東京ミドルシアター・フェスティバル第1回「国際イプセン演劇祭」の一環として、 Nationaltheatret (ノルウェー国立劇場) が来日した。 ノルウェーの舞台芸術を観るめったにない機会だろう、ということで足を運んでみた。 セリフがノルウェー語だったこと以外は特にノルウェー的と感じることは無かったが、 舞台美術や照明・音楽等の演出を最低限に抑えたスタイリッシュな演劇が楽しめた。
上演作品は、ノルウェーの戯曲作家 Henrik Ibsen の En Folkefiende (1882; ヘンリク・イプセン 『民衆の敵』)。 郷里の町の主要産業である温泉施設で専属医として働く Dr. Thomas Stockmann が、 施設の水が汚染され健康に有害だというこを発見し告発しようとして、 「民衆の敵」とされ町で孤立していくというストーリーだ。 それでも町に留まり、自立心を教育することを決意するシーンで終る。
セット、大道具等を全く使わず、照明もシンプルに白色のみ。 特に前半はスポットの類も使わず、明暗の変化のみだった。 音響効果も時折グリッチやパルスのような音を使うだけで、音楽は一切無し。 そんな、美術、照明、音響の演出を最低限に抑えて、俳優の動きで見せる舞台だった。 このような演出はコンテンポラリー・ダンスの文脈では珍しいわけではないけれども。 しかし、演劇で、それも、マイム等の技法を使って身体で空間を描いたり、 表現的な演技を使って登場人物の内面を描くわけでもなく、 一段抽象化されたような動作等を使って、場面や登場人物を描くような演出が面白かった。
例えば、中盤、Thomas が町長の兄 Peter と喧嘩する場面でも、 取っ組み合いをリアルに演じるのではなく、 Thomas が Peter を後ろから抱えてくるくる振り回して見せる動作で 喧嘩中であることを示していた。 そういう演出で最も面白く感じたのは、 前半、まだ自分の発見が町じゅうの反発を招くことになるとは思っていない Thomas が Folkebude の編集長 Hovstad と編集者 Biling と話している場面。 Thomas、Hovstad、Biling、Petra の4人が舞台広く踊るようにステップを踏みながらセリフを交わす動きが、 それぞれの思惑の違いや地に足の付かない感じを表現しているように感じられた。
また、照明や音楽を最低限に抑えていることにより、それが使われた時の効果が強く感じられた。 例えば、中盤、Thomas が妻 Katrine に家族のことを考えていないと責められる場面では、 舞台全体の照明が落ちた中2人にスポットが当てられ、 心拍のようなパルス音だけで十分にその緊迫感が表現されていた。
照明や装置を使った演出で最も興味深かったのは、 町民集会で「人民の敵」と議決された後からエンディングへ向かう場面。 兄 Peter や義父 Morten Kiil、そして、Aslaksen や Hovstad が Thomas に折れるよう圧力をかけに来るのだが、 場面の進行につれて吊物の照明取付のフレームが下りてきて、 Aslaksen 等が来たときはそのフレームの下で屈まなくてはならない程。 それは、天井の低い室内を抽象的に表現している、というより、 むしろ Thomas にかかっている町民たちからの圧力を象徴的に表現しているよう。 そして、最後の決意を述べるときには、その圧力を除けたことを象徴するように Thomas はその照明フレームの手前側を持ち上げ、照明を後ろに立ち上がっていた。
こんな感じで、演技や音響、装置使いも、描写的というよりも最低限で記号的。 そんな演出の積み重ねで想像が促されるような所が面白い舞台だった。 ただ、派手な演出で観客に迫ってくるというより能動的に読み取っていくかのような所が面白い演出だったので、 日本語字幕を追いながらの鑑賞では、舞台世界に入り辛くなってしまったように思う。 ノルウェー語での上演と判っていたのだから、戯曲を予習して臨めばよかった、と少々後悔した。