全体主義的な管理社会を描いたディストピア小説 George Orwell: 1984 『1984年』 (1949) をバレエ作品化したものです。 イングランド北部ウェスト・ヨークシャーのリーズを拠点とする Northern Ballet のプロダクションで、 振付は元 Royal Ballet ダンサーの Jonathan Watkins です。 20世紀を舞台としたディストピア小説を一見馴染みそうも無いバレエでどう表現したのか、という興味もあって観てみました。
原作の3部構成を2幕約90分に、1幕は第2部第2節、郊外パディトンの森の中での初めての逢引まで。 後半は、古物店二階での逢引に始まり、逮捕されて拷問に屈する第3部は約20分でした。 舞台美術は、粗いLEDディスプレイを使って表現されたテレスクリーン、 古物店を表す棚、その二階を表すパイプベッド、逢引の場面での森を表す2本の木など、 ミニマリスティックというほどでは無いものの、象徴的な大道具を効果的に使っていました。 衣装や美術のデザインは、原作の設定である1980年代風ではなく、 原作が書かれた20世紀半ばのミッドセンチュリーモダン、もしくは同時代の旧ソ連圏のモダンデザインを感じさせるものでした。
音楽を手がける Alex Baranowski は The xx & the BBC Philharmonic のオーケストラ編曲程度の予備知識しかありませんが、 ここでは特に electronica / post-rock 的なニュアンスは用いず、 パーカッション使いなど特徴的なものの比較的にオーソドックスに。 女性ダンサーはポワントシューズを履いており動きとしてはバレエ的な要素も多く使われていますが、 象徴的な表現だけで済まさずマイムも使って原作のエピソードを丁寧に拾って表現しており、無言劇の舞台を観るようでした。
1984 といえば 思考を制限する語法であるニュースピークや真理省記録局による歴史改竄などが有名ですが、 セリフを用いないバレエではそういったテーマを扱うのは難しいということもあるでしょうか、そこについてはあまり踏み込んで表現していません。 例えば、ニュースピークを開発に関り Winston より先に消された言語学者 Syme も登場しませんし、 「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」のような有名なスローガンもはっきりと使われませんでしたし、 真理省の仕事の内容に踏み込まず様子も無機質なオフィスワークのように描かれていました。 その点もあって、Winston と Julia の関係に焦点の当てられた演出に感じられました。
ディストピア社会の描写は、ビッグ・ブラザーの目元のみを映すテレスクリーン、 そして、カクカクした動きからなる無機質なオフィスワークを表現し、 狂乱しているようで画一的なポーズに収束する〈憎悪〉などを表現する群舞が効果的。 そして、それとコントラストを成す Julia と Winston の感情を湛えたダンス。 特に、第1幕ラスト、郊外の森のでの逢引の場面でのパ・ド・ドゥはこの舞台のハイライトの一つでしょうか。 第2幕冒頭、古物店二階での逢引の場面で、Julia が化粧をし香水をつける代わりに、 禁欲的なブルーの服から赤い女性用ドレス姿になる (原作では「今後しようとしている」ことといて言うにとどまっている) というのも、 バレエ的な演出で視覚的にも効果的でした。 ディストピアとその中での Julia と Winston の逢引の場面が 動きとしても色彩としてもはっきりとしたコントラストを持って表現されて、 (最後には敗北するとはいえ) 全体主義的な管理社会に対する (絶望的な) 抵抗としての愛情、欲望を描いた作品となっていました。
コントラストといえば、Winston らが属する党員たちの世界をくすんだブルーで、 管理社会の外部となるプロール (労働者階級に相当) たちの世界が茶がかった赤で、視覚的に対比されていました。 また、原作では古物店二階からカーテン越しに見える歌いながら洗濯を干したりしているプロールの大女に相当する役が、 歌の代わりのダンスということでしょうか、“Lead Prole” という役でそれなりにソロを取っていたのも、印象に残りました。
原作との違いといえば、ラストシーン。 原作では釈放された Julia と Winston が公園で再会しお互いが裏切ったことを告白し合うのですが、 この作品ではすれ違い程度に流され、原作では描かれなかった Winston が消されることで終わります。 愛情、欲望の屈服よりも存在を消されることの恐怖の方を強調する演出に感じられました。