菅は1968年に活動を始めた主に立体作品やインスタレーションを制作する美術作家で、 1970年代に 李 禹煥 や 関根 伸夫 と並んで「もの派」と呼ばれた作家の一人。 最初期の1969年の作品から1980年代にかけての、まさに「もの派」の時代の作品の再制作と 当時のドキュメントを集めた展覧会だ。 最近の作品を観る機会はそれなりにあれど、再制作とはいえ1970年代の作品をこれだけまとめて観たのはさすがに初めて。 1970年代の作品をメインに据えると、さすがに展覧会の雰囲気が違う。
金属板の上に大きな石とコンクリートブロックを配置しさ『依存差』 (1973) にしても、 石とブロックに金属棒を渡すことにより、 いわゆるミニマル・アートのようにものの質感を味わうというのと違い、 空間の関係性を意識させる作品なのだな、と。
そんな中では、ランダムな網状に水平に渡したワイヤの上に木片を配置した『捨置状況』 (1972) や、 何本も並べてて立てた同じ高さのコンクリートブロックの上に透明なビニールシートを渡し その上に石を並べておいた『多分律』 (1975) など、 空間の中にレイヤーを浮かび上がらせるような作品が、特に印象に残った。
唯一の屋外作品『継周』 (2015) は再制作ではなく新作。正方形のブロックを並べて結界のようなものを作っていた。 思わずブロックを跨いで中に入ったら、監視案内員の方に入ってはダメだと注意されてしまった。 (我ながら、1998年の時から変わらないな、と……。)
ビデオ・ドキュメンタリーの展示もあったのだが、 壁掛けの液晶テレビで立見という環境で、一本30分から2時間近い長さのものを14本も観る というのは、さすがにまともな鑑賞環境ではないので、ちらっと観ただけで済ましてしまった。
1990年代以降に現代美術の文脈で活動するメキシコの作家の個展。 ちょっと意外な視点で写真を撮ったり、仕掛けを作ったりして、 ささやかなユーモアで現実を異化するような作品が多く、いかにも現代美術らしいかな、と。 こういうユーモアはわからないではないけど、自分のツボにハマった作品がなかったせいか、 むしろ、こういう異化もインフレしてしまっているという印象を受けてしまった。
日本人作家7人によるグループ展。全体としてはテーマにしてもピンとこなかったのだが、 そんな中では、志村 信裕による美術館のある深川に題材を採ったビデオ・インスタレーションが印象に残った。 『Dress』はギャラリーを二分するようリボンで作られたすだれ状のものをスクリーンに、 水面の水のきらめきを投影したもの。 光のきらめきとリボンの揺らめきが美しく、 光が当たっている側と、リボン越しに光を見る側の見え方の違いも面白かった。 もう一つは床に並べた湯桶に荒波を投影した『fountains』。 部屋が暗くて湯桶というより円筒に抽象化され、 キューポラ越しに足下にある荒波を観ているようでもあった。