8月24日から30日にかけてフランス・パリへ行ってきました。 観光目的ではなく、そもそもパリはオフシーズン (hors-saison) で劇場では公演していませんし、美術館も半ば夏休み状態でしたが、 合間の時間や土曜のフライト待ちの時間を使って美術館を巡ってきました。 限られた時間の中で駆け足で巡ったため、作品にゆっくり向き合ったわけではありませんが、軽く鑑賞メモ。
MAM (Musée d'Art Moderne de Paris) は、
Palais de Tokyo 西翼に入った20世紀以降現代に至る美術を対象とした市立の美術館です。
企画展は休みで、コレクション展示も三分の一近く入れ替え中でクローズで、入場無料でした。
パーマネント作品としては Raoul Dufy や Henri Matisse の壁画が有名ですが、Robert Deraunay の方が好みでしょうか。
Christian Boltanski のパーマネント作品もあるのですが、クローズドで残念でした。
コレクション作品の中でも、Daniel Buren 20作品で壁を埋め尽くした展示や、Louise Bourgeois の蜘蛛の彫刻が目に止まりました。
コレクション作品の展示は時代順に構成されていましたが、
主にフランスの作家の展示ということで特に戦後美術についてはフランス国内での潮流に沿っており、特に1960年前後以降同時代以前の New Realist / On The Fringes / Narrative Figuration / Supports-Surfaces (フランス語での表記を覚えておらず、手に取った英語のパンフレットの表記を参照) とい日本では馴染みがないカテゴリで、
おそらく日本で観る機会がなさそうな作家も多く、新鮮で興味深く観ました。
Narrative Figuration はいわゆるポップ・アート的な作品でしたが、
ミニマル・アートや日本での「もの派」に相当しそうな Supports-Surfaces の作家 (Daniel Dezeuze) が目に止まりました。
Normes Corps
Palais de Tokyo 左翼は、建物の名前をそのまま採った国立の現代美術センター (コレクションを持たないので美術館ではない) です。
こちらでは Normes Corps と題した8組の作家によるグループ展、と言うより会場が隣接した8つの個展に近いものでしたが、そんな展覧会を展示していました。
いずれもいかにも現代美術らしいインスタレーションでしたが、
Joseph Grigely: This Is Where We Are がコンテンポラリーな舞台作品のセットを見るようで、ドラマが立ち上がりそうな雰囲気が気に入りました。
YBA直前頃のイギリスの作家 Cathy de Moncheauxのひと世代前のフェミニスティックな作風を懐かしく思ったり、扇風機並べた Jesse Darling や光を意識した Benoît Piéron なども、興味深く観ました。
パリ北西 Bois de Boulogne (ブローニュの森) に2014年にオープンした、ラグジュアリーブランド Louis Vuitton の財団による現代美術館です。
メインの企画展はなく実質休館に近い状態でしたが、8月30日までは小展示などもあり、割引料金で開館していました。
足を運んだ一番の理由でもあるパーマネント作品 Olafur Eliasson [鑑賞メモ] の Inside the horizon はいかにもそれらしい作品でしたが、建築の装飾のようにも感じられてしまいました。
建築自体が Frank Gehry による脱構築主義を体現したようなものでしたが、
現在位置や移動先への見通しが掴みづらく、また、階段を昇降せざるを得ないような移動もあり、歩き疲れた体には優しくないと体感してしまいました。
メトロ1号線 Les sablons 駅からのアプローチには美術館開館に合わせて LVMH がリニューアルした歴史ある (1860年オープン) 遊園地
La Jardin d'Acclimatation があり、治安の心配はありませんでした。
映画 Les Dames du Bois de Boulogne 『ブローニュの森の貴婦人たち』 (1944) [鑑賞メモ] の舞台となった森の雰囲気を味わうのも悪く無いかなと、
帰りはトラムT3b線に乗るべく Porto Dauphine 駅へと森を抜けたのですが、
比較的開けた人通りのある道を選んだものの、映画に出てくるようなものではありませんでしたが路上売春する人々 (と言って2名ですが) に遭遇してしまいました。
と言うことで、こちらはお勧めできません。
1807年竣工の元商品取引所 (Bourse de Commerce) の建物を 安藤 忠雄 がリフォームして2021年にオープンした、
ラグジュアリーコングロマリット Kering オーナー Francois Pinault のコレクションを展示する現代美術館です。
Clair-obscur 展は8月24日で終了していたものの、
その中の出展作品の1つ、La Rotanda に展示された
中谷 芙二子 [Fujiko Nakaya] [鑑賞メモ] の「霧の彫刻」
« Cloud #07156 » は延長で展示されていたので、それを観てきました。
19世紀末に作り直されたというガラスドームと大航海時代以降の国際貿易を題材とした天井画、
安藤 忠雄 らしい装飾を排したコンクリート打ちっぱなしの丸壁と、そして霧の組み合わせという、
今までの「霧の彫刻」には無かったコントラストを楽しみました。
2025年に Musée du Louvre に接した19世紀半ば Ousmane 様式の建物へ移転してきた ハイジュエリーブランド Cartier の財団による現代美術館です。 10月22日からの企画展まで休館でしたが、Bourse de Commerce - Pinault Collection から歩いて5分程度の近さなので、中の様子は伺えませんでしたが、前まで様子を見てきました。 Fondation Cartier 前、Palais Royal と Musée du Louvre に挟まれた広場でデモをやっていて、これもパリらしいでしょうか。
パリの近現代の美術館といえば、国立の Centre Pompidou (Centre national d’art et de culture Georges Pompidou) ですが、2025年から2030年まで改修休館。 2002年に行ったことがあるとはいえ、その時もゆっくりは観られず、四半世紀ぶりに行きたかったので、休館は残念でした。 こちらも Bourse de Commerce 近くではありますが、時間に余裕も無かったので、今回は前まで様子見に行くこともしませんでした。
Centre Pompidou 休館ということもあったと思いますが、 LVMH (Fondation Louis Vuitton), Richemont (Fondation Cartier), Kering (Pinault Collection) と、ラグジュアリーブランドの三大コングロマリットの私立美術館が話題を呼んで存在感を出している所に、21世紀現代アートへの主な金の出所を実感します。 ラグジュアリー三大コングロマリット私立美術館は新しいこともあり、さすがおしゃれスポットという感じでしたが、 自分にとっては MAM + Palais de Tokyo の方が観応えがあり、居心地も良かったでしょうか。 しかし、今回は時間も限られていましたし、リスクを避けてメジャーな美術館に留めましたが、オルタナティヴ・スペースへ行ってみた方が面白かったかもしれません。
この週末土曜は晩に恵比寿へ。この舞台公演を観てきました。
コンテンポラリーダンスだけでなく現代バレエ作品の振付としても活動するスペイン・カタルーニャはバルセロナの Marcos Morau が、日本の人形浄瑠璃、歌舞伎とコラボレーションした新作です。 去年のNDT 2日本公演での Folkå [鑑賞メモ] や 配信された Ballet Nacional de España: Afanador [鑑賞メモ] を観て気になるコレオグラファーの舞台ということで、足を運びました。
1950年の金閣寺放火事件に取材・着想した 三島 由紀夫 の小説『金閣寺』が原作とされていますが、 その物語に沿ってナラティブなダンス作品とするのではなく、観念的な面に焦点を当てて舞台化したものでした。 焼け跡となった金閣寺の内部を思わせる舞台美術の中で繰り広げられるダンスに、むしろ「美」が焼け落ちた後の後日譚のように感じられました。
原作は戦後日本を舞台としていますが、美術に行燈を多用し髷のある人形を使うなど近世日本的な髷物の世界観となっていたことに大きな違和を感じてしまいました。 自分も疎いのでそこまで読み取れなかっただけかもしれないですが、 三島歌舞伎などを参照して『金閣寺』と日本近世芸能の共通点から引き出されたというより、 共演が前提にあって人形浄瑠璃や歌舞伎として演じるなら近世という程度の必然性しか感じられませんでした。 金閣寺、歌舞伎や人形浄瑠璃、「盾の会」制服に着想した衣装など、日本的、三島的なイメージの使い方がいかにも観光客向けっぽく、これはオリエンタリズムではないのか、と。
焼け跡という廃墟的な殺伐とした舞台美術、地域時代を感じさせない白いゆったりした衣装を振り回してのダンサーたちのダンスや、生で歌い演じる Maria Arnal の佇まいなど、好みの要素もそれなりにありました。 Folkå もそうでしたが、 髷物的な世界の中でのカタルーニャの民族衣装に着想したという Maria Arnal の衣装や、Arnal の音楽と義太夫節との混交など、 地域や時代を特定させない架空の世界の演出もあるとは思いましたが、 元の文脈への無頓着さも感じてしまいました。
坂口 安吾 に着想した Noism の『私は海を抱きしめていたい』 [鑑賞メモ] を観たばかりだったせいか、 (オリエンタリズムを含め) 欧米的なアプローチをせずに、戦後日本的なものに向き合ったダンスは作れないものか、と、考えさせられてしまいました。
この週末土曜は午後遅めに恵比寿へ。この展覧会を観てきました。
今回のコレクション展は「食」がテーマ。
「食」をテーマにした写真でもこれだけ多様なアプローチがあるか、という楽しみ方ができた展覧会でした。
そんな中では、結果としてシャープな白黒写真が集まった第二章が、最近の好みでしょうか。 解体中のサッポロビール恵比寿工場を捉えた 宮本 隆司 [鑑賞メモ] はもちろん、 山田 實 の戦後アメリカ統治下1960年代の沖縄をリアリズム、かつシャープに捉えた写真も良さも実感しました。 また、収蔵後初展示という 竹谷 出 の2000年代のリアリズム的なシャープな白黒写真に、この世代にこの作風の写真家がいたのか、と驚かされました。
1960年代に渡米し、ビデオアート、実験映画の文脈で活動している作家の回顧展的な個展です。
コレクション展等で観たことはありましたが [鑑賞メモ]、まとめて観るのは初めてです。
抑圧的な主婦の置かれた立場などジェンダーをテーマにしたフェミニスティックな作品が多いのですが、 象徴的な場面、イメージを切り出して示すような《主婦の一日》 (1977) や《Make Up》 (1978) のような作品の時は良いのですが、 1980年代から1990年代のスケッチのような寸劇の短編、さらに中編の劇映画のような作りになるにつれて、 映像やプロットがテーマを直接的に説明するようなものになりがちで、そこに単調さを感じました。 むしろ抽象的、象徴的もしくは質感を強調するとような映像を使っている作品の方が良かったでしょうか。
ワンフロアの展示室をカーテン等で区切った程度でほとんど遮音されていなかったので、
ヘッドホンで音を聴かせる形の展示もありましたが、会場内で音声がかなり干渉しあっていました。
また、広く響かないようにするためか、スピーカーで音を出すものについてはかなり音を絞っていたものもありました。
音声やその音量も映像作品の鑑賞体験として重要なので、その点は残念な展示でした。
そもそも、展示されていた作品を合わせると数時間にわたる量になるので、ギャラリーでの立見や丸椅子程度に座る程度の状態で全て見通すのいうのは、体力的にもかなり困難なものです。
インスタレーションではないシングルチャネルのビデオ作品はホールでの上映にした方が良かったのではないかと思いましたが、
そもそも、興味を引かれたものについて何本か集中して向き合うくらいの観方であればこのような展示がちょうど良いかもしれません。
B1F展示室では Nikon Small World / NIKON JOICO AWARD展『ミクロの世界 -生命(いのち)の未来を照らす-』。
JOICO
NIKONの顕微鏡の歴史や顕微鏡の仕組みに関する展示と、NIKONが主催する顕微画像コンテスト受賞作品展示を合わせたもので、企業博物館的な展示でした。
展示を観ていて、小学生の時に親が買ってくれた(学習用の)顕微鏡で観察してみたりしていた時があったことを思い出し、少し懐かしく思いました。
1ヶ月以上前になってしまいましたが、7月12日日曜は昼前に川崎へ。この舞台の上映を観てきました。
21世紀の作品や現代演出は出来るだけ観ようと思いつつも、いつの間にか Metropolitan Opera live in HD を観るのも3年ぶりとなってしまいました。 2025-26 Season 最後は半分ペルー系のルーツを持つアメリカ出身の女性作曲家によるスペイン語の21世紀オペラ。 それも演出・振付がブラジル・リオデジャネイロの Deborah Colker とあって、 久々に足を運びました。
1920年代から1950年代にかけて活動したメキシコの美術作家 Frida Kahlo と Diego Rivera に着想した作品です。 伝記的ではなく、その愛憎相半ばするような夫婦関係だった実在の男女に「Orfeo ed Euridice を逆転させた」ような非現実的なプロットを接続する所は、マジックリアリズム的。 テージやコスチュームのデザインでは、メキシコの伝統行事 Dia de los Muetos (死者の日) の装飾をベースに Frida Kahlo と Diego Rivera の作品からイメージを引用し、登場人物の一人 (Catrina) には特殊メイクを用いるなど、ミニマリズムとは対照的なものになっていました。 テーマやプロットに興味が引かれない上、ステージやコスチュームのデザインの過剰さが好みで無かったため、観ていてもダンス的な動きや音楽がほとんど入ってきませんでした。
今まで観たオペラの中でもここまで合わなかった作品はない程でしたが、こういう事もあるでしょうか。 しかし、Orfeo ed Euridice が逆転した台本というものの、 言ってしまえば、死者の日 (お盆のような行事) に Diego へ死んだ Frida がお迎えに行く話ということで、 (新暦の) お盆の時期に観るのにちょうど良い演目だったのかもしれません。
旧暦お盆前の週末日曜は、午後遅めに京橋へ。 国立映画アーカイブの小ホールでは上映企画『返還映画コレクション(4)――文化・ニュース・漫画映画篇』が開催中です。 戦後に民間情報教育局の覚書「非民主的映画の排除」によって上映を禁止されアメリカに接収され1968年の第二次で返還された戦中期の映画の上映企画で、毎回興味深く観てきました [第1回, 第2回, 第3回の鑑賞メモ]。 第3回までは劇映画でしたが、今回は文化・ニュース・漫画映画の特集上映です。
文化映画というのはナチス・ドイツの文化統制における Kulturfilm の訳語に当たるもので、 当時の日本の映画法では「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スルモノニシテ劇映画ニ非ザルモノ」と定義され、短編の教育映画、記録映画などの非劇映画を指していました。 戦中の漫画映画 (アニメーション映画) の多くは文化映画やニュース映画と同じ文脈で制作・上映されたため、今回の「文化・ニュース・漫画映画」という括りとなったということでしょうか。 このような興味もあって、漫画映画 (アニメーション映画) を集めた以下のプログラムを観てきました。
教育というプロパガンダ目的ということもあり、動物キャラクタを使いリアリズムを離れ寓意的に描くものはあれど、全て戦争映画です。 軍部、特に海軍省から提供される潤沢な制作費もあり、アニメーション表現がみるみると進歩するのを興味深く観ましたが、 今までの3回の上映企画『返還映画コレクション』の劇映画篇で観た映画と比較しても直接的にブロパガンダを目的とした内容に、楽しむというには厳しいものがありました。 なるほどこれは劇映画のアニメーション化ではなく、文化映画やニュース映画と同じカテゴリの映画だったのだな、と実感しました。
アニメーション表現の進化という点では、 1930年代の作品では、階調の少ない白黒の絵でキャラクターも当時のアメリカのアニメーションのものを盗用して単純に「敵をやっつける」話を描いています。 後半の特に真珠湾攻撃を題材とした『桃太郎の海鷲』や潜水艦の仕組みの図解して描く場面もある『フクチャンの潛水艦』になると、 マルチプレーン撮影を使い奥行き感のあるグレースケールな画面となり、キャラクターもオリジナルに、実際の兵器や作戦に取材したよりリアルな設定やストーリーなど、完成度の高さに驚かされます。 これらに日本初の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』 (松竹動画研究所, 1945) が続き (といってもこの映画は未見ですが)、 さらに、戦後、日動映画を経て東映動画 [鑑賞メモ] に繋がる (実際、政岡 憲三 など人脈も繋がる) のかと、感慨深いものがありました。
今週末土曜晩は、渋谷から帰宅して、この配信を観ました。
この5月に静岡芸術劇場で素晴らしい作品 Qui som? を見せてくれたフランスのコンテンポラリーサーカスカンパニー Baro d’evel の[鑑賞メモ] の作品が ARTE Concert で配信されています。 カンパニー主宰の Camille Decourtye と Blaï Mateu Trias の二人にムナジロカラスの Gus を加えてのアクロバット、クラウン、動物使いのスキルを使ったコンテンポラリーサーカスもしくはフィジカルなコメディというだけでなく、 2人のクラシカルな歌のスキルも生かした生演奏の伴奏付き音楽劇、Trias の背中やマイクやマイクスタンドなど意外な所に塗料を仕込んでの音楽に合わせてのライブペインティング、など、いろんな要素を盛り込みつつ、どれとも言い難いマルチディシプリナリな作品でした。
しかし、そんな様々な要素を取り込みつつ雑多な感じではなく、むしろミニマリスティックで余白を生かしたビジュアルと演出で、哀しみや不安の中のささやかな笑いを余韻を含めて感じさせる、詩的な作品です。 男女のすれ違いのようなテーマは感じられましたが、明確なストーリーは無く、スケッチ的な場面を繋いでいきます。 セリフはフランス語で、字幕もドイツ語しか表示できず、セリフの内容はほとんどわかりませんでしたが、演技だけでも雰囲気を楽しめました。 リアリズム的な演技とサーカスやダンス、マイムのスキルをベースとした象徴的な動きを行き来するところは、シュールというかマジックリアリズム的に感じられました。
しかし、ムナジロカラスの Gus が良い演技をしてました。 オープニングで壁を破ってマイクスタンドを手に登場した Blaï がマイクを前に手にしたカンペを嘴てつまみ取ってビリビリにちぎる所から、掴みは完璧。 中盤には Blaï の歌う “Dido's Lament” (aka “Remember Me” from Henry Purcell: Lido & Aeneas) に合わせて Camille と Gus がいわゆるドッグダンスのように踊る場面も素晴らしい。 これだけでも観た価値ありました。
今週末土曜は、午後に渋谷へ。会期末が迫りつつあったこの展覧会を観てきました。
2024年の Les Rencontres de la Photographie, Arles (アルル国際写真写真祭) で企画され、その後、欧米巡回した展覧会
I'm So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now の凱旋帰国展です。
欧米巡回時の26名に4名 (今井 壽惠, 岩根 愛, 藤岡 亜弥, 米田 知子) が加わる拡大版で、
日本の戦後から現代までに活動した女性写真家を集めたており、大規模かつオールスター的です。
出展作家のうちおよそ三分の一は美術館レベルの個展を観たことがある作家で、おそらくこの展覧会で初めて観たのは数人程度でした。
会場は美術館ではなく、渋谷宮益坂口にある高層複合施設 渋谷ヒカリエの中層階にあるコンベンションホールでした。
実験工房の APN (Asahi Picture News) がカラー時代だったらと思うような
山沢 栄子 [鑑賞メモ] の «What I Am Doing» シリーズ、
岡上 淑子 [鑑賞メモ] のシュルレアリスティックなフォトコラージュ、
杉浦 邦恵 [鑑賞メモ] のフォトグラムと、
導入部にかなり好みの作家が並んでいて引き込まれたのですが、次第に失速して、
第1章を出た辺りにあった 石内 都 [鑑賞メモ]、やなぎみわ [鑑賞メモ] を最後に、観ていて集中が切れたようになりました。
第3章以降の多くを占める21世紀に入ってからの作品は、写真1枚に目を止めさせるような完結した強度を求めず、
連作やインスタレーションからコンセプトなり雰囲気なりを浮かび上がらせる作風が主流となったため、
このような大規模な展覧会の中では、アイキャッチに乏しくぼんやりした印象になってしまったでしょうか。
そんな中では、第2章以降の広いホールにフラット気味の照明とは違い、展示空間の照明がコントロールされていたこともあり、
初めて 蜷川 実花 の作品を良いかもとしれない、と。
また、網羅的とも言える展覧会だけに、むしろ、日本の写真史であれば必ずのように取り上げられるけれどもこの展覧会に無かった作風が気になりました。
例えば、東松 照明、細江 英公、奈良原 一高 あたりの新興写真をさらに発展させたような Provoke の「アレ・ブレ・ボケ」写真以前の1960年前後の作風や、
柴田 俊雄、伊奈 英次、畠山 直哉、松江 泰司、鈴木 理策 のような風景や建築物を抽象絵画のように撮る作風など。
全体としてモダニズム的というよりシュルレアリズム的な傾向が強いディレクションだったので選択から外れたのか、写真界が男性中心的だったため女性作家に作風の偏りが生まれたのか、
そんなことを考えさせられる展覧会でもありました。
神奈川県立近代美術館 葉山の『もはやない国のかつてない光 東ドイツの女性写真家たち』 [鑑賞メモ] と相互割引のある美術館連携企画ということですが、 女性写真家の展覧会ということ以外、写真のスタイルから企画の方向性まで共通点を感じられませんでいた。 単なるプロモーション上の企画に過ぎない、ということでしょうか。
8月1日土曜は、午後に京橋へ。 国立映画アーカイブの上映企画 『フィルムでみよう!東映アニメーション』で、 アニメーションに関するテキスト等で言及されるのを以前から目にしたことがあれど未見だった1970年前後のアニメーションを2本観ました。
東映まんがまつり 向けに制作された子供向けの劇場用アニメーション映画で、 高畑 勲 の初監督作にて、宮崎 駿 が初めて関わった長編アニメーション映画として知られる作品です。 NHKでも放映もされたアイヌのユーカラを題材とした人形座の人形劇『春楡の上に太陽』 (1959) を原作とするとのことですが、舞台は「さむい北国のとおいむかし」とされています。 イメージとしては、アイヌではなく、中世の北欧のあたりでしょうか。 ある程度は予想していましたが、オープニングのホルスが父の死を機にそれまでの孤立した生活から仲間を求めて旅立つプロットや演出が、 『未来少年コナン』 (1978) の第一話とここまで似ているとは、びっくり。 たどり着いた村での諍いや悪魔との戦い、ヒロインであるヒルダの二面性など、単純な善悪の対立として描かないキャラクターやモチーフも、 『未来少年コナン』のハイハーバー編 (第13〜29話) での荒地の孤児たちの問題やガンボードとの戦い、モンスリーの葛藤の原型とでも言えるもの。 後に『未来少年コナン』の中でより洗練された形でリメイクされたキャラクターやモチーフ、プロットや演出が、その10年前にさほど遜色無い形でこうして実現されていたことに、感慨深いものがありました。
やはり、東映まんがまつり向けの劇場用アニメーション映画です。東映動画で 宮崎 駿 が参加した最後の作品になります。 社会の複雑さ、多面性を描こうとした『太陽の王子 ホルスの大冒険』の様な作品ではなく、比較的シンプルな冒険活劇ですが、 ヒロインのキャシーに後の 宮崎 駿 の作品のヒロインの人物造形のルーツを観るだけではなく、 海賊たちのキャラクターやエピソードのプロットに『未来少年コナン』のバラクーダ号の、 ラストの狭い稜線での戦いの場面や山頂の湖の水が抜けて宝が発見されるプロットに『ルパン三世 カリオストロの城』 (1979) での演出やプロットの原点を観るようでした。
このアニメーション映画2作品を観ていると、小学生の頃に同時代的に観た『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』が思い出されてしまい、 その原点としての興味深さはあれど、アニメーション表現としては後の作品の方が洗練されていたと感じてしまうことも否めず。 1970年前後の日本のアニメーション映画としては画期的だと言われていることは知るものの、 なるほど凄いと実感するにはそれ以前の日本のアニメーションに疎すぎたでしょうか。 今回の上映企画では見逃しましたが、1950〜60年代日本の東映動画も観たいものです。
先の月曜8月10日は夏休みの休暇を取得。午後に渋谷円山町へ。 Meredith Monk のドキュメンタリー Monk in Pieces [鑑賞メモ] の日本公開の関連上映として 渋谷ユーロスペースで開催中の『パフォーマンス・アート:身体と空間をめぐる映画祭』 (Performing Art: Film Festival Exploring Body and Space) で、この映画を観てきました。
戦後アメリカのモダンダンスの前衛、Merce Cunningham [1998年日本公演の鑑賞メモ] の最初期の30年間 (1942-72) を、 その時代を代表する14作品の再演映像に、アーカイブ映像、インタビューや手記等を交えて辿るドキュメンタリー映画です。 再演映像は3Dで撮影され、欧米で公開された際は3Dで上映されたようですが、この映画祭では2Dで上映されました。
再現映像は、カラフルな抽象の点描による Robert Rauschenberg の美術を使った Summerplace (1958) や、 Andy Warhol の “Silver Clouds” (銀色の風船) の中で踊る RainForest (1968) などはスタジオ収録でしたが、 歴史的な経緯のある建築物の屋内や屋上、もしくは、公園らしき緑の中で、スティディカムやドローンを駆使して収録されていました。 Neujahrskonzert のTV放送での Ballettfilm や ARTE Concert での dancefilm などでよくある演出ではありますが、 背景込みで美しく撮られていて、3Dであればさらに没入観もありそうで、再演された各作品を3D映像で通しで観たいものでした。 CDボックスセット Music for Merce (New World, 2010) でブックレットの白黒スチル写真と共に音だけ聴いていた作品もいくつかあり、 この音楽にこのようなダンスが付いていたのか、という感慨もありました。 もちろん、音楽に合わせて踊るようなものではなく、音とダンスが付かず離れず共存しているようでしたが。
再演したダンサー14名のうち12名が Merce Cunningham Dance Company 出身とのことで、 映画中に使われたアーカイブ映像と比較しても違和感は無く、その動きの再現はかなり忠実と思われるもの。 本来であれば多くは剥き出しかブラックボックス化された抽象的なスペースで踊られた作品ですが、 作品自体がナラティブではないので、特定の場で演じられてもその抽象性が大きく損なわれるようには感じませんでした。 夜のニューヨークの屋上で演じられた Winterbranch (1964) は流石にドラマチックでしたが、 暴力をテーマとしたという Cunningham の言葉も添えられ、むしろそこち着想したと思われる映像演出に感じられました。
当時の関係者はほぼ亡くなっていることもあると思いますが、 関係者や影響を受けた現在のアーティストへの新たなインタビューや新たな資料発掘で、新事実の提示や新たな評価の文脈を付け加えるような作りではありません。 Cunningham と音楽で多くをコラボレーションした John Cage との同性愛的な関係や、美術でコラボレーションした Rauschenberg の1964年の離脱時のやりとりも、創作の転換点として映画中で手紙を引用して触れられますが、 そういう面を Cunningham を取り巻く人間ドラマとして掘り下げることありません。 むしろ、アーカイブ映像や Cunningham 自身の創作ノート/ドローイング Changes: Notes on Choreography から撮られたテキストや図版などで、 再演された当時の代表作の文脈を示すようでした。
『パフォーマンス・アート:身体と空間をめぐる映画祭』 では、その前の土曜の午後に、以下の映画も観ました。
1950年代末に抽象表現主義に近い文脈で活動を始め、 1960年代から1970年代にかけパフォーマンス・アートの文脈でフェミ二スティックな作風で知られた作家 Carolee Schneemann のドキュメンタリーです。 取り上げられる作品やエピソードが時代を前後することが多く作品制作の展開などは掴みづらいもの。 生前に作られたドキュメンタリーで晩年の生活や創作の様子も多めで、その人となりを浮かび上がらせるようでした。 パフォーマンス・アートの展覧会 Out of Actions - Between Performance and the Object 1949-1979 『アクション ― 行為が芸術になるとき 1949-1979』 (東京都現代美術館, 1998) [鑑賞メモ] でも取り上げられていた作家ですが、こういう作風は資料展示よりドキュメンタリー映画が向いているでしょうか。 1960年代当時のパートナーでもあったアヴァンギャルドの音楽家 James Tenney、実験映画の Stan Brakhage など、当時のアートシーンでの交流が伺える所があり、そこを興味深く観ました。
思えば、1990年代後半は『デ・ジェンダリズム 〜回帰する身体〜』 (世田谷美術館, 1997) での Marina Abramovic [鑑賞メモ] や 北京東村 関連 [鑑賞メモ] など、 アーティスト自身が体を張ったパフォーマンスに現代美術展でそれなりに(時には生で)観る機会がありました。 2000年代以降、いつの間にかなくなりましたが、現代アートのトレンドの変化なのか、それとも単に自分が疎くなっただけでしょうか。
1970年代から2011年まで活動したベルギー出身の映画監督 Chantel Akerman が、 Pina Bausch 率いるコンテンポラリーダンスのカンパニー Tanztheater Wuppertal の1983年欧州ツアーに帯同して撮ったドキュメンタリーです。 1980年代初頭のまだ若い Pina Bauch や Nazareth Panadero など、当時の様子を垣間見る興味深さはありました。 しかし、リハーサルや上演の様子の映像でダンサーの上半身やバストアップを捉えるフレーミングが多用され、全身の動き、足捌きや、舞台全体でのフォーメーションなど観られず、観ていてかなりもどかしく感じました。 むしろ、楽屋やリハーサルの様子からツアー帯同の雰囲気を感じさせるようなドキュメンタリーでしょうか。
2024年にカナダ・トロントの Goethe-Institut Kanada で見つかった、 1925年に Bauhaus Dessau での Oskar Schlemmer の振付を再現した ダンス映画 Man and Mask: Oskar Schlemmer and the Bauhaus Stage (1969) の16mmフィルムに基づき制作された短編ビデオ作品です。 しかし、発見されたフィルムの内容や発見された経緯について映像を通してわかるように描かれているわけでもなければ、 それに着想した演出振付したダンスビデオ作品として美しい仕上がりというわけでもない、半端に実験的な映像でした。
Meredith Monk のドキュメンタリー [鑑賞メモ] を含め今回観た中では、 Cunningham が、ほぼ年代順に話を進めて作品や制作環境の展開も捉えやすく、 創作に関係する人間関係を示すもののプライベートよりも創作にあたっての思考などに焦点を当て、 身体の動きや姿勢や空間での位置どりの面白さを再演映像できっちり見せる作りで、最も良い作りのドキュメンタリーでした。
7月27日は夏休みの休暇を取得。午後に渋谷に出てこのドキュメンタリー映画を観てきました。
1960年代末から、その音域広いヴォーカル・テクニックを駆使し、主に現代音楽の文脈で パフォーマンス・アートやコンテンポラリーダンスの作品とも言えるような 時にサイトスペシフィックで、マルチディシプリナリーな music theater や opera 作品を 手がけてきているアメリカの作曲家/パフォーマー Meredith Monk のドキュメンタリー映画です。 彼女のドキュメンタリーとしては、Peter Greenaway が1983年にイギリスのTV局 Channel 4 のために制作したドキュメンタリーシリーズ Four American Composers の1篇として取り上げられたものを2000年頃に観た以来でしょうか。
内容は、若干の時間進展に前後はあるものの、おおよそ年代順に1960年代末から現代に至るまで、 その作品の上演の様子のアーカイブ映像に本人や関係者のインタビューを交えたものになっています。 制作の裏話や、影響を受けたミュージシャンへのインタビューだけではなく、母親やプライベートでのパートナーだった2人の話など、かなり私的な内容にも踏み込んでいました。 母親との関係は作品の題材へ影響与えているようでしたが、パートナーの話は踏み込まなくても良かったのでは。 それよりも上演のアーカイブ映像や制作エピソードにもっと集中して欲しかったでしょうか。
1980年代からレコード/CDで過去の作品へ遡りつつ新作をフォローしてきましたが、 Monk の作品はパフォーマンスの要素が大きいので、断片的であれパフォーマンスの上演の様子が高画質・大画面で観られるのは有難いです。 特に1970年代頃までの作品、Guggenheim Museum New York で上演した最初期の Juice: A Theatre Cantata In Three Installments (1969) や、 広い芝生の上で大人数で上演された Needle-brain Lloyd and the Systems Kid (1970) と思われる映像、 女性の人生を時間逆行で描く Education of the Girlchild (1972) など、 最初期のものは初見のものも多く、とても興味深く観ました。 最近のもので目を引いたのは YouTube 公式チャンネル で観られるものも少なくありませんでしたが、 1991年 Houston Grand Opera 委嘱/初演のオペラ ATLAS と、 その2019年 L.A. Phil @ Walt Disney Concert Hall での再演の映像など、 収録していたのであればフルで観たいものです。
『メレディス・モンク 踊る声、歌う身体』公開記念特別上映として、 1980年代に Meredith Monk が監督した映画2本が上映されました。 2010年代に、公式サイトで売られていた2 on 1 DVDを入手して、観たことがありましたが、 大画面で、それも Book Of Days はフィルムでの上映で観る良い機会かと、併せて観ました。
1892年から1954年の間、アメリカへの移民受入をする移民局が置かれたニューヨーク・エリス島の移民局跡の建物を舞台とした白黒の映画です。 Meredith Monk の祖父母がユダヤ系のロシアからの移民で、自身のルーツを辿るような作品でもあります。 1905-25年に Augustus Sherman がエリス島で撮ったようなヴィンテージの移民の白黒写真に着想し、 写真に撮られたような人々の様子を、半ば廃墟のようになった撮影当時の移民局の建物内で、半ば抽象化されたダンスと音楽という形をとって浮かび上がらせていました。
現代のヨーロッパの旧市街のとある建物の地下室に見つかった朽ち果てた家具や壁のドローイングから、 その街の、キリスト教徒とユダヤ教徒が共に暮らした中世の出来事を浮かび上がらせる映画です。 ユダヤ人の印である黄色い丸印を付けることを強制されるなどの差別はあれど市場でやりとりする程度には共存していた2者が、 疫病の流行を景気に暴力的に迫害されることになる様を、 具体的な演劇としてではなく、Ellis Island 同様、 半ば抽象化されたダンスと音楽という形をとって、詩的に浮かび上がらせます。 制作当時は当時のAIDSのエピデミックを想起させるものとされていましたが、今であれば、新型コロナでしょうか。 1980年代という時代の限界もあるのでしょうが中世の描写が少々キッチュにも感じられましたが、 劇映画的なリアリズムに基づく演出ではないこともあり、その点は問題には感じませんでした。
7月半ばの3連休は、それに合わせて前日金曜は夏期の休暇を取得。 昼過ぎまでゆっくり休んでいましたが、週末が混雑が予想される展覧会を観てしまおうと、これらの展覧会を観てきました。
オーストラリア出身でイギリスを拠点に1990年代半ばから YBA (Young British Artists) に近い現代アートの文脈で活動する作家の個展です。
国際美術展、グループ展で観たことはありましたが、個展でまとめて作品を観るのは初めてです。
リアリズム的な人物像をベースに、サイズを大きく拡大し、時には幻想的な状況を作りだしていくという、マジックリアリズムとも共通する作風です。
正直、綺麗に仕上がりすぎて観ていて上滑りした感は否めませんでしたが、
そんな中では、両手に買い物袋を持ちスリングで胸に幼児を抱いた母子像 Woman with Shopping (2013) や
DVを暗示するかのような若い男女像 Young Couple (2013) のような、リアリズムに寄った作風が好みでした。
上映されていた制作の様子を捉えた映画を観て意外だったのは、作家1人で黙々と制作していることでした。
現代アートの文脈で大規模な作品を作る作家の場合、作家はコンセプトの提示がメインで、工房でスタップを駆使して制作することが多く、Mueck の場合もそうだろうと予想していたのでした。
こういう制作スタイルを観ると、作品のイメージも、多分に私的なものなのだろうな、と。
展覧会を観る前に展覧会レビュー 『「ロン・ミュエク」──贋金のような語彙』 (ArtReview, 2026-06-30) を目にしていて、
彼の作品に白人男性の視点を指摘することももっともと思う一方、
作家自身はそれを普遍的なものとして提示したいというより、もっと私的なものとして制作しており、
白人男性である Mueck にそれ以外の視点を求めるものでもないだろう、とも思わされました。
杉本 博司 『絶滅写真』
写真作品だけでなく古美術コレクションや建築を含む空間演出でも知られる 杉本 博司 の個展です。
美術館レベルの個展では、『趣味と芸術―味占郷/今昔三部作』 (千葉市美術館, 2015) [鑑賞メモ]、
『ロスト・ヒューマン』 (東京都写真美術館, 2016) [鑑賞メモ] など、
自身がコレクションした古美術を交えたインスタレーションとして作り込むことが多くなっていました。
この展覧会にも古美術や数理模型の展示が数点ありましたが、
銀塩写真 (ゼラチン・シルバー・プリントの写真) に焦点を当てて、1970年代に始まる初期三部作《ジオラマ》、《海景》、《劇場》シリーズから、現在の作品まで銀塩写真に焦点を当てて、おおよその年代順に展示するという、
銀塩写真作家 杉本 博司 の回顧展を思わせる展覧会でした。
初期の中では瞑想的ですらあるミニマリスティックな白黒が映える《海景》シリーズの素晴らしさを改めて実感しましたし、
中期では、建築写真やファッション写真《スタイアライズド・スカラプチャー》など
被写体の造形の美しさをくっきりと写し撮るのではなく、むしろ、銀塩写真としての仕上がりの美しさを意識したかのような撮り方にも、改めて気付かされました。
最近の作風を追えていなかったのですが、最後に展示されていた、撮影にポラロイドフィルムを用い、デジタルプロセスでノイズを除去した上で、発色現像方式印画したという《Optics》シリーズに、
最近はカラー写真のシリーズに取り組んでいたのか、と。
カラーフィールド・ペインティングや Gerhard Richter の蝋燭を描いた作品などを想起させる画面はさほど意外ではありませんでしたが、
ずっと白黒の銀塩写真を見せられ続けていたので、最後のカラーが印象に残りました。
そんな気付きはありましたが、それなりに継続的に観続けていることもあり、むしろ、写真のみにスポットを当てて浮かび上がらせるような暗い空間構成を含めて、その雰囲気を楽しんだ展覧会でした。
遠目に写真を観ているだけではわかりませんが、写真の隣に作家自身によるキャプションが添えられていました。 そのキャプションは、撮影の経緯などに触れている内容もありますが、素遁卿(すっとんきょう)という狂名で詠んだ狂歌 (それも乱調気味のものが多い) で締められていました。 展示全体のモノトーンで落ち着いた雰囲気とはおよそそぐわないもので、 よく言えば、異質な物をぶつけての異化効果を狙ったものなのでしょうが、 オーセンティックなものに対する反逆っぽい仕草を見せつつ、逆にそれを強化することもわかってやっていそうと感じてしまいました。
企画展と関連したサテライト展として、
所蔵作品展の第10室に
『劇場・海景・スギモトノート/風を表す』と題して、所蔵作品と制作過程を記録したノートが展示されていました。
制作ノートの展示を所蔵作品展に持ってきているのは、企画展の完結した美学を損なわないという点で良かったでしょうか。
しかし、企画展直後に観ただけに、杉本 博司 の作品は展示空間の演出込みだなと、つくづく実感しました。
今年の新暦の盆は週末にかからないということで、その直前の土曜にお盆の墓参を前倒しで。 その後、午後遅めに銀座へ出て、この展覧会を観てきました。
Linder
1970年代後半に活動を始めたイギリスの女性アーティスト Linder こと Linder Sterling の活動初期から現在に至る作品を集めた回顧展的な個展です。
現在こそ Tate Modern に作品が所蔵される現代アートの文脈のアーティストとして知られますが、
自分か彼女を知ったのは、1977-1983のマンチェスターのpost-punkシーンでの
自身のバンド Ludus での活動や、Ludus だけでなく Buzzcocks や Magazine など当時の縁のあったバンドのジャケットデザインを通してでした。
Ludus については Au Pairs や Delta 5 などと並ぶフェミニスティックな post-punk バンドとして聴いていましたが [CDレビュー1, 2]、
アートの文脈で接する機会が今まで無く、こうして観られて感慨深いものがありました。
展示されていた作品は、写真やそれに基づくフォトコラージュ作品がほとんどでした。
出世作である Buzzocks のシングル Orgasm Addict (United Artists, 1977) のジャケットに使われたフォトコラージュが大判で展示されていましたし、
Ludus のデビュー・カセット Pickpocket (New Hormones, 1977) に付属した、
Linder がモデルとなりテキストを付けた写真 (by Birrer) が全ページ分観られたのが、特に収穫でした。
また、会場で配布されていたA6判40ページの冊子も、展示作品全てを載せてはいないものの、図版もエッセイ (小論文) も充実した内容でした。
フォトコラージュは、男性向けグラビア雑誌、ポルノ雑誌から撮られた女性像に、家電製品などを重ねてコラージュした Pretty Girl シリーズに特徴的ですが、
世の中のステロタイプな女性像や家事・消費のイメージを、フォトコラージュの中で異質な要素としてぶつけて異化させるような作品です。
フォトコラージュの手法という点では Dada/Surrealism から Situationist を経て Punk/Post-Punk に連なる系譜を想起させますが、
セルフポートレートや演出写真も使い既存のイメージを操作して当たり前ではないと突きつけて来るような作風に、
1980年前後アメリカの Cindy Sherman や Sherrie Levine など Appropriation や Simulationism と呼ばれた手法/作風でフェミニスト的主題を扱った作品と同時代のものを感じました。
その一方で、写真やフォトコラージュを中心とした展示構成に、
1990年代以降に出てきた YBA (Young British Artists) の作家によるビデオや空間インスタレーションも駆使したした作風 [鑑賞メモ] との間にギャップを感じ、
その点でも1980年前後という時代を感じてしまいました。
銀座に出たついでに Ginza Six へも足を伸ばして、昨年秋に始まった Julian Opie の中央吹き抜けを使った展示を遅ればせながら観てきました。 好きな作家ではあるのですが [鑑賞メモ]、こう展示してしまうと商業施設のディスプレィデザインと変わりません。 この展示に合わせて作られたA4の冊子も、前半の Opie 自身による作品解説は良いものの、後半1/3はアート販売の販促のようでした。
先の週末土曜は東京は今シーズン一番の暑さの猛暑日。 そんな中、午後に与野本町へ。このコンテンポラリーダンス公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 を拠点にするダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2025年冬の公演はダブルビルでした。
前半は、新潟市の有志《安吾の会》から依頼がきっかけという2026年に生誕120年の 坂口 安吾 を題材とする作品です。 短編『私は海を抱きしめていたい』 (1947) に着想したとのことですが、 むしろ、坂口 安吾 が好んだという Erik Satie のピアノ曲を使い、 特に (山高帽ではなくシルクハットでしたが) ハットにコートまで黒づくめの男性の衣裳もむしろ Erik Satie の方を参照していました。 井関をフィーチャーして浜の映像使ったいかにも Noism0 な後半、ラストより、 複数ペアで淡々としかし緩急メリハリ感じた前半が好みでしょうか。 ミニマルでモノトーンな舞台と、男性の黒ずくめの衣裳に、女性のドレス様の赤い衣裳がコントラストとなってとても映えていましたし、それを引き立たせるような動きでした。
しかし、その一方で、予習で原作 [青空文庫] を読んだ際に、当時の日本映画で描かれた戦前のカフェーの女給や戦後間もない赤線周辺の水商売の女性を想起しただけに、 いかにもヨーロッパ風の男女のダンスにしてしまったのは流石に保守的というか西洋中心主義に過ぎないか、とも思ってしまいました。 もっとも、原作から想起される20世紀前半日本の盛場の場末を描くという方向性は、資質的にも Noism に求めるものではないか、とも思ってしまいましたが。
休憩を挟んで後半は、2021年の『春の祭典』 [鑑賞メモ] の改訂版の上演です。 2021年の上演の時にも感じたことですが、 Le Sacre du Printemps が まるでディザスター映画、パニック映画の映画音楽として最初から書かれていたのではないかと思うぐらい動きにハマっている所が (実際のところは映画音楽が Stravinsky の影響を受けていると言った方がよい)、とても面白い作品です。 人数を減らしたことも改訂のポイントかもしれませんが、 冒頭に一人生き残った怯える女性 (井関) を示し、そこから何が起こったのかを示しつつ最後は冒頭の場面へと戻るというプロットとなった所に、 このようなことは歴史において度々繰り返されていると示されたようにも感じました。
帰りは、池袋で乗り換えて江戸川橋の地蔵通り商店街へ。 BYOB (Bring your own bottle) ということで、今回はギリシャの Ούζο 12 を手土産に、 顔馴染みの店 エル・スール・レコーズへ。 しかし、Ρεμπέτικα (レンベーティカ) など聴きつつ、この38度の蒸留酒ボトル1本を、店長、一緒になった他のお客と、あっという間に空けてしまい、へべれけに。 レコードを買うどころか、帰りもやばい状況になってしまいました。いけません。
7月頭の週末土曜は午後遅めに初台へ。まずはこの展覧会を観ました。
アニュアルのグループ展の2026年版です [2024年の鑑賞メモ]。 今年は近現代の社会問題に関わる出来事の記録に関するリサーチに基づき、それを映像や音声を使ったインスタレーションとしてプレゼンテーションする作品が集まっていました。 中でも印象に残った作品について個別に。
セルロイド の原料であり日本統治時代の台湾の主要資源出会った 樟脳 に取材した
吳 其育 [Wu Chi-Yu]
《セルロイドの物語:無主地のデータ》 “Stories of Celluloid: Terra Nullius Data” (2024)。
ディスプレイ2個と壁への投影の3つの映像作品を垂木とベニア板で作ったシンプルな方流れ屋根の様な構造物と組み合わせてのインスタレーションは良く観られる形式と思いましたが、
当時の台湾での樟脳生産の様子が伺われるようでもあり、20世紀前半の白黒映画の雰囲気の含め、興味を引かれました。
昨年の資生堂ギャラリーでの個展『Any girl can be glamorous』も良かった すずえり は [鑑賞メモ]、
BLACKSPACE Productions の 比嘉 了 との共同名義作品 《Resistance Array》 (2026)。
メディアアート作品にありがちですが、
2019年の香港と南米チリのレーザー・プロテスト (レーザーポインターを使った抗議運動) に関するSNS投稿の関連性の可視化については、ランダムに近いパターンを生成するための入力以上のものでは無かったとは思います。
しかし、『Any girl can be glamorous』でも使われていた光に音声を変調する手法を使い、
レーザーポインタの光に香港の民主化デモの録音を変調し、
観客に壁に付けられた太陽電池付きスピーカーへレーザーポインタの光を当てさせることで、
香港の民主化デモの音を再生するだけでなく、観客にレーザー・プロテスト的な動きを追体験させるという所が、面白く感じられました。
展覧会を観た後は隣の劇場へ移動して、この公演を観ました。
新国立劇場バレエ団
バレエ団オリジナルの現代バレエ作品からなるダブルビルです。 新作の『String SAGA』は今の自分の興味と完全にすれ違ってしまいましたが、 Jessica Lang へ委嘱した『暗やみから解き放たれて』は、 雲を思わせる光るオブジェもシュールで、 抽象的なプロットながら微かに物語的なものを想起させるところがあり、そのバランスの良さに引かれました。 特に、II (第2場)での、後方幕下からのぞく男女2人の足の動きと幕前の男女2人の動きの食い違いが、内面のすれ違いを見るようでした。
新国立劇場バレエ団にはもっとコンテンポラリーな新作に取り組んで欲しいと、今回の公演も足を運びましたが、 客層や上演時の反応をみても、場違いな公演に来てしまった感が否めません。
この三連休初日土曜は昼前に葉山へ。 乗り換えに余裕を持って行ったので座れましたが、逗子から葉山へ向かうバスは満席どころかぎゅうぎゅう詰めのラッシュ状態。 一瞬、何事かと思いましたが、海水浴というかビーチ・レジャーのシーズンでしたね。 そんなシーズンとは関係なく、葉山でこの展覧会を観てきました。
Stiftung Reibeckhallen の Die Sammlung Sven Herrmann に基づく、
第二次世界大戦後は共産党政権下にあり1989年東欧革命を経てドイツに統一された東ドイツにおいて活動した女性写真家の展覧会です。
多くは冷戦終結後も活動を続けていますが、展示は全て東ドイツ時代、1950年代後半から、主に1970年代から1980年代にかけての写真です。
この展覧会に取り上げられた写真家の多くはライプツィヒを拠点としており、
代表的な写真グループとしては写真家 Arno Fischer らが1960年代半ばに結成した Direkt があり、
ライプツィヒのモード・カルチャー誌 Sibylle などを発表の場にしていたとのこと。
ドキュメンタリー、ファッション、ポートレイト等の写真から
フェミニスティックなコンセプチャル・アートのメディアの一つとしての写真まで、様々な文脈の写真がありましたが、
党の公式イデオロギーや公式芸術の社会主義リアリズムとは距離置いた、人々の日常を静かなトーンで捉えた白黒写真が中心です。
以前に 『われらバルトに生きて』 Human Baltic 展 [鑑賞メモ] で観たバルト三国でのヒューマニスト写真運動の写真表現にも近いものを感じました。
作風としては、同時代の欧米・日本の写真に見られるカウンターカルチャーの影響下でのアレブレのような技法ほとんど見られず、
また、社会主義リアリズムの様な大袈裟な演出も避けられているせいか、即物的な戦間期以来のモダニズム写真の直系とも感じられました。
明確に反体制的な作風はありませんでしたが、
社会主義リアリズムの作風でないと美術大学を退学になったり (Evelyn Richter)、
政治的拘束を経験後に西ドイツへ移住したり (Margit Emmrich)、など、
共産政権下での写真家として自由に活動することの難しさを伺わせるエピソードはありました。
中でも最も印象に残ったのは、後に (1985年に) Fischer と結婚する Sibylle Bergemann と、
この展覧会の出展写真家の少なからずが活動の場とした Sibylle
(Bergemann もこの雑誌に写真が掲載されているが、創刊は1956年で、名前の一致は偶然)。
ポスターやフライヤなどに大きくフィーチャーされた Bergmann の Anette und Angela, Lustgarten, Berlin (1982) だけでなく、
Elisabeth Meinke や Ute Mahler など、Sibylle 誌の写真に質の高いものが多かったことに気付かされました。
ファッション写真といえど、共産圏ということもあってか商業的な色気が少なめで、またモノクロ写真中心ということもあって、
余白をとって余韻を感じさせる構図なども使い、詩情を感じる芸術的な演出写真作品のように仕上がっていました。
ファッション写真以外の中では、無人の集合住宅の居間を正面に撮った Sibylle Bergemann の連作 P2 (Berlin-Lichtenberg, Wohnzimmer eines Häuserblocks) (1981) や、
Margit Emmlich によるカラーでの居間での家族写真の連作 Wohnzimmer (1975-1976) など、
20世紀半ば共産政権下の一般の人々の日常をタイポロジー的に記録しているような興味深さがありました。
これらは、西ドイツの同時代の Becher-Schule を思わせる作風で、間接的に影響があったのでしょうか。それとも、独立に生まれたものなのでしょうか。
Sibylle Bergemann は詩情溢れるファッション写真、Becher-Schule を思わせるコンセプチャルな写真だけでなく、
共産政権の象徴である Marx や Engels の像が作られる過程を即物的に捉えた
Das Denkmal (1975-1985) という写真も撮っています。
最初は私的に、その後、国の文化省の公的委嘱で撮られたとのことですが、
プロパガンダ写真的にも演出できる素材ですが、像の断片や吊り下げられた像を淡々と即物的に撮ることで、
公的な国家イデオロギーを客体化、相対化するコンセプチャルな写真として成立していました。
このような作品からも、Bergemann の作品の奥深さを見ました。
今回は元になるコレクションの性格もあってか女性写真家に焦点を当てた構成でしたが、 出展写真家の少なからずが参加していた Direkt の切り口で、Arno Fischer ら男性写真家も含めた構成で観たかったようにも思いました。 また、Sibylle Bergemann, Ute Mahler を含む東ドイツ出身の写真家が1990年に結成した写真エージェンシー Ostkreuz による 1990年代ベルリンの写真の展覧会 Träum Weiter — Berlin, die 90er [Dream On — Berlin, The 90s] (C/O Berlin, 2024) も、続編として是非、日本へ持ってきて欲しいものです。 今回は上映タイミングが会わずに見逃しましたが、出展作家の中では Gabriele Stötzer が登場するドキュメンタリー映画 Die Unbeugsamen 2 - Guten Morgen, ihr Schönen 『不屈の女たち─旧東ドイツ編』 (Torsten Körner (Regie), 2024) もいずれ観てみたいものです。 また、『われらバルトに生きて』 Human Baltic 展を思い出すに、 東ドイツやバルト三国以外の東欧・旧ソ連にも同様な写真の動きがあったのではないかと想像します。 そのような動きを掬い上げるような写真展があれば、観てみたいものです。
同時開催のコレクション展は『「鎌倉近代美術館」と昭和の美術』。 学芸員として長年勤めてきたその思い入れたっぷりの館長トーク付きで楽しみました。 是非座ってみて欲しいとのことで、坂倉準三建築事務所が美術館に合わせて作ったソファ風の低椅子の座り心地良さを体感しました。 通常は展示されないものらしい話だったので、東ドイツの女性写真家展に行ったついでに、座り心地を体感することをお勧めします。
葉山からの帰りは、久しぶりに鎌倉 Café Ailleurs へ。 土曜は Mitsuru Tabata & Jun Morita: Live Critique of Judgement (All Horned Animals, 2026) を爆音リスニング・イベントでした。 森田 潤 なのでもっとアブストラクトなノイズかと思いきや、田畑 満のスタイルに寄せたコンセプトだったようで、ギターの音色だけでなくリズムも予想以上にロックのイデオムが強かったのは意外でしたが、久々に (物理的に) 痺れる爆音を体感しました。
約1ヶ月前の6月13日土曜も午後に外苑前〜表参道へ。ギャラリー巡りしてきました。
20世紀半ば、Minimalism の代表的美術作家として知られたアメリカの Donald Jadd [鑑賞メモ] が
アメリカ・テキサス州西部のメキシコ国境近くの街 Marfa に残したパーマネント作品付き建築を紹介する展覧会です。
といっても、4階に資料展示があるものの、2, 3階は普通に絵画、立体作品の展示でした。
さすがに Marfa まで行く程ではないので現地の様子を垣間見ることができたのはありがたかったですが、映像と資料の展示では不完全燃焼は否めませんでした。
1990年代に出身地のスイス・チューリヒで活動を始め、
現在はアメリカのニューヨークとロサンゼルスを拠点に活動する作家の個展です。観るのは初めてです。
自身を実物大で模った2つの蝋燭 (candle portrait) を2つのギャラリーに大穴を開けた壁越しに向かい合わせて会期中に火を灯して溶けていく様を展示した作品がメインかと思いきや、
こちらは «Mirror» という作品でした。
展覧会タイトルの作品は、一見ほぼ剥き出しの打ちっぱなしコンクリート壁床の地下室のように見える地階のインスタレーション。 小さなオブジェが疎に配置されているのですが、彩色されたブロンズのオブジェはキッチュなプラスチックのオモチャのよう。 それ自体が鑑賞対象というより視線を誘導するために配置している感もあり、そんなオブジェを観ながらスペースを歩き回っているうちに、 壁は剥き出しなのではなく、床のテクスチャを転写した壁紙が貼られていることに気付くという。 自然と鑑賞者を違和感探しに促すような仕掛けの妙のあるインスタレーションでした。
インド・西ベンガル州コルカタ出身で、7歳で家族と共に渡米、
2000年前後からアメリカを拠点に現代美術の文脈で活動する作家です。
やはり、観るのは初めてでしょうか。
ドローイングと立体のインスタレーションからなる展示でしたが、やはり興味を引かれたのは後者。
動物の羽や棘、貝殻や、既製品の廃品と思われる素材を組み合わせたブリコラージュ的インスタレーションです。
その構成は、抽象的な空間構成や無用の機械のような志向ではなく、
スチームパンクがかった造形やヒンドゥー女神を参照し、
シュールなファタジー的な世界と物語がうっすらと浮かび上がるようなインスタレーションでした。
音楽喫茶 月光茶房 が営業していたので、ギャラリー巡りの合間にひと休み。 ここに立ち寄ったのも十余年ぶりかもしれません。 そういえば、ワタリウム美術館へ行ったのも十余年ぶりだったかもしれません。 展覧会場で手にするフライヤや目にするポスターを展覧会に足を運ぶきっかけにしていることが多いので、足を運ぶ展覧会が公共美術館に偏りがちです。 色々疎くなっています……。
6月後半の Rosas と NU Festival の鑑賞メモは先に書いてしまったので、これで6月分のバックログも解消です。もう一息。
1ヶ月余前になってしまいましたが6月頭週末の土曜は午後に六本木へ。ギャラリー巡りしてきました。
Dumb Type の 池田 亮司 の2022年に続く TARO NASU での個展です [鑑賞メモ]。
前回と同様、モニターでの上映でのビデオ作品もありましたが、壁かけの抽象画のような作品や、コンセプチャルな小さな立体作品、小規模なインスタレーションが多く展示されていました。
アルミ板にUVプリントによる黒文字で細かいアラビア数字を敷き詰めた作品に、静的ながら 宮島 達男 のLEDカウンター作品に近い、
ランダムに感じるからこその一様さ時間展開の無さを感じました。
明るい色と白の縦縞を使ったサイトスペシフィックなインスタレーションで知られる
1960年代半ばから活動するフランスの作家のギャラリーでの個展です [鑑賞メモ]。
ギャラリーで観ても仕方ないかかなと予想していましたが、
ガラスファイバを経糸に織られた Buren らしい柄の布地を使いLED照明でファイバに光を入れた «Fibres Optiques» (2013) は、
OpArt らしからぬ、まるで窓越しの光でカーテンが光っているかのような輝きでした。
最近はこんな作品も作ってたのかと知ることができたことが、収穫でした。
コクーンのような没入感のあるインスタレーション作品で知られるブラジルの作家の個展です [鑑賞メモ]。
ギャラリーでの個展ということで、包まれる規模の作品はありませんでしたが、マケットよりは大きめの立体作品が展示されていました。
今までの hyper event horizon (「超・事象の地平線」とでもいう意味) での
伸縮の良いニットの幕状の素材が重みで凹みぶら下がるような造形ではなく、それとはむしろ逆、
棒の抗力で突き上がる造形でした。
テント構造を思わせ建築的にも感じられましたし、傘状の構造の下に人が入れる程のインスタレーションとして体験してみたいように思いました。
その一方で、壁から天井にかけて折れ曲がった面にトリッキーな作り込んだ作品など、この規模ならではでしょうか。
1970年代後半から活動した、角材をチェーンソーで粗く削った立体作品で知られた 戸谷 成雄 (2026年4月15日没) の追悼展です。 グループ展で度々観る機会があった作家でしたが [鑑賞メモ]、2023年の埼玉県立近代美術館での個展を見逃し、結局、個展で観る機会がありませんでした。 この展示は小さな作品と映像の上映で構成されていて、やはり、大きな空間で大規模な展示をまとめて観ておきたかったなあ、と、残念に思いました。
ついでに森美術館の地上チケット売場まで行ったのですが、16時頃で19時からのチケットとなるという。というわけで、パス。まさか、ここまでの人気だとは予想しませんでしたよ。
1ヶ月半程前になってしまいましたが5月最終週末の土曜は午後に恵比寿へ。この展覧会を観てきました。
去年から続いているように思いますが [関連する鑑賞メモ]、大きく1つのテーマを掲げるのではなく、複数の小テーマから構成されたオムニバス的なコレクション展です。
今回は「Don't think. Feel.」「家族写真の歴史民俗学」「川内倫子〈Illuminance〉」「記憶の部屋」「イメージの奥にひそむもの」の5室構成でした。
どの企画が特に良かったという程でもありませんでしたが、
そういえば、最近、柴田 敏雄 [関連する鑑賞メモ] の作品をまとまって観ていないことを思い出したり、
小林 鳴村 (浪華写真俱楽部) や 河野 浅八 (ロサンジェルス〜熊本で活動) などによる1930年代の即物的な新興写真が好みだと再確認したりしました。
また、戦前から20世紀後半にかけて岡山を拠点に活動した 緑川 洋一 の良さに気付きました。
植田 正治 [鑑賞メモ] と交流があったとのことで、
〈女・ヌード〉シリーズからの白黒の演出写真《砂丘群像》など 植田 共通点も感じましたし、
瀬戸内をテクスチャルかつ幻想的なカラーで撮った作品も、印象に残りました。
1950年代半ばから1960年代にかけてニューヨークのロフトに集うミュージシャンやアーティストを撮った「ロフトの時代」の写真を核に、
1940年代から1970年代にかけて活動した W. Eugene Smith の回顧展です。
写っているミュージシャン、アーティストやその背景も時代を感じて興味深くありましたが、
グラフ雑誌 LIFE を主な発表場所としていたように、
やはりジャーナリズムというか報道写真の資質の写真家だと感じてしまいました。
B1F展示室の『第51回 2026 JPS展』も観ましたが、JPS関係者おぼしき観客が多く、アウェイな感がありました。
例年、東京都写真美術館は年間パスポートで通っていたのですが、 今年度は出遅れてしまい、5月30日に行った時は売り切れてしまっていました。 料金的にキツくなるという程ではないのですが、パスポートになる前の友の会の頃から続けていたことが途切れてしまい、少々残念です。
順不同の鑑賞メモ更新になってしまっていますが、これで5月分のバックログはクリアしました。
木曜は仕事の後に初台へ。このコンサートを聴いてきました。
アニュアルの作曲コンペ『コンポージアム』の審査員の曲のコンサートです。 オーケストラ向けに作曲された現代音楽を聴くのに良い機会として楽しみにしています。 今年はドイツ・バイエルン州ミュンヘン出身のクラリネット奏者/作曲家/指揮者 Jörg Widmann で、自身の指揮による自作の演奏です。 ECM New Series の録音にはあまりピンと来ていなかったものの、 glass harmonica や barrel organ など使われる機会の少ない楽器がフィーチャーされた曲を演るということで、足を運びました。
前半は、glass harmonica や技巧的な trumpet など特徴的なソリストをフィーチャーした協奏曲2曲。 2曲目の «ad absurdum» - Concerto for trumpet and small orchestra (2002) では、 高速タンギングと循環呼吸を駆使した trumpet の音色やフレーズを、小編成で小回りきくオーケストラで拡大したり、細かく脈動するようなオーケストラの上に trumpet の長めの音を重ねたり。 ラスト近くでは barrel organ も登場し、細かく刻むような高速フレーズも trumpet を受けます。 小躍りしつつ時々飛び跳ねながらの Widmann の指揮も印象に残りました。
最初に演奏した «Armonica» (2006) でも、glass harmonicaの持続的な響きを、 やはり長く引き伸ばしたaccordionのフレーズの助けも使いながら、オーケストラへと拡大していくよう。 «ad absurdum» とはコントラストを成すスピード感で興味深くはありましたが、 続く «ad absurdum» のインパクトが強すぎて、印象が霞んでしまいました。
後半の «Babylon-Suite» (2014) はオペラ «Balylon» (2012) を組曲化したもの。 前半とは作風がかなり違い、20世紀の大作映画の映画音楽のカットアップコラージュを聴いているかのよう。 流麗に繋ぐのではなくノイジーな展開も交えるあたり異化の狙いも伺えましたし、 人数もかけたオーケストラの音の迫力はありましたが、 前半と違いすぎて、戸惑いの方が大きくなってしまいました。
オペラシティは職場から行きやすいロケーションですし、前売りを買わずとも当日にふらっと行っても観られる気楽さも良いです。 仕事の都合で行けなかった年もそれなりにありますが、こうして長年通い続けられているのも、そんなこともあるでしょうか。
3週間前の話になりますが、6月14日日曜は昼過ぎに横浜山下町へ。この舞台を観てきました。
スコットランドを拠点とする演劇アーティストによる作品の招聘公演です。 演出の Matthew Lenton (Vanishing Point) は2024年に KAAT との共同制作で 『品川猿の告白』 Confession of a Shinagawa Monkey を上演していますが観ておらず、 作者や演出者のバックグラウンドには疎いものの、聾者 (耳が聞こえない人) が作、出演し、 英語とイギリス手話のセリフはあるもののむしろノンバーバルな演技で描いているという所に興味を引かれて、観ました。
認知症のためケアホームに入った耳の聞こえない Harry と手話のわからない介護士 (nurse) May の交流を描く1時間余の作品です。 といっても、最初 May は手話を理解せず、May が手話を使えるようになった頃には Harry は痴呆症でそれを理解できなくなってしまう、 そんな言葉による会話が不能な中でも行われる細やかな交流が描かれます。 フィジカルで演技や抽象的な演出で象徴的に演じられる場面がもっと多いかと期待しましたが、 この部分についてはストレートプレイに近い演出で、会話の不可能性を示すよう。 むしろ、印象に残ったのは、Harry の回想として若い頃の Harry と亡き妻 Elise との記憶がハーフミラー越しで演じられるところ。 ライティングによって闇の向こう浮かび上がっては鏡となって消えることにより、 そんな回想が認知症によって現実と混濁し崩れ落ちていていく様を表現しているかのようでした。
フライヤを目にしなかったので、直前まで公演に気付いていませんでした。 前日土曜の晩に流れてきたツイートを目にして、これは観ておきたい公演だ、と、急遽行くことにしたのでした。 会場で手にするフライヤが主な情報源になっていると、色々見落としがちです。いけません。
NU Festival は、 高輪ゲートウェイ駅に2026年3月28日にグランドオープンしたばかりの大型商業施設 高輪ゲートウェイシティを会場として、今年初めて6月26〜28日に開催された都市型の音楽フェスです。 1994年から開催されているバルセロナの音楽フェス Sónar と かつて六本木にあり現在は鴨川のオルタナティブスペース SuperDeluxe をコラボレーターに迎えて、 実験的な電子音楽を核にしつつ音楽、アート、テクノロジーを横断するフェスティバルとして企画されました。 ダンスを強く志向せずむしろ実験的なミュージシャンが多いラインナップに惹かれて、 また、高輪ゲートウェイシティにオープンしたミュージアム/多目的ホール MoN Takanawa: The Museum of Narrative の様子を観に行く良い機会かと、 6月27日、28日の土日に足を運んでみました。観たものについて簡単な鑑賞メモを。
コンベンションセンターのメインホール (Link Pillar Hall) 前で受付して、 まずは、冥丁 [Meitei]。 『恵比寿映像祭2026』でのインスタレーション [鑑賞メモ] の印象もあってアンビエントなセットを予想していましたが、 会場に合わせたかそうでもなく、かといって、ダンス志向でもなく、会場に音楽が合っていないようでした。
早々に会場を後にして MoN Takanawa へ。 しかし、高輪ゲートウェイシティの南端にあるコンベンションセンターから北端にある MoN まで遠かった。 普通に歩いて10分はあります。最初は少々迷ったので20分はかかったでしょうか。
MoNの4階にある約100畳の天井低目のスペース Tatami で、 中山 晃子 の alive painting [鑑賞メモ] に合わせての 畠山 地平。 畠山 はエフェクトを効かせたギターでアンビエントというよりドローンな音響を繰り出します。 Tatami のステージ後ろの白壁はかなり横長なので、中山の alive painting は描いたものをそのままではなく、反転したものも含めて横に反復延長して投影していました。 畳の上で横にながらチルアウトするように聴きましたが、 コンベンションセンターからMoNまで歩き疲れた後には、ちょうど良かったでしょうか。
演奏は終わっていませんでしたが、少し早めに退室して MoN Takanawa の他の場所もチェック。 大規模商業施設内とはいえミュージアム/ホールという位置付けのせいか、併設のカフェやキッチンもあり、 都内の多くの商業施設と違い休憩できるスペースも多め。これであれば、ゆったり過ごせそうでした。
MoN Takanawa 2階のスペース Box300 では、アート/テクノロジー関連の展示の他、奥のステージでライブが行われていました。 Portrait XO はベルリンを拠点とするアーティスト/ミュージシャン。 会場からしてもう少しインタラクティブなパフォーマンスかと期待しましたが、DJ & VJのライブに近いものでした。
Portrait XO も途中で抜けて再びコンベンションセンターへ遥々と。 イギリスの Nathan Fake のライブを後半から。 Nathan Fake というと、James Holden の Border Community 界隈、Luke Abbott や Four Tet / Caribou 系の音という20年前の印象で止まっていたので、 重めの四つ打ちも使ったフロア志向の音は意外でした。
自身のレーベル Werkdiscs だけでなく Honest Jons や Ninja Tune からのリリースもあるロンドンのDJ/ミュージシャン Darren J. Cunningham aka Actress による 前半は dub/minimal techno 的な音に時折 reggae 的なリズムを交える展開で、 1998年の Hard Wax のイベント (Substance, Vainqueur, Maurizio) [鑑賞メモ] を思い出しました。 後半になるとかなり重めになりましたが、フロアを踊らせるというには少し外した展開が続きました。
Actress が終わりコンベンションセンターから上がると駅前の広場 (Gateway Park) が野外のダンスフロアになっていました。 この時にかかっていたのは、日本のDJ Shingo Nakamura による華やかな house のセット。 禁欲的というか実験色濃いセットを聴き続けていたせいか、 野外でビールを飲みながらこういう音楽に体を揺らすのも、また楽しいものだなあ、と。 結局、20時半の NU Park 終了まで聴いて、土曜は会場を後にしました。
幻の名盤解放同盟 [Maboroshi-No-Meiban-Kaiho-Domei]
日曜は実家方面の用事を済ませてから高輪へ。14時頃に泉岳寺駅から MoN Takanawa へ入って、Tatami へ直行。 onnacodomo のVJ付きで テンテンコによるイベントというかユニット ぽんぽこ山 によるライブをやっていました。 脱力するような音と動画のライブに続いて、幻の名盤解放同盟による昭和歌謡をかけながらのトーク。 畳の上で寛ぎ体力を温存しながら、眺めるように聴いていました。
続いて、八木 美知依 [鑑賞メモ] のライブ。 エレクトリック21絃箏、17絃ベース箏の音をループで静かに波打つように重ねていきます。 ノンクレジットでしたが青みがかったライブのビデオプロジェクションもあり、浅い海の底を漂うよう。 畳の上でリラックスして聴くのにちょうど良く、もう暫く聴いていたかったですが、William Basinski と時間が丸かぶりだったので、早めに中座しました。
1980年代から活動するものの2000年前後からアンビエントの文脈で注目されるようになったアメリカ・ロサンジェルスのミュージシャン William Basinski のライブは、 “Passing the cup of sorrows” と題されたグラウンドピアノ (Shigeru Kawai SK-5) を使うもの。 コンベンションセンターへ遥々移動してホールに入ると、中央のステージでグラウンドピアノを疎に弾きつつそれがエレクトロニックに操作されていきます。 そんなアンビエントに寄った音を、多くの人がカーペット敷きのフロアに横になって聴いているのも印象的でした。 暫くすると、ピアノは弾き終わり、よりノイジーな電子音の世界へ。 ピアノ演奏に間に合って良かったでしょうか。
続いて、東京を拠点に活動する 鶴田さくら のDJセット。 予備知識は全くなかったのですが、前後の William Basinski, Actress × Suzanne Ciani に比べてフロア志向だったかとは思いますが、トリッキーな展開のエレクトロニカ。 DJブースの隣、部屋角に置かれた椅子に座って、ゆったり聴きました。
27日は単独でDJしたイギリスのDJ Actress と1960年代末からアナログシンセサイザーを駆使して活動するアメリカの先駆的な作曲家・電子音楽のパイオニア Suzanne Ciani による、 London Barbican Centre と Sónar による2025年の共同コミッションプロジェクト “Concrete Waves” のライブです。 中央に置かれたステージの上で、 Buchla 社のモジュラーシセサイザーと会場の四隅に置かれたスピーカーを制御しての Quadraphonic 音響システムを Ciani が操り、 Actress が都市、工業地帯フィールドレコーディングを再構築する “R&B Concrète” を重ねます。
鶴田さくらから引き続きDJブースのある側 (Suzanne Ciani の側) の奥の角のスピーカーの前の椅子に座って聴いていたのですが、 遠くで響くようなビートの上で飛び交う立体音響という聴こえ方。 ステージを挟んで会場の反対の Actress 側ではビートが大音響で鳴り響いているんだろうか、と、時々フロアを歩き回ってみるものの、 立体音響的な変化はあれと遠くで鳴り響いているような音響が近づいて来ることはありませんでした。 そんな不思議な没入型の音響空間を体験しました。
Satoshi Otsuki × VJ Misola (野村 海蒼)
Actress × Suzanne Ciani の後は土曜に引き続き駅前の広場 (Gateway Park) が野外のダンスフロアを楽しもうかと思っていたのですが、生憎の雨。 昨日とは色が変わって、日本のDJ Satoshi Otsuki によるミニマル気味の techno がかかっていました。 雨と2日間の疲れに負けて、早々に会場を後にしました。
遠ざかってしまっているライブ、クラブイベントのリハビリという面もあり、 とても良かったという程のセットがあったわけではなく、がっつり聴くというより雰囲気を楽しんだ感もありましたが、期待より楽しめたでしょうか。 週末の大規模商業施設という点の人の多さはありましたが、 フェス初回の知名度の低さや、ラインナップが実験的なものに寄っているということもあってか、 フェスの会場は空いていて、人混みに揉まれることなくマイペースに楽しめたというのも良かったでしょうか。
NU Festival にラインナップされていた Chloé Juliette が開幕直前に出演を辞退するということがありました。 NU Festival は Sónar との共催イベントで、Sónar の親会社 Superstruct が2024年に米大手投資ファンド KKR (Kohlberg Kravis Roberts & Co.) の傘下に入ったこと、 KKR はイスラエルによるパレスチナの違法な入植やカナダ先住民 Wet'suwet'en の領土を占拠するガスパイプライン建設で利益を上げており、 2025年には50組を超えるアーティストがSónar への出演を取りやめ、ボイコットが呼びかけられ、彼女がレジデント DJを務めるコレクティブ WAIFU もこのアクションに積極的に参加して来たということもあり、辞退を決めたとのこと。 大手資本からインでペンデントであろうとする志向はわからないではないものの、 資本はポピュラー音楽の使い道を決めることはできるが、その意味を決めるのは聴衆だとも考えているので、 ディレクションに影響しない限りは資本を利用するのもありとは思っています。 むしろ、1990年代に The Wire 誌などを通して知った当時の Sónar はまだまだ知る人ぞ知るという程度のものだったので、 Sónar も大手投資ファンドの対象となるほどのものになったのかと感慨深いものがありました。 NU Festival も主催は実行委員会であるものの、JR東日本の後援で、その大規模商業施設を盛り上げるイベントとして成立していたわけです。 そういうことを考えると、この手の文化もすっかり主流に近いものとなったのだなあ、と。
5月27日晩は仕事帰りに世田谷へ。このコンサートを聴いてきました。
ECM からのリリースやその傘下の自身のレーベル Carmo で知られる1960年代末から活動するブラジルの Egberto Gismonti の来日公演です。 度々来日していますが今まで生で聴いたことはなく、今回も渋谷さくらホールでの東京公演の日程が出張と被って行く予定はなかったのですが、追加公演が行かれる日程だったので、これも何かの縁と足を運びました。
今回は Carmo から Universo Musical de Egbert Gismonti (Carmo, CARMO/18, 2019, CD) という Gismonti 曲集をリリースしているギター奏者 Daniel Murray とデュオです。全てアコースティックな楽器で、休憩なしアンコール2回で1¾時間。 Gismonti の多弦ギターのソロから始まり、Murray の6弦ギターとのデュオ、Gismonti のピアノソロ、再び Murray とのギターデュオ、Murray のソロ、そして、アンコール前からアンコール2回は Gismonti ピアノ Murray ギターのデュオという構成でした。
Gismonti と Murray のギターデュオは、対話的というより Gismonti に Murray 合わせて音に厚みを付けるよう。ということで、後半の Murray のソロまではほぼ Gismonti の世界でした。 Gismonti の装飾フレーズ多めの華やかな音世界から、Murray の6弦ギターの音数少なめに余白も聞かせる1曲を挟んで、ピアノとギターのデュオに入ってから、グッと引き込まれました。 ピアノとギターのデュオも対話的というより音を重ねるような演奏で、その意味ではギターデュオの時に近いのですが、音色の違いもあって Gismonti がピアノとギターの演奏をどう対応付けているのか、ギターを弾くようにピアノを弾く様を、もしくは、ギターのフレーズの着想源としてのピアノの演奏を観るような興味深さがありました。
若林時代の家の近くで職場からのアクセスも良い場所だったのは良かったのですが、 前日までの北海道出張の疲れが抜けないうえ、水曜は朝一限に非常勤講師の講義がある、というお疲れの中、仕事帰りのコンサートは体力的に辛いものがありました。 爆睡せずに済んでよかった……。
5月の21日から26日かけて北海道の札幌と函館へ行ったのですが、 移動の合間の時間や週末のオフの時間を使って観た美術館や博物館について。
札幌では小一時間空き時間ができたので近美へ。コレクション展示で École de Paris の特集をしていました。 個別の作品というより、École de Paris、特に Jules Pascinだけでこれだけ作品を持っているのか、という点に興味引かれました。 後で検索して気づいたのですが、公式サイトに経緯が書かれていました。 「この「国際性」の実現に向けて開館前後から力を入れてきたのが、海外のガラス、ヨーロッパ版画、そしてエコール・ド・パリの収集である。」とのこと。 1920年代で国際的な美術運動など他にもっと色々あるだろうにと思う一方、 開館準備中の1973 (昭和48) 年時点では Avant-Garde の再評価もまだあまり進んでおらず、今とはまた違った見え方だったのだろうか、とも。 企画としては、1920s - Les Années Folles 当時の女性像に焦点を当てフェミニズム等へ言及するなど今の時代ならではの切り口で見せようという努力を感じましたが、 同時代の Avant-Garde な作風のものを思い浮かべつつ、École de Paris でこれをやるのは辛いものがあったのでは、と思ってしまいました。
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週末は函館への移動の途中に、白老で降りて、この施設に立ち寄りました。
2020年に苫小牧の西隣にあたる白老にオープンしたアイヌ文化の復興・創造等を目的としたナショナルセンターです。
上演鑑賞だけでなく体験型のイベント・ワークショップを各所で開催している国立民族共生公園と、
資料収蔵・展示のための国立アイヌ民族博物館、
過去に発掘収集され大学などに保管されていたアイヌ民族・副葬品のうち直ちに返還できないものを管理する慰霊施設からなります。
ウポポイに先立ち、白老では1965年に「ポロトコタン」として営業開始、1984年にはアイヌ民族博物館が開館していましたが、
ウポポイの整備に伴い2017年に閉館し、改めてナショナルセンターとしてオープンしたという形になります。
今回初めて足を運びました。
伝統芸能の上演などのイベントの演出や展示の構成は、観客への分かりやすさ、親しみやすさに寄っていて、アイヌ文化のテーマパークのよう。
といっても、芸能の上演を観るだけでなく、
伝統的な歌 ウポポ を一緒に歌う「ウポポ アキ ロ」や、
弦楽器 トンコリ の持ち方や音の出し方を体験する「はじめてのトンコリ」など、
様々な体験プログラムやを巡っていたら、あっという間に半日経ってしまいました。
プログラムには無い、年2回実施しているという若手への伝承のための芸能の練習的な上演の様子をみることが出来たのも、幸運でした。
ウポポイ内にある 国立アイヌ民族博物館 は、特別展示室は休みで残念。
あまり時間が取れず、基本展示室を1時間弱で流し見に近くなりましたが、
先史時代から近代に至る北海道とアイヌの歴史の展示はもちろん、
現代の「ネプキ/私たちの仕事」のコーナーでは、過去の、ではなく、今を生きるアイヌの人々の肖像のような作りもあって、それは良かったでしょうか。
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』での マユンキキ の作品 [鑑賞メモ] の主題となっていた 川村 カ子ト も、
このコーナーで取り上げられていました。
体験交流ホールで、伝統的な歌や踊りなどの芸能の上演「ウポポ ネワ リㇺセ」や、アイヌのユカㇻをアニメーションにした映像「カムイ ユカラ」の上映も観ました。 芸能の上演は、伝統的家屋の内部の様子を示すような背景いっぱいの映像プロジェクション・マッピングの中で行われました。 上映されたアニメーションは「カムイを射止めた男の子」と「キツネに捕まった日の神」の 15分程度の短編2作品で、 アニメーションもスクリーンへの上映というより、舞台の床や側面への投影を含むプロジェクション・マッピング的なものでした。 子どもでも楽しめるようにと思うと仕方ないのでしょうがセリフなどは日本語で、アイヌ語日本語字幕で見たかったものです。
しかし、せっかくナショナル・センターなのですし、 現代的な演出を加えて伝統芸能を上演したり伝承をアニメーション映画化するのであれば、 むしろ、国際的な芸術祭への出品も狙えるような、もしくは国内の公共劇場・美術館等を巡回できるような、 アイヌの芸能や伝承に着想した現代的な舞台芸術作品、アニメーション映画などの創作を目指すのも良いのでは。 そして、こういう試みの中から、例えば、 台湾原住民族の伝統に着想したコンテンポラリー・作品である 布拉瑞揚舞團 『路吶』 [鑑賞メモ] のアイヌ文化版や、 Cartoon Saloon の Irish Folklore Trilogy [鑑賞メモ] のアイヌ文化版のようなものが出てきたら面白いのではないか、とも思ってしまいました。 展示にしても『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』での マユンキキ の作品のようなものもあって良いと思うし、 Oki Ainu Dub Band や Marewrew のようなグループを展示したり売店でCD販売するだけでなくライブに呼ぶのというのもありかと思います。
広く観客に親しんでもらおうという配慮を随所に感じましたが、 民間の商業的なテーマパークではなくナショナル・センターなのですし、観客を少々置いてきぼりにするくらいの本格的な上演や展示をするのも、公共の一つの役割なのではないかとも思います。 といっても、広々とした公園で人混みもなく、ゆっくり半日近く楽しめましたし、 こういう核になりうる博物館があれば可能になることもあると思うので、今後に期待したいものです。
5月後半から6月前半にかけての鑑賞メモも、こうして少しずつ書き進めたいものです。
今週末土曜は午後に与野本町へ。この舞台公演を観てきました。
Anne Teresa De Keersmaeker 率いるベルギーのコンテンポラリーダンス・カンパニー Rosas の久しぶりの来日公演です。 コロナ禍前2019年の Mitten wir im Leben sind / Bach6Cellosuiten [鑑賞メモ]、 A Love Supreme [鑑賞メモ] 2演目公演以来、7年ぶりでしょうか。 今回は Keersmaeker 単独で振付た作品ではなく、モロッコ出身で Keersmaeker 設立のコンテンポラリダンスの教育機関 P.A.R.T.S. を卒業し現在は自身のカンパニー A7LA5 vzw を率いる Radouan Mirziga との共同の振付で、 ダンサーも Rosas の3人にブレイクダンス (ヒップホップダンス) のバックグラウンドを持つフランス出身のダンサー Nassim Baddag を加えて制作しています。
2019年来日時の2作品がそうですが、近年の Rosas の作品はレコード音源やクラシックの楽曲をそのまま使い、タイトルも使う曲から採られることが多くなっています。 この作品も有名な The Four Seasons 『四季』を含む12番からなる Antonio Vivaldi による18世紀バロック期のヴァイオリン協奏曲組曲 Il Cimento dell’Armonia e dell’Inventione 『和声と創意の試み』からタイトルが採られています。 『埼玉アーツシアター通信』2026年4月号に掲載された (パンフレットにも収録された) Keerskaeker へのインタビュー記事で16世紀ブラバント (現ベルギー) の画家 Pieter Bruegel の季節を描いた六連作 (月暦画) にインスパイヤされたと書かれていたので、 Vivaldi の音楽を春から冬まで通して使い、Bruegel の絵に着想した身体の姿勢や動きを交えたダンスで、その音楽を表現するような作品を予想していました。
実際のところは、音楽を使わない場面が半分近くあり、Vivaldi の音楽も季節順ということは無く、四季全て使ったわけでもありませんでした。 音楽を使わない場面では今までの Keersmaeker / Rosas の作品とは異なる有機的な印象を与える動きで、 拍手や指鳴らし、ボディーパーカッションはもちろんタップダンスを含む足を踏み鳴らす音もそれ自体が音楽的でした。 こういった所はむしろ Mriziga が主導した場面でしょうか。 Mriziga の作風には疎く、彼の作風なのかこの作品が特にそうなのか判断しかねますが、 身体の出す音を重視した振付に、Rosas というより、 William Forsythe, Rauf "RubberLegz" Yasit: Friends of Forsythe [鑑賞メモ] に近いものを感じました。
Vivaldi の音楽を使う場面には、手を広げての旋回や幾何学的なパターンでのステップなど、Keersmaeker / Rosas らしさを感じました。 Bruegel の絵画に着想したと思われる動きは、さほど抽象化されず、意外とわかりやすく使われていました。 種蒔き、鍬振るい、銃を撃つ動き、寒さに身を屈める歩き、スケートなどがあったように思うのですが、 Bruegel の月暦画には種蒔きや銃を撃つ場面はない (種蒔きはあったかもしれないですが春の季節の作品は残っておらず、狩りは描いているが16世紀なので槍を持っているが銃は使っていない) ということを考えると、 むしろ農村を丁寧にかつ活き活きと描いた Bruegel に倣いつつも Keersmaeker ならではの視点で、農村の四季を描いたといったところでしょうか。 Keersmaekeer がインタビューで自身を農家出身と言っているので、自身の農家での体験に基づいているのかもしれません。
Vivaldi の音楽を使う場面でも、Rosas の3人のダンサーの動きに、 Nassim Baddag によるヒップホップダンスのパワームーブ (床に手を突いてのアクロバティックな動き)、ウィンドミル (背中や肩を付けて回転する動き) などを組み合わせて、Rosas らしさを感じるパターンをずらして行きます。 Nassim のヒップホップダンスを対比するだけでなく、ブラジル出身の José Paulo dos Santos によるストリートダンス的な動きを対比させた時もありました。 また、Vivaldi を使った場面の中にも、赤く暗めの照明下で3人が下手で蠢くような動きをする一方で上手で1人腕を上げてパターンで動くような場面があり、 これなどは非 Keersmaeker (おそらく Mirziga) 的な世界を逆に Keersmaeker 的な動きで異化するようにも感じられました。
舞台美術はミニマリスティックで、剥き出しのブラックボックスに後方と左右に蛍光灯をずらりと並べてその点滅で変化を付けて行きます。 後方の足元近くに白布の帯が光っており、時々、フランス語と思われる単語が後方に投影される程度。 しかし、ラストは後方の白布が上に引き上げ蛍光灯を覆って背景一面を光らせた上で、 照明を落として逆光にした中で、詩の朗読に合わせてのシルエットでのダンスに大きくイメージを転換しました。 朗読されたソマリ系のバックグランドを持つデンマーク出身のアーティスト Asmaa Jama の詩 ‘We, the salvage’ は、 Bruegel の描いた牧歌的な農村のイメージとは対照的な、ポスト・アポカリプス的とも感じる殺伐とした荒野を想起させるものでした。
そんなエンディングもあって、作品全体として、Vivaldi の曲と Bruegel の絵画に着想した Keersmaeker / Rosas 的なイメージに、 おそらく Mriziga の振付や Baddag のヒップホップダンスによってもたらされた異質なイメージが剥き出しのまま衝突したような、そんな印象を受けました。 見る前に予想した Bruegel 的な農村のイメージを重ねた Vivaldi の四季の整然とした秩序が、異質な要素との衝突で異化されるのを観るようでした。 Vivaldi と Bruegel に着想する牧歌的な農村の四季のイメージはもはや自然にそこにあるように描き示すことができるものではない、むしろ、エンティングのような殺伐なイメージこそが現在である、と、そんなことを思わされた作品でした。
往路は雨がぱらつく程度で傘を使うことなく劇場へ辿り着くことができました。しかし、終演後には本降りの雨。 比較的早い時間に終わったので、帰りに少し寄り道しようかとも思っていたのですが、雨降りに挫けて、直帰したのでした。
5月後半から6月上旬にかけて、まだ鑑賞メモを書いていない公演や展覧会が山積しているのですが、 この公演を観た印象が薄れないうちにタイムリーに鑑賞メモを書いてしまいたかったので、こちらを先に。 飛ばした約1ヶ月分もなんとかしたいとは思っていますが……。
5月16日土曜は昼過ぎに高円寺へ。この公演を観てきました。
今年の年明け早々に観た
『Tokyo Contemporary Art Award 2024–2026 受賞記念展「湿地」』 (東京都現代美術館, 2025) が良かった [鑑賞メモ]
梅田 哲也 ですが、
パフォーマンス作品も観たいと思っていたところ、早速機会があったので、足を運びました。
杉並区立の公共劇場 座・高円寺 の指定管理者が今年4月付けで NPO法人劇場創造ネットワーク から 合同会社syuz'gen に変更され、芸術監督 に シライケイタ が就任した新体制での最初の公演となります。
座・高円寺 の 建物全体を使った移動型パフォーマンス、というか、
コンセプチュアルでブリコラージュ的でサウンドを効果的に使ったインスタレーションにセリフも演技も控えめながら演劇的演出が付いたバックステージ・ツアーという趣でした。
現代美術の文脈で知った作家という先入観もあると思いますし、
ストレンジシード静岡で移動型パフォーマンスを色々観た後ということもあると思いますが、
例えば、建物への作り込みこそ控えめですしナビゲーターも付きますが、
作品の一部なのか判断に迷うような微妙に不穏な物の配置や不自然な人の動きなど、
目 [me] のインスタレーションを観る体験に近いものを感じました [鑑賞メモ]。
コンセプト的には「劇場の記憶」の継承と「記憶の継承」の装置としての劇場、というものがあったようですが、
2009年の開館からどのような公演を主催してきたかといった表向きの歴史を辿るのではなく、
「劇場創造アカデミー」修了生・在学生やカフェや事務所で働くスタッフなどの比較的私的なエピソードを拾うかのよう。
しかし、最も印象に残ったのは、地下3階稽古場での「ここは水源だった」というセリフ。
いかにも武蔵野台地の小規模な「窪」地形に建っているとは思っていましたが、そうか、ここは桃園川支流の水源か、と。
そんなセリフに触発されて、帰りは高円寺駅へ直行せず、川跡を辿ってみました。
中央線高架の南側にまわると、いかにも川跡らしい路地が環七まで続いています。
環七通りを渡った先には、不自然なビルの切れ目と駐車場があり、この南側のビル裏から南に向かって暗渠の痕跡が続きます。
そのまま南下して桃園川緑道まで、期待以上にわかりやすく暗渠跡は続いていました。
桃園川跡は、半世紀ほど前の1970年代半ば、中野坂上に住んでいた幼稚園から小学生にかけて、よく歩いたものでした。
当時はコンクリート板で蓋をした暗渠の上に遊具が並んでいるだけでしたが、緑道として整備されて綺麗になったと思いつつ、こんなに狭かったか、と感慨深いものがありました。
5月9日土曜は昼過ぎに渋谷円山町へ。渋谷ユーロスペースでこの映画を観てきました。
インデペンデントで活動するアメリカの映画監督 Hal Hartley の最新作です。 2000年代に入って遠ざかっていましたが、この映画の公開に先立っての特集上映 『特集:ハル・ハートリー 90’sインディーズの伝説』で、 1990年前後の初期三部作 The Long Island Trilogy 『ロング・アイランド・トリロジー』をまとめて見直したところ楽しめたので [鑑賞メモ]、新作も観ることにしました。
自身をモデルにした隠遁気味のロマンチックコメディ映画監督を主人公とした作品です。 58歳にして遺言状を作成し教会墓守となろうとしますが、 それを察した周囲が死期が近いのではないかと勘違いして引き起こす騒動を描いた人情コメディです。 騒動と言っても、いわゆるドタバタではなく、さざなみのように細やかに、その会話もオフビート気味に広がります。 ラスト近く、主人公の家に周囲の人たちが集まるのですが、勢揃いした様子を俯瞰的に捉えることなく、一対一の対話のシーケンスとして描くあたりも Hartley らしいなと。 そんな Hartley らしさを楽しみましたが、描く時間も1, 2日程度で、空間も主人公の家の周りだけと、話としてはこぢんまりした感は否めませんでした。
しかし、主人公は58歳と自分と同じ歳という設定で、自分も第二の人生設計や終活を考えるべき歳なのだなと、感慨深いものがありました。 と言っても、遺言状を書き始めただけで騒ぐような取り巻く人々など自分にいるわけでもなく、この映画が描く状況が自分とはあまりに違うために、どこか他所ごとにも感じられてしまいました。
ゴールデンウィーク中、静岡一泊から戻った翌5日は昼過ぎまでゆっくり後片付けなどした後、午後に初台へ。この展覧会を観てきました。
戦間期から20世紀半ばシュルレアリズムとその影響下のファッションや広告 (主にグラフィック)、インテリア等のデザインの動きに焦点を当てた、
国内の美術館のコレクションで構成した展覧会です。
前半で美術としてのシュルレアリズムを押さえた後、後半、20世紀のモダンデザインにどのような影響を与えたかを観て行きます。
同様の企画としては『奇想のモード––装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』 (東京都庭園美術館, 2022) [鑑賞メモ] も思い出しますが、ファッションに寄り過ぎずは広め。
20世紀のモダンデザイン史はモダニズムの視点で辿られがちなので、対照的なもう一つの流れであるシュルレアリズムに光を当てるという点では、意欲的な企画でしょうか。
バランスは良いと思いつつ、国内コレクションベースの限界か、少々物足りなさも。
Elsa Schiaparelli のファッション、Art Deco 後 1930s の Cassandre のポスター [鑑賞メモ] や Salvador Dali の広告など、要点は押さえていたように思いますが、
インテリアについては、実用性を残したシュルレアリズム的なオブジェと、その流れを組むものとしてのバイオモルフィズムに分裂した感もある上、
シュルレアリズムのパトロン Edward James の家の内装や建築など写真や資料に頼らざるを得ないものもあり、物足りなく感じました。
シュルレアリズムの企画展に合わせて、収蔵品展もシュルレアリズムの系譜に連なる幻想的な具象の絵画、彫刻が展示されていました。
ちょうど直前にコンテンポラリーなサーカスやダンスを多く観ていたこともあり、
Liam Lelarge & Kim Marro: La Boule [鑑賞メモ] や
ストレンジシード静岡2026で ひびのこづえプロジェクト ダンスパフォーマンス『Are You ALICE?』や にくぶかしぎ『ポスト・グレゴール』 [鑑賞メモ] がやろうとしていたことは、
開光市の《双生児》 (1998) 、《闇》 (1998) や《対話》 (1998) のイメージの身体化だよなあ、と。
また、金 昭希 《A crazy bus》 (2009) の下着の詰まった箪笥の引き出しや洗濯紐と戯れるイメージなど、これをサーカスとして舞台化したらなどと想像しました。
1ヶ月以上前の話になってしまいましたが、 ゴールデンウィーク中は今年も3、4日に静岡で一泊。 毎年恒例 [去年の鑑賞メモ]、『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』と『ストレンジシード静岡2026』。 3日は昼に静岡芸術劇場で Baro d'evel: Qui som? を観た後、ホテルに荷物を置いて、こちらへ。
『ストレンジシード静岡』はすっかり常連の 鈴木 ユキオ、 今年はイギリス拠点のインクルーシブダンスカンパニー Stopgap とのコラボレーションということで期待していましたが、 開場の17時頃は小雨がぱらつき初めてしまいました。この後、雨は強くなる予報ということで雨天中止になってしまいました。 障害のあるダンサーが出演する演目ですし、その後の降りっぷりからして、雨天中止は適切な判断でした。
気持ちを切り替えて、他はまだ観れるかもしれないと、駿府城公園へ移動。
瀬戸内サーカスファクトリーのアソシエイト・アーティストの 谷口 界, 野瀬山 瑞希 の Cyr wheel と、
麻風 の大旗遣いを組み合わせた、コンテンポラリーサーカス作品です。
谷口 は ホワイトアスパラガス [鑑賞メモ] などで観たことがありましたが、他は初めてです。
駿府城公園内の広場の一角に10 m 四方程のステージを作りそこで上演しましたが、20 m × 50 m 余はある広場全体を借景していました。 広場一面に薄く敷かれた白っぽい細かい砂利の上に、ステージが掃き分けられ、庵治石と呼ばれる香川県産の花崗岩の自然な形を活かした石材が3つに、鈍く銀色に光る金属製の Cyr Wheel が寝かせ掛けられている様は、 もの派—というか 李 禹煥—のインスタレーションのよう [関連する鑑賞メモ]。 生成りのシンプルな衣装の2人が静かに Cyr wheel をまわしはじめることで、イメージを損なうことなく、これに動きを加えます。 さらに生成りの衣装に純白な大旗がこれに加わり、縦方向の動きや、背景の借景との繋がりが生まれます。 もの派的なインスタレーションが動き出し、さらに、大旗に誘われて空間へ広がっていくかのような、そんな面白さのあるパフォーマンスでした。 惜しむらくは次第に強くなる雨の中のパフォーマンスで、演じる方もやりづらかったでしょうし、観る方も借景を楽しめるようなコンディションでは無かったことでしょうか。
この後、日没後には土砂降りに。そんな駿府城公園で、 『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』のSPAC-静岡県舞台芸術センター / 宮城 聰『王女メデイア』を観たのでした。
翌4日はうって変わって天気も良く暑すぎもなく、野外パフォーマンス日和に。まずは駿府城公園へ。
主に首都圏で活動するカンパニーによるパフォーマンスです。このカンパニーを観るのは初めてです。
演技する人をみるというより、芝生に横になり空を見上げながら、アコースティックギターの疎な爪弾きを伴奏にした語りを聴くというものでした。
語りの内容が入ってきたという程ではありませんでしたが、30分の空の移ろいが自然と楽しめました。
駿府城公園を出て、呉服町商店街へ移動。
2025年の 演劇ユニットせのび 『ト(゛)リップ〜七ぶら編〜』 [鑑賞メモ] に続いて、
街の歴史に取材して制作した移動型パフォーマンスということで、楽しみにしていました。
呉服町商店街の老舗や先進的な取り組みをしてみる店の逸話を、
ジンタらムータ演奏のチンドンに乗せて語っていきます。
日本近代戦前期の広告手法に由来するチンドンというフォーマットとと街固有のテーマの組み合わせは、こうしてみるといかにも相性良いのですが、そうかその手があったかという新鮮さもありました。
再び、駿府城公園に戻って。
ひびのこづえプロジェクト ダンスパフォーマンス
同時期に東京芸術劇場で開催されているFACT/FESTIVALの常連だった ひびのこづえプロジェクト ダンスパフォーマンス ですが [鑑賞メモ]、今年はストレンジシード静岡に登場。
NHK Eテレ『にほんごであそぼ』の今年3月末からのエンディング「ねぇ、アリス」の歌と二人のダンサーで演じられる Cheshire cat も登場しましたが、その拡大版というか完全版。
Lewis Carroll: Alice's Adventure in Wonderland に着想した ひびのこずえ らしい衣装が、ポップに踊ります。
天気の良い緑の舞台も(気狂い)お茶会向けだったでしょうか。
そういえば2023年もここでお茶会だった (サファリ・P『おちゃのじかん』) ことを思い出しました。
再び呉服町商店街の札の辻へ移動。
フランスのコンテンポラリーサーカスのカンパニーによる、移動型のパフォーマンスです。
黒シャツに黒スーツという姿の5人のパフォーマーと、
アクロバット的な身のこなしを時折交えつつも、白いクラブのジャグリングをしながら街中を移動するパフォーマンスです。
同じ姿でスピーカーを担ぐミュージシャン1人が、マイクでマウスパーカッションで音楽を繰り出します。
淡々と静かに移動してジャグリングするのではなく、即興的に、横断歩道に寝そべったり、壁や石垣の上に立ったり、階段に座ったり、公園の植栽の中を抜けたり。
日常ではあり得ない場所でジャグリングをすることで視線を誘導して、空間を異化していきます。
ラストは富士見ひろばに出て、ミュージシャンもエレクトリック・ギターでノイジーなリフを演奏し、フィナーレでした。
服装がカラフルではなく黒づくめと対称的ですし、
カラフルな身体もしくは白いクラブのジャグリングという違いはあるもののミニマリスティックな道具立てを使い、
視線の誘導で都市の味方を変えていくようなパフォーマンスという点で、
Cie Willie Dorner: Bodies in Urban Spaces [鑑賞メモ] のジャグリンク版を観るようにも感じました。
大熊 隆太郎
関西を拠点に活動するカンパニー 壱劇屋 を主宰する 大熊 隆太郎 による
マイム、ジャグリング、演劇に音楽とマルチディシプリナリーかつ観客参加型の祝祭パフォーマンスです。
去年も常磐公園で上演していますが時間が合わずに見逃し。
今年は会場が変わり、バージョンを変えての上演とのことでした。
観客にも鳴物を持たせて叩かせるというところまでは予想していましたが、 お祭り的に盛り上がる程度のものではなく、意外にもトランス的な儀式に近いものでした。 基本的にはそれぞれのパフォーマーが自分の得意とするスキルでパフォーマンスするのですが、 石水 タヰキ だけでなくトリコ・Pの 佐々木 ヤス子 が三つ玉のジャグリングやディアボロを演ったところに、思わず目が行きました。
自分もポリバケツを叩く人になってしまいました。ので、後半の観客参加になてってからの写真はありません。
黒袖のダミーハンドを使った四腕でのジャグリングを得意技とするONと、ダンサー・振付家 杉本 音音 の、2人からなるユニットです。
前の演目と時間が被ったので観たのは後半のみでしたが、ジャグリングの要素はほぼ無く、
2人の身体にさらにダミーハンドを加えて、異形の身体を作るよう。
タイトルからして Frantz Kafka: Die Verwandlung 『変身』に着想しているようですが、
虫というより、むしろ、Hans Bellmer の Die Puppe 『人形』シリーズを想起しました。
三度、呉服町商店街へ移動して、少しカフェで休憩。で、青葉シンボルロードで最後にこれを観ました。
Co.SCOoPP
『ストレンジシード静岡』では、『まちなかサバイバル!』 (2024)、『まちなかサバ?リバイバル!』 (2025) と
白いモコモコを着てのウォーキングアクトを交えたエアリアルのパフォーマンスをした関西のエアリアルカンパニーですが、今年は新作です。
誘蛾灯に着想した三角に下げたスクリーン様シルクにビデオプロジェクションしながらの、エアリアルのソロです。 糊むらか付いた埃かの様なムラのある白色光の投影の中でのパフォーマンスは誘蛾灯に囚われもがく虫を想起させますが、 やがてナレーションと共にグロテスクな映像が投影され、囚われもがく虫は映像に囚われた人の願望、欲望のメタファーに変容します。 しかし、エアリアルのパフォーマンスに合ったトーンとしてはこの映像使いで良いと思いつつも、 実際のインターネットのソーシャルメディアに溢れる人の願望、欲望を煽るような映像はインパクト重視でもっとキッチュだよな、とも思ってしまいました。
2016年に始まった『ストレンジシード静岡』も最初の頃はエントリーも雑多な緩いイベントと感じましたが [鑑賞メモ]、 回を重ねる毎に成熟し [鑑賞メモ]、 コロナ禍明け以降のこの数年はプログラム的にも安定して、良いフェスティバルになりました。 2024年から3年間の SPAC-静岡県舞台芸術センターのストリートシアター グローバル人材育成プロジェクト “STRANGE Lab.” という人材育成プロジェクトも始まり、 育成アーティスト4組 (鈴木 ユキオ, 大熊 隆太郎, 安本 亜佐美, ゼロコ) の作品も上演されました。 今後のさらなるレベルアップを期待します。
約1ヶ月前の話になってしまいましたが、 ゴールデンウィーク中の静岡一泊、3日午後は『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』のこの公演を観ました。
Baro d'evel はフランス出身の Camille Decourtye とスペイン・カタルーニャ出身 Blaï Mateu Trias の主宰するフランスのコンテンポラリーサーカスカンパニー。 といっても、ARTE Concert の ARTE en scène シリーズで Le vide de l'autre (2020) という約10分の短編を観たことがある程度で、 むしろ、Festival d'Avignon で上演されたコンテンポラリーサーカス作品という期待で観ました。
老若男女が上品な黒い衣装に身を包んだ姿で登場し、歌を歌ったり、並べられた成形のみ焼成前の陶土の器を道化のように弄ぶところから始まります。 やがて後方から土砂、瓦礫かゴミの山を思わせる塊がせり出してきて、 その前に並んだ人々が次第に足元に染み出した白い水 (おそらく陶土の泥水) に足を滑らせ転ぶうちに ––もちろん、クラウン的な転倒技やアクロバティックな身のこなしを駆使したものですが––、白く汚れた姿となります。 背景の暗色の塊も災害や紛争を暗示するように感じられ、 時に陶土の器をお面のように変形して被り、汚れた姿でのたうち回るような動きからは、 巻き込まれた難民や都市のホームレスがのたうちまわり打ちひしがれれる様を観るよう。 去年観た Peeping Tom: Triptych の第三幕 The Hidden Floor (2007) や [鑑賞メモ]、 Faye Driscoll: Weathering (2023) [鑑賞メモ] なども思い出され、今の時代ならではの舞台表現にも感じられました。
後半、塊の下から大量の空ペットボトルが溢れ出し、床一面に敷き詰められたようになり、舞台美術は大きく転換。 空ペットボトルをガラガラと足などでかき分けながらパフォーマンスする様子は、 陶土の面に角を生やした格好をした人が登場したりする点も含め、 Alexander Ekman 振付・演出の Ballet de l’Opera national de Paris: Play (2017) の6万個のテニスボールを使った場面を思い出しました [鑑賞メモ]。 Qui som? の初演が Festival d'Avignon ということを考えるとその観客の少なからずが Play を知っていたと思われ、それを踏まえての演出だったのではないかと。 しかし、汚れたいでたちのパフォーマーたちがゴミを思わせる空ペットボトルをかき分ける様は Play のオマージュというよりその逆、 Ballet de l’Opera de Paris の Play のメッセージである生きる本質としての「遊び」など金持ちの戯言、と言わんばかりの凄みを感じました。
床一面に広がった空ペットボトルを後方へ片付け、カーテンコールで終演、と思いきや、
空いた舞台の上に Camille Decourtye がマイク片手に現れ、現在の不安な時代や、それへの立ち向かい方について舞台で語り始めました。
主張している内容はさておき何を始めるんだろうと少々怪訝な気持ちになりましたが、パフォーマー人一人楽器を演奏しながら登場してマーチングバンドとなり、語りはラップとなり、観客を先導するようにホワイエへ移動して、祝祭的フィナーレとなりしました。
公演後で知ったのですが、初演の Festival d'Avignon の時からこの演出だったようです。
一週間前に David Byrne の Coachella でのライブをストリーミングで観たばかりだったので [鑑賞メモ]、
そのパフォーマンスや、更に遡って David Byrne’s American Utopia のマーチングバンドが客席を練り歩いて出ていく終わり方 [鑑賞メモ] を連想させられました。
思えば、マーチングバント的な楽隊が客席を練り歩いたり観客を誘導するというのはサーカスではよくある演出で、David Byrne もそこに着想したのだろう、と気付かされました。
David Byrne の Coachella でのライブは “Life During Wartime”、そして、“Love and kindness are a form of resistance” がテーマとも言えるものとなっていたわけですが、 そのカーテンコール後のマーチングバンドだけでなく、その舞台でのパフォーマンスも含め、 この Baro d'evel の Qui som? にも、それに近いものを感じざるを得ませんでした。
ゴールデンウィーク中の静岡の話は、残すは『ストレンジシード静岡2026』。大物がまだ残っています……。
ゴールデンウィーク中の3日、4日は、例年通り一泊で静岡へ。 3日は午前中に静岡入りして、まずは駿府城公園へ。
去年の『SPAC天竺舟』 [鑑賞メモ] に続いて、
今年も開催された 駿府城公園の堀を一周する観光遊覧船 葵船 を使った朗読劇が開催されました。
去年がゆったり楽しめたので、今年もさっそく乗りました。
今年のお題は、徳川 家康 が今川家の人質として駿府にいた時に結婚した正妻にて、後に 織田 信長 の命で息子 信康 と共に夫に処刑された 築山殿。 今年は『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』で上演される『女王メデイア』とは関係無いのかなと思いきや、 夫に裏切られその主君の命で処刑/追放される親子という共通点を重ねた脚本に、なるほど、と。 もちろん、安倍川覆水流の湧水など新たな気付きもありましたし、水面から気持ち良い晴空と新緑の眺めをのんびりと楽しみました。
この後、東静岡へ移動して、静岡芸術劇場で Baro d'evel: Qui som? を鑑賞。 静岡に戻ってホテルへチェックインして荷物を置いてストリートシアターフェス 『ストレンジシード静岡2026』に参戦も、雨が降り出してしまいました。
3日最後は、次第に本降りとなる駿府城公園で、 『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』かつ 『ふじのくに野外芸術フェスタ2026』のプログラムの公演を観ました。
恒例になっているSPACの駿府城公園での野外公演は、 2025年6月 The Coronet Theatre, London 公演の凱旋公演となる、 14年ぶりの再演となる1990年代にク・ナウカで初演した作品です。 ムーバーとトーカーを分離するスタイルを確立したとされる作品として名は知るもの、観るのは初めて。
元はギリシャ悲劇ですが、この作品では舞台を日本の明治時代前期に移し、全て男性の文士たちが座敷での宴席で日本語訳の『メデイア』を朗読しながら女中たちに演技をさせる、という体で展開します。 演じられるメデイアもワンピースに着物を羽織るというジャポニズムを思わせるもので、夫や息子も19世紀的な軍服です。 やがて、文士の一人が女中を裏手に連れ出し手籠にする様子を、錦絵が描かれた背景の簾越しに見せます。 そして、メデイアの夫たちへの復讐の場面が、女中たちの文士への復讐に重なって終わりました。
脚本は1999年上演時と同じということですが、#MeTooにも通じる今でも古さを感じさせない翻案の妙を楽しみました。 しかし、舞台にはバルーンのアーチによる屋根があったものの客席には屋根がなく、土砂降りの雨に打たれながらの鑑賞で、舞台に集中できませんでした。 元となるギリシャ悲劇 Medea は他の解釈での上演を観たこともあり [鑑賞メモ] 物語から置いていかれることはありませんでしたが、 ディテールを味わう余裕が殆ど無かったのは残念でした。 野外劇場ならではの空間使いの演出も特に無かったので、通常の劇場で観たかったでしょうか。
2000年前後にユーロスペースかイメージフォーラムのダンス映画特集のような企画の中でク・ナウカのビデオを観てムーバーとトーカーの分離を事を知った記憶があり、 その時の演目が『女王メデイア』だったのではないかと思っていたのですが、 その朧げな記憶とは全く異なっていました。 では、あのときに観たのは何だったのだろう、と。
ゴールデンウィーク中の静岡の話は長くなるので、一旦ここで切ります。 既に2週間以上経ってしまいますが……。