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Review: 清水 宏 (dir.) 『有りがたうさん』 (映画); 清水 宏 (dir.) 『按摩と女』 (映画)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2014/02/09

家で観た映画の話。

1936 / 松竹蒲田 / 白黒 / 64min.
監督: 清水 宏.
上原 謙 (有りがたうさん), 桑野 通子 (黒襟の女), 築地 まゆみ (売られゆく娘), 二葉 かほる (その母親), 石山 隆嗣 (髭の紳士), etc

清水の「写実的精神」が発揮されたオールロケの映画と少々気になっていたものの、観るのは初めて。 原作 (川端 康成 『有難う』) も読まずあらすじもほとんど知らずに観たのですが、 乗合自動車の乗客や行きかう人々を通して当時の世情を淡々と描くような映画かと思いきや、 淡くせつなくロマンチックな仕掛けがさりげなく仕込んであって、しかも最後はハッピーエンド。 最初のうちは登場人物に深く踏み込まないのかなと思わせておいて、いつのまにがぐいぐい引き込まれているという。 これにはやられました。

観た後に原作を読んだのですが、原作は売られて行く娘と「有りがたうさん」に関する短編で、 他の乗客たちや道中のエピソードはほぼ映画オリジナルだったことを知りました。 そうであれば、確かに「ドラマ性を排して」と言えるかもしれません。

またハンディカメラの無かった時代、オールロケのそれも車上からの撮影が中心という画面もすごい。 特に、カメラの動きの制約か追い越す前後の映像が途中を飛ばしてクロスフェード・ディゾルブで繋げるところなど、 滑らかなのんびりな時間の流れを作り出すよう。 録音が難しかったのか、会話はおそらくアフレコでゆっくり棒読み近いもの。 この不自然な台詞に最初は違和感を覚えましたが、すぐに気にならなくなりました。 そう、この平板な台詞の口調は外国語劇の同時音声通訳に近く、 字幕の代わりに平板な台詞を入れたサウンド版サイレント映画に近いノリがあるようにも感じました。 こういう所も、最初期のトーキーならではでしょうか。

音楽も明るく、画面も美しい峠道を捉えていて、のんびりした当時のバス旅の雰囲気も楽しめます。 しかし、会話や行きかう人々から伺えるのは 「年頃になると、男の子はルンペン、女の子は一束いくらで売られていく」 という1930年代前半の昭和恐慌、昭和飢饉下の地方の厳しい現実。 のんびりした旅の雰囲気とコミカルに描かれる客のやりとりでなんとか深刻になり過ぎずに救れました。

下田から鉄道の駅のある修善寺まで天城越えの天城街道(下田街道)を行くらしい乗合の運転手(上原 謙)は、 乗合に道を譲ってくれた人には必ず「有りがたう」と声をかけることで峠筋の人々に「有りがたうさん」と呼ばれる人気者。 「親切で男っぷりのいいときてるから、街道の娘っ子が騒ぐのも無理が無いねえ」。 そんな彼の運転するある日の下田発の乗合に乗り合わせた乗客は行商人やいけすかない口髭の紳士。 しかし、鍵になるのは、景気の悪い下田を離れる渡り鳥の黒襟の酌婦(桑野 通子)に、東京へ身売りさせられる娘とその母。

運転席すぐ後ろの席に陣取り有りがたうさんに気安く声をかける酌婦と、淡々とした有りがたうさんのやりとりは、 『瀧の白糸』の冒頭場面、高岡から石動へ向かう乗合馬車での欣弥と瀧の白糸のやりとりのよう。 特に、乗合とオープンカーが追い抜き合いのようになって、酌婦がライバル心を露をするところなど。 有りがたうさんの車に乗りたくて一便遅らせたとか、あの港町へ来たときに優しくしてくれてうれしかったとか、 有りがたうさんの気を引くような言葉をかけるし、最初のうちはこの2人に何か起きるのかと思いきや、 むしろ、酌婦は他の登場人物を弄って性格・心情を引き立たせ物語を展開させる狂言回しの役。 この桑野 通子演じる姐御肌の酌婦が実に良いのです。

その代わり、運転手に好意を寄せる身売りされる娘と、そんな娘を思いやる運転手の間の、 淡い淡い恋のような情が次第に浮かび上がってきます。 象徴的なのがトンネル(おそらく天城トンネル)に入る直前の休憩の場面。 東京から手紙を出してもいいかと好意を表す娘に、返事くらい書けるさと応じる有りがたうさん。 会話は途切れるが、石をそっと差し出す娘に、その石を受け取っては投げる有りがたうさん。 二人の淡い情が通じる瞬間のなんというロマンチックな描写。 これは、終点で『伊豆の踊子』のようなせつない涙の別れが待っているのか、と。

この「手紙出していいかしら」は、 五所 平之助 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 (1933) の別れの場面でも 踊子・薫 (田中 絹代) が学生・水原 (大日方 伝) へ恋心を告白する言葉。 我が身の上ゆえ叶わぬ恋心を女性から告白するお約束のセリフとしての 「手紙出していいかしら」 のルーツは、新派劇とかその題材に好まれた小説にありそうな気がするのですが。

乗客たちはそんな二人を気にもとめないのですが、 そんな二人の様子を見守りその情を察するのが例の酌婦。 というか、酌婦も有りがたうさんに好意を抱いているだけに、 彼が単なる親切心以上の情をあの娘に抱いていることに気付いてしまう、といったところ。 これを台詞を使わずに視線と表情、しぐさだけで描いているもの良いです。 最初は、皆が眠ってしまった隙に有りがたうさんに話かけにきた娘を追い返して、 自分が代わりに彼に話しかけたりもしていました。 しかし、休憩中にふと有りがとうさんの姿を目で追って、彼と娘との親密そうなやりとりに気付いてしまいます。 あの二人そういうことなのね、とでも言うように半ば嫉妬混じりのような視線で二人を見守った後、 再出発の際には娘に運転席近くに座らせてやり、 売られる我が身を嘆いて涙する娘に気もそぞろな有りがたうさんには セコハンのシボレー買うつもりの独立資金を使って娘を救ってやれと耳打ちします。 自分だって有りがたうさんの事が好きなのに、あえて縁結びの役割に回る彼女もせつないです。

終点の駅での様子は直接的には描かず、エンディングは少し飛んで、帰りの乗合。 乗合の中では身売りさせられるはずだった娘があの酌婦へお礼がしたいと 有りがたうさんに親しげに話かけているという、そんなハッピーエンドでした。

原作では娘の好意は終点で母親を通して「ありがたうさん」へ伝えられ、 娘は売られずに済むのではなく、単に延期されるだけなのですが。 映画では代わりに娘自身による好意の告白というロマンチックな見せ場を作ったのも モダンで良かったでしょうか。

そんな淡くもロマンチックな物語も良いのですが、 その物語に直接は関係しない街道を行き交う人々の描写が、この映画に奥行きを作っています。 都会で失業して故郷へ帰ってくる失業者一家、好きな娘が身売りされてしまった結果狂って徘徊する男、東京女歌舞伎の一座の呼び込み。 村の娘は最新の流行歌の入った蓄音器の種板の買ってくるよう有りがたうさんに頼みます。 旅芸人一座の座長は有りがたうさんに言付けを頼むのですが、その踊子の名前は「薫さん」。 その踊子に言付けする時には戻ったら五目並べをしようと約束する、なんて『伊豆の踊子』を思わせるネタも。 (松竹の映画なんだし、あの踊子の役で田中絹代をカメオ出演させたら面白かったのに。 まあ、五所の映画では五目並べの場面は無いのですが。)

そんな中で最も印象に残ったのは、山奥での道路工事にあたる朝鮮人労働者の一群。 伊豆での工事を終えて信州のトンネル工事現場へ移動するとのことで、 顔馴染みの朝鮮人の娘はこの現場で死んだ父の墓の面倒を有りがたうさんに託します。 父親の死は現場での過酷な労働を想像させますし、 「あたし、あそこの道が出来たら、一度日本の着物を着て、ありがたうさんの自動車に乗って通ってみたかったわ。 でも、あたしたち自分でこしらえた道一度も歩かずに、また道のない山行って道をこしらえるんだわ。」 という彼女もせつない場面でした。

1938 / 松竹大船 / 白黒 / 66min.
監督: 清水 宏.
高峰 三枝子 (三沢 美千穂), 徳大寺 伸 (徳市), 日守 新一 (福市), 佐分利 信 (大村 真太郎), 爆弾 小僧 (研一), etc

高峰 三枝子 演じる伊豆の山中の温泉を訪れた少々謎のある東京の女と、 彼女へ按摩をするうちに恋心を寄せるようになっていく温泉の盲の按摩師 徳市 (徳大寺 伸) を、 情緒ある山中の温泉の風景の中に捉えた作品。 彼女の謎のある少々怯えた振舞から、徳市は温泉地で発生した窃盗犯と疑うようになり、 ついに警察が迫ったと彼女を逃がそうとする。 しかし、そこで彼女は自分が妾であることがいやになり旦那から逃げていることを告白し、温泉場から去って行く。 そんな物語そのものよりも、温泉の風情と謎を秘めた役柄が引き立てる 高峰 三枝子 のエキゾチックな顔立ちの美しさに吸い込まれるような映画でした。

『有りがたうさん』も『按摩と女』も、また映画館の大画面でじっくり味わいたいものです。