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Review: William Kentridge: What We See & What We Know @ 東京国立近代美術館 (美術展)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2010/02/14
William Kentridge
What We See & What We Know: Thinking About History While Walking, and Thus the Drawings Began to Move
東京国立近代美術館
2010/02/02-2010/02/14, 月休 (1/11開,1/12休), 10:00-17:00 (金10:00-20:00).

南アフリカ・ヨハネスブルグ (Johannesburg, ZA) を拠点に活動する アニメーション作家 William Kentridge の、 アニメーション映像インスタレーションとドローイングからなる展覧会だ。 不条理な社会状況を描いたアニメーションは シュールというよりマジックリアリズムを思わせ、 その点がとても興味深く楽しめた展覧会だった。

最初のアニメーション映像インスタレーション “9 Drawings for Projection” (1989-2003) は、9編の短編アニメーションを5スクリーンに投影したもの。 木炭とコンテによる粗いドローイングを描き直しながらコマ撮りしたアニメーションは、 アパルトヘイト最末期の南アフリカの社会状況をドキュメンタリ風に描くのではなく、 むしろ、フィクションの世界でのより私的な不条理として描いている。 粗いドローイングのアニメーションは、 ワイマール・ドイツの風刺画 (例えば Otto Dix。もしくは Käthe Kollwitz とか) が動き出したよう。 新即物主義の美術におけるマジックリアリズムと文学におけるマジックリアリズムが 見事に出会ったかのような作風が気に入った。 また、描き直しの跡が残る粗いテクスチャのドローイング・アニメーションは、 砂絵アニメーションに似たところもあり、 崩壊する風景を通して儚さを描く手法としてもうまくはまっていた。

続く実写とアニメーションを組み合わせた短編作品 “Ubu Tell The Truth” (1997)、 “Shadow Procession&rdqui; (1999)、 “Zeno Writting” (2002) は過渡期の作品に感じられた。 しかし、ドローイング・アニメーションと実写で、ドローイングと作家が格闘する “7 Fragments from Georges Méliès” (2003) は、 そのユーモア感覚も含め、 Jan Švankmajer のクレイ・アニメーションと実写の組み合わせを、 ドローイング・アニメーションでやったもののよう。 そして、そういう所も気に入った。

最後の部屋の “I'm Not Me, The Horse Is Not Mine” (2008) は、 Н. Гоголь (N. Gogol) 原作の Дмитрий Шостакович のオペラ Нос (Dmitri Shostakovich: The Nose, 1930) の Metropolitan Opera, NY での上演のための舞台美術の準備として制作された 約6分間の8面のマルチスクリーンのアニメーション映像インスタレーションだ。 タイトルは Сталин (Stalin) による1938年の Н. Бухарин (N. Bukharin) 粛清裁判の際に 使われたロシアの農民の常套句から採られており、裁判記録のテキストも映像の中で使われていた。 アニメーションは実写、当時のドキュメンタリーフィルム、ドローイング・アニメーション、それに、 ロシア・アヴァンギャルド風のグラフィックやコラージュが動き出したようなもの。 そのナンセンスでシュールな世界を、ロシア・アヴァンギャルドに対するオマージュも感じる ビジュアルで組み上げている所が、自分のツボにはまった。 音楽は Shastakovich のものに南アフリカの Zulu Jive が割り込んでくるよう。 そんな所に、1930年代当時のソ連の Stalin 体制に、 南アフリカの不条理な状況を重ねて見ているようにも感じられた。

Jan Švankmajer の表現の背景には共産政権時代の東欧の抑圧的体制が背景にあった。 ラテンアメリカのマジックリアリズムの文学の背景にも軍事独裁政権があった。 そして、Kentridge の一連のアニメーションも、そういう表現に連なるものであるように感じられた。 そんな展覧会だった。