東京国立近代美術館フィルムセンター で 『よみがえる日本映画 vol.7 [松竹篇]』 という特集上映が開催されています。 かかっているのは、サイレント末期の1933年から戦争直後の1946年にかけての24本。 国策映画も含まれていますが、松竹ということでやはりメロドラマのような娯楽映画が中心。 1930年代後半から40年代初頭にかけての戦前松竹メロドラマをまとめて観る良い機会ということで、 週末に足を運んでいます。 まずは、前半、2月22日と3月1日に観た4本について、鑑賞メモ。 あまり知られていない映画が多いので、あらすじも簡単に。
あらすじ: 女学校を出たものの堕落してカフェーの女給となった艶子に求婚してくれる男が現れたが、 強請りつきまとう昔の男 徳永との縁が切れずに、身を引いてしまう。 そしてその男が結婚した相手は艶子の女学校時代の親友 隆子。 隆子の夫との間の子の病気の治療費を艶子がそうと知らずに隆子から借りたことから、 隆子は夫と艶子の関係を知ってしまう。 結局、隆子は艶子の子を引き取り自分の子として育てることにし、艶子は身を引いて満州へ行く。 艶子は肺病を病んで東京に戻ってきて密かに我が子に会おうとするが、 徳永がそれに気付いて、それをネタに隆子夫妻を強請る。 艶子は強請り取られた金を取り返しに行き、結局、徳永を殺してしまう。 その後、艶子は土砂降りの雨の中を逃げるが、肺病で弱った体は耐えられず身を寄せていたカフェーの前で倒れてしまう。 そして、最後は隆子夫妻と実の子に見守られて艶子は息を引き取る。
好きなのに身を引くために相手の男が兄と引き合わせたときにあばずれ女給を演じて求婚をご破算にしたり、 隆子が艶子とその子を見舞っている時に隆子の夫も見舞いに行ってしまい三者鉢合わせの修羅場があったり。 また、人を殺してずぶ濡れで彷徨する場面から最後に親友と実の子に見守られて死ぬ流れなど、 王道メロドラマの濃厚さを堪能しました。 そして、そういう不幸な女を演ずる 川崎 弘子 が実にハマり役の映画でした。 隆子 役 の 三宅 邦子 もしっかりして母性も感じるキャラに合っていましたし。 一方、三原 順 演じる苦悩する艶子と隆子の間に挟まる男が個性に乏しい優柔不断な優男だったり、 悪役の強請 徳永を演じる 日守 新一 が悪役に見えなかったり、と男性陣の登場人物の造形が甘く感じるのも、 女性中心のメロドラマならではなのでしょうか。
観る直前、入場待ちの時間の間、 稲垣 恭子 『女学校と女学生 教養・たしなみ・モダン文化』 (中公新書, 2007) を読んでいたので、 その第三章「堕落女学生・不良少女・モダンガール」とあまりに符合する内容の映画だったのには苦笑しました。
あらすじ: レビューの楽団員の伸吉は肺病を病んで解雇されてしまう。 恋人のレビューのダンサー古都子を連れて療養に故郷に帰るが、 伸吉の許嫁同然の幼馴染がいたり、古都子のことで妹の縁談が破談になりかけたり、と古都子は歓迎されない存在に。 結局、古都子は伸吉と別れるが、未練があって東京へは帰らずに近くの町のカフェーで女給をしている。 そして、そのカフェーに伸吉が来てしまう。 古都子は気持ちに反して伸吉を突き放すが、そのショックで伸吉は湖に身を投げてしまう。
古都子が伸吉には黙って幼馴染と会って関係を確かめたり、 自殺後の墓参りで二人が鉢合わせて微かに心を通わせたり、というライバルの女性の間やりとりも、 カフェーで古都子が伸吉と再会してしまったときに 直前まで未練で切なくしてたのに彼を突き放すようにあばずれ女給を演じる場面も、メロドラマチック。 伸吉が故郷に帰って度々サキソフォン吹く曲が “Gloomy Sunday” で、端から自殺を暗示する展開という。 田舎で浮きまくる派手な洋装の 桑野 通子 も楽しめましたし、少しスレたカフェーの女給みたいな役も決まってました。 しかし、古都子が身を引いて伸吉の家を去る場面で、 颯爽とした洋装なのにムード歌謡の先駆のような主題歌がかかって、 彼女にはもっと格好良く別れさせてやれよとも思ってしまいました。
ちなみに、タイトルからして 小山内 薫 主宰の松竹キネマ研究所の第1回作品『路上の霊魂』 (松竹蒲田, 1920) を意識したもののよう。 こちらは一度観てみたいと思いつつも未見なのですが、音楽界を追われた主人公が妻子を連れて故郷へ帰るが実家に受け入れられない、というプロットのようで、共通する所もあるようです。
あらすじ: 東京の化粧品会社に努める由紀子はパリ派遣社員の有力候補で、既婚の上司の重役 福井に好意も寄せられている。 由紀子はパリ派遣の話を餌に誘惑されるのではないかと福井を警戒するが、 福井と会うときに護衛として同伴した妹の布江は、愛人となってピアニストとしての自分のパトロンになってもらおうと積極的に福井へアプローチ。 病気の妻への貞操と好意を持つ由紀子への誠意から、福井は布江の好きにさせつつも距離を置いた関係でいようとしたが、 布江の積極さの前に結局は一線を越えてしまう。 が、自責の念にかられて、福井は自殺してしまう。 由紀子はパリに発つ日に、布江を「悪い夢を見たと思って」と慰める。
布江 のアプローチは積極的過ぎでマンガ的な可笑しさも。 一旦姿を眩ました後、宿に 福井 を呼び出す場面では、布団に横になって待っている、とか。 そういう非常識なほど奔放な女性役に 高杉 早苗 が合っていました。 由紀子にも布江にもいい人でいようとして振り回される役の 佐野 周二 も、いい人過ぎて可笑しいほど。 こういう極端なキャラクター設定もメロドラマチックだとは思いますが、 『涙の責任』や『湖上の霊魂』のようにウェットではなくドライな印象。 冒頭は由紀子とライバルとなる横田がモダンなスキー場に遊びに来ている場面ですし、 登場人物の洋装も決まっていて、銀座や日比谷の界隈のオフィス街は歓楽街の様子が垣間みられたり、 メロドラマチックで都会的な恋愛ドラマという感も。そういう所は気に入りました。
しかし、由紀子を陥れようとするライバル横田 (森川 まさみ) と 密かに恋愛関係にある同僚 三瀬 (笠 智衆) が、悪役にあまり見えないという。 『涙の責任』での 日守 信一 の悪役といい、戦前松竹には魅力的な悪役男優がいないのか、 それとも、そういう所も含めて戦前松竹メロドラマのあじわいなのでしょうか。
あらすじ: 帝大卒の考古学研究者 滋と幼馴染みの瑠璃子は結婚を意識する仲だったが、 瑠璃子に金持ちとの縁談が持ち上がると、彼女の両親は貧しい滋の家に手切れ金を渡して別れさせようとする。 そんな事に怒りを覚えて瑠璃子と疎遠になった間に、滋は発掘作業で泊まった伊豆の温泉旅館の一人娘 寿美と親しくなる。 そして、その娘の婿にという縁談が持ち上がると、滋はそれに応じてしまう。 しかし、学者肌の滋は温泉旅館の家風に合わず、山師の兄の持ち込んだトラブルもあって、結局、滋は旅館を去って離縁する。 滋は東京に戻って瑠璃子と会うが、瑠璃子は縁談を受け入れ結婚する直前。滋は母を連れて飛騨へ去る。 一方、寿美は滋の子を宿しており、滋に未練も残していたが、 彼女に好意を寄せる番頭 喜之助 (夏川 大二郎) と形だけの結婚し、その人の子として育てることにする。 その後、寿美に不幸が次々と遅いかかるが、その不幸を乗り越えていくうちに喜之助を愛するようになり、喜之助との子をもうける。 そんな折に、偶然、瑠璃子夫妻が寿美の旅館に泊まり、寿美の苦労を瑠璃子が知ることになる。 瑠璃子から寿美の話を聞き、滋は子の責任を取りたいと寿美を訪れるが、今更と拒絶される。 しかし、元夫の来訪に喜之助は動揺し、川縁で物思いに耽っているうちに、長男 (滋の子) を巻き添えに川に落ちて事故死してしまう。 そのショックで寿美は発狂してしまい、滋はその償いに、寿美の入った精神病院の近くに住んで、彼女の面倒を見つつ残った子を育てることにする。
『愛染かつら』の 野村 浩將 によるメロドラマ。 コメディも得意とした野村だけあって、その案配も巧い娯楽映画でした。 が、後篇、寿美へ不幸が次々と襲いかかるあたりから、やり過ぎの感もあって興醒め。 瑠璃子と滋の別れの逢引の場面、特に足元だけで心のすれ違いを表現した所とか、 滋が師と伊豆の鄙びた温泉地を訪れる雰囲気とか、 寿美が滋と恋に落ちる温泉卓球 (この頃からあったのか!) の場面とか、 前篇は良いなあ、と思う場面が少なからず。 瑠璃子 を演じる 桑野 通子 の洋装姿も堪能できますし、 一山丸眼鏡の 佐分利 信 (相手が 田中 絹代 という意味でも『女醫絹代先生』の安夫を連想させられる) の朴訥で女心はもちろん人の情も読めない学者肌な雰囲気もいい感じ。 なのに、この二人の出番が減ってしまった所も、後篇がいまいち楽しめなかった一因かもしれません。
今回の特集上映はメロドラマばかりではないのですが、 特に狙ったわけではないものの前半に観た4本は全てメロドラマ。 あまりにご都合主義的な展開に失笑してしまうときもしばしばですし、 登場人物の言動もちょっとそれはないだろうと思う程に極端に感じるときもあったり、 物語とか登場人物の内面性とか考え出すと、確かに、なかなか酷いものがあります。 しかし、それでも楽しめるのも確か。 こういう映画は、物語ではなくその場面場面のシチュエーション、 登場人物というより俳優とその演じるキャラクターで楽しむ映画なんだなあ、と、つくづく実感しました。
あと、『男の償ひ』と『女醫絹代先生』で 佐分利 信 の演じるキャラクターに実はあまり変わりなくて、 恋愛不器用を結果として笑える方向に転がすとラブコメになるし、笑えない方向に転がすとメロドラマになるのだな、と。 そんな事に気付かされたりもしました。
ちょうど、岩本 憲児 (編) 『家族の肖像——ホームドラマとメロドラマ』 (森話社, 2007) を読み出した所なのですが、 冒頭の 岩本 による総論の中で 野村 浩将 『人妻椿 前篇・後篇』 (1936) にこう触れています。 こういう下りがあります。
『人妻椿』は、すれ違いの運命が次々に襲うかと思えば、偶然の出会いもあり、まさにご都合主義メロドラマである。ヒロインの苦難を煽りたてる紙芝居もどきの単純さは、かつて東京のフィルムセンターで上映されたおり、筆者ともども観客席から爆笑と苦笑を引き起こした。
ここで挙げた4本でも、フィルムセンター小ホールではこういう笑いが度々沸き上がっていました。 正直、『男の償ひ』など家で一人で見ていたら後半観てられなかったかもしれないですが、 こういう観客の「しょーもねー」と思う一体感に救われた所はあったかもしれません。