ロシア第3にしてシベリア中心都市ノヴォシビルスク (Новосибирск [Novosibirsk], RU) の 州立アカデミードラマ劇場 Театр «Красный факел» [“Red Torch” Theatre] (「赤い松明」劇場) の来日公演です。 劇場や演出家 Тимофей Кулябин [Timofey Kulyabin] の作風に関する予備知識はほとんど無く、 Чехов [Chekhov] の4大戯曲の一つ Три сестры [The Three Sisters] (1901, 邦題『三人姉妹』) という演目への興味というより、 ロシア手話 (Русский жестовый язык) で上演するというスタイルに興味を持ち、観に行きました。 4幕物で3回の休憩があるものの4時間以上の上演時間は、 最後まで集中が維持できるか事前は不安に感じられましたが、最後まで飽きることなく、むしろ第3幕以降、ぐいぐいと引き込まれるように観ることができました。
出演している俳優は聴覚のあるロシア人で、この上演のためにロシア手話を学んだとのこと。 単にロシア手話で上演しているというより、 ロシア手話を使う聴覚障害者が Три сестры を上演する様を演じているかのような演出で、俳優は聴覚が無い人のように演じていました。 日本語以外の上演で日本語字幕付き演劇を観る機会はそれなりにありますが、 手話の場合は、セリフのように聞こえてこないので、勝手がかなり異なり、 第2幕くらいまでは視線を向ける方向に戸惑うことも少なからずありました。 しかし、慣れてくると、手話で演じられていることを忘れるほどでした。 サイレント映画を観ていても、その世界に没入できるとサイレントであることを忘れるということはよくあるのですが、 演劇でも似たような体験ができるとは、思いもしませんでした。
原作の19世紀末ではなく現代に舞台は置き換えられていましたが、翻案というほどの変更は無く、比較的原作に忠実な上演。 といっても、演出が巧みということもあってか置き換えが自然に感じられ、むしろ、Чехов の戯曲の現代性、普遍性に気付かされたよう。 仕事に結婚に悩む三姉妹といい、家族の期待に応えられない自分に鬱屈する兄といい、現在の日本の家族でもありそう、と。 幕間に「イリーナ (Ирина)、わがままな末っ娘と思ってたけど、よれよれにくたびれたOLじゃない。かわいそう。」という内容の他の観客の会話が耳に入って、もう、そうとしか見えなくなってしまいました。 カメラ好きの Федотик が、自撮り棒でスマホ写真撮るのが好きな青年となっていたのも、良かったです。
第1幕、第2幕では、壁やドアは無いものの、家具の配置で Прозоров 家の屋敷の間取りが舞台の上に作られ、比較的フラットな照明でした。 手話での上演ということで仕草がデフォルメされた感があるものの、比較的普通にリアリズム的な演劇に感じられ、少々退屈する時もありました。 しかし、第3幕に入ると、大火事による断続的な停電の中、度々、スマホや手持ちLEDライトの限られた照明の中での上演となり、 闇に浮かび上がる顔とほとんど見えない手話が、 ほとんど聞き取れないささやき声での上演が視覚化されているよいうで面白く感じました。 第3幕は災害の極限状況の中で、それまでの空虚な会話から、登場人物の「本音」が語られ始めるわけですが、 それが語られる雰囲気にも合っていました。
屋敷では無く軍隊が旅立つ駅へ舞台が変わる第4幕になると、家具類の舞台装置が取り払われて、抽象度が上あがり、 立ち位置などを使って、象徴的な表現の要素が強めになったのも良かったです。 現代への置き換えの妙もあってか、第4幕に至るまででそれぞれの登場人物の性格付けもすっかり入っていたせいか、それでも十分なほど感情移入してしまいました。 ラストの絶望と希望の三姉妹のやるせなさはもちろん、愛されていないと知りつ Ирина へ別れを告げて決闘に向かう Тузенбах の切なさにも心を動かされました。 ラスト、照明が落ち始めると、駅でも屋敷の中でもなく、屋外の夜空の下に出たよう。 三人姉妹が精神的にも屋敷から出たのだなあ、と、しみじみと心を打たれました。
東京芸術劇場 プレイハウスは、客席がフラット気味で舞台が高めのホールで、 奥行き方向も使うダンス公演を見ていてダンス向きではないと常々思っているのですが、 この公演も屋敷の間取りを再現した第1,2幕など、俯瞰的に観ることを前提とした演出だったので、 このホールでの上演には向いていないなと、つくづく。 新国立劇場の中ホールとか、KAAT神奈川芸術劇場 大ホールのような、 斜度がついた客席から舞台を見下ろすようなホールで観たかったものです。