きをせずに繊細に力を加減してバランスを取っていくハイライニングやフリークライミングに寄せた動きが多用されていました。 ハイライニングやフリークライミングは大自然の中の極限的な環境の中でこそのパフォーマンスです。 ビデオでその様子は見せるものの舞台の上で極限的なパフォーマンスを披露するのではなく、 パフォーマーの証言に垣間見えるハイライニングとフリークライミングにおける意識を集中した時間の中での静かに研ぎ澄まされた感覚を、 8人のアクロバット・パフォーマーを加えてのパフォーマンスで変奏して可視化していくのを観るようでした。
3つの証言うちハイライナーとフリークライマーがポジティブな内容である一方、フライヤーの証言は失敗時のネガティヴな内容です。 また、2022年のMöbiusでは音楽としてテクスチャのような電子音が使われていましたが、 この作品では、エフェクト強めで音数少なめなフレーズを訥々と弾くエレクトリック・ギターが多用されていました。 抽象的な電子音の方が極限的なパフォーマンスと精神のスタイリッシュな表現には合ったかもしれないですが、 少々感傷的な音楽を使い、ネガティブな証言も交える所に、むしろ、パフォーマンスの中に垣間見える人間味ある奥行きを感じました。
この土曜は、午前中に新型コロナ6回目+インフルエンザの予防接種。 新型コロナワクチンはモデルナ、ファイザーは経験済なのでレプリコンを試してみたかったのですが、近場では見当たらず。 結局、5回目に続いてファイザーになってしまいました。 去年の新型コロナ5回目+インフルエンザの接種の予防接種に副反応がほとんど無かったので、今回は特に予定を空けることはせず。 午前に接種したことをすっかり忘れて、うっかり、公演後にクラフトビールの店で一杯やってしまう程度には、副反応はありませんでした。
先の土曜は、夕方に京橋に出て美術展巡りしてきました。
2017年に上野公園界隈で「東京初の野外型国際フォトフェスティバル」として開催された『T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO』ですが [鑑賞メモ]、 2000年から東京駅東側エリアでのアニュアルの国際写真祭として開催されています。 去年までも国立映画アーカイブへ行ったついでに屋外展示を観ることはありましたが、 今年はギャラリーが集積する京橋エリアの雑居ビルの部屋を使っての「Exhibition 1」「Exhibition 2」を観てきました。 今年は1974年にニューヨーク近代美術館 (MoMA) で開催された New Japanese Photography から50年ということで 「New Japanese Photography: 50 years on」という写真祭のタイトルが設定されていました。
Exhibition 1のタイトルは『NEW JAPANESE PHOTOGRAPY 1974→2024』。 この50年の日本写真史を辿るものではなく、50年後の「今」を切り取る企画です。 明示的なやり方ではなく歴史的な経緯のある箇所をコンセプチャルに撮る「くにをあるく」、より形式的な作風の「象ることの意味」、ドキュメンタリ的な「分からなさを分ける」の3部構成でしたが、 やはり「象ることの意味」が好みでした。 中でも、変化がある箇所を差分情報としてデータ化する動画のエンコーディングの特徴を使い 動きのある箇所だけブロックノイズのある動画からスチル写真を切り出した 福嶋 幸平 の作品が印象に残りました。 ブロックノイズのようなものを作品に取り込む場合、デジタル的な面を強調するような使い方が多いように思うのですが、 自然を捉えた写真に対して部分的なテクスチャ加工をするような使い方が新鮮でした。
Exhibition 2『その「男らしさ」はどこから来たの?』は、男性のみで構成された New Japanese Photography を意識し、 男性中心主義的価値観やホモソーシャル性に焦点を当てた展示でした。 この展示のキュレーター 小林 美香 による資料展示中の『「男らしさ」の広告観察』が、広告表現のステレオタイプをこれでもかと数多指摘していてとても面白かったのですが、 その面白さに他の展示が霞んでしまいました。
Exhibition 3『Alternative Visions: A Female Perspective』は、 New Japanese Photography に含まれなかった 1970年代初頭までに活動していた6人の女性写真家 (今井 壽恵, 西村 多美子, 岡上 淑子, 常盤 とよ子, 渡辺 眸, 山沢 栄子) を取り上げた展示でしたが、 会場の東京スクエアガーデン アートギャラリーがオープンしているのが平日のみで、屋外展示はパネルは観ることができましたが、メインのギャラリー展示はガラスウォール越しに見ることしかできませんでした。
束芋 はアニメーションを主なメディアとして現代アートの文脈で活動する作家です。 最近は大掛かりなインスタレーションや舞台作品でのコラボレーションに積極的に取り組んでいましたが [鑑賞メモ]、 今回はコマーシャルギャラリーでの個展ということもあってか、 壁一面のビデオ作品1点以外は 立体作品や平面作品とアニメーションを組み合わせた小規模な新作からなる展示でした。
印象に残ったのは、オブジェとアニメーションの組み合わせ、 それもオブジェへ投影した、というより、オブジェへと投影とオブジェを透過しての壁への投影の 2つのレイヤーを感じる作品でした。 例えば、『夜と赤』では、ドールハウスのようなミニチュアの家の内部に泳ぐ金魚などが投影される一方、 その向こう側の壁にはシルエットになった夜の家の中で金魚が泳いでいるのが灯りの付いた窓越しに見えるよう。 ホルマリン漬けに使うガラス製標本容器に液体や標本の動きのアニメーションを投影する『ホルマリンに聴く』でも、容器越しに淡く拡散したアニメーションが幻想的でした。 そんな、オブジェ越しのプロジェクションの妙が楽しめた新作個展でした。
先週の土曜は、晩に与野本町へ。この舞台を観てきました。
2015年以来、南仏モンペリエの国立振付センターICI-CCNの芸術監督を務める フランスの振付家 Christian Rizzo による振付作品の来日公演です。 2003, 2004, 2014年と日本で作品を上演していますが、観ておらず、今回が初めて。 作風にほぼ予備知識なしで観ました。 タイトルから物語性のある作品が予想されましたが、物語性のあるスケッチすらほとんど感じられず、かなり抽象度が高い作品でした。 インタビューによると「ダンスの「公式」な歴史と、多様な場所や時代で踊られてきた庶民のダンスを並行化してダンスにできないか」という問題意識から生まれた作品のようです。
舞台は下手後方一段高くなった所にドラムセットが2組、1脚の椅子と周辺の小物が上手前方に置かれただけ。 衣装も濃淡あれど彩度の低いほぼグレーのTシャツとパンツのみ、映像もなく、照明演出のみ。 そんなミニマリスティックな舞台上で、ツインドラム2人の生演奏で8人の男性ダンサーが踊ります。 腕を広げて、肩を組んで、手を繋いで、もしくは、後ろ手で緩くステップ踏むような動きが多用されます。 特に、腕を広げてたり肩を組んで踊るさまは、 トルコのサイベク (Zeybek)、ギリシャのザイベキコ (Ζεϊμπέκικο [zeibekiko]) はもちろん、 ノルウェーのハリングダンス (Hallingdans) なども連想されました。 しかし、視覚的にミニマリスティックな舞台に加え、 複合拍子などの民族舞踊的なリズムや民族楽器を使ったりはせず、 ドラムセットが刻むロックのイデオム強めのビートが、そんな動きを抽象化していました。
民族舞踊的な要素を鍛え上げられた身体で舞台舞踊としてショー化するのではなく、 宴席や祭、もしくは、居酒屋などで音楽に合わせてオヤジたちが気ままに緩く踊る様を、 そのささやかな楽しみ、時には、哀しみなどの雰囲気は残しつつも、 抽象化した上で舞台化したように感じられました。
先週末三連休中日の日曜は昼過ぎに町田へ。この展覧会を観てきました。
版画・印刷物を通して20世紀初頭の戦間期の欧米や日本のモダンな文化の諸相を見る展覧会です。 Gazette du bon ton のような20世紀初頭のモード挿絵本 (ファッションプレート)、 Cubism, Abstruction-Création や Surrealism などの作家グループの作家性の高い版画作品から、 ワイマール時代ドイツの Neue Sachlichkeit の社会主義色濃い風刺画、ソヴィエト・ロシアの絵本やプロパガンダ印刷物まで、 多面的にこの時代を浮かびあがらせるような展覧会でした。
戦間期の文化が好きということもあり、 Art Deco の高級挿絵本 [鑑賞メモ]、 ワイマール時代の風刺画 [鑑賞メモ]、 ソヴィエト・ロシアの絵本 [鑑賞メモ] など個別の展覧会もそれなりに観てきていますが、 所蔵作品を中心とした構成ながら、見応えある展示でした。
展示は、関係する作家の第一次大戦前 Belle Époque 期の仕事に始まるのですが、 この時代の André Hellé の L'Assiette au Beurre での風刺画の色濃い作品をある程度まとまった形で見ることができました。 また、Erik Satie: Sports et Divertissements 楽譜 Charles Martin 挿絵も見ることができました。
1923年にフランスで設立された Société des peintres-graveurs indépendants (独立版画家協会) 関連作品を集めたコーナーがあり、 この協会の設立した Jean-Émile Laboureur の20世紀初頭の版画が一つの展示の軸となっていました。 George Barbier らのモード挿絵の華美とは違った、Laboureur のモノトーンの優美さに気付くことができました。
ドイツの印刷物の中では、やはり Neue Sachlichkeit の作風のものの存在感がありましたが、 1922-1924年に発行されたドイツのモード挿絵本 Styl の展示が目を引きました。 いかにも Art Deco 期のモード挿絵ですが、他と違い Lieselotte Friedländer や Anni Offterdinger といった女性作家が活躍している点に興味を引かれました。 また、同時代の日本の雑誌として『婦人グラフ』が、元ネタの Art Goût Beauté と並置されて展示されていました。 モード挿絵本の展示の充実には、デザイナー/研究者として知られる 伊藤 和之 氏のコレクションが大きく寄与していました。
展示が焦点を当てているのは戦間期ですが、戦中戦後への繋がりを意識した最終章が設けられていました。 その中では、1933年にパリで設立され、第二次世界世界大戦勃発でニューヨーク移転し、Surrealism と Abstruct Expressionism を繋いだ Stanley William Hayter の版画工房 Atlier 17 を取り上げている点に、版画・印刷物を対象としたこの展覧会らしい着眼点を感じました。
先の週末三連休前日金曜と初日土曜は午後に京橋へ。 国立映画アーカイブでは上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』を開催中です。 田坂は、1924年に日活大将軍 (京都) へ入社、1927年に監督となり、戦後1960年代まで活動した監督です。 まずは、サイレント映画を伴奏付き (1本は弁士も) で観てきました。
溝口 健二 『滝の白糸』 (入江ぷろ, 新興キネマ, 1933) [鑑賞メモ] に続く 入江 たか子 主演作、 相手役は 高田 稔 で、スター2人の独立プロダクションによる製作です。 結婚を約束した恋人が結核に罹り自殺してしまったことを契機にサナトリウムの看護婦となった道子 (入江) と、 彼女の働く八ヶ岳・富士見高原のサナトリウムで療養していた進 (高田) の、この2人の間の愛を描いた約2時間半の長編メロドラマ映画です。
進に許嫁、後に妻となる弓子がいるということはありますし、道子へ寄せられる一方的な好意もあったりしますが、 結婚の障害となるような階級・貧富差や周囲の反対ははっきりとは描かれません。 むしろ、修道女のように生きようという道子のこだわりが2人の愛の道に塞がる苦難を作り出し、それを通して道子の気高さを描くようでした。 進をめぐる道子のライバルに当たる弓子の描写が薄く魅力的な人物として描かれておらず、 道子をめぐって進のライバルになるような男性も登場せず、恋愛の綾を演出するような展開がなく、 男女の運命のままならさ、やるせなさのようなものを感じさせません。 そんなこともあり、メロドラマとしては物足りないものがありました。
しかし、高原を疾走する汽車列車を捉える構図やサナトリウム内や後半の刑務所内での道子 (入江) を捉える構図などモダンな構図も良いですし、 高原や海岸の風景や、象徴的な花の使い方、そんな中で絵になる 入江 (特に修道女のような看護婦白衣姿) や 高田 の存在感など、 画面の美しさを堪能することができました。 当時のモダンな風俗を感じさせる要素があまり映り込みませんでしたが、舞台がサナトリウムや刑務所だったりするので仕方ないでしょうか。
『月よりの死者』は、弁士 片岡 一郎、ピアノ伴奏 柳下 美恵 で観ました。 予定されていた弁士が急病のため急遽変更での登板でしたが、そつなくこなしていて、さすがです。
現存する最古の 田坂 監督作品です。 10分のダイジェスト版ですが、断片ではなく、粗筋が追えるよう編集されていました。 恐喝しようとして金を恵まれた貧しい男がそれを契機に更生して事業者として財を成す一方、 金を恵んだ富豪は火災で没落するが、没落した一家を見つけ出し恩返しを果すという物語です。 後の『愛の町』にも繋がる雰囲気が感じられましたが、これだけでは絵や物語の面白さはなんとも言い難いものがあります。
『ペリーヌ物語』としてTVアニメーションシリーズ化もされた小説 Hector Henri Malot: En Famille 『家なき娘』 (1893) の翻案です。 満州で貧困の中で父を亡くした輝子は、日本へ帰る船上で到着する間際に母も亡くし、母の遺言に従い父を勘当した工場経営者の祖父を訪れます。 駆け落ちした両親に対する祖父の怒りを知り、輝子は身分を隠して祖父の工場で働きますが、 秘書として働く中で頑なだった祖父の心を解きほぐし、和解するという物語です。 優しさと誠意を持って接すること通して祖父の心を和らげていく過程を、 工場の劣悪な労働・生活環境と対立的な労使関係からの労使協調しての労働・生活環境改善と重ねていきます。
資本家と労働者の対立を背景に祖父と孫娘の私的な和解に工場での労使協調・労働環境改善を重ねて描くというストーリーだけでなく、 特に、職工町の火災で助けを求めて社長宅へ押しかける労働者やその家族たちの群衆の描写や、労使和解後の溌溂とした労働者たちの描写、画面の絵作りなど、 ロシア・アヴァンギャルドの映画や Fritz Lang: Metropolis『メトロポリス』 (1927) も想起させるところがありました。 1928年というほぼ同時代にこんなモダンな映画が日本で撮られていたのか、と。 しかし、労使和解はラストの大団円で象徴的に描かれ、改善された職工町は遠景のみ、ディテールが描かれなかった点は、少々物足りなく感じました。
また、ロシア・アヴァンギャルド映画にありがちな闘争のマッチョさはこの映画には無く、 むしろ、『月よりの死者』とも共通するような花を用いた演出など、 夏川 靜江 演じる輝子の可憐さ、健気さを引き立たせる描写も目立ちます。 原作にはないこの映画オリジナルのプロットですが、 祖父との和解、労使関係の改善に加えて、輝子と技師 手塚の間の恋も控えめに、しかしラストは結婚という形で絡めます。 そういう点はむしろ世界名作劇場的というか、少女小説・少女漫画的にも感じられ、そこに良さを感じました。
実は、TVアニメーションシリーズ世界名作劇場『ペリーヌ物語』 (1978) と同じ原作だとはすぐには気付きませんでした。 小学生時代 (1974-79) に世界名作劇場を観ていましたが、後に再放送などで見直す機会があった 『アルプスの少女ハイジ』 (1974)、『母をたずねて三千里』 (1976)、『赤毛のアン』 (1979) 以外は、 『ペリーヌ物語』だけでなく他の作品も言われてみればそうだったかなと思う程度でほとんど覚えていないということに気付かされました。
『更生』と『愛の町』は併映で、共にピアノ伴奏 天池 穂高 で観ました。 『愛の町』ではサイレントであることを忘れるほど没入して観て、エンディングでは思わず涙ぐんでしまいました。
田坂が助監督時代に師事したという 三枝 源次郎 の監督作品で、田坂の妻 瀧花 久子 がヒロインを演じています。 将来を嘱望された優秀な若手の蒸気機関手 森 茂 と、幼くして売られて心ならず曲芸団員となった娘 おみよ の間の、 曲芸団に おみよ を連れ戻そうとする曲芸団長や列車運行のための 茂 の職務などの障害を乗り越えていく、2人の恋路を描いています。 貧しいながらも実直で人情味も感じさせる恋路の描写に、こういう所を田坂は引き継いだのかと思うところもありました。 しかし、鐵道省の後援で製作されたという事で、やはり、運転操作なども本格的な描写で迫力のある蒸気機関車、列車を捉えた場面が、この映画の一番の見どころでしょうか。
先の『特急三百哩』の主演の、そして田坂の映画での主演も多かったという 島 の監督転身後の作品で、芥川賞受賞作の映画化です。 貧乏小説家 眞木 と妻と娘の三人暮らしをユーモラスに描きます。 全78分中現存する29分の上映ということで、コミカルな場面を集めたスケッチ集のよう。 その描写は松竹大船の小市民映画にも通じる所があるかなと思いつつも、機微を捉える繊細な日常の描写に代えて、喜劇的な表現に置き換えたように感じられました。
『特急三百哩』 と『暢気眼鏡』 は併映で、「田坂監督ゆかりの人々とその作品」という枠での上映でした。 サイレントの『特急三百哩』は伴奏 神﨑 えり で、鉄道映画ということで、『鉄道唱歌』の変奏を織り交ぜつつ、ピアノだけではなく時にピアニカも交えていました。
先週末の土曜は午後に恵比寿へ。8月に行った際に見逃していたこの展覧会を観てきました。
東京都写真美術館のコレクションに基づく展示は、写真と、それに関する写真家自身や批評家などの言葉を並置するという企画でした。 白黒もしくはカラーでも比較的彩度が低い、構図や焦点のコントロールの効いた形式的な画面作りをした、 しかし、抽象度が高いというよりかすかにナラティブが湧き上がってくるような、そんな写真が多く集められていました。 その写真と言葉の組み合わせの妙を、というより、そんな写真たちが作り出す落ち着いた雰囲気を楽みました。
構成としては、Berenice Abbott を入り口に、彼女が見出した Eugène Atget や彼女が師事した Man Ray を補助線に、それらの作風などに絡めて他も選ばれているようでした。 杉浦 邦恵 [鑑賞メモ] など以前に個展を観たこともある作家の良さを再確認したりしましたが、 今まであまり意識して観ていなかった最近の作家の良さに気付かされたりもしました。
寺田 真由美 の写真は、ミニチュアで作られたミニマリスティックでひとけの無い屋内をモノクロで撮ることで、その光の差し加減を前景として浮かび上がらせるよう。 また、陳維 [Chen Wei] の写真は、カラーながら荷物だけの待合室やガラスブロック越しの街の灯でその華やかな街の中にある虚さ寂しさを撮っているように感じられました。
この週末は仕事で潰れる可能性があったので予定を空けていて、1ヶ月余前にはそれはないと確定した後も予定を入れ忘れていました。 気になる舞台があったのに、予定が読め無いので日が近づいてから考えようと保留している間にスタックの底に沈み、すっかり忘れて見逃してしまいました。 実は、その前の週末にも同様に見逃した舞台があって、思い立った時にチケットと日程を押さえないとダメだ、と、つくづく。
先週末の土曜は午後に清澄白河へ。この展覧会を観てきました。
日本の現代美術の世界最大級のコレクションである高橋龍太郎コレクションに基づく展覧会です。 それ以前からのコレクションもありましたが、本格的にコレクションを始めたのは1990年代半ばで 「ザ・ギンプラート」 (1993) や「新宿少年アート」 (1994) といった時期から始まり、 モダニズム/シュールレアリズムというモダンアートの2つの系譜の後者にコレクターの関心があったようで、 以降は具象もしくはナラティブな作品がコレクションの中核にあるようでした。
自分も1990年代半ばの街中アートイベントを好んでいたので、イントロこそ当時の雰囲気を思い出して懐かしさもありました。 しかし、自分自身はむしろモダニズム的な系譜の作品へ興味が移っていったので、 自分にとっては疎い作家・作品が多く、1990年代以降、こんな動きもあったのかと、気付きもありました。 しかし、やはり自分の目に止まるのは菅 木志雄 [鑑賞メモ] や 東納谷 裕一 [鑑賞メモ] など、抽象度の高い作風のもの。 「菅 木志雄 の作品もコレクションしているのか」などと思いながら観ました。
『日本現代美術私観』の導入部でもある1990年代半ばの廃校舎や街中を使ったアートイベント (IZUMIWAKUやモルフェなど) に パフォーマンスを含めた作品で参加していたのを度々観ていた 開発 好明 の個展です。 今の自分の関心や好みとはすれ違ってしまった感はありましたが、 自分がチェックしなくなった2000年代以降のプロジェクトが多く、 1990年代当時観たものがこういう形で展開していったのか、と感慨深く観ました。
竹林之七妍 は女性作家7人 (間所 (芥川) 紗織, 高木 敏子, 漆原 英子, 小林 ドンゲ, 前本 彰子, 福島 秀子, 朝倉 摂) の特集展示でしたが、女性作家の特集に「竹林之七妍」というタイトルを付けるセンスは少々古くないか、と。 福島 秀子 の作品が観れたのは良かったのですが、展示されていたのは平面作品。 昔観た舞台美術・衣装デザインの展示 [鑑賞メモ] はレアで、あの時に観られてよかったと実感しました。
9月15,22日とジョージア映画をまとめて観たら、ジョージア料理を食べたくなったので、 この日の晩は目黒にあるロシア・ジョージア・ウズベキスタン料理の店Anna's Kitchenへ。 最近この手の料理からご無沙汰していたので、久しぶりに食べて楽しかった。 またいきたいものです。
日曜となった秋分の日は前日までの猛暑はおさまったもののはっきりしない天気。 そんな中、お彼岸の墓参を済ませ、昼過ぎに銀座へ。シネスイッチ銀座でこの映画を観てきました。
ロシア出身の舞台演出家・映画監督 Кирилл Серебренников [Kirill Serebrennikov] による 悪妻として知られたチャイコフスキー [Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky] の妻アントニーナ [Антонина / Antonina] を、 彼女の視点から描いた映画です。 といっても、19世紀後半のバレエ音楽で有名なチャイコフスキーの関係者の伝記的な面への興味ではなく、 2022年に観た同監督による Петровы в гриппе [Petrov's Flu] 『インフル病みのペトロフ家』 [鑑賞メモ] の作風への興味で、足を運びました。
冒頭のチャイコフスキーの葬式の場面で、弔問に来た妻に対してチャイコフスキーが蘇って罵倒する演出で期待したものの、 以降しばらくは、結婚に至るまでは少々執着が強いとはいえアントニーナのチャイコフスキーへのアプローチを中心とした描写で、比較的普通の演出の伝記映画のよう。 プーシキン [Александр Пушкин / Alexander Pushkin] の小説を原作とする チャイコフスキーのオペラ Евгений Онегин『エウゲニ・オネーギン』 (1879) における タチアーナ [Татьяна] とエウゲニ・オネーギンの関係を踏まえているかなと思いつつ、期待したものとは違ったかもしれないと感じました。
アントニーナハ憧れの人チャイコフスキーと結婚できたものの彼は同性愛者で、結婚生活は形式的なものとなり、ついにチャイコフスキーはアントニーナを遠ざけます。 そうなってから、少しずつ長回しで現実と妄想を行き来するような表現の割合が増えて行きます。 映像の中のアントニーナは社会的な自立の選択肢がほとんどない当時の女性の立場の中で可能な選択をしているようでありつつ、 映像演出を通して彼女が精神的に壊れていく様を描くよう (実際、アントニーナは晩年を精神病院で過ごすこととなった)。 ラスト近くの狂気のコンテンポラリー・ダンス的な身体表現による演出など、舞台演出もする監督ならではでしょうか。
チャイコフスキーが同性愛者であったというタブーに触れているということが話題になりがちですが、 描写の中心はアントニーナで、同性愛者であることは形式的な結婚生活の前提として使われる程度。 むしろ、少々妄執的な面のあったアントニーナが当時の女性の置かれた立場と不幸な結婚の中で壊れていく様を主観的な映像を通して体験するようでした。
先週末土曜午後は、先々週末に続いて渋谷円山町へ。 渋谷ユーロスペースで開催中の 『ジョージア映画祭2024』で、 『母と娘−−ヌツァとラナ』と題されたプログラムの4作を観てきました。
1930年代後半ソビエト大粛清の際に父が銃殺、母が流刑となり、街に一人取り残された娘と流刑地での母の体験を描いた劇映画です。 監督のლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze]も大粛清の際に父が銃殺、母が流刑となっており、 タイトルは母ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze]の流刑先での体験に基づく短編小説のタイトルから撮られています。 監督は母が流刑の間、叔父の元で暮らすことができたようですが、 この映画では娘は赤軍将校と暮らすことになり、その将校も粛清され、孤児院へ行くことを決意して終わります。
大粛清の大状況を群像劇的に描くのではなく、 女性受刑者たちを収容してくれる収容所もなくペチョラ川 (シベリアではなくバレンツ海に注ぐヨーロッパ・ロシア北部の川) 沿いを彷徨う母の視点と、 両親がいなくなった後に家に来た赤軍将校に追い出されることなく奇妙な同居を続けることになった娘の視点の、2つのミクロな視点から大粛清の辛い体験を静かに映像化します。 大粛清の犠牲者として挙げられる政治家、軍人、芸術家は男性がほとんどですが、流刑地での女性を描いているという点、 それも、有力な男性の囚人の情夫になるなどの男性的な視点ではなく、女性たちが流刑地でいかに尊厳を保って生きたかを描くところは、さすが女性の監督ならではでしょうか。 一方、娘と赤軍将校の同居の描写では、文化的にも豊かさを感じさせる娘一家の生活と、農村出身の赤軍将校の貧しかったであろう生い立ちが窺われる描写が多く、 そんな所にも大粛清の背景を見るようでした。
流刑先のペチョラ川の最後の場面で、女性受刑者たちはワルツを踊るのですが、そこで使われる音楽は Johann Strauss IIの “An der schönen blauen Donau”。 ელდარ შენგელაია [Eldar Shengelaia] 監督の映画 მრავალჟამიერ [Mravalzhamier] 『ムラヴァルジャミエル三部作』 (2022) 中の『井戸』[ჭა / Cha] でもこの曲が使われていましたが[鑑賞メモ]、ジョージアで何か象徴的な意味のある曲なのでしょうか。
ლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze] 監督の過去の自作の場面を 映画監督だった母 ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] との関係の視点から抜粋しつつ、 また、埋もれていた母の映画の発掘の経緯や、発掘された映画の一部の抜粋を交えつつ、 母と自身の歩みを振り返るドキュメンタリー映画です。 映画的というよりARTEで放送/配信されそうなしっかりとした作りのドキュメンタリーで、 背景に疎かったこともあり、前に観た『ペチョラ川のワルツ』や、後に観た『ウジュムリ』、『ブパ』の理解の助けに大いになりました。
ソビエトの最初の女性監督と言われる ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] のサイレント劇映画です。 舞台はジョージア西部サメグレロ [სამეგრელო / Samegrelo] 地方のマラリアが猖獗する低湿地で、 タイトルはそこに住むとされた伝説の悪霊の名から採られています (ここではマラリアもこの悪霊の名で呼ばれています)。 当時のソビエト映画らしく、新世代にあたる低湿地に干拓開拓に取り組む青年団と旧世代に当たる伝統的な生活や伝説を重んじ開拓を妨害しようとする地元の名士だった人々との対立と、新世代の勝利、旧世代の謝罪と新世代の赦しを描きます。 新世代を代表するのは実家は貧しいながら青年団を率いるリーダーとその妻、旧世代を代表するのはリーダーの義父やその老母です。 義父や老母の仕掛けた罠にかかりリーダーが沼にはまって死にかけるも、妻や青年団の仲間の活躍で救われるというのが、映画のクライマックスです。 1934年作ということで、まだ、クロースアップや極端な構図を使ったアバンギャルド色濃い作風ですが、 Carl Theodor Dreyer: La Passion de Jeanne d'Arc 『裁かるゝジャンヌ』 (1928) [鑑賞メモ] を思わせる顔のクロースアップの多用が、特に印象に残りました。
『ウジュムリ』の前に撮られた、 ジョージア・ラチャ [რაჭა / Racha] 地方のコーカサス山脈の山深い山村を捉えたサイレントのドキュメンタリー映画です、 タイトルはこの地方にある氷河の名前から採られています。 山の斜面での農作業や農閑期のコーカサス山脈越えの出稼ぎ、土砂崩れや洪水などの天災など、厳しい山村の生活が描かれる一方、 水力発電所や保養所に象徴される近代的な暮らしがそんな山村にも着実に近付いてきている様も捉えていました。
ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] 監督は大粛清で流刑となっておりその映画は長らく行方不明となっていましたが、 娘 ლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze] の尽力もあり、 『ブバ』は2013年、『ウジュムリ』は2018年にロシア国立映画アーカイヴ Госфильмофонд [Gosfilmofond] で再発見されました。 今回はデジタル修復され Giya Kancheli の音楽が新たに付けられたものが上映されました。 そのアナログおぼしき電子音も交えた音も興味深くありましたが、画面の雰囲気と比べ現代的な音に違和感もありました。ピアノ伴奏の方がすんなり観られたかもしれません。
先週末三連休中日の日曜は午後に渋谷円山町へ。 渋谷ユーロスペースで開催中の 『ジョージア映画祭2024』で、 『ギオルギ・シェンゲラヤ監督と「ピロスマニ」』と題されたプログラムの3作を観てきました。
გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] 監督の劇映画第1作です。 都会に住む男が、旧弊な祭と聞くカヘティ [კახეთი / Kakheti] 地方のアラヴェルディ修道院 [ალავერდის მონასტერი / Alaverdi Monastery] の祭を訪れ、 祭に参加していた人の馬を拝借して野を駆け回ることで祭に一旦は騒動をもたらすが、 その後、修道院からのカヘティ平原の眺めを観て人々の営みに覚醒する、という物語です。 祭の場面は実際の祭の中で主人公の目付きの鋭い男が歩き回る形で撮影され、そこにナレーションが付けられます。 祭の中で感じる疎外感を説明的ではない詩的な映像で昇華させたような映画でした。
გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] の兄 ელდარ შენგელაია [Eldar Shengelaia] による、 近年に亡くなった3人に捧げた1作20分程度の3作からなる短編集です。 タイトルの მრავალჟამიერ [Mravalzhamier] は長寿を讃える伝承歌から採られています。 1作目『井戸』[ჭა / Cha] は映画監督 მიხეილ კობახიძე [Mikheil Kobakhidze] に捧げられ、 昔ながらの風情の街中で水の来ない井戸を掘る8時から進まない時間を描く不条理をユーモラスに描いています。 最後に井戸から水が湧く所で音楽に Johann Strauss II の “An der schönen blauen Donau” が使われます。 2作目『歌』[სიმღერა / Simghera] は ანსამბლი რუსთავი [Ensemble Rustavi] の ანზორ ერქომაიშვილი [Anzor Erkomaishvili] に捧げられたもので、 伝統的な地声合唱で歌を贈りに結婚式へ行ったら戦場になっていたが、その中で戦闘を止めるかのように歌うと話です。 映画中では結婚式のための新曲といった扱いでしたが、歌われるのは ხასანბეგურ [Khasanbegura] という伝承歌です。 3作目『小鳥』 [ჩიტები / Chetebi] は弟 გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] に捧げたもので、 解き放った保護していた小鳥たちがアラヴェルディ修道院の周囲を飛び回ります。 いずれも不条理な現実と幻想が風刺の効いたユーモアと共に交錯する作風ですが、不条理なユーモアが効いた『井戸』が最も好みでした。
19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したジョージアの画家 ニコ・ピロスマニ [Niko Pirosmani / ნიკო ფიროსმანი] の伝記映画です。 貧しい農家出身で正規の美術教育は受けず放浪しながら酒場などの看板絵などで収入を得ていたことで知られる、 同時代の Henri Rousseau などの並んで Примитивизм [Primitivism] や Naïve Art の文脈に置かれる作家です。 そんなピロスマニに関するエピソードを、アーティスト的な内面を掘り下げるのではなく、 正面性、対称性の強い様式的な画面作りと、断片的なエピソードを重ねていくような構成で、映画化しています。 様式的な画面作りに、 絵となった場面や描かれた経緯をエピソードの積み重ねが加わり、彼の物語を追うのではなく、画集を繰るようでした。
先の週末土曜の夕方、有楽町から初台へ移動して、会期末になってしまったこの展覧会を観てきました。
1960年代末から活動し2020年に亡くなった日本の服飾デザイナー 高田 賢三 の回顧展です。 年表やそれに関連しての資料展示はありましたが、衣装展示は1970年代、1980年代の2コーナーのみ。 衣装展示で焦点を当てられた、パリに進出した1970年以降、KENZOブランドがLVMHに買収された1993年より前の間が、やはり創作のピークでしょうか。 自分が服飾デザインに興味を持つようになったのは1980年代ですが、 黒白を基調とした comme des garçons や Y's (Yohji Yamamoto) とは対称的カラフルなブランドという印象がありました。 自分の好みは前者ということで、当時、KENZOの服はほとんどチェックしていなかったのですが、 今回、展覧会で見直して、花柄使いも特徴的な欧州のフォークロア (民族衣装) を引用再構成したものと気付かされました。 ファッション展ではありがちではあるののですが、メンズの展示がほぼなかったのも、このデザイナーのボジションを示しているように感じられました。
2021年まで『オープン・スペース』と銘打っていたアニュアルのグループ展の2024年版です。 印象に残った作品は、 香港出身の Winnie Soon による «Unerasable Characters» (2020-2022)。 低い書架に大きく投影されたランダムに見える文字などスタイリッシュなインスタレーションに SNS, マイクロブログに対する検閲の問題を浮かび上がらせていました。 古澤 龍 の《Mid Tide #3》 (2024) は、 高谷 史郎 の《toposcan》 (2013) にも一見似ているのですが、 しばらく眺めていると、走査してフリーズさせるかのような《toposcan》とは異なり、 波動を動きがあるままに圧縮伸張していくところが面白く感じられました。 Ravel: Bolero の81種類の演奏 (interpretation) 音源をぼやけた音像に組み上げた 木藤 遼太《M.81の骨格——82番目のポートレイト》 (2024)、 郊外や埋立地の工事現場をパフォーマンスに使う舞台のように象徴的にギャラリー内に再構成した 青柳 菜摘+細井 美裕 《新地登記簿》(2024) なども、印象に残りました。
9月中ばになれど猛暑日近い暑さの土曜は、先週末に続き、昼過ぎに有楽町へ。 今度はこの公演を観てきました。
ドイツ Pina Bausch Foundation とイギリス Sadler’s Wells が セネガルの伝統舞踊とコンテンポラリーダンスの学校 École des Sables との共同制作した アフリカ13カ国35名のダンサーによる Pina Bausch: The Rite of Spring [Le Sacre du printemps] 再演です。 2020年にコロナ禍で公演中止になり2021年に初演、やっとの来日公演です。 オリジナルの Tanztheater Wuppertal Pina Bausch の上演は映画 Pina で [鑑賞メモ]、 この再制作版はセネガル・ダカールの砂浜での上演を Sadler's Wells の Digital Stage で [鑑賞メモ]、 それぞれ観る機会がありましたが、上演を生でみるのは初めてです。
ブラックボックスな舞台での上演では砂浜での上演のような色彩の逆転の妙はなく、むしろオリジナルの上演に近い印象です。 良席が取れなかったこともあるかもしれませんが、迫力という点では映画/映像の方が上だったかもしれませんが、ライブならではの生々しさがあります。 若々しく力強く踊るダンサーたちの資質もあるかもしれませんが、 犠牲になる側の壊れやすさというよりも、むしろ、暗示的な男性の女性に対する暴力性や凄惨さの方の印象を受けたパフォーマンスでした。 Pina Bausch の振付・演出は男女に分かれての構成が多いのも、その一因かもしれません。 生で観られたという感慨はありましたが、 そのミニマリスティックな衣裳デザインもあってか、アフリカ内とはいえ13カ国から集められたダンサーの多様性が捉え難かったのは、惜しかったでしょうか。
The Rite of Spring は休憩を挟んだ後半で、前半はソロダンス2作。 まずは、Tanztheater Wuppertal Pina Bausch のゲストダンサーだったこともあるという Eva Pageix による Pina Bausch の最初期のソロ作品 PHILIP 836 887 DSY。 Pierre Henry の往年の電子音楽を使ってのアブストラクトな小品で、こんな作品と作っていた時期があったのかと、感慨深く観ました。 続いては、École des Sables を主宰するアフリカにおけるコンテンポラリーダンスの先駆者的存在である Germaine Acogny のソロ。 踊りといういうより、静かな身振りとナレーションされる言葉を通して厳しい時代を生きた祖先への祈りの儀式を見るかのようでした。
先週末の土曜、有楽町へ出たついでに、7月に観た東京国立博物館での展覧会の連携企画が銀座で始まったので、それを観てきました。
展示に使われているモチーフなど、東京国立博物館との共通点も多く、第四会場的な位置付けもあるのでしょうか。東京国立博物館との間のシャトルバスも運行されていました。 例えば、8階ギャラリー上に張り出した9階から吹き抜け越しに望むブロックガラスの壁の上に貼られたチラチラを微かに光って見える直径1 cmほどの鏡 (向かい合わせの白壁にも同じ鏡が貼られている)、 北側のギャラリーの大きな台の上に置かれた5 cmほどの八角形の鏡の上に置かれたケシ粒大の白い物体、 宙の浮くような色の玉に当てたスポットライトが作るぼんやりとした丸い影など、 こちらの展示の方が、展示の中から細やかな煌めきを探すような楽しみ方ができました。 また、観他のがちょうど18時前後の日没の時間帯で、ブロックガラス越しの外光の、明るい夕陽から夕闇と広告看板などの明かりへの、移ろいを感じました。 自然光の入る第二会場も、日没頃の時間帯の方が良いのかもしれません。
9月に入っても猛暑日近い残暑になったこの週末の土曜は、昼過ぎに有楽町へ。 今まで予定が合わずに見逃してきましたが、今回で4年目となる音楽映画の上映企画 Peter Barakan's Music Film Festival 2024 が開催中されているので、 今回、以下の2本を観てきました。
サウンディ (Soundie) は1940年から1946年にかけてアメリカで製作された1曲約3分間の短編音楽映画です。 バーや食堂に置かれた映像ジュークボックスとも言えるパノラム (Panoram) と呼ばれるコイン投入で16 mmmフィルムをリア投影する装置で上映するためのコンテンツでした。 そのアメリカ議会図書館 (Library of Congress) のコレクションを修復したものを、 アメリカ Kino Lorber が Soundies: The Ultimate Collection として配給しています。 その全200曲10時間の中から、Peter Barakan が選んだ主にブラック・ミュージックのサウンディ30曲が上映されました。
登場するのは Count Basie, Cab Calloway, Hoagy Carmichael, Nat King Cole, Dorothy Dandridge, Duke Ellington, Sister Rosetta Tharpe, Louis Jordan など。 全員女性のジャズ・バンド International Sweethearts of Rhythm のものもありました。 音楽スタイルとしてはスイング時代のジャズやブギウギ、ゴスペル、ジャンプ・ブルースやその混交といったものですが、 当時の映画やジャズの位置付けでもあると思いますが、エンタテインメント色濃い作りです。 ミュージックビデオの先駆と言われていますが、演奏風景の使い方やダンスや演劇的演出を交え方にそのその原点を見るようでした。 そして、それだけではなく、アーティなモダンジャズとなる前、 まだジャズがエンタテインメント色濃いポピュラー音楽だった時代を、映画館の大画面と音響を通して、生き生きとした姿で体験できました。
サウンディは第二次世界大戦開戦直後、アメリカ参戦直前の1940年から、終戦直後の1946年に作られたもので、 Louis Jordan の “G.I. Jive” や “Ration Blues” のテーマにその時代を感じましたが、 少し前にNFAJの上映企画 『返還映画コレクション (2)』で同時代の日本映画を観たところだったので [鑑賞メモ]、 全体としては戦意高揚などとは無縁な娯楽な作りという点も、印象を残しました。
タイトルからして2000年前後の動向も盛り込まれているのかと予想しましたが、 むしろ、第二次大戦後から1970頃までの欧州でのジャズの受容をアーカイブ映像やインタビューで追います。 1950年代パリでの Miles Davis との関係を Juliette Greco に語らせたり、 1960年代コペンハーゲンでの Dexter Gordon の果たした役割に焦点を当てたり、 仕事を求めて、もしくは、人種差別を逃れて欧州へ来たアメリカとのミュージシャンとの人的交流を通して、 そして欧州のミュージシャンが自身の声を見つけて欧州でのジャズを確立させる様子を浮び上がらせて行きます。 また、西欧だけでなく Joachim Kühn や Tomasz Stanko を通して当時の共産政権下東欧でのジャズの受容にも光を当てます。 書籍やライナーノーツなどを通してある程度知っていたつもりでしたが、欧州の公共放送局の豊富なアーカイブ映像が駆使され、かなり見応えありました。 ドイツ、スイス、ノルウェー、フィンランドの公共放送局が制作に加わっていますしARTEで放送されたのではないかと推測しますが、いかにもARTEで放送しそうなしっかりとした作りのドキュメンタリーです。
Christian Wallumrød, Arve Henriksen (Punkt Festivalでの映像), Gianluca Petrella (Enrico Ravaのサイドメンとして), Marcin Wasilewski (Tomasz Stankoのサイドメンとして) など、 21世紀に入って活躍するミュージシャンの演奏の映像も交えますし、 最後に ECM と Rainbow Studio の様子を捉えるのですが、 そこを深掘りすることはなく、むしろ、1970年代までの受容と消化、アンデンティティの確立の上に、 ECM やそれに強く影響を受けたそれ以降の現代欧州ジャズがあるということを示唆するようでした。
日本に接近・上陸してからの進みが遅く迷走した台風10号の影響で週後半から週末にかけて天気は荒れ気味。 しかし、土曜は午後に六本木へ出て、会期末になってしまった展覧会を観てきました。
21世紀以降、アメリカ・シカゴのサウス・サイドを拠点に現代アートの文脈で活動する、かつ、 アーバニズムを社会実践する社会企業家的な面も持つ Theaster Gates の展覧会です。 2004年に陶芸を学ぶため常滑に来日して以来、日本の文化に影響を受けたとのことで、 アメリカ公民権運動の“Black Is Beautiful”と日本の民藝運動を融合した「アフロ民藝」をテーマにしていました。
展示の前半から中盤にかけては社会実践の資料展示も含め民藝運動とは関係なく彼のそれまでの作風に焦点を当て、最後に「アフロ民藝」の作品が集められています。 貧乏徳利の並んだディスコ (Disco Tokkuri) のようなインスタレーションは組み合わせの意外さはあれど、 民藝運動と公民権運動の関係が腑に落ちるようなことはありませんでした。
むしろ、前半の「神聖な空間 (Shrine)」と題されたセクションの作品、黒人教会を思わす Hammond B-3 organ と7台の Leslie speakerb を使ったインスタレーション «A Heavenly Chord» (2022) で鳴り響くドローンや、 地域の教会の取り壊し現場で歌や楽器を演奏と廃材となった扉を打ち鳴らす様を交えてたビデオ作品 «Gone Are the Days of Shelter and Martyr» (2014) での歌とサウンドスケープの間のような音使いが、気に入りました。
展示に関係して、世界の動きや民藝運動、アメリカ公民権運動に関する年表が展示されていたのですが、 公民権運動というかアフリカ系アメリカ人に関するものが薄く感じられました。 特に、#MeToo はあるのに Black Lives Matter が載って無いというのは、この企画に合ってないのでは、と感じられてしまいました。
森美術館のコレクションを紹介する小展示では、 ベトナムの映画監督・映像アーティストによるビデオ/サウンドインスタレーション «47 Days, Soundless» (2024) が展示されていました。 天井から下げられたアームから樹状に広がるように付けられた8枚の円形の鏡を使って映像を「乱反射」させるような投影上の工夫は感じられました。 しかし、そんな映像よりも、映画から撮ったというサウンドスケープ的な音とも楽器音とも感じられるような絶妙な音空間に、 Theaster Gate の音使いとも共通するものが感じられ、そんな所に興味を引かれました。
上映を全て観たわけではないのですが、ビデオというメディアの特性に着目したというより、ナラティヴな作風のものが多いのでしょうか。 台湾の第一、第二世代のビデオアーティストが筑波大で山口勝弘の下で学んだという話に、 筑波総合造形からの流れ [鑑賞メモ] には 国境を越えたものもあったのかと、この展示で気付かされました。
展覧会タイトルのシリーズ「津波の木 (Tsunami Trees)」は 『DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに』 (国立新美術館, 2020) で観たことがありましたが [鑑賞メモ]、 大判のプリントで立木の形状の捉え方の妙を久々に楽しむことができました。 高知の津波避難タワーを捉えた新作シリーズ「Kochi」は、小さめのプリントを15×2で30枚並べるという展示です。 タワーに中央に捉えつつもタイポロジー的になるのを避けるような遠近の取り方と周囲様子の入れ込み方に興味を引かれつつも、大判のプリントでどう見えるのか少々気になりました。
画廊巡りにするには猛烈に暑く、いつ土砂降りに遭うかもわからないような天気が続いていますが、 会期末の展覧会もあるので、24日土曜の午後、表参道で美術展巡りをしてきました。
横須賀市にある私設美術館 カスヤの森現代美術館 所収の Joseph Beuys のヴィトリーヌ (vitrine) 作品を3点を核に、 日本の作家6人で構成した展覧会です。 カスヤの森現代美術館を開設した 若江 も参加しており、ある意味で、カスヤの森現代美術館 の出張展示という感もあるでしょうか。 掲げているテーマとはすれ違ってしまった感があったのですが、 数ヶ月前に観た Anselm Kiefer のガラスケース入りオブジェの作品は [鑑賞メモ]、 Beuys のこの作風の影響下にある物だと今更がながら思い至ることができました。 畠山 直哉 が何を出展しているのだろうという興味もあったのですが、 当時勤めていた広告代理店SPNで1984年 Beuys 来日時の記録映像制作のディレクターの仕事をした時の、Beuys を撮った (そういう意味では作品性の低い) 写真でした。
滋賀県に縁のある現代アートや現代陶芸の作家を集めての展覧会で、こちらは 滋賀県立美術館 の出張展示でしょうか。 去年12月に『高知県立美術館開館30周年記念展 そして船は行く』を観たときに地元の縁とう切り口が新鮮で面白かったので [鑑賞メモ]、 その滋賀県版だと思いつつ、やはり都心の小スペースの展示構成では薄さを否めません。 京都、大津あたりに行った時には滋賀県立美術館へも足を伸ばしてみたいものです。 展示されていた作品は多様でどぎつい色彩だったりキッチュだったりする作風もありましたが、 掛け軸をレイヤに分解したような ミヤケマイ の作品 [鑑賞メモ]、 意味深長そうで抽象的な空間構成のようで捉え難い 保良 雄 のインスタレーションなど、 スッキリした仕上がりの作品の方が印象に残りました。
表参道のプラダ青山の6階を使っての Miranda July [鑑賞メモ] の個展です。 2020年にSNSの Instagram のプライベートチャネルを使い見知らぬ人とコラボレーションして作成した動画を、 スマートフォンと同じく縦型のアスペクト比の6面のモニターを使ってマルチチャネル上映した作品です。 親密さというか “intimacy” を主題としているようで、 コラボレーションした人が撮った映像と July の映像を重ね合わせて、性的な意味合いを含めての「親密さ」の表現 (の不可能性) を試みるかのような映像を作り出しています。 今まで観たことのある July の作品ほどにはユーモアが感じられず、むしろ少しグロテスクに寄ったようにも感じられました。
台風一過の猛暑となった先々週末17日土曜は昼に葉山へ。この展覧会を観てきました。
キャンバスに閉じない壁などへのドローイング、ペインティングなどを タイムラプスでストップモーション・アニメーションとして映像化する作風で知られる 石田 尚志 の展覧会です。 美術館規模での個展としては2015年の横浜美術館以来でしょうか。
『海坂の絵巻』 (2007) の長い紙に連なるインクの流れにはじまり、 部屋の壁だけでなく床にまで広がる塗料のドリッピング、飛沫、渦巻き流れるようなイメージが展開する映像がメインだった2015年の展覧会『渦巻く光』に対し [鑑賞メモ]、 今回の展覧会は、今回は窓から差す光に着想したものをメインに構成。 時間と共に壁や床を揺らぎ移ろう日差しを塗料を使って重層的に固着させるかのように、そして、消えていくような映像を作り出していきます。 差し込む光と塗料で描かれたイメージの関係、窓と対比するかのように額無しのキャンバスや描かれた方形の関係も、 連続的に変容したり飛躍したりとトリッキーな面白さもあります。
2022年で六本木で観た木製ボードを使って空間に作り込みをしていく作品『庭の外』 [鑑賞メモ] も展示されていたのですが、 こちらは、広めな空間に展示されたせいか、少々疎らに感じられてしまいました。
映像作品以前の1980年代から1990年代の絵画作品も展示されていました。 展覧会の企画からその傾向のものが集められていたのかもしれませんが、 矩形の構造と光の動きを感じる作品が目に付き、抽象表現主義的な絵画のアニメーションというか、絵画作品と映像作品との間の連続性が感じられました。
展覧会を観た後、小一時間余裕があったので、美術館の南隣にある 葉山しおさい公園へ。 度々美術館へ行っていたのに、実は入るのは初めてでした。 神奈川県立近代美術館 葉山 は高松宮邸跡地ですが、こちらの公園は葉山御用邸付属邸跡地。 ということで、池や滝のある日本庭園や眺めのよい黒松林などが残っていました。 散策していると、暑さも少し忘れます。
公園敷地内にある葉山しおさい博物館にも入ったのですが、 葉山町の郷土博物館と思いきや (もちろんそういう面もありますが)、 昭和天皇御下賜標本もあり、かなり本格的な海洋生物博物館でした。
隣の美術館のように現代的な公園と博物館として整備されたのかと思いきや、葉山御用邸付属邸の「癖」を強く残していたところが、面白かったでしょうか。 今回は猛暑で庭も長居はできず、小一時間で軽く流しましたが、これからも葉山の美術館ついでに立ち寄りたいものです。
葉山の後は、夕方に鎌倉かつら小路へ移動。 鎌倉カフェ・アユーでJun Morita Five Hours Drone Live Set。 途中夕食に抜けた2時間弱があるので約3時間、気持ちよく鳴り響く音響を堪能しました。 少し聞くことができた Nigerian Guitar Roots 1936-1968 (El Sur, 2024) マスタリング裏話も興味深く。 楽しい晩も過ごすことができ、充実の一日でした。
先週金曜は午後は恵比寿の東京都写真美術館で展覧会を観た後は、恵比寿ガーデンシネマへ移動。 アイルランドのアニメーション・スタジオ Cartoon Saloon の25周年に合わせ 『カートゥーン・サルーン25周年特集上映』が開催されたので、 見逃していた長編第1作を観てきました。
Song of the Sea (2014) [鑑賞メモ]、 WolfWalkers (2020) [鑑賞メモ] に先立つ Tomm Moore による “Irish Folklore Trilogy” 「ケルト三部作」の第1作です。 また、The Breadwinner (2017) [鑑賞メモ] の Nora Twimoy が Co-Director を務め、 また、Tout en haut du monde (2015) [鑑賞メモ] や Calamity, une enfance de Martha Jane Cannary (2020) [鑑賞メモ] の Rémi Chayé が storyboard としてクレジットされており、 2010年代以降のヨーロッパの長編アニメーションの源流の1つとも言える作品でもあります。
8世紀に制作されたとされるアイルランドに伝わる聖書の装飾写本 Codex Cenannensis [The Book of Kells] 「ケルズの書」に着想し、 修道院へのバイキング襲撃が頻発していた当時の状況を背景にしつつ、アイルランドの修道院での「ケルズの書」成立を、 主人公である少年僧 Brendan が「ケルズの書」を完成させるまでの英雄冒険譚 (映画オリジナルのフィクション) として描きます。 修道院長である叔父の Cellach 院長との確執、メンターとなる修道士 Aidan とその写本との出会い、白狼と少女の姿を行き来する森の妖精 Aisling と交流しつつ、 バイキング襲撃やクロム・クルアハ (Crom Cruach) との戦いを通しての Brendan の成長を描くという、 特に第3作 WolfWalkers と比べかなりベタな英雄譚です。 しかし、特に妖精 Aisling の造形など WolfWalkers の原点を観るようでしたし、 Cartoon Saloon の動く絵本のような美しいアニメーションの原点に装飾写本があったということを実感することができ、 とても興味深くかつ、その美しいアニメーションを十分に楽しむことができました。
東京都写真美術館は地下1階だけで、2階3階の展覧会は観ていなかったのですが、この日はパス。 公共交通機関に台風の影響が出ていないうちに、と、そそくさと帰宅したのでした。
先週金曜は発達した台風7号が関東に接近。 午前中こそ激しい雨が降りましたが、昼には雨風も大人しくなりました。 思い立って、一日自宅避難の予定を変更し、昼過ぎに恵比寿へ。この展覧会を観てきました。
1980年代からメディアアートの文脈で活動する 岩井 俊雄 の作品と、 主に東京都写真美術館所蔵のマジックランタンやゾートロープ (zoetrope) など19世紀の映像装置を組み合わせての展覧会です。 岩井 俊雄 は マジックランタン、カメラオブスキュラ (camera obscura)、フェナキストスコープ (Phenakistoscope) やゾートロープの仕組みに着想しつつ、 ストロボ光源としてTVやプロジェクタを使用したり、ストロボの代わりにステッピングモーターを利用した作品を多く作ってきています。 そのような作品を並置し、 いわいとしお 名義での人気の絵本 『100かいだてのいえ』シリーズ (2008-) の絵をナビゲーションに使うことで、 子供の観客にも親しみやすいよう19世紀映像装置のコレクションを工夫して展示していました。 1年前にも『TOPコレクション 何が見える? 「覗き見る」まなざしの系譜』という展覧会をやっていましたが、 映像装置コレクションの展示に試行錯誤を感じます。
しかしそのような工夫よりも、岩井 俊雄 の最初期の作品、 ブラウン管TVをストロボ光源として使用して回転する絵や立体をフェナキストスコープのようにアニメーションとして見せる 《時間層 I》 (1985)、《時間層 II》 (1985)、《時間層 III》 (1989)、 そしてTVの代わりに三管式プロジェクタを使った《時間層 IV》 (1990) という一連の作品をまとめて観られたのが収穫でした。 最近の高性能な映像機器を使った映像インスタレーションと比べるとプリミティヴさは否めないですが、 その映像機器の時代を感じるという点でも興味深く観ることができました。 製品として調達も保守も困難なブラウン管や三管式プロジェクタを使った作品を動態で観られるというのは、ありがたいものです。 比較的初期の作品『映像装置としてのピアノ』(1995) も久しぶりに観ることができました [鑑賞メモ]。
実は、この展覧会で、岩井 俊雄 が絵本作家 いわいとしお として活動していることを知りました。 自分にとって 岩井 俊雄 といえば『ウゴウゴルーガ』ですが、 絵本が大きくフィーチャーされる一方、『ウゴウゴルーガ』が全く触れられていなかったのは、やはり、権利関係もあったりしたのでしょうか。
恵比寿でランチするつもりだったのですが、台風のため臨時休業した店が多く、ランチ難民になりかけました。 暴風、大雨災害に厳重に警戒を呼びかける台風情報が出ていたので、こればかりは仕方ありません。
先週末土曜10日は、昼に三軒茶屋へ。この舞台を観てきました。
カナダ・ケベック州のサーカス・カンパニー Le Gros Orteil による、クラウン (道化) の一人舞台です。 舞台には下手にポール、中央に本棚、上手に事務机、さらに脇にビートボックスやエフェクタの小机。 空想に耽りがちのダメ司書くん Émile が図書館開館前の準備する様を、 スラップスティックなコメディの合間に、 チャイニーズポール、ヒップホップ・ダンス、ビートボクシング、シガーボックス・ジャグリング、ディアボロなどの技を交えて行きます。
ちょうど前日に観たエノケンの映画『兵六夢物語』の兵六も空想癖のあるダメ男だったなと思いつつ [鑑賞メモ]、 こういうスラップスティック・コメディ定番の枠組みを使い、 空想の場面を活かした技の見せ場とコメディ・リリーフでメリハリを付けて、約1時間のショーとしてまとめ上げていました。 夏休みの親子向けプログラムということで、客席には親子連れが多くいましたが、 そんな客席から上がる歓声や笑い声も含めて雰囲気の良いエンターテイメントでした。
9日金曜は晩に池袋西口へ。この公演を観てきました。
中村 蓉 による、1970年代にテレビドラマのシナリオライターとして活躍した 向田 邦子 に着想した舞台作品ダブルビルです。 小説『花の名前』 (1980) に基づく作品のリプロダクションに続いて、 休憩を挟んでエッセーに着想した作品『禍福はあざなえる縄のごとし』という構成でした。 TVドラマを観る習慣が無く 向田 邦子 との接点はほとんど無かったのですが、 『ジゼル』 [関連する鑑賞メモ] が面白かったですし、 コンテンポラリーダンスではあまり取り上げられなさそうな題材をどう扱うのかという興味もあって、足を運んでみました。
『花の名前』は、福原 冠 が小説の一部を朗読しつつ、舞台が進みます。 マイムで場面を描写したり、ダンス的な動きで象徴的に心情を表現したり、と、 説明的というほどでは無いものの身体表現の使い方もストーリーに沿ったもの。 小説の朗読があるせいか、ナラティブなダンス作品というより、身体表現の要素の強い演劇という印象の強い作品でした。
後半の『禍福はあざなえる縄のごとし』はエッセーに基づく作品ということもあり、 明確な物語的な展開はなく、導入など「向田邦子」という文字の形に着想したところから入ります。 TVドラマのテーマも含めて具体的な音楽も使われますし、 前半で演じられた『花の名前』などもコラージュされるかのように舞台上に立ち現れますが、 エッセー中で着目したいくつかのエピソード (例えば、手袋を探す) をベースに、 それを字幕などで掲げつつも、エレクトリックな音楽や体操的にすら感じる強い動きでエピソードに付かず離れずダンスとして変奏していきます。 そういった舞台上での動きを通して、向田 邦子の創作の源泉を浮かび上がらせるようでした。
原作の言葉とダンスや音楽との距離感は『禍福はあざなえる縄のごとし』くらいあった方が好みですが、 題材が自分には縁遠過ぎて、腑に落ちたという程では無かったのも確か。 例えば終演後のトークで少し言及があった「戦後日本の家庭像」やその変遷のような、もう少し普遍性のあるものが作品の向こうに見えれば、と思うところもありました。
前日8日に日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」下での公演でしたが、 『花の名前』上演中に緊急地震速報を伴う地震が発生して、上演中断、すわ南海トラフ地震かと緊張しました。 安全を確認した上で途中から上演再開になりましたが、演ずる方もやりづらかったのではないでしょうか。 地震による公演中断というのを初めて体験しましたが、大事にならなくて良かった。
アメリカ議会図書館に残存し1967年から1984年にかけて返還され国立映画アーカイブ (当時 東京国立近代美術館フィルムセンター) に所蔵されている戦前・戦中期の映画の上映企画第2弾 『返還映画コレクション(2)――第一次/二次・劇映画篇』が、 国立映画アーカイブで開催中です [第1回の際の鑑賞メモ]。 ということで、8月9日と11日に観てきました。
日中戦争中に華北電影の提携で大陸 (北京天津などの「北支」) でのロケ撮影を含む、太田 洋子 の小説の映画化です。 父や継母と折り合いが悪く北支の戦線で宣撫官としての任務に生き甲斐を見出す 三郎 と、 許嫁同然の仲として彼を待つ 新子、女学校へ通うために親戚である三郎の家に寄宿し2人と仲の良い ヒカル の3人をめぐる、戦争や親の思惑に翻弄される恋愛を描いたメロドラマです。 男性の主役が宣撫官なだけに特に「大陸ロケ」で撮られた前半は戦中のプロパガンダ的な要素を感じる場面もありますが、 話が進むほど松竹大船らしく一人の男性を巡る二人の女性の恋と結婚の綾を丁寧に描いていました。
女性主役2名の 水戸 光子 と 高峰 三枝子 の性格付けは 『暖流』 (松竹大船, 1939) [鑑賞メモ] や 『花は僞らず』 (松竹大船, 1941) [鑑賞メモ] は共通するものがありますし、 新子とヒカルが三郎について話し合う洋館のカフェの場面や、日本へ戻った三郎が新子へ縁談のあった男と結婚するように言う砂浜の場面など、 『暖流』を意識したのではないかと思う場面絵作りも見受けられました。 スーツ姿の 上原 謙 もですが、はまり役とも言えるモダンな洋装をバッチリと決めた性格の良いお嬢様を演じる 高峰 三枝子 が、見目麗しいです。 戦地の三郎との行き違いもあって新子は母からの縁談のあった男と結婚し、 それでは三郎に密かに想いを寄せている ヒカル の方はどうなるのか、というところで、ラスト25分欠落のため「完」というのが残念な映画でした。
江戸時代の薩摩で作られたと伝わる『大石兵六夢物語』に基づく映画です。 エノケンこと 榎本 健一 演じるダメな郷士 大石 兵六 は、郷中で不始末をしでかしてしまいます。 母に諭され心岳寺に行く途中の峠道で、狐の妖怪に化かされ坊主頭にされるもののの、なんとか妖怪退治して寺に辿り着きます。 狐の妖怪を退治したことで修行は済ませたと和尚に言われ、家に戻り、薩摩藩兵として初陣に向かう、という話です。 元々は Don Quixote の話に近い風刺物と言われますし、 前半の兵六のダメっぷり、そして、峠での兵六とダメ狐の怪童女とのやり取りや妖怪との闘いのあたりまでは、英雄譚のパロディかと観ていました。 しかし、結局、自信を持ち、親を大切にし、立派な兵士となれという教訓話となってしまうのは、戦時中の映画ならではでしょうか。
といっても、ダメ男 兵六 をコミカルに演じるエノケン、 同じくダメな狐の怪童女として兵六と絡み峠で妖怪と闘う場面をコミカルに盛り上げる 高峰 秀子、 そんな怪童女との絡みや妖怪との戦闘シーンを映像化する 円谷 英二 の特撮、 化かされる中での東宝舞踏隊 (日劇ダンシングチーム) も使ってのミュージカル映画的な場面など、見どころは沢山あり、 物語はさておき映画を楽しむことはできました。 惜しむらくは、元宝塚の 霧立 のぼる 演ずるもう一人のヒロイン、兵六に密かに想いを寄せる師範の娘 お光 に目立つ場面が無かったところでしょうか。
厚生省後援による結核撲滅のための宣伝映画として作られた、丹羽 文雄 の小説を原作とする劇映画です。 継母・義兄弟と郊外 (厚木) で暮らす父とは折り合い悪く、 対外宣伝機関でタイピスト兼記者として稼いで グレ気味の弟 清 と暮らす 笙子 が主人公です。 結婚を約束した 勝彦 の出征を機に、学校時代の友人である藝者染葉が彼と恋仲にあったことを知り、それを伏せるうちに勝彦の両親とも疎遠になります。 そんな中、弟が結核に罹っていると判明し、高額な療養所入院費用を稼ぐため、 結核検査所で偶然知り合った紳士 加賀屋の経営する美術店に転職します。 しかし、加賀屋からの給金と借金が大金であることから、加賀屋との関係を勝彦の両親から疑われます。 勝彦は復員しますが、両親に言われるまま他の女性との結婚を決めます。 しかし、藝者染葉から真実を知り、決めた結婚を破談にし、借金を返すようにと金を 笙子 に渡して新たな仕事のため南洋へ旅立ちます。
さすが、厚生省後援の宣伝映画だけあって、当時の結核の検査や治療の描写が細かく、その様子を垣間見るよう。 また、結核の社会の中での位置や、タイピストや美術店主として活躍する女性など、当時の社会の様子の描かれ方も興味深く見ることができました。 しかし、島津 保次郎 ならではのさりげない日常の会話の機微を捉えるような演出が活きる場面は少なかったでしょうか。 それを期待するものでもないと思いますが、メロドラマとして見ると 藝者染葉 の描写が薄く、その点も物足りなく感じました。
先週末土曜は午後に成城学園前へ。このライブを観てきました。
フランスのjazz/improvの文脈で主に活動する Joëlle Léandre の約20年ぶりの来日です。 非公開の『Max Summer School in 藝大 2004』 のための来日でしたが、 急遽、関東一円でいくつかのライブが開催されたので、最終日の 内橋 和久 とのデュオを観てきました。 Léandre のライブを観るのも四半世紀ぶり [鑑賞メモ]。 今回は前座約30分の後、休憩の後、2回の短い区切りを入れての3曲約1時間の即興のライブでした。
Joëlle Léandre の contrabass は、アンプに繋ぐだけでエフェクト、プリペアドは無し。 全くピチカートしないわけではないものの弓弾きが主で、ネックの方を叩いたり弾いたり弦を緩めたりしつつ、鈍く擦り響く音を繰り出します。 一方の 内橋 和久 はプリペアドな electric guitar の音をエフェクト通して響かせたり、daxophone を弓弾いたり。 二人の鈍く響く音が被りがちだなと感じることが多かったので、2曲目頭のマイク仕込みの daxophone を箸で叩いたビョンビョンいう増幅された音や、3曲目頭の contrabass のピチカートでの響き印象に残りました。
会場にも50人前後の観客が入り、外は35度近い炎天で空調の効きもいまいち。
Léandre はひどく汗をかきつつ合間に「サウナのよう」と言いつつの演奏でした。
会場となった、アトリエ第Q藝術は成城学園前から徒歩5分程度、
日本画家、高山辰雄画伯の住居・アトリエを改装して2017年9月にオープンしたアートスペース。行くのは初めてでした。
民家・アトリエ改装ということで趣のあるスペースを期待していましたが、
ホールは天然光は入らず剥き出しの合板で覆われた空間でした。
音響や照明をしっかり制御してのライブやパフォーマンス向きのスペースでしょうか。
前座の 浮 [Buoy] は acoustic guitar 弾き歌いの女性シンガーは初耳でしたが、
electronica 以降の繊細な音、声を使う indie folk。
違う文脈で聴けたらよかったかもしれませんが、今回は取り合わせがよくありませんでした。
7月28日日曜は、午後に横浜紅葉坂へ。この公演を観てきました。
カンパニーデラシネラ [関連する鑑賞メモ] による 松本 清張 の推理小説『点と線』 (1958) を原作とする舞台作品です。 2009年初演の改訂再制作とのことですが (初演は未見)、未見ながら初演の写真やキャストを見る限り、 舞台美術も全面的に変更し、出演者の数も公募のエキストラ的な出演者30名が加わるなど、ほぼ新演出と言って良いもののようです。
原作が推理小説ということで、さすがにセリフありで、かつ、ほぼ原作の話の流れに沿って舞台は進みます。 一人複数役で役が入れ替わるような時もありますが、 マイム主体で構成するカンパニーデラシネラの作風の中ではかなり演劇寄りの作品でした。 Nicolas Buffe によって描かれた可動式の正方形柱4本が、東京駅の場面での駅の柱はもちろん、 料亭、警察署、家などの壁になり、また、回り舞台も使って場面を転換していきます。 しかし、Buffe の柱を様々に見立てていくことよりも、 回り舞台、柱の動きやパフォーマーによるマイムの動きの切り替えによって、 映像表現におけるモンタージュ、カットバックのような演出を舞台上でどう表現するのかという所に、 面白さを感じました。
カンパニーデラシネラにしては大掛かりな舞台で、メインのキャスト8名に加えて公募による30名のキャストを使い、 東京駅を行き交う群衆や鉄道車両の乗客を表現していました。 この原作ではこれ以上の使い方は難しいだろうとは思いますし、これも一つの試みかなと思いますが、 背景になってしまっていた感もあって、圧倒感、不条理などマスの存在を強く感じるような場面があっても良かったかなとも思いました。
しかし、この7月最終末はダンス関連の公演が集中し過ぎ。 ほぼ毎年観に行っている座・高円寺『世界をみよう!』のサーカス・プログラムもこの週末で、今年は行けませんでした。 ダンス以外にも行きたい音楽の公演も土曜にあったのですが、ダンス公演で既にハシゴしているくらいで、どうしようもありませんでした。
27日土曜は、三軒茶屋の後、与野本町へ移動して、この公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 の劇場付きダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2023/2024シーズンの夏公演は20周年記念公演です。
ダブルビルの1作品目『Amomentof』は、20年の活動に因んだ、稽古に着想したダンスについてのダンス (メタダンス) です。 舞台には上手奥から下手前に斜めに舞台を区切るようにバレエバーに並べられ、その周りに抑えた色合いのレオタード姿のダンサーたちがウォーミングアップするかのように位置取るところが始まります。 そこから踊りが始まるのですが、稽古に着想しているだけあって求道的で地味だなと観ていたら、 バーが舞台脇や奥に下げられ、過去の公演ポスターを並べた映像が後方に投影され、ダンサーたちは過去の公演での作品の衣裳となって、華やかな群舞へと場面転換。 しかし、それも束の間、最初の場面に戻っていきました。 普段の地味な稽古の積み重ねの向こうに華やかな一瞬があることを実感させるような作品でした。
2作品目は今年春に富山県黒部の前沢ガーデン野外ステージで初演された『セレネ、あるいは黄昏の歌』。 劇場での公演ということで、縦長の白い幕を半円形並べて、最初のうちは頭上高く、後半は周囲を囲むような低い位置に下げていました。 架空の儀式を思わせる作品なのですが、儀式だけ切り出しているのではなく、その向こうにあるコミュニティのあり方を感じさせます。 特に、後半というかラスト近くの老いとそこからの再生を思わせる展開、山田 勇気 の老いの踊りに、 タイトルにある黄昏のもう一つの意味をそこに観たようでした。
開場少し前に劇場に着いた時は晴れていたのですが、開演時にガラガラゴロゴロという音が低くホールに響いていました。 その時は効果音かなと思っていたのですが、どうやら本物の雷鳴だった模様。 終演後に劇場を出たときには雨はほぼ止んでいましたが、稲妻雷鳴まだは続いてました。 与野本町駅の電光掲示も落雷の影響で調整中。公演中に落雷停電にならなくてよかった。
その前の20日土曜の立川も雷雨の被害になんとか遭わずに済みましたが、この土曜もかなり危うい展開でした。