12月第三週末土曜は午後に与野本町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 の劇場付きダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2025年夏の公演は、 2023年に黒部市の前沢ガーデン野外ステージで上演した『セレネ、あるいはマレビトの歌』を改訂した劇場版で、 スロヴェニア公演を経ての帰国公演です。
Arvo Pärt の音楽を使い『Fratres I』 [鑑賞メモ] を含むということで予想していましたが、全体として祈りの色合いを強く感じる作品でした。 といっても、『春の祭典』 [鑑賞メモ] などを思い出すような集団と個、2集団間の対立などを描く場面や、 井関と金森のデュエットのような見せ場もあり、そんなところもNoismらしいと。 しかし、そんな場面を使ってナラティヴに物語を描くというより、全体として祈りの儀式を観るような作品でした。
このままでは鑑賞メモのバックログが解消されないですし、そもそも時間が経つと印象や記憶も不確かになってしまうので、今年から、鑑賞メモは拙速でも早く書き上げることを重視しようと思います。
2025年に入手した最近数年の新録リリースの中から選んだ10枚+α。 展覧会・ダンス演劇等の公演の10選もあります: 2025年公演・展覧会等 Top 10。
2025年に歴史の塵捨場 (Dustbin of History)に 鑑賞メモを残した展覧会やダンス演劇等の公演の中から選んだ10選+α。 おおよそ印象に残った順ですが、順位には深い意味はありません。 旧作映画特集上映や劇場での上演を収録しての上映などは番外特選として選んでいます。 音楽関連は別に選んでいます: Records Top Ten 2025。
あけましておめでとうございます。
去年2025年の一年間を振り返って、展覧会・公演等Top TenとレコードTop Tenを選びました。
2025年は1月の手術入院から始まるという幸先悪さだったわけですが、2月には自宅のPC/HDD故障、4月から数ヶ月は中耳炎、とトラブル続き。 そして、6月下旬には独居の母が倒れて入院。以降は、入院中は病院へ、退院後は実家へ週1, 2回通う日々です。 そんな、展覧会・公演等へ足を運んだり、音楽を聴いたりする時間の捻出に苦慮した2025年でしたが、 こうして振り返ってみると、Top 10 を選ぶのに困らない程度には良い展覧会・公演やレコード/CDに出会えていたのでしょうか。
そんなプライベート上での問題もありますが、 それに加えてBBC世界情勢編集長が言うように 第三次世界大戦へのプロセスが始まっているのではないかとという世界情勢もあります。 そろそろ趣味生活などど言っていられない状況なのかもしれません。 この談話室への鑑賞メモを書く時間がなかなか取れず、更新も滞りがちで、 サイトの存続も危機的状況ですが、細々とでも続けて行ければと思いますので、今年もよろしくお願いします。
12月第二週末土曜は二週続けて横浜山下町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
1973年設立の台湾のコンテンポラリーダンス・カンパニー雲門舞集 [Cloud Gate Dance Theatre of Taiwan] ですが、 海外公演も多く、欧州での公演のレビューやトレイラーなどを目にする機会も多かったのですが、今まで生で観る機会がありませでした。 今回、横浜国際舞台芸術ミーティング2025 (YPAM2025) のYPAMショーケース かつ ヨコハマダンスコレクション 2025の公演で初めて生で観ました。 観たのは、2020年就任の二代目芸術監督、鄭 宗龍 と、Rhizomatiks での活動で知られる 真鍋 大度 [関連する鑑賞メモ] のコラボレーションによる、2023年作です。
後方の数枚に別れたパネルを使う程度でほぼブラックボックスで、映像を駆使した演出です。 リアルタイムでの撮影、処理と投影による映像とのインタラクティヴなダンスで、 Adrien M & Claire B [鑑賞メモ] や 梅田 宏明 [鑑賞メモ] などの、 粒子状というかテクスチャのような映像使いが多く観られましたが、抽象的なものだけでなく、むしろ人物像などの実写映像の加工と組み合わせが特徴的で、飛び散る光の粒は波飛沫のよう。 ダンサーは13名で、長袖のレオタードというかコンプレッションウェアのようなトップスに袴のようなワイドなボトムという、テクスチャはあるもののほぼ黒の衣裳。 一列に並んで波のような動きを作ることもありましたが、むしろ、広めに開いた脚を踏ん張った状態で腰や肩を回すような動きの多用に、波を感じました。 そんな、多くのダンサーとインタラクティヴな映像によるスタイリッシュな舞台を楽しみましたが、Rhizomatiks だけでなくテクノロジーを駆使した展覧会でもあることなのですが、それ以上のものがあまり感じられないという空虚さもありました。
12月最初の週末土曜は晩に出直しで初台へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
2000年代以来フランスを拠点とし、2023年にフランスの TJP, Centre dramatique national de Strasbourg - Grand Est (ストラスブール・グランデスト国立演劇センターTJP) のディレクターに就任した、ダンサー・振付家 伊藤 郁女 [Kaori Ito] のソロでの公演です。 2020年代に入って度々日本で公演するようになっていますが、観るのは2021年の 笈田 ヨシ [Yoshi Oïda] とのコラボレーション [鑑賞メモ] ぶりです。 作品は2018年に自身のカンパニー Compagnie Himé で制作したものです。
自身の多忙なダンサー時代の体験に基づく作品です。 スケジュールに追われて自分を見失っている様を、 奈落に抜ける方形の穴が2箇所に空いた斜めに置かれた白い方形の舞台と、 その上に敷かれた薄布や、腕や膝を固定するような型なども使って、 奈落に落ちたり這い出たりする様な動きや、型にハマってままならない身の動きで、読み上げられる自身のスケジュールに合わせて、自身が疎外されている様を描くようでした。
自身の体験に基いた自伝的な作品で、時折、観客へ問いかけ応答を求める所など、 少し前に観た Aya Ogawa: The Nosebleed [鑑賞メモ] も思い出しましたが、同じようにはいかず、 ソロで自身を演じているという距離感の無さなのか、もしくは、ダンサーの生活の多忙さが自分の生活とはかなり縁遠く感じたせいか、作品の世界に入り難いものを感じてしまいました。
12月最初の週末土曜は昼に横浜山下町へ。コンテンポラリーサーカスの公演を観てきました。
2012年に香川県を拠点に活動するコンテンポラリーサーカスの拠点、瀬戸内サーカスファクトリーが、 フランスのサーカスアーティストと共同創作した作品です。 首都圏での公演がほとんど無く観る機会が無かった瀬戸内サーカスファクトリーですが、 この横浜国際舞台芸術ミーティング2025 (YPAM2025) のYPAMフリンジでの公演で、やっと観ることができました。
芥川 龍之介 の短編小説『蜘蛛の糸』に着想した約一時間の作品です。 香川県産の石材や木材を使った装置を使いつつ、抽象度の高いミニマリスティックな演習で、 その物語を演じるというより、着想した場面をサーカススキルを交えつつ描いたものを連ねていく様な作品でした。 中盤のエアリアルアーティスト2名によるロープ2本回転させながらのエアリアルから後方の壁前を方形に巡るワイヤーワークの場面や、 ラストの円錐状の光の中、釣りされた石を揺らしながらその上でのソロのアクロバットなど、 エアリアルスキルを活かした浮遊感ある場面が、美しく印象に残りました。
その一方で、前半の長さ 50 cm 程度の角材を積み上げたりする場面は、テキパキした動きなどは、演技というより逆に作業を見ているようで趣に欠けるように感じる時もありました。 自分が『蜘蛛の糸』のハイライト的な場面と期待していたということもあるかもしれませんが、 ラスト直前の犍陀多が地獄から逃れようと蜘蛛と糸を登る場面が、 リガーも含めた6名のパフォーマーが吊り下げたロープの周りで小さな動きでわちゃわちゃ動いていて、総体として動きがごちゃごちゃとして映えない印象を受けたのも惜しく感じました。
11月最後の土曜は午後に与野本町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
ドイツのコンテンポラリーダンスの文脈で活動した振付家 Pina Bausch (2009年没) の最晩年作の、 彼女が率いたカンパニー Tanztheater Wuppertal によるリバイバル上演です。 かつては数年おきに来日していましたが、2017年の Neklen [鑑賞メモ] 以来8年ぶりの来日です。
象徴的ながら大掛かりな舞台装置が印象に残ることが多い Pina Bausch ですが [2004年の Ten Chi の鑑賞メモ]、 この作品はドレープのある薄手の白布がいく筋か下げられたシンプルなもので、 ライティングとナチス期ドイツのモノクロ映画 Viktor Tourjnsky: Der Blaufuchs (UFA, 1938) での演出でした。 しかし、スリムな黒の上下と男とロングのキャミソールドレスという姿の女が、私的な語りを交えつつ、時に遊びを感じる仕草を交えた踊りを繰り広げる、という定番の展開で、 Nazareth Panadero や Julie Shanahan など昔ながらのダンサーも出演しており、 (Kontakthof 以降のスタイルが定まった) Pina Bausch を観た、という感慨がありました。
しかし、衣裳も振付も性差を感じさせない Nederlands Dans Theater 2 の公演を観たばかりだったせいか、 今となってはその衣裳や振付が保守的に感じられてしまうことは否めず。 多様なミュージシャンの既存の音源を使った音楽も、選曲のセンスの良さは感じられるものの、なまじ知っているミュージシャンや曲が少なからずあるだけに、 DJ的とすら感じる元の音楽の文脈を外すような使い方が、気になってしまいました。 Cluster & Eno や Hope Sandoval の様なポピュラー音楽、特にロック的な文脈のもの場合、時代的な文脈が少し気になった程度ですが、 ノルウェーの少数民族サーミ (Saami) の歌手 Mari Boine の曲など、その文脈を外してオシャレなダンスのBGMとして消費しているかのよう (ワールドミュージック的な音楽消費の一面とは思いますが)、とも感じてしまうという。 そんな限界も感じてしまった公演でした。
11月第4週末三連休中日土曜は午後に初台へ。この演劇の公演を観てきました。
東京とアメリカを行き来きしながら育ち、ニューヨーク・ブルックリンを拠点に活動する劇作家・演出家・パフォーマーの Aya Ogawa の日本初公演です。 作風やバックグラウンドはほとんど知りませんでしたが、新国立劇場・演劇部門の海外招聘公演ということで観てみました。
失敗をテーマとしたワークショップを通して作り始めた作品で、作家自身の失敗である父と疎遠になり亡くなった際も葬式をあげなかったことを題材するという自伝的な作品でもあります。 元々、オルタナティブスペースのような会場を使い客席を取り囲むような形で上演を始めたとのことで、 舞台と客席の関係を取り払うというほどではないものの、客席の照明に明るさを残した上、観客も時々参加させる形での上演でした。 オーソドックスな会話劇のような演出ではなく、Aya Ogawa が自身を演じることが避けられ、一人複数役で舞台上での役の切り替えもあり、 俳優のリアリズム的な役の作り込みを通してではなく、俳優が舞台上に作り出す状況を通して、 親子のディスコミュニケーションやアメリカ社会での日系人の置かれた状況 (白人) を描いていくよう。
入場時にメモ紙が渡され、後半近くに観客に自分の失敗について書かせて集めました。 読み上げたりするのだろうかと思ったところ、内容に触れずに手回しのシュレッダーにかけてしまい、 観客に書かせたものをそうしてしまうのかと、驚きました。 しかし、ラスト、観客8名も参加させて父の葬式をする場面で、そのシュレッダーが棺桶に入れる花の様に添えられるのを観て、 なるほど、Aya Owaga の父の葬式をやり直すことを通して、Aya Ogawa だけではなく観客の失敗と悔恨も「葬送」する作品だったのだな、と。
Aya Owaga の個人的な体験に基づくものの、肉親との不仲という多くの人が何かしらの抱えているという点で普遍的なテーマが、絶妙な距離感で作品化されていましたし、 晒すように弄るのではなくそっと寄り添うような観客参加のあり方も興味深いものがありました。 自伝的、観客参加型と事前に知って苦手なタイプの作品かもしれない思ってましたが、杞憂でした。
11月第4週末三連休初日土曜は午後に横浜山下町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
オランダのコンテンポラリー・ダンス・カンパニー Nederlands Dans Theater (NDT) の去年 [鑑賞メモ] に続いての来日は、 去年の NDT 1 (23歳以上のダンサーからなるメインのカンパニー) と代わって NDT 2 での来日でした。 NDT 2 は Jiří Kylián 芸術監督時代の1978年に若手育成目的のセカンド・カンパニーとして設立されましたが、 独自の演目を持つ NDT 1 とは独立したカンパニーという形で活動しています。 新進の振付家と新作を制作することが多いようで、今回のトリプルビルも Alexander Ekman 以外はこの公演で知りました。
スペイン・バレンシア出身で、現在はカタルーニャのバルセロナを拠点に自身のカンパニー La Veronal を率いる Marcos Morau の作品です。 12名のダンサーを使い、Sharon Eyal [鑑賞メモ] なども思い出されるダンサーの密集や線状の連なりを作りますが、Eyal の脈動とは違い全体として有機的な動きを見せます。 人の塊から一人がこぼれ落ちたり、取り込まれたりという形で、要所要所で、集団と個を対比する場面を作ります。 ブルガリアのポリフォニーに太鼓様の打楽器の強い響きによるビートを重ねた音楽を使い、動きもキレ良くメリハリがあるものでした。 男女共に、袖と首周りに細かい抽象的なプリントのある半袖白Tシャツに、黒のスカートにサスペンダー、という衣裳も、音楽同様架空の民族衣装の様に感じられました。
ロンドンの Hip Hop Dance Theatre のカンパニー Far From The Norm を主宰する Botis Seva の作品です。 ヒップホップというよりダブステップ的なビートに乗って、ヒップホップ/ブレイクダンスのイデオムを強く感じる動きを使います。 ラップではなくナレーション的に創作についての考えなどの語りが使われますが、その語りの内容をダンスで表現しているようには感じられませんでした。 むしろ、暗めの照明下で、カーキ色のTシャツやカットソーにルースなパンツという上下に黒のキャップを目深に被った男女8人のダンサーが、 組んだりするような動きをほとんど使わずに踊る様、そして、集団的な動きに1〜2人の動きが並置される様に、都会の中での孤独、分断された社会の中で孤立する人々を連想させられました。
Ballet de l'Opéra national de Paris に振り付けた Play (2017) の日本公演の記憶も新しい [鑑賞メモ] スウェーデンの振付家 Alexander Ekman の作品です。 ちなみに、Ekman は2002年から2005年の間 NDT 2 にダンサーとして在籍していました。 13名のダンサーを使い、集団へ新しい一人が加わる時の互いの違和感、戸惑いなどの微妙な感情や状況のスケッチ的な情景描写を繋いでいきます。 男女共に上半身裸 (女性はベージュのスポーツブラ) にロマンチックチュチュという衣裳をベースに、 時に黒のジャケットを羽織り、最後はチュチュを取ってベージュのアンダーウェアのみの姿で、 Dave Brubeck Quartet の “Take Fave” をメインテーマの様に使った音楽に、 エレガントな動きにユーモアも交えて軽妙洒脱なダンス作品に仕上げていました。 ほぼブラックボックスの舞台に置かれた丸い岩のようなオブジェの醸し出すシュールな不条理さも良いアクセント。 トリプルビルの中で最も楽しめた作品でした。
三作とも衣裳はもちろんダンサーに振り付けられた動きも性差がほとんど無い作品だった、というのも、今の時代のダンス作品ならではでしょうか。 それだけでなく、三作の間でベースにある動きのイデオムや作風は異なるものの、集団と個の関係という通底するテーマが感じられるなど、 共通点というか方向性も意識させられたプログラムでした。
公演後は鎌倉へ移動。6月以来休業していたカフェ・アユーが10月から不定期ながら営業再会したので、遅ればせながら顔を出したのでした。よかった。
11月第三週末土曜は午後に初台へ。このオペラを観てきました。
Georg Büchner の戯曲 Woyzeck [関連発言] を原作とする Alban Berg のオペラ Wozzeck [2014年の鑑賞メモ] の新国立劇場2025/26シーズン新制作です。 イギリスの Richard Jones よる演出ですが、この演出家の舞台作品を観るのは初めて。
Wozzeck ら兵士の服装もイエローの作業服、上官の服も階級章風の飾りこそ軍服風にも感じますが原色の赤という作業着を思わせる服装です。 べニア板風の壁の質感のプレハブ小屋の内部のようなセットを幾つか用意し、それを移動させて場面を切り替えていきます。蛍光灯のフラットで青白い照明が多用されます。 20世紀半ばの大規模な工場か工事現場とその現場事務所、近所の接客ありの酒場 (いわゆるキャバクラのような店) を舞台にした現場作業員と現場監督の話に置き換えたかのような演出でした。 あえてゴージャスさや美しさを避けるようなビジュアルの舞台もオペラらしからぬと思いつつ、 話の内容からするとむしろこの安っぽさこそ Wozzeck らしい、とも。 そんな場面が続くだけに、Marie を殺す場面や Wozzeck が沼に嵌って死ぬ場面こそ照明を使った抽象的で象徴的な演出も生きます。
今まで観た演出は Wozzeck に比べて Marie の描写は薄く印象に残っていないのですが、 Marie の部屋のミッドセンチュリーな感じや少しくすんだパステル入った色合いのカーディガンとスカートという服装という (Aki Kaurismäki の映画 Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] を思い出しました) 質素な生活感や、 鼓手長との浮気での服装の変化のような形で可視化されたせいか、 この物語の中での彼女側の視点というか内面が見えたようにも感じられました。 また、出番があるときはTVばかり観ているネグレクト気味のとも言える Wozzeck と Marie の息子が、 ラストの場面ではまるで Wozzeck のようになることで、貧困の世代的再生産を暗示します。 Wozzeck を通して貧困を生きる男性の困難を描くだけでなく、貧困を生きる女性やその子供にも目配せが効いた演出でした。
オペラを観た後は隣の東京 オペラシティ アートギャラリーへ。 『柚木紗弥郎 永遠のいま』を観ました。 民藝がルーツにある作家ですが、パターンの抽象度の高さがミッドセンチュリーモダンぽくもある型染で、そこに時代を感じました。
11月第二週末土曜は午後に恵比寿へ。この展覧会を観てきました。
Pedro Costa
1989年に長編デビューしたポルトガルの映画監督 Pedro Costa の、21世紀に入って制作するようになったビデオ作品をメインに構成した (スライドショーとプリントの作品、他作家のドキュメンタリー映像上映を含む) 展覧会です。
Costa の映画は観たことが無く作風の予備知識はほぼありませんでしたが、この美術館での展覧会ということで観てみました。
ビデオ作品はマルチチャンネルのプロジェクションで投影されていましたが、
人物を捉えた映像ながら何かを演じている様を捉えているというより、動きの少ない顔のアップやバストアップを多用し、それを短時間のループで反復しいます。
まずは全体把握とざっと展示を一周した後に見直しても投影された映像に何か物語るような展開が感じられず、「液晶絵画」の肖像を観るようでした (プロジェクタでの投影ではありますが)。
暗い背景に人物を浮かび上がらせるようなライティング、テクスチャ感を増すようなオーバーレイの光や火の映像など、さすが映画監督でもあるだけあってスタイリッシュな映像の仕上がりでしたが、
一カ所以外全て立ち見でむしろ観客を回遊させるかのような構成なので、じっくり映像を観る展示ではないようにも感じられました。
アニュアルで開催されている写真を主なメディアに使う新進作家展です [去年の鑑賞メモ]。
展示前半、プライベートな題材の作品が続いて、苦手感は否めませんでした。
後半は対照的で、ラストは、Banaba (キリバスのバナバ)、Nauru (ナウル)、Viti Levu (フィジーのビティ・レブ) といった太平洋の島嶼の近現代史に取材し、
アーカイブ写真や古地図を使ったインスタレーションに仕上げた 呉 夏枝 [Oh Haji] の«Seabird Habitatscape #2 - Banaba, Nauru, Viti Levu» (2024)、
いかにも現代アート主流のリサーチベースのインスタレーションでした。
呉の作品も興味深く観ましたが、最も印象に残ったのは、日本の葬送儀礼をモチーフにして、逆さの文字盤の振子時計に小さく映像を組み込んだ
岡 ともみ のミクストメディア作品 «さかさごと» シリーズ (2023)。
骨董的な質感とささやかな寓話的なナラティブが好みでした。少々ノスタルジックな所など
Janet Cardiff & George Bures Miller の小品 [鑑賞メモ] にも近く感じましたが、
ユーモラスで演劇的というより、日本の葬送の風習を題材とすることでまた違った幻想的で感傷的な雰囲気となっていました。
10月後半から11月にかけて出張ラッシュでした。 そんな中、11月上旬福岡出張の際にランチついでに福岡アジア美術館で『ベトナム、記憶の風景』。 戦前のフランス絵画の影響下から、戦後のプロパガンダ、ドイモイ移行の現代美術まで、 1930年代から現在に至る約100年のベトナム近現代美術史を辿りました。 所蔵作品中心で構成して一連の流れを辿ることができるのはさすがです。
中旬の広島出張では、帰途の新幹線までの時間調整で平和記念公園へ。 広島へは年1, 2回の頻度で出張していますが、ここは10年ぶりくらいでしょうか。 原爆投下80年だし久しぶりに行くかと軽い気持ちで行ったら、 広島平和記念資料館が修学旅行団体とインバウンドでまさかのぎうぎうの大混雑でした。 展示をまともに観られる状況でなく、東京都写真美術館で『被曝80年企画展 ヒロシマ1945』を観ておいてよかった、と。
11月頭の三連休中日日曜は、昼に湘南新宿ラインで小田原を越えて根府川まで。この野外即興パフォーマンスを体験してきました。
神奈川県小田原市にある 江之浦測候所 を会場にミュージシャンの 大友 良英 が開催している野外即興パフォーマンス『MUSICS あるいは複数の音楽たち』の2022年、2024年に続く第三回です。
今回は「アジアン・ミーティング20周年記念スペシャル」と題し、韓国、中国、シンガポール、マレーシアからのミュージシャン5名が参加してのパフォーマンスでした。
今まで観に行ったことがありませんでしたが、今回、開催前の告知に、それもチケット完売前に気付くことが出来たので、足を伸ばしてきました。
会場の江之浦測候所は小田原市の南端、真鶴町との境近くの海に臨む崖の上にある、
現代美術作家 杉本 博司 が2009年に設立した財団が2017年にオープンさせた芸術文化施設です。
妙月門エリアと呼ばれる入口「妙月門」や野外の舞台やギャラリー棟などのある崖上の展望の良いエリアと、
そこからしばらく下った崖の中腹にある竹林エリアという、2つのエリアに分かれた広大な敷地を持っています。
敷地内に展示されている「杉本コレクション」は、杉本の展覧会に使われるような小物の骨董ではなく [鑑賞メモ]、
室町期禅宗様式の鎌倉明月院正門が幾つかの変遷を経て移築された明月門に始まり、
飛鳥時代の法隆寺若草伽藍礎石から明治期に敷設され昭和末まで使われていた京都市電軌道敷石まで。
古代から近代まで様々な時代の建築 (もしくは遺跡) の類を、博物館のように体系的にというよりも
杉本の美意識に沿って骨董趣味的に、現代的な建築 (夏至光遥拝100mギャラリー、光学硝子舞台) やオブジェ (数理模型) などと並置するように野外に展示しています。
杉本の骨董を使った展覧会の延長の、巨大な野外インスタレーションのようです。
そんな場所を会場に、屋内外の様々な場所を回遊しながら13時45分頃から16時半にかけての約3時間にわたり即興演奏を繰り広げました。
正確な観客数は把握しかねましたが数百人はいたでしょうか。
スタートは妙月門エリアの石舞台。特に始めますというアナウンスも無く、ミュージシャン達も半ば観客に混じる形てばらけた状態で、静かに音を出し始めます。
ミュージシャンは固まっても3、4名程度、移動しながら居場所を定めてしばらく音出ししたかと思えばまた移動。
演奏は分かりやすい旋律やリズムはほとんど用いず、派手に音を出して存在をアピールするものでもなく、観客の中に混じるかのように、そしてサウンドスケープに寄り添うように、電子音や打楽器やオブジェを鳴らします。
自分も会場を移動しながら、時にミュージシャンの後を追いつつ、時に止まって音出しするミュージシャンの傍で、もしくは一人で時に遠くの会場のあちこちに控えめに鳴る物音に耳をすましながら、その風景と音景を楽しみました。
その場所が遥かに洗練されて広大な自然の多い場所となり、音の機微も楽しめるようになったという違いはあるものの、
『休符だらけの音楽装置』 (旧千代田区立練成中学校屋上, 2009) のオープニング・ライブ [鑑賞メモ] のことを思い出しもしました。
しばらく妙月門エリアの光学硝子舞台や夏至光遥拝100mギャラリーや冬至光遥拝隧道、茶室のある小道などを散策した後、
下の方で鳴る音に導かれながら、榊の森を抜ける葛折の小道を下って竹林エリアへ。
このエリアでは生えている竹などもパーカッションに。
そして、今度は蜜柑畑を抜ける道を登りつつ、ミュージシャン達が遠くに声を掛け合うような音のやりとりを楽しみつつ、再び妙月門エリアへ。
薄曇りで陽射しは暑くなく、風もほとんど無く寒くもなく、雨も降らず、野外の3時間もあっという間でした。
そして、日が傾いた中、ミュージシャンが次第に光学硝子舞台やその周辺に集まり、観客も舞台を観るかのように古代ローマ円形劇場を再現した客席に座り、
吉増 剛造 が舞台に上がりパフォーマンスし、それを客席最前列で座った 杉本 博司 を始め満場のオベーションという、
いみじくも 大友 良英 がMCで「吉増剛造オンステージのよう」と言っていましたが、まさにそんな終わり方でした。
普通のクラシック・コンサートやロック・コンサートであれば違和感無かったとは思いますが、
演奏者の特権性を排してサウンドスケープに溶け込むような演奏をひとしきり楽しんだ直後だっただけに、そのコントラストも強烈。
なんだかんだ言いつつも特権的な芸術家をオベーションしたいという観客の欲望を観せつけられるようでした。
そして、まさかそんな終わり方をするとはと半ば苦笑しつつ、やはり『休符だらけの音楽装置』から遠くに来たものだと感慨に浸りました。
11月頭の三連休初日土曜の晩は、池袋から乃木坂へ。この展覧会を観てきました。
国立新美術館と、2021年に香港西九龍文化地区にオープンした美術館 M+ との協働キュレーションによる、
昭和が終わった1989年以降、2000年代にかけての日本の現代アートが作り出した表現に焦点を当てた展覧会です。
スコープは 『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』 (東京都現代美術館, 2024) [鑑賞メモ] と大きく被っており、
やはり1990年代半ばに興隆した街中アートイベントやそれを支えたオルタナティヴ・スペースが日本の現代アートの起点だったのだなと。
『日本現代美術私観』
よりイベントやパフォーマンスのドキュメンテーションの展示が豊富で、
現在の自分の興味からは少し外れてはいるものの、『日本現代美術私観』と比べて自分が観てきた日本の現代アートに近く感じられました。
『日本現代美術私観』では抜け落ちていましたが、ジェンダーやセクシャリティをテーマにしたフェミニズム的な展覧会が1990年代半ばに多く開催されたことに言及があり、
中でも好きだった 笠原 恵美子 [関連する鑑賞メモ] の作品が展示されていました。
街中アートイベントというと東京のものが選ばれがちですが、
『ミュージアム・シティ・福岡 1998』で制作された Navin Rawanchaikul 「博多ドライヴ・イン」 [写真, 鑑賞メモ] が展示されていて、福岡の街中を歩きまわった時のことを思い出されました。
また、今まで自分が観た国内の街中アートイベントの中でもベストと言える『水の波紋 '95』 [言及のある鑑賞メモ] の展示もありました。
そういう展示を観ながら、作品云々というより、懐かしいというか、そういう事もありましたね、という詠嘆が先立つ展覧会でした。
イタリアの高級宝飾品ブランド Bvlgari の展覧会です。
正直に言えば、展示されていた宝飾品は“not for me”で、近代的な色彩論に紐付けようとはしていましたが近代デザインの観点でも興味を引かれるものはありませんでしたが、
日本の建築ユニット SANAA (妹島 和世 + 西沢 立衛) とイタリアのデザインスタジオ FormaFantasma によるという会場デザインが面白いものでした。
上から見ると魚の鱗を連ねたような区画で、時に透明なパーティションも使い、基本構造に並進対称性がありながら単調さを排除していました。
しかし、展示されているのがせいぜい数十センチの小さなオブジェだから生きる空間構成かもしれません。
宝飾品に関する展示の他に、現代アート作品が3点展示されていました。
中山 晃子 “Echo” は、本人がライブて操作する alive painting [鑑賞メモ] ではなくインスタレーションですが、
雲母の煌めき混じりのカラフルが色面を低音で間欠的に水面を湧き立たせ、変化させた色と光を投影するという alive painting の変奏とも言える作品でした。
洗車機に使われるような巨大な回転ブラシが何本も回転する Lara Favaretto “Level Five” は、回転による風に煽られるような迫力がありました。
11月頭の三連休初日土曜は、午後に池袋西口へ。このコンテンポラリーダンス公演を観てきました。
2016年の Vessel 以来継続している ベルギーのダンサー/振付家 Damien Jalet [鑑賞メモ 1, 2] と 日本の現代アート作家 名和 晃平 のコラボレーションによるコンテンポラリーダンス作品です。 元々2020年に日本で世界初演されるはずもコロナ禍で公演中止になり、これが日本初演。 2人のコラボレーションを観るのは初めてです。
黒光する砂で敷き詰められたほぼブラックボックスの舞台で、暗めの照明の中、 その上で物語らしきものはないものの、抽象度の高いイメージがシュールレアリスティックに連鎖するかのような作品でした。 ダンサーたちも砂まみれになり、膝まで埋まった状態で上半身をうねらせるような動き、 フォーメーションでの動きの中で動画の時間進行が前後するかのように振動する動き、 敷き詰められた砂を掻き回しつつのたうつ動き、 糊のような白い高粘度の液体が滴る中での蠢きなど、 黒光り砂や粘度の高い液体に覆われた有機的な物体というか正体不明の生命体が蠢く様を観るようでした。 名和 晃平 の作品というとガラス玉で覆われた動物の剥製のイメージが強いのですが、 生命体を粉粒等で覆ったイメージという点は共通するかもしれません。
パンフレットでは古事記の葦原中国、雅楽や枯山水などに言及されていましたし、Tim Hecker による音楽も電子音の中に雅楽の楽器の音が鳴っていたようにも思いますが、 日本的と言ってもその歴史的文脈はバラバラですし、むしろそんな歴史的文脈は捨象、抽象化されていて、 どちらかというと、ホラー的、SF的な生命体 (エイリアン) の棲まう異星を連想させられました。
約一ヶ月前の話になりますが週末日曜午後に三軒茶屋へ。このコンテンポラリーサーカス公演を観てきました。
世田谷パブリックシアターの秋恒例コンテンポラリーサーカス公演、 今年は2019年 [鑑賞メモ] ぶりに Raphaëlle Boitel 率いるフランスのカンパニー Cie l'Oublié(e)。 今回は、スモークと照明を使った演出にサーカススキルを交え台詞も使った一連のスケッチで、 父と三人姉妹、弟、長女の夫という6名の間の関係の不安定を描いた作品でした
例えば父と次女、結婚後の長女夫妻の不仲が台詞を交えて演劇的に描かれるのですが、 その顛末の描写はあえて避けられ、家族の日常に亀裂が入る瞬間の原因も結果も見えない宙に浮いたような不穏で不条理な状況に焦点が当てられます。 さらに、それをキックにサーカススキルやダンスを使った象徴的な心情表現が展開します。 そんな演劇的な表現と現代的なダンスやサーカススキルを使った象徴的な表現の組み合わせは、 シュールなユーモアもありましたが異化する方向性ではなく、ホームドラマ的な題材に寄り添い過ぎてメロドラマチックにも感じられてしまいました。
うっすらスモークを焚いた空間に輪郭の明瞭な強い照明を当てると光の筋だけくっきり切り出され光と影の境界がスクリーンのようになる効果を使い、 舞台上にマルチウインドウのように複数の場面を並置して切替たり、奥行き方向に並置して光をビートに合わせて前後に動かし細かく場面を切替えたりする、 スモークと照明を使った演出を多用しました。 そんな演出は確かに見応えありましたが、エアリアルのサーカススキルを使った演技が霞んでしまい、その点が物足りなく感じてしまいました。
コロナ禍前は、世田谷パブリックシアターのコンテンポラリー・サーカス公演は
三茶de大道芸の週末に開催されていました。
近年は1週後の週末になっていたのですが、つい昔の感覚で三茶de大道芸と同じ週末 (10月18,19日) と勘違いしていました。
18日に三軒茶屋へ行って勘違いに、そして翌週土曜にダブルブッキングしていることに気づいて呆然。
結局、26日日曜の公演のチケットを取り直して観たのでした。
18日はちょうどプラザ (世田谷線駅前の広場) で大駱駝艦の大道芸を久しぶりに観ることができ、全くの徒労とならずに済みました。
大駱駝艦が三茶de大道芸へ出演したのは6年ぶりとのこと。
パフォーマンスに合わせる音楽はジャズをメインに構成してコロナ禍前 [鑑賞メモ] とはガラッと雰囲気を変えていました。
3週間余り前の週末土曜は、午後に横浜山下町へ。このダンス公演を観てきました。
ポルトガル出身で、競泳、そしてストリートダンスのバックグラウンドを持ち、 2010年代以降、コンテンポラリーダンスの文脈でダンサー・振付家として活動する Marco da Silva Ferreira の2022年作です。 去年もこの作品で来日していたものの首都圏で公演が無く見逃していました。 ポルトガルのコンテンポラリーダンスは観る機会はほとんど無かったので、観る良い機会かと足を運びました。
打楽器とエレクトロニクスの生演奏に合わせ、性別やルーツも様々な、一人は隻腕の10名のダンサーが踊ります。 衣装は黒のスポーツ用のレオタードやアンダーウェアをベースとしたもので、履いているのもスニーカー、鮮やかな色を差した布を腰に巻いたり羽織ったりして時に変化を加えます。 その動きは、ヨーロッパやアフリカのフォークダンスを都会的なストリートダンスでアップデートしたよう。 パーカッションの連打に合わせて手足を細かく動かすアフリカのダンスや、 アンゴラ発のアーバンダンスミュージック Kuduro、 ヨーロッパ、特にポルトガルの民族音楽・舞踊を参照していたようでした。
ポルトガルというと港町の歌謡ファド (Fado) が有名ですが、それではなく、むしろルーラルなもの。 自分の知る範囲では、1990年代にポルトガルのレーベル Farol がリリースしていたような、 例えば Gaiteiro de Lisboa のパーカッション・パートを抜き出したような音楽と感じました。 それ以外にも hardy gardy を思わせるジーと連続するような音がサンプリングで使われたり。 そんな音に合わせてヨーロッパのフォークダンスを思わせる対になったり並んだりしてのダンスしたり。 そんな様々な動きを繋ぎ合わせていたのは、ストリートダンス的なスポーティさも感じるフットワークに重点を置いた踊りでした。
特に中盤くらいまではフォークダンス的な人の配置での見せ方が巧みで、黒字に色を差した衣装も美しく、視覚的な音楽を観るようでした。 もちろん、ポルトガルやその旧植民地の音楽や踊りを参照することで国の成り立ちを間接的に浮かび上がらせていましたが、 終わり近くなり、床に敷いた蓄光の白いシートをスクリーンのように掛けて ポルトガルの独裁政権を終わらせたカーネーション革命 (1975年) の際のプロテストソングの歌詞の訳を投影しつつ歌うことで、その作品テーマがグッと全面に出ます。 直接的に過ぎるようにも感じましたが、粗めながら切れ味良いダンスには、そのくらいの勢いもアリかもしれません。
音楽のうち打楽器を担当した João Pais Filipe は、Burnt Friedman と共演したシングル (Automatic Music Vol.1–Mechanics Of Waving (Nonplace, 2022) など) を通して知ったミュージシャンだったこともあり、 エレクトロニクス (Luis Pestana) との組み合わせもあってダブワイズな展開を予想した所もありましたが、 エコー的な音弄りはあまり感じられず、むしろ、動きのシャープさを生かすような演奏でした。 後で自分のCDコレクション等を聴き返していて気づいたのですが、 舞台中盤で使われた “We will rock you” にも似たズンズンチャというリズムが、 Rui Júnior e o Ó Que Som Tem?: O mundo não quer acabar (Farol, 1998) の最後の曲としても収録されていたり、 エレクトロニクスを担当していた Luis Pestana のアルバム Rosa Pano (bandcamp, 2022) に Gaiteiro de Lisboa の Carlos Guerreiro の hardy gardy がクレジットされていたりしたので、 観ていた時に感じた音楽のポルトガル的な要素の印象は大きく外していなかったでしょうか。
3週間余り前の週末日曜は、午後に池袋西口へ。東京芸術劇場で 舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」 のプログラム2本をハシゴしてきました。
イングランド北部シェフィールドを拠点とする劇団 Forced Entertainment の設立40周年を記念する作品です。 観るのはFESTIVAL/TOKYO 2013で観た The Coming Storm [鑑賞メモ] 以来、十余年ぶりです。
AI生成でされた音声に合わせてリップシンクで演じる作品です。 しかし、その台詞で物語を展開したり、台詞の内容に応じた心情を自然な表現で演じるものではありません。 その音声の内容は登場人物の心情を描くというより舞台の進行に関するものも多く、反復が多く、次第に断片的なものも多用されるので、 次第にそういう音声を使ったメロディの無いコラージュ的な音楽を聴いているような気分になります。 AI合成音声の内容の空疎さはもちろん、それに合わせてリップシンクしながら、少々キッチュな衣装を着替え、舞台上の家具等を移動し、掃除し、という動きをひたすら繰り返して、という意味を感じられない動きから、その形式が浮かび上がるよう。
抑揚はあるものの妙に単調でゆっくりとした女声のセリフが催眠的でしたし、おそらく意図的な空疎さ退屈さもありましたが、 演劇というよりAI生成音声をコラージュした音楽を使ったダンス作品を観るような興味深さもあった舞台でした。
チェコ・プラハを拠点に活動するオブジェクト・シアターによる公演です。 といっても、抽象的なオブジェを操るモダンな演出のものではなく、 伝統的な人形劇に準じた舞台を用い、しかし操り人形ではなく、おもちゃの人形などのオブジェを使い、 台詞は用いずに、物語るというよりシュールレアリスティックなイメージを連ねていくような作品でした。
高さ2.5m幅2m程度の衝立の中央上部に幅60cm高さ40cm程度の開口部が設けられ、そこが人形劇の舞台となります。 演じるのは男性2人女性1人の3人。衝立の裏にずっと隠れているわけでなく、時折衝立前でマイムで進行など演じ、 衝立の上手にはDJブースが置かれ、男性1人がライブで音楽が添えました。 衝立はカトリックのお祭りで使われそうな手作りの刺繍の布で飾り立てられ、 開口部にはやはり刺繍の緞帳を使い、時に2重3重のプロセニアム・アーチを立てて、 そこを舞台に、せいぜい十数cm程度の大きさの、安価なおもちゃの人形、ぬいぐるみ、その他ガラクタのようなファウンド・オブジェを並べ動かして場面を作っていきます。
作り出すイメージは、強権的な政治や虐殺も思わせるものから、脱力するようなユーモアを感じるものまで。 ラストはいわゆる Memento mori に Goethe の今際の言葉 Mehr Licht と、死のイメージ色濃いものでした。 音楽使いも、幕間などにノスタルジックな音楽を使いつつも、音声の断片などの具体音をまぶしたelectronia / dub technoな音楽使い。 脱力するような可愛らしさと不気味さグロテスクさが同居するような公演でした。
終演後は観客を衝立の後ろにまで自由に回らせ、舞台裏の上演に使った大量のオブジェを間近に見ることができるようにしていましたが、そんな所も人形劇のお約束でしょうか。
約1ヶ月前になってしまいましたが、10月三連休中日の日曜は、午後遅めに清澄白河へ。この展覧会を観てきました。
東京都現代美術館の開館30年を記念する展覧会です。
といっても、開館から30年間の東京都現代美術館の歩みを振り返るような展覧会ではなく、
今現在の現代美術のありようを切り取る展覧会でした。
欧米 (北米及びヨーロッパ) の有名な作家は無く、
世界の南北問題や国内の貧富格差の問題、マイノリティに対する抑圧などの作品のテーマの採り方は、
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』 [鑑賞メモ] にも共通しますが、
そちらでは扱いが少なかった東アジアから東南アジアにかけての作家が厚く取り上げられていて、補完しているようにも感じられました。
しかし、作風は『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』に多かったすっきりとスタイリッシュの仕上がりというより、
キッチュだったりドキュメントを集積するようなものだったりするものが目立ちました。
それが地域差によるものなのか、キュレータによるディレクションの違いなのかは、わかりかねましたが。
そんな作風もあって、ノンフィクションの本かドキュメンタリー映画としてきっちり仕上げた方が良いのではないかと思ってしまう作品も少なく無かったのですが、
中で印象に残ったのは、インド南西部マハーラシュトラ州ムンバイのスタジオCAMPによる、
ムンバイの高層ビル上部に設置された監視カメラのように向きや焦点を遠隔操作可能としたカメラで撮影した高精細カラー映像を凸凹に配置されたスクリーン投影した7チャンネルビデオ作品 Bombay Tilts Down (2022)。
建設途中の高層ビルからスラム街まで舐めるように撮られた映像に、街の貧富格差の激しさを自分自身がビルの上から観るかのように感じられました。
日本出身で2000年代半ばよりニューヨーク拠点で現代美術の文脈で活動する作家の展覧会です。
国際美術展などで観たことがあるかもしれませんが、意識して観るのは初めてです。
パフォーマンスやそれを行う場としてのインスタレーションを主たる作風の作家のようで、
この展覧会中にもパフォーマンスは行われていますが、タイミングが合わず、インスタレーション作品として観ることになりました。
パフォーマンス抜きで観たということもあると思いますが、動きのある作品の方が興味深く、
直径2m深さ2mほどの円柱状の穴の中で飛び跳ねつつ声をあげている様子を撮った映像作品 «random memo random» (2016) や、
疑似餌を拡大したオブジェを挟み込んだスプリングを頭上に張り巡らせて間欠的に振動させる『測深線』«Sounding Lines» (2024) の、
不条理なユーモアを楽しみました。
コレクション展示室では 『開館30周年記念 MOTコレクション 9つのプロフィール 1935>>>2025』。 企画展『日常のコレオ』とは対照的な、東京都美術館以来の歴史を振り返るようなオーソドックスな年代順の展示構成でした。
3週間前の週末土曜晩は、間が空いたので一旦出直しして、再び池袋西口へ。この舞台を観てきました。
2000年代末から主にダンスの文脈で活動するアメリカの振付家 Faye Driscoll の2023年作です。 といっても、背景や作風の予備知識はほとんど無く、 今年から始まった舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」Autumn Meteorite 2025 Tokyoのプログラムということで足を運んでみました。
明示的に示されたわけではないですが、 フランス・ロマン主義絵画 Théodore Géricault: Radeau de la Méduse 『メデューズ号の筏』 (1819) と その元となったフランス海軍のメデューズ号の遭難とその後の乗組員の筏による漂流という事件 (1816) を参照した作品です。 海を漂う筏に見立てた一辺5m、高さ1m程度の分厚い白いマットレスのような舞台が中央に置かれ、 そこから5mほど距離を置いて舞台を取り囲むように客席を配置するというセッティングで上演されました。
アフリカ系やアジア系も含む老若男女、体型も痩せ型からがっしり太めまで、多様性を意識したパフォーマー10名が、現在のアメリカの街中で普通に見かけそうな服装で現れ、 活人画として筏での漂流している様子を描くかのように狭く足場の不安定な舞台の上でポーズをとります。 それから暫くは無音で、動きが無いと感じるくらいジリジリと少しずつ動き、他のパフォーマーに掴まったりしながら、次第に舞台の上に崩れていきます。 並んだアメリカのごく普通の人たちに大量の水を浴びせた時の様子を高解像度高速度カメラを用い「動く絵画」のような劇的なスローモーション映像とした Bill Viola の The Raft (2004) [鑑賞メモ] というビデオ作品があるのですが、 それを活人画的にパフォーマンス化したようと思いつつ、最初のうちは観ていました。
ほぼ台詞の無いパフォーマンスで、時折、静かにカウントするかのような声や詠唱がある程度の展開ですが、 中盤になると、活人画をいろんなアングルから見せるかのように、時々、舞台を90度ずつ回すようになり、 パフォーマーたちも単にのたうつような姿勢を取るだけでなく、服を脱ぎ/脱がしはじめます。 香りもパフォーマンスに一要素ということで、Faye Driscoll 自身を含むスタッフが場面に合わせて調合された香水をスプレーで客席に振りかける時もありました。 後半は皆半裸となり、舞台を勢いよく回し、舞台から転び落ちたり飛び乗ったりという激しい動きとなり、 軸が固定されておらず次第に回転する舞台が客席側に迫ってきたりもしました。 後半、自分の身を含めてスリリングにな展開となり、半ば呆気に取られているうちにパフォーマンスは終わりました。
絵画『メデューズ号の筏』は筏に乗った生存者が接近する船を見つけた救出直前の瞬間を描いたもので、 その絵画のオマージュのようなポーズがこのパフォーマンスの最後近くに出てきたので、 遭難から救出までの漂流13日間が演じられていたのかもしれません。 しかし、タイトルは「風化」という意味ですし、後半の激しい展開は筏が嵐に揉まれる様子を象徴的に示したかのよう。 メデューズ号事件の具体的なエピソードより普遍的に、 激しい天候に晒される中で逃げ場もなくなす術もなく人々がボロボロに「風化」していく様を描いたかのようなパフォーマンスでした。 最初に感じた Bill Viola: The Raft から最後には遠く離れたようで、結局、似たような印象を残したパフォーマンスでした。
ちょうど2週間前に観たばかりの Peeping Tom: Triptych の第三幕 The Hidden Floor (2007) [鑑賞メモ] でも、大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーとして観たわけですが、 それも、近年の極端化する気象とそれに伴う災害の多発や不安定化している国際情勢を意識し、観ている作品へ反映しがちということもあるのかもしれません。
2週間前の週末土曜は、午後に池袋西口へ。この舞台を観てきました。
今年7月に亡くなったアメリカの Robert Wilson の演出による、フランスの女優 Isabelle Huppert の一人舞台です。 様式的な動きと美しい光の演出で知られる Wilson ですが、 生で観たのは Lecture on Nothing 『“無”のレクチャー』 (利賀芸術公園 利賀大山房, 2019) [鑑賞メモ] ぶりです。 演じる Isabelle Huppert は日本では映画俳優として知られますが、舞台俳優としては Ivo van Hove 演出による La Ménagerie de verre [The Glass Menagerie] 『ガラスの動物園』 (新国立劇場 中劇場, 2022) [鑑賞メモ] を観る機会がありました (このときは Huppert を特に目立たせるような演出ではありませんでしたが)。
16世紀半ばのスコットランド女王 Mary, Queen of Scots (aka Mary Stuart) が、 イングランドへの亡命の後、イングランド女王 Elizabeth I 廃位の謀略に関わったとして Fotheringhay 城で処刑されるその前夜を、 実際の書簡などのテキストを独白の台詞として用いて描いた作品です。 Wilson らしい美しい光の演出のミニマリスティックな舞台で、操り人形を思わせる動きをしながら、処刑の時間が迫る中での過去の記憶の走馬灯を、光と語りで現前したかのような、圧倒される一人芝居、約一時間半でした。
セリフは反復が多く、さらに (事前かライブか判然としませんでしたが) 録音も使って反復させていくのですか、 最初はゆっくり、後になるほど捲し立てるような語りとなり、その声の調子の変化で様相が変わっていきます。 セリフがフランス語で、かつ、字幕の位置が遠く、セリフはほとんと追えず、 女王 Mary の処刑に至る経緯の話は耳に/目に入っても滑りがちでしたが、 周囲の人物の処刑や虐殺に関わる語りの時にふっと血生臭いイメージが浮かぶことがあるくらいの語りの強さがありました。 当時の時代背景、特に当時のイングランド、スコットランド、フランスを取り巻く情勢、特に、人物の固有名詞に関する知識があれば、もっと話についていけたかもしれません。 結局のところ、侍女4人の Mary の話の方が印象に残り、歴史的証言というより私的な語りを聞くようでした。
ほとんど光の演出のみのミニマリスティックな演出でしたが、 中盤にはスモークを敷き詰め、椅子に座り、手に枝を持つような演出もありましたし、 その暫く後、台詞なしのノンクレジットの俳優で反転した鏡像のようなシルエットを作り出した場面も、幻想的でした。 象徴的な小道具としては、ヒールと、蝋燭で燃やされる手紙もありましたが、台詞が追いきれていなかったこともあり、何を象徴していたのかは掴みきれませんでした。 Huppert の演技は自然なリアリズム的なものとは対極的なもので、こわばったような手の動き、それに、まるで吊るされた人形が揺すられているかのような前後する動きもあって、操り人形のよう。 そのような形式的な動きを介して、時に彼女の置かれた立場を、時に彼女の感情を示しているようでした。
2週間前の週末日曜は、午後に南青山へ。このライブを観てきました。
1970年代のArild Andersen Quertetの以来ECMへ様々なグループでのリーダー作を残してきているノルウェーのピアノ奏者 Jon Balke の来日公演です。 前半は、今年リリースしたソロアルバム Skrifum (ECM, ECM2839, 2025, CD) でも用いられた自ら開発したライブ・エレクトロニクス・システム Spektrafon を使ったピアノソロ。 休憩を挟んで後半は Spektrafon は用いず、代わりにキーボードを加え、Balke と福盛とデュオで演奏しつつ、白石がライブ・ペインティングならぬライブ書をするというものでした。
Jon Balke の Spektrafon のHMIはタブレットで、ピアノの譜面台を外し、チューニングピンがあるあたりに置いて演奏していました。 その演奏の様子から想像するに、音声入力をフーリエ変換したスペクトルをリアルタイムでタブレットに表示していて、その画面を撫でると、撫でられた部分の周波数成分が撫でられた大きさに応じて増幅される、というシステムのようでした。 実際の音の変化は、倍音成分が増えてサワリのような響きが増えるというより、リバーブがかかるというか残響が大きくなるよう。 そんな音の変化が際立つような、音の間合いを聴かせるような疎なフレーズを、ソフトなタッチで聴かせます。
福盛 進也、白石 雪妃 を迎えた後半は、白石 のライブの書に目が行きがちでした。
白石の書は文や文字を書くのではなく抽象的なもの。
黒使いは控えめで、薄い青炭や、銀泥、金泥も用い、
穂丈が20cmくらいありそうな細筆を使った草書のようなストローク、穂径が10cmくらいありそうな太筆を使った強くシンプルなストロークに、ドリッピングを交えました。
対称性を崩すように床に広げた3本の白い紙の上だけでなく、
着ていた裾を摺る丈のシンプルな白のノースリーブワンピースドレスへも、書いていました。
最初にほとんど水のような薄墨を使い太筆で描いた円が綺麗でと思っていたのですが、
それが次第に乾いて、最後の方ではほとんど消えてしまうという、
そのような書いたものが消える効果も使っていました。
Jon Balke の演奏も、福盛 のドラムと呼応するように、強いタッチの使いや手数の多い時もあり、起伏のある展開になりました。 また、Balke が度々立ち上がってピアノ越しに白石が書く様子をよく見ていて、 ストロークに合わせて分かりやすくフレーズを繰り出すことはありませんでしたが、 まるで書かれる書に着想するかのように音出しをしていました。
前半の Balke の強調されたピアノの残響や、後半の Henri Michaux なども連想される白石の書のイメージもあって、 静かで落ち着いた展開の中に時折幻想がふっと湧き上がるかのような、そんな約2時間のライブでした。
6月22日から母が入院していたわけですが、9月29日の退院後初の週末でした。 というわけで、日曜は昼に母の家へ様子を見に行って、それからのライブでした。 この週末は、Jaco Van Dormael / Michèle Anne De Mey / Astragales: Cold Blood @ 高知県立美術館ホール [日本公演情報] や、 Co.SCOoPP 『竹×絹×現代サーカス「project KUMU」』 @ 関西エアリアル 沓掛スタジオ など、 観に遠征したい公演もあったのですが、暫くは泊まりがけの遠征は難しそうです。
2週間前の週末土曜は、午後に京橋へ。 ユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして国立映画アーカイブが企画した 『発掘された映画たち2022』の Aプログラムを観ました。
『発掘された映画たち』は国立映画アーカイブが新たに発掘・復元した映画を紹介する企画ですが、 今回の企画は1991年の企画『発掘された映画たち―小宮登美次郎コレクション』のPart 2で、 2021年にイタリア・ボローニャの Il Cinema Ritrovato (チネマ・リトロバート映画祭) と共催した In un labirinto di immagini. La Tomijiro Komiya Collection「映像の迷宮:小宮登美次郎コレクション」の調査結果を踏まえて企画されたものです。 世界初公開のものを集めたAプログラム、Il Cinema Ritrovato 2011で上映した映画から選んだBプログラムのうち、Aプログラムを観ました。 (1991年の上映は観ていません。今回も、都合が合わず、Bプログラムは観られませんでした。)
全て20世紀初頭、第一次世界大戦ほぼ前の劇映画で、構図にしても場面の繋ぎにしても素朴で、ストーリーもシンプルです。 当時のフランス、イタリア、ドイツの映画がどういうものだったのかという映画史的な興味はもちろん、 中世を舞台とした作品、現代 (映画制作と同時代の1900年前後) を舞台にした作品などから、当時のヨーロッパの時代劇、現代劇の雰囲気を想像しながら観ました。
そんな中では、やはり、 La Leçon du gouffre [The Intriguers] 『密計者』 (Pathé Frères, 1913) での川を行く船上や登山中などの野外ロケやメロドラマチックな展開、 Das Teufelsauge [The Devil’s Eye] 『悪魔の眼』 (Vag & Hubert, 1914) での塔から伸びるワイヤーを渡るアクションや塔の崩壊を捉えたスペクタクルの迫力に、後の戦間期のモダンな表現に繋がる所を感じました。 いずれも半分以下の断片での上映だったことが惜しまれますが、断片でも優れていることが伺える作品なので、上映プログラムに含めたのでしょうか。
2週間前の週末土曜、竹橋の後、晩に三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
シュールなナラティブ・ダンスを作風とするベルギーのカンパニー Peeping Tom の来日公演です。 ストリーミングで Moeder を観 [鑑賞メモ]、 NDT (Nederlands Dans Theater) に振り付けた La Ruta を観ている [鑑賞メモ] のであまり間が空いた気がしていなかったのですが、 カンパニーの公演として観るのは、 前回2023年2月の Moeder を見逃しているので、 コロナ禍前2017年2月の Vader 以来 [鑑賞メモ]、実に8年半ぶりです。
今回上演した Triptych は、NDTへ振付た The Missing Door (2013), The Lost Room (2015), The Hidden Floor (2027) の三部作を、 独立した3作を上演するトリプルビルではなく、 その間の舞台セットの転換も観客に見せる形で制作順に繋いで、三幕物の1作品として構成した作品です。 三幕とも時折激しく揺れる豪華客船の客室という設定は共通していますが、 最初の The Missing Door は煤けて薄暗い簡素な下等の客室、 続く The Lost Room は対照的に豪華な上等の客室、 最後の The Hidden Floor は水浸しの食堂が舞台で、 同じダンサーが踊るのでキャラクターとしての共通性は感じられるものの、同じ登場人物というほどには繋がりは感じられませんでした。
第一幕の The Hidden Door は、椅子に倒れかかった男性の変死体から始まり、 殺人事件の再現というより、そこで何があったのかその想像というか妄想をダンス化していきます。 男女の痴情のもつれからの殺人のようであり、それをサイコスリラー的なダンスとしていくのですが、 時折、嵐で激しく船が揺れたか風が激しく吹き込んだかを表現するように (舞台を揺らしたり風を送り込んだりはしない)、扉から人が転がり込んできたり、床で人が転がり回ったりで、シリアスな展開が一気にドタバタになります。 明かり明滅と扉の開閉を細かく行うのに合わせて床のダンサーが細かく動きを反復させることで映画フィルムを細かく前後させたものを表現したり、 マジック的な技を使って床を転げ回るオブジェをダンサーに負わせたり。 死後硬直したかのように脱力しているがピンと体がのびた状態の女性ダンサーを背中側から支えて振り回すようなリフトは、 どうやっているのだと思うような身体能力の凄さだけでなく、死体が浮遊しているかのようなホラーなイメージにもなっていました。
第二幕の The Lost Room は、豪華客室に泊まっている夫婦もしくはカップルの、互いの不義 (という想像・妄想) を描いたダンスで、 その目撃者となる部屋付きのメイドの存在もあって、メロドラマのパロディのよう。 疑念や嫉妬を動機とするかのような不穏な展開が繰り広げられるのですが、 The Hidden Door 同様の船が激しく揺れているかのような動きがそれを揺り動かしてあらぬ方向へ展開させます。 奈落抜けの仕組みを仕込んだベッドから姿を消したり、コートを使って生首を抱えているかのような演出をしたり、とマジック的な演出も印象に残りました。
第三幕の The Hidden Floor は、 幾筋か天井から細く水を落とし、フロアに薄く水を張った薄暗い舞台上で中での上演です。 嵐の中、酷く水漏れしている食堂に集まった客船の乗客たちが座り込み、水の溜まった床をほぼ全裸 (男性ダンサーは全裸) で転げ回ります。 第一、二幕で (ダンスとして表現された) 船の揺れは少々メロドラマチックなサイコスリラー的展開をドタバタで異化するかのようでしたが、 第三幕には殺人や不倫のようなわかりやすいフックが無かったこともあり、 むしろ大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーのようで、 静かな終わりは厄災の被害者たち救済を祈るような厳かさでした。
いかにも Peeping Tom らしいシュールレアリスティックでサイコスリラー的な作品でしたが、 今まで彼らの作品を観たときとは違い、David Lunch 的と想起させられることがあまり無く、 むしろ、話の展開とは独立に差し込まれるかのようなドタバタに不条理なユーモアも感じられました。 水飛沫の上げながらのダンスの迫力はもちろんラストは厳粛さすら感じた第三幕も良かったですが、 ユーモラスな場面が多めの第一幕が最も好みでした。 そんなユーモアの塩梅も良く、今まで観た Peeping Tom の作品と比べても最も楽しめた作品でした。
2週間前になってしまいましたが、その土曜は午後遅めに竹橋へ。この展覧会を観てきました。
1930年代から1970年代の美術が十五年戦争 (満州事変、日中戦争、太平洋戦争) をどう描いてきたかを振り返る展覧会です。
全8章構成で5章までが終戦以前、いわゆる戦争画を中心に構成されていました。
戦線の光景だけでなく銃後の光景、大陸・南洋の風景、歴史・仏教主題、象徴的な表現なども含めて戦時の美術/戦争画と定義し、
その中で軍の委嘱の有無に関わらず前線 (戦闘場面) を記録したものを戦争記録画、
中でも軍に委嘱された公式なものを作戦記録画と整理していました。
戦争画は普段のコレクション展示でも4階展示室で数点は常にかかっているので見たことあるものも少なからずでしたが、
特に戦争記録画がずらっと並べて展示されると、その迫力に圧倒されます。
しかし、興味を引かれたのは、戦場を描いたものより、むしろ大陸・満州を題材したものや、銃後を題材としたものでした。
図らずしも両義的になることが多いというだけでなく、そちらの方が同時代の劇映画との共通点が多かったからでしょうか。
約一ヶ月前に国立映画アーカイブの
『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』で
戦中のプロパガンダ色濃い劇映画 [鑑賞メモ 1, 2] を観ていたこともあり、それらとの相違が意識されました。
自分の観ている映画に偏りはありますし、
確かに『上海陸戦隊』 (東宝, 1939) や『ハワイ・マレー沖海戦』 (東宝, 1942) のような戦争映画はありますが、
劇映画ではむしろ銃後を舞台としたものが主のように思います。
それも、映画では戦場の再現が難しく、また、戦争記録についてはニュース映画があったということが大きいのかもしれません。
今回展示された戦争画の多くは戦後GHQに没収され接収され1966-1967年に返還された「返還絵画」でもあり、
作品主題の重点に相違はあれど、企画としては国立映画アーカイブの上映企画『返還映画コレクション』と響きあうものを感じました。
戦争画の網羅的かつ体系的な構成もあってか戦後の3章は若干蛇足にも感じられてしまったのですが、
そんな中で目を引いたのは、河原 温『死仮面』(1956)。
1950年代の『浴室』シリーズ (1953-1954) のような作風は知っていましたが、
ここまで風刺色が強い作品もあったことを知ることができました。
コレクション展示4階の通常は戦争画もかかっているギャラリーは1940年の小特集でした。 もちろん戦争画は無く、企画展とは対照的な時局と距離を置いた 松本 竣介 などの作品の小特集のよう。 また、日本画ギャラリーにも戦前・戦中の戦争を主題とした作品が展示されていました。
コレクションによる小企画を展示をする2Fギャラリー4は 『新収蔵&特別公開|コレクションにみる日韓』。 今年収集した2作品と合わせて、韓国・朝鮮に関する主題の作品や、韓国の作家の作品の小特集をしていました。
秋の彼岸入りした週末土曜9月20日は墓参や実家方面の野暮用の合間に京橋へ。 会期末が迫ってしまったこの展覧会を観てきました。
『彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術』 @ アーティゾン美術館 (美術展)
大航海時代以降の植民以前のオーストラリアの先住民アボリジナル・ピープル (Aboriginal people) をバックグラウンドに持つ女性作家7名、1グループを集めての展覧会です。
アボリジナル・ピープル自体の多様性もありますが、
植民地化以降の先住民が置かれた問題をコンセプチャルなインスタレーションや作品として仕上げる現代美術本流の作風の作家 (Judy Watson, Yhonnie Scarce, Julie Gough, Maree Clarke) はもちろん、
むしろ、伝統的な工芸の技法をベースに現代的な表現にアプローチする現代工芸的な作家 (Noŋgirrŋa MARAWILI [Nonggirnga MARAWILI])や、
アウトサイダー・アートやコミュニティ・アートの文脈に近いもの (Tjanpi Desert Weaver, Emily Kame Kngwarreye, Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori) など、
様々な制作の背景があるという点を、興味深く観ました。
蛍光するウランガラスの吹きガラスを使った Yhonnie Scarce の洗練されたインスタレーションなど楽しみましたが、
最も印象に残ったのは、オーストラリア中西部の砂漠のアボリジナル・ピープルのコミュニティに属するアーティスト・コレクティブ Tjanpi Desert Weavers による一連のパペットアニメーション。
砂漠の草から作った糸を編んで作った人形の造形はもちろん、
神話や説話に至らないような先住民の間に残されているエピソードの語りとそれに合わせての映像の、
教訓もしくはオチが抜け落ちたかのような力の抜け具合を楽しみました。
9月中旬は沖縄へ3泊の出張。琉球大学へ行ったので、合間に琉球大学博物館 風樹館へ。 琉球・沖縄の文化というと芸能 (音楽、舞踊)、工芸 (染織物、焼物など) や料理などに目が行きがちですが、 藁算というものもあったのか、と。
帰りはフライトまでの合間の時間を使って、久しぶりに 沖縄県立博物館・美術館 (おきみゅー)。 博物館は貸館展覧会だったのでパス。 美術館もコレクション展だけでしたが、小一時間程度しかなかったので、さっと観るにはちょうど良かったでしょうか。 沖縄の美術における現代美術的な表現の契機が、戦後 (1945年) でも本土復帰 (1972年) でもなく、沖縄県立芸術大学の開学 (1986年) にあったということが、興味深くありました。
半月余り前になってしまいましたが、 敬老の日絡みの9月の三連休は土日に名古屋で。開幕したこの国際美術展を観てきました。
2010年から継続していた『あいちトリエンナーレ』ですが、 2022年の前回から日本語名称が『国際芸術祭「あいち」』と変更されています。 今まで足を運んだことが無かったのですが、今回は芸術監督がアラブ首長国連邦の首長国の一つシャールジャ出身で、 観る機会の少ない中東圏を中心とする非欧米の現代アートの作家をまとめて観るよい機会と、 9月13日に愛知県陶磁美術館、14日に愛知県芸術センターの2会場を観ました。 (瀬戸市のまちなかの展示は未見です。)
愛知県陶磁美術館の展示は、ビデオ上映を含む作品は3点のみ。
陶磁の美術館を会場としていることもあり陶磁や土、灰を素材にする立体作品が多めに感じられました。
世界各地の近世 (大航海時代) 以降の植民地主義、特に先住民の問題が通底するテーマとなっていましたが、
それを直接的に図示をしたり関連するドキュメントを積み上げるような作品はなく、
むしろ、象徴的な形態をとったり、作品の素材選びに反映されているような作品がメインでした。
中でも、数十cm大の石の丸みのある円錐様の石の立体作品とそれを敷き詰めた砂の上で転がして不規則な跡を付けた Elena Damiani (ペルー出身/拠点) や、
石炭灰を塗った壁に石炭の塊を一列に並べて展示した Yasmin Smith (オーストラリア出身/拠点) など、
かなりミニマリスト的な仕上がりの作品が印象に残りました。
日本の作家では、大小島 真木 の茶室「陶翠庵」を使ったインスタレーションが印象に残りました。
アカシアの命名に関わる問題を取り上げ、オーストラリアの先住民と入植者の統合の象徴となっていることや、
生物学的な分類とオーストラリアだけでなくアフリカでの命名の歴史的文化的な背景の齟齬の観点から
淡々と語るナレーションが付けられた、コントラスト強い白黒のアカシア類の映像が上映される一方、
茶室内はそれらしくないどぎつい色彩でライトアップされるという。
茶室の空間の狭さを生かし、ライティングの色彩と白黒映像のコントラストも良いインスタレーションでした。
特別展示という位置付けで愛知県陶芸美術館の収蔵品から 三島 喜美代 《時の残骸 90》(1990) が展示されていましたが [関連する鑑賞メモ]、
テーマや作風なども他の展示との違和感を感じさせず、良かったでしょうか。
愛知県芸術センターの展示は、愛知県美術館の10階と8階ギャラリーを使った展示がメインで、 国際芸術祭らしくギャラリー一室使うような、ビデオなど駆使したインスタレーションが、 特に小部屋の多い8階のギャラリーにビデオの上映をメインとする作品が多く集められていました。 その一方で、テーマは愛知県陶芸美術館とも統一感が取れていました。
中では、髪をモチーフとしつつ抽象的に空間構成したインスタレーションの Afra Al Dhaheri (アブダビ出身/拠点)、
2003年のイラク戦争で体験した空爆の空を抽象表現主義を思わせる大きな油彩画として仕上げた Bassim Al Shaker (イラク・バクダッド出身/ニューヨーク拠点)、
シリア内戦でイスラム国に破壊・略奪されたラッカの博物館所蔵の文化財をリトファンに3Dプリントしたものをマトリックス状に並べたライトボックスで展示した Hrair Sarkissian (シリア出身/ロンドン拠点) の Stolen Past (2025) など、
抽象度高く仕上げた作家の作品が印象に残りました。
ビデオを使った作品では、手にまとわりつく蝿の動きや唸る羽音を白い背景で抽象化しつつCGも使って描いた
Silvia Rivas (アルゼンチン・ブエノスアイレス拠点) の Buzzing Dynamics (2010) が、
芸術祭全体の方向性には外れるように思いつつも、そのユーモアが気に入りました。
パレスチナ、イラク、シリア、イエメンの人々がSNSで共有した歌い踊る様子の映像を素材とした映像を
電子的なビートに乗せつつフラットにならないようにした壁面に投影した
Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme (ニューヨーク/パレスチナ・ラマラ拠点) の
May amnesia never kiss us on the mouth (2020-ongoing) にも、DIY的な生々しさを感じました。
その一方で、20世紀前半と思われる白黒のアーカイブ映像や、BBCやNational Geographicが撮ったかのような (実際にBBCの自然班と撮ったとキャプションにあった) 高精細の迫力ある大自然の映像を、象徴的な演出写真のようなカットも交えて、
近世以降の海を舞台とした交易や冒険の歴史をうっすらと浮かび上がらせるような
3スクリーンのビデオ・インスタレーションに仕上げた John Akomfrah (ロンドン拠点) の
Vertigo Sea (2015) の映像美に圧倒されました。
日本の作家では、マユンキキ (ヤウンモシリ[北海道]・チカプニ[近文]コタン出身/北海道拠点) の祖父 川村 カ子ト に主題にしたインスタレーションが印象に残りました。
以前に『翻訳できない私の言葉』 (東京都現代美術館, 2024) [鑑賞メモ] で観たときはリサーチ資料展示のような微妙さを感じたのですが、
この芸術祭では、
旭川アイヌのリーダーかつ天竜峡〜三河川合間の鉄道開通で活躍した測量技師という対象的な二面を描きつつ、
ブラックボックス化したギャラリーに道を示すように並べた石とスピーカーからの音をメインとしてミニマリスティックな空間演出に仕上げていました。
小川 待子 のガラスと陶を組み合わせて天然水晶原石のような造形や溶け崩れた水盤のようなオブジェを使ったインスタレーションも、
その素材感そのものの美しさを感じさせるだけでなく、
その素材からして愛知県芸術センター会場に展示されていながら愛知県陶磁美術館会場との繋がりを意識させるようなところもありました。
愛知県陶磁美術館の茶室「陶翠庵」でも展示していた 大小島 真木 の愛知県芸術センターの作品は、
作風がかなり異なっていて、そちらにはむしろ分裂した印象を受けました。
欧米 (北米及びヨーロッパ) の有名な作家はいませんでしたが、 アジア、アフリカ、南米、オセアニアといった非欧米の現代アートをまとめて観ることができましたが、 芸術監督のバックグラウンドでもある中東圏の作家が印象に残ることが多かったでしょうか。 女性作家も多く、特に愛知県陶芸美術館で展示していた作家は過半が女性でした。 多様なバックグラウンドの作家を集めつつ、植民地主義、特に先住民の問題が通底するテーマとして感じられ、 その一方で最終的には抽象度の高い造形や空間演出の作品に仕上げているものが多く、その点も期待以上に見応えのある芸術祭でした。 (作品展示を前提とした美術館の空間を使った展示のみを観ているので、瀬戸市のまちなかでの展示も観るとまた印象も変わるかもしれませんが。)
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』は、現代美術の展示だけではなく、 パフォーミングアーツのプログラムも組まれています。 というわけで、合わせて以下の3つを観てきました。 パフォーミングアーツの演目も、現代美術と共通するテーマが感じられるものでした。
권 병준 [Kwon Byungjun]: Speak Slowly and It Will Become a Song
パフォーミングアーツ部門のプログラムとしてエントリしていましたが、
ライブで誰かがパフォーマンスしているわけではない、いわゆるサウンドインスタレーションです。
GPSで位置情報を取るヘッドホンを使い芝生広場の位置に応じたサウンドを聴く、いわゆるAR (Augmented Reality) の作品でもあります。
自分が体験した時は雨足が弱まることはあれど降雨で、傘をさしつつ、足元を気にしつつの体験になってしまい、ヘッドホンのサウンドの世界に入り込めなかったということもあるでしょうか。
音声ガイドではないので現実世界との対応付けが分かりやすい必要はないのですが、
芝生広場という特徴に乏しい空間ではその結びつきは乏しく、
単に民謡などに関する話を聴きながら歩きまわるだけに近い体験になってしまいました。
音を使ったAR作品といえば『六本木アートナイト 2012』での Musicity Tokyo [鑑賞メモ] など思い出しますが、 10余年経って技術的にはかなり洗練されたと感じる一方で、街中の文脈のある変化に富んだ空間の方が会場としては適していそうだとも感じてしまいました。 2012年にはDocumenta 13で Janet Cardiff & George Bures Miller: Alter Bahnhof Video Walk という音声だけでなくビデオを使ったAR作品も体験していて [鑑賞メモ]、 その時にも感じたことですが、やはり、この手の作品の面白さは実現する技術とは独立だとも感じてしまいました。
サモアにルーツを持つ Neil Ieremia が1995年に設立した オセアニアの島嶼国やニュージーランドの先住民にルーツを持つメンバーで構成された ニュージーランド [アオテアロア] のコンテンポラリーダンスカンパニーの公演です。 2005年に来日しているとのことですが、今回初めて観ました。
太平洋の島々に対して広く持たれている楽園 (paradise) のイメージの裏にある、 先住民の大航海時代以降の受難の歴史を “hope + resistance”、“sorrow + acceptance”、“control + release”、“faith + crisis”の4部構成で描いた作品でした。 楽園をイメージさせる緑を舞台の両脇に配し、その間で、その役割を表す衣装を着たダンサーが踊ります。 マイムで内面を物語るというより、ダンスで象徴的な場面を連ねていくので、神話的な叙事詩を見るようでした。 そのテーマに合わせたように、サモア語やトンガ語の歌やナレーションが使われる一方、楽園を想起させる映画音楽的な音楽が歪んだ形で使われましたが、 実に1980s前半風、特にFats CometかArthur Bakerかのようなold school hip-hop / electro / freestyleな (おそらくオリジナルの) 音楽が多用されていたのが、 このスタイルの音楽を選択した意図を汲み取りかね、気になってしまいました。
Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme with Baraari, Haykal and Julmud:
Enemy of the Sun
愛知県美術館ギャラリーで現代美術の展示にも参加していた Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme の、
クラブのライブ及びラウンジのスペースを使ったパフォーマンスです。
没入型のビデオ・インスタレーションしながら、
パレスチナ・ラマラ拠点もしくはそこを出て欧米で活動するパレスチナ系ミュージシャン Baraari, Haykal, Julmud がライブしました。
最初は再入国できなくなる可能性があるため来日できなくなった (おそらく) Haykal がリモート参加でラップで30分ほど、 続いて、Basel Abbas がラップトップでビデオを操作する横で Baraari と Julmud がラップやトリップホップ風に歌うようなフローで30分ほど。 その後、ラップ抜きで Julmud がより抽象的な音出しを始めたのですが、このあたりで体力的に限界となり帰ることにしました。 かつての SuperDeluxeのような打ちっぱなしの壁にくっきり投影されればビデオプロジェクションに没入感も出たかもしれませんが、 雑然としたクラブのラウンジ的なスペースではよくあるビデオ演出程度になってしまったでしょうか。
会員になってるチェーンのシティホテルになんとか相応のお値段で泊ることができたのですが、 宿泊予約サイトで検索するとホテルが空いていても普段の倍くらい。 駅やホテルでスーツケース押した推し活らしき人 (アイドルかと思われるものの推しが何かは判らなかった) を多く見かけたので、三連休だからだけではなかったのでしょう。 日帰りにしようかと思った程ですが、夜の公演も観ることができましたし、やはり1泊にして良かったです。
陶磁資料館南駅から会場の愛知県陶磁美術館へ向かう間に一緒になった人と話したり、 会場の陶磁美術館でオープニングで来ていた作家か関係者らしき人に英語で「素敵なシャツですね」と声をかけられたり、という所にも、いかにもフェスに来た感がありました。
食事は、泊まったホテルの朝食が一番まともだったという結果になってしまいました。 ランチや休憩では会場に併設された関連メニューを出しているレストランやカフェに入ったのですが、 席数ではなく処理能力が不足していてオペレーションが破綻していました。これは、残念。
この週末の土曜は、午後遅くに横浜馬車道へ。このパフォーマンスを観てきました。
コンテンポラリー・ダンス及び現代アートの文脈で活動する Tiia Kasurinen のパフォーマンス作品です。
今まで作ってきた作風などの予備知識はなく、2024年のレジデンスの際のワークインプログレス公演も観ていませんが、
「音のジェンダー」をコンセプトとしたパフォーマンスということに引かれて観てきました。
パフォーマンスは Tiia Kasurinen 自身の歌、ボイス、パフォーマンスと
Eliel Tammiharju aka Keliel によるラップトップとハープの演奏と歌からなるものでした。
コンセプトという点では、カラスの鳴き声を思わせる引き攣ったような抽象的な発声と
ハイトーンで歌われる indietronica / dream pop 風の歌が対比され、
歌自身もヴォコーダ (もしくはそれ相当の機能のあるラップトップのソフトウェア) を使い声のピッチを微妙にずらされます。
ビジュアル的には、Tiia Kasurinen はドラァグクイーン風のメイクに盛った鬘、
しかし、衣装はドラァグのようなどぎついものではなくコルセットにクリノリン。
フェミニズムの文脈では女性の拘束の象徴として扱われることが多いものですが、
ドラァグ風の頭部もあってか、むしろ19世紀半ばのファッションのポップでキッチュなパロディのようでもありました。
後半になるとクリノリンは脱ぎ捨てられ、ダメージジーンズ姿となります。
元の歌声が強くジェンダー規範を意識させられるもの (例えば、日本で言えば、アナウンスの女声や、アニメ女優の声) で無かったこともあり、
声が対比されたりビッチがずらされたりという点については、さほどピンとくる所はありませんでした。
むしろ、ドラァグ風のメイクや拘束を感じさせる所作、そして、抽象的な時間空間や動きのコンポジションのような抽象ダンスや、もしくは、身体表現で物語るナラティヴなダンスとは違う、
コンセプトに基づく象徴的でシュールレアリスティックなイメージを連ねていくような構成に、
Matthew Barney: The Cremaster cycle [鑑賞メモ] に近いものを感じました。
そして、The Cremaster cycle もその文脈で日本で紹介され受容されたように思いますが、 1990年代後半にジェンダー/セクシャリティをテーマとした現代アートを取り上げる展覧会が多く開催され、そこではパフォーマンスが伴うこと多かったことを思い出したりもしました。 例えば、Majida Khattari のパフォーマンス [鑑賞メモ] など (生では見逃したのですが)。 そういう意味で、この Songbird も、ダンスの文脈での公演という形式よりも、現代美術展でのイベントとして行われるギャラリーの一角などを使ったパフォーマンスという形式での上演の方が似合いそうと感じました。
会場は北仲ブリック・ノースの3階に入居している Dance Base Yokohama (DaBY) がこの8月に新たに同ビル1階にオープンさせたスタジオでした。 運営事業者としての契約終了に伴い2024年度末をもって終了してしまった BankART KAIKO だった場所です。 新高島駅の BankART Station は次の運営事業者 Ongoing による Art Center NEW となったわけですが、 KAIKO は引き継がれずどうなるのだろうと思っていました。 似たような性格のスペースになって良かったでしょうか。
8月最終週の後半は金沢へ。一通り仕事が済んだ金曜夕方にこの展覧会を観てきました。
近代の歴史や記憶、現代の社会問題に着想した作品を集めた現代美術の展覧会です。
といっても、現代美術はそのような作品が多いので、特に強い方向性を感じる程では無かったでしょうか。
Gerhard Richter や Anselm Kiefer などの有名どころも展示されていましたが、
ポーランドの作家 Wilhelm Sasnal による、現代南米の社会問題に取材しその報道写真的な構図を使いつつも、
抽象度を上げてシルクスクリーンのようにフラットな質感の油彩として仕上げた一連の作品 (2019-2023) が印象に残りました。
2012年のDocumenta 13で観た William Kentridge: The Refusal of Time (2012) [鑑賞メモ] を再見することができましたが、
Documenta 13とはかなり異なる印象を残しました。
抽象的なアニメーションも交えつつ、マイムやダンスの実写やそのストップモーションによる映像投影を使い、
イマーシヴなパフォーマンス作品をインスタレーションとして再構成したものを観るようでした。
これも、現代美術の文脈よりオペラの演出で Kentridge の作品を観る機会が増え [鑑賞メモ]、
また、空いたギャラリーで腰を据えて通して観ることができたからでしょうか。
Peter Galison: Einstein’s Clocks, Poincaré’s Maps — Empires of Time (2003)
[ピーター・ギャリソン『アインシュタインの時計 ポアンカレの地図 — 鋳造される時間』 (名古屋大学出版会, 2015)]
に着想したと思われ、帝国主義の時代 (19世紀後半から20世紀初頭) における時間の標準化をテーマとしているのですが、
マイムやダンスの映像を観ていて、それと並行して進展した植民地化も射程に入っていたことに気付かされました。
コレクション展は素材をテーマにしており、現代美術というよりガラス、陶磁、漆工などの現代工芸の文脈の作品も多く含まれていました。
それらも良かったのですが、結局、現代美術の文脈の、Carsten Nikolaiのアルミ板やブラウン管、
山崎つる子の着色したプリキの板や缶を使った、
近現代の工業的な質感によるミニマリスティックな作品の方に惹かれてしまいました。
企画展、コレクション展とは別の国内巡回の無料展示です。 この美術館で2017年に開催された Janet Cardiff & George Bures Miller の大規模個展 [鑑賞メモ] にはこの作品 (2001) は出ておらず、 2009年に銀座メゾンエルメス ル・フォーラム [Ginza Maison Hèrmes Le Forum] [鑑賞メモ] で観て以来の再見です。 8組の5声聖歌隊のために Thomas Tallis 作曲した motet Spem In Alium (c.1570) のパート毎の録音14分 (不明瞭な会話からなる環境音3分を含む) を40個のスピーカーを使って再生する作品という作品です。 商業施設内の展示スペースで体験した時は聖堂のような空間に展示した方が良いのではないかと思いましたが、 広い正方形のほぼホワイトボックスという空間に40個のスピーカーをほぼ円形に並べるというミニマリスティックな展示で体験すると、 その音だけで抽象的な空間に世界が立ち上がってくるよう。 異世界へ連れて行かれるような感が良かった。
1年余ぶりの金沢 [前回の鑑賞メモ] でしたが、
今回は最高気温35度前後の猛暑に美術館・博物館巡りをする気力を削がれました。
それでも、暑くなり過ぎる前の翌土曜午前に軽く散策ということで、
金沢21世紀美術館の無料展示、Janet Cardiff: The Forty Part Motet と恒久展示作品 James Turrell: Blue Planet Sky (2004) で
併せて30分ほど瞑想した後、本多公園の緑の小径を抜けて、谷口 吉生 建築の
鈴木大拙館 で再び瞑想。
暑さに散策は早々に切り上げ、森八本店へ。
森八茶寮でひと息ついたあと、金沢菓子木型美術館を見学しました。
しかし、前回に続いて今回も
日本工芸館は展示替え休館中。
今度こそ、開館しているタイミングで金沢へ行きたいものです。
先週末土曜は夕方に三軒茶屋へ。この舞台を観てきました。
岡本 晃樹 主宰の現代サーカス・カンパニーの新作公演です。 Room Kidsとして観るのは初めてですが、 2022年に岡本が I/O Multimedia Performance CompanyとしてYPAMフリンジにエントリした 『in/deduction』を観たことがありました [鑑賞メモ]。 出演として3名クレジットされていますが、岡本以外の2名はほぼ黒子といっていい役割です。 舞台の上には10余りのアンティークの椅子や扇風機などが並べられ、舞台に投影されたエンドロールではそれらも出演としてクレジットされていました。 最初、それらはラップで包まれた状態なのですが、ラップを剥がし、黒子の2人が位置を動かしていきます。 もちろん、岡本が得意とする物理エンジン等を活用しライブで画像処理した映像プロジェクションも使っていました。
中でも、椅子や扇風機に仕込まれた小さなライトの白い光の点と、岡本がジャグリングする白いボールの点を、ビデオカメラで捉えて、 点を結ぶ疎な網状の白線を加えて投影した場面は、パフォーマーと並べられたオブジェの関係性を可視化するよう。 最後の繰り返し流れるエンドロールの文字が次第に伏字□になっていく中、オブジェにも白い方形の箱が被されていくエンディングの、ディストピア的なイメージも印象に残りました。 このように良いと思う場面もあり、 音楽や映像も手がけるなど 岡本 にアイデア、やりたい事がいろいろあるんだろうと思う一方、 自身のジャグリングとシンクロさせるように録画済みの様々な場所でのジャグリングの映像をマトリクス的に並べて投影する場面など、 並べられたオブジェとの関係性が不明確に使われている音楽や映像も少なからずで、アイデアが焦点を結んでいない印象も受けました。