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旅のアルバム
 トルコ 



紀元前数千年前からの長い歴史を持ち、アジアとヨーロッパにまたがり、壮大
な自然、古代遺跡の数々、東西文化の融合する歴史的にも興味深い国です。
天候にも恵まれ、オフシーズンのせいか旅行者も私達5人だけで
世界遺産カッパドキアを堪能することができました。またトルコ
の人々はとても親切で、お店の人がペットボトルの水を無料でくださったり、
道を聞くと誰もが、すごく丁寧に説明してくれて優しかったです。
今回は短期間だったので、イスタンブールとカッパドキアとアンカラのみですが、
美しいトルコをご紹介します。 まだまだ古代遺跡など見どころは沢山ありますので、
また是非ゆっくり行ってみたいです。
                                   

イスタンブール
カッパドキア
アンカラ
トルコの料理・お酒
イスタンブール(世界遺産)
紀元前7世紀頃、ギリシャ人がその征服者の名にちなんでビザンチウムと命名したのがこの町の始まりとされる。330年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がこの地に都を移しコンスタンティノープルと改名され、ローマ帝国分裂後、キリスト教(ギリシャ正教)を奉じるビザンチン(東ローマ)帝国の首都として栄えた。その後1204年に十字軍が首都を征服するが、1261年にミカエル8世によって一時再興する。13世紀末にはイスラム教のオスマン・トルコが興り、1453年メフメット2世によりコンスタンティノープルは陥落し、イスタンブールと改名され、大帝国となる。その後産業革命によるヨーロッパ列強の台頭により衰退し、第1次世界大戦後にトルコ共和国が誕生する1923年まで、長く帝国の首都として繁栄した。(現在の首都はアンカラ) ボスポラス海峡をはさんでヨーロッパサイド(歴史的遺産が残る旧市街と新市街)とアジアサイドがある。
イスタンブール 旧市街  
「ヒポドゥローム」古代競馬場跡のオベリスク(記念碑) (旧市街) 
ブルー・モスクの西側に隣接する広場。
紀元前198年にローマ皇帝セプテミウス・ゼヴェルスが建造を命じ、203年に最初の馬車レースが行われました。競技以外にも、スルタンの叙勲式や演説会、処刑なども行われました。広場にはギリシャの神殿から運んだといわれるオベリスク(記念碑)や当時のオベリスクが3本立っています。
ブルー・モスク(スルタンアフメット・ジャミイ) (旧市街)
1609年スルタン・アフメット1世に命により建設され、1616年完成。世界唯一6本のミナレット(尖塔)を持つモスクで、オスマン朝建築の傑作のひとつ。
このブルー・モスクに対峙して次に紹介するアヤソフィアがあります。
ブルー・モスク内の260枚もの美しい
ステンドグラス
チューリップやカーネーション等の植物が描かれたイズニック・タイルで装飾された内部。柱の左の青色が従来の内部の色で、壁や柱がこの美しい青色で装飾されていたのでブルー・モスクと呼ばれました。
アヤソフィア (旧市街)
325年にコンスタンティヌス1世によりアヤソフィアの元となる教会の建築が始まり、コンスタンティヌス2世の時代に完成しました。その後焼失、再建され、ビザンチン帝国の時代が終わるまでギリシャ正教の大本山とされました。ビザンチン建築の最高傑作と評されています。
1453年ビザンチン帝国がオスマン・トルコに征服され、アヤソフィアはモザイクをを漆喰で塗りつぶされイスラム教のモスク(ジャミィ)に変えられました。
20世紀に入るまで、ビザンチン時代のモザイク画は隠されたままになっていましたが、1931年に発見され、漆喰が取り除かれ再び脚光を浴びることになりました。
何世紀もの間、隠されていたのですね。

ビザンチン芸術の傑作「ディーシス(請願)」
モザイクで描かれた穏やかなキリストの表情が印象的でした。日の出とともに見ると、朝日がモザイクに反射して素晴らしいキリスト像が見えるそうです。

ドームの美しい聖母子
本当に後光がさしているようでした。
 
トプカプ宮殿 (旧市街)
1465年〜1478年にかけてメフメット2世により建造され、1856年ドルマバフチェ宮殿(新市街)
に移るまで約370年、何代ものスルタン(支配者)の居城でした。
第二庭園を過ぎると「幸福の門」があります。
この左側には側室たちの居室ハレムがありますが、現在は修復中。庭園右側は厨房で、煙突が並んでいます。
この門をくぐると右側には目をみはる財宝の数々が展示されています。(撮影禁止)
お相撲さんが着るような大きなスルタンの衣装がいくつも展示してありましたが、ものすごく太っていたのでしょうね。
      ハレムの前にある「正義の塔
市街の監視や外敵を発見するのに使われていたそうです。ハレムは修復中だったので残念ながら入場できませんでした。
第三庭園を抜けた、宮殿の奥にあるテラスからボスポラス海峡を臨む。写真右にマルマラ海が広がり、瀬戸内海に似た穏やかな海でした。
グランドバザール (旧市街)

旧市街中心にある屋根のある巨大市場で、1453年メフメット2世が2つの小さな市場を建設したのが始まりと言われています。貴金属や絨毯、アンティーク、皮革製品、陶器、民芸品など4, 5000の店舗が集まっていて、活気に溢れています。価格はあまり安くありません。
イスタンブール (新市街)
ドルマバフチェ宮殿 (新市街)
1843年から10年以上かかって、建設されたもので、オスマン朝のスルタン最後の居城。ヨーロッパのバロック様式とオスマン様式がミックスされた壮麗な建物。冬の閉館は3時と早く、入場制限もあり、入場できなかったのが残念でした。

ドルマバフチェ宮殿前 
数日前、トルコでは過激な国粋主義グループから僅かな報酬をもらって少年がアルメニア人ジャーナリストを殺害した事件があり、この日はその葬儀の為、宮殿前では大勢の警官が出て警戒態勢を取っていました。このジャーナリストは、20世紀初めオスマン帝国によるアルメニア人大量殺害は虐殺だったことを主張した上で、トルコとアルメニアの歴史的和解を呼びかけた人で、殺害された日には大きな抗議デモがあり、この日は10万人以上の市民が集まり非業の死を悼みました。
クルド人によるテロなど民族問題は、キプロスをめぐるギリシャとの問題や経済問題とともに、EU加盟を目指すトルコの大きな課題ですが、初めて民族問題の根の深さを知った日でした。
町でよく見かけるシミット(ゴマパン)売りの車
頭の上に乗せて運んでいるおじさんもいました。
トルコのパンはおいしいですよ。
イルハンのサッカー場 (新市街)
 (ドルマバフチェ宮殿前、イルハンの所属するベシクタシュの「イノニュスタジアム」)
トルコ最強のチーム、ガラタサライの稲本もこのサッカー場で時々プレイしているのでしょうね。ジーコも今、トルコですよね。
空港では、モスクワから来たおじさんが「ナカタ」や「ナナミ」を知っていると話しかけてきましたが、スポーツは世界の人々をつなぐ話題ですね。
ガラタ橋 (新市街のガラタ塔の上より)
ガラタ塔からの一番美しい眺めです。夕方になるとイスタンブールの街がライトアップされ、ロマンチックな光景になります。写真ではなかなかうまく撮れませんでした。
この橋の手前が新市街、向こうが旧市街です。橋の右に金角湾がのびていて、左がボスポラス海峡になります。
ガラタ塔 (新市街)
高さ67m。5〜6世紀頃建設され、1338年にジェノヴァ人移民が城塞の見張り塔として再建されました。オスマン時代には監獄として使われ、天文台も置かれました。
展望テラスからは360度イスタンブールの街が見渡せます。
ドルマバフチェ宮殿からここにたどり着くまでに3人のトルコ人に道やメトロを教えてもらい、お世話になりました。この後タクシム広場までの道がわからなくなり、また3人の方に道を教えてもらいました。左に曲がる左はこっちだよと自分の左肩をたたいて教えてくれたり、私についていらっしゃいというおばさんがいたり、皆さん本当に親切でした。
メトロで美しい女学生達と
町の人にメトロを教えてもらって飛び乗ったのですが、ガラタ塔へ行くのにはどこで降りるのかも知らず、目の前のお嬢さん達に教えてもらいました。「日本人ですか?」と聞かれ、びっくり! 大学で日本語を勉強している学生でした。2年後には日本の大学に留学されるとか・・・。短い時間でしたが、いろいろお話できてとっても楽しかったです。
カッパドキア(世界遺産)
アナトリア高原の中央部に広がる大奇岩地帯で、数億年前に起きた火山の大噴火がもととなり、火山灰と溶岩が積み重なって層となり、長い年月を経て侵食され、固い溶岩の部分だけが侵食されずに残った為、不思議な形となった。また、キリスト教徒が迫害を逃れてこの岩に洞窟を掘って住み、外敵から身を守りつつ、信仰を続けた。大自然の神秘と、歴史的遺跡としても貴重な地域である。
ギョレメ野外博物館

6000年前この地方にはヒッタイト人が、容易に削られる溶岩を削って住居を作り、住んでいました。
4世紀頃からアラブ人の迫害を逃れてキリスト教徒が住み始め、岩の中に教会を数多く作りました。
野外博物館として岩窟の住居や教会の中に入って見ることができます。

洞窟の教会内のフレスコ画
(11〜12世紀頃のもの)
10世紀のビザンチン時代には400以上の教会があったと言われています。
ウチヒサール
「尖った砦」の意味で、カッパドキア地方で最も高い所に位置する村
岩肌の無数の小さい穴は鳩の巣で、鳩の糞を集めブドウ畑の肥料としていました。

ウチヒサールからのパノラマ

たけのこの様な岩

ウチヒサル城塞 
ここからギョレメの谷が一望できます

なめらかな波のような岩肌 
カッパドキアにはいろいろな表情があります
カイマクル地下都市
キリスト教徒が迫害から身を守る為に掘られた大地下都市。
カッパドキアにはこのような地下都市が数多く残っています。
当時は2万人が暮らしていたといわれています。

細い通路を通って地下8階まで続きます。
(現在は地下4階まで降りられます)

多人数一緒に食べられる大石の食器
(水が貴重だったので、洗い物節約の知恵)
狭い通路を抜けると少し広い居住空間があります。
小部屋にわかれ、台所、食料庫、井戸、通気孔も完備され、教会、集会場、学校、墓などもあったそうです。
長い期間日を浴びることができず、衛生状態も悪かった為、疫病が蔓延し多くの死者も出たということが出土された骨からわかりました。

カッパドキアの人々と文化
カッパドキアにはこのような洞窟に作られたレストランやホテルが沢山あります。
左の料理はそのすぐ右上にある壺に肉や野菜を入れて窯で煮たシチューのような料理で、すごく美味しかったです。(テスティ・ケバブ) 右下は短い極細パスタの入ったトマトスープです。トルコではレンズ豆のスープやこのパスタ入りスープが定番のようです。

カッパドキアの人々
カッパドキアのかわいい女の子

一緒に洞窟レストランに行きました。まだ1歳なのに、ベリーダンスの真似をしていましたよ。すごい!
            メヴラーナ
トルコと言えば、女性が腰を激しく動かして踊るベリー・ダンスが有名ですが、それよりももっと印象に残ったのが、このメヴラーナの踊りです。(英語ではdervish) 男性がくるくると絶え間なく早く回り続ける宗教的な旋舞で、見ている者も目がまわりそうな不思議な踊りでした。旋回し続けることで忘我の境地に達し、神との合一をめざすと言われています。この他に、上半身はあまり動かさず足を早く動かすロシアやアイルランドの踊りのような民族舞踊もありました。(こちらは複数の男女の踊り)
         カーヌーン(竪琴)
千夜一夜物語にも登場する楽器で、演奏には熟練を要します。舞踊の音楽として、笛や太鼓等と一緒に演奏される素敵な音色で、場内はオリエンタルなムードに包まれました。トルコ音楽には「微分音」といわれるものがあり、半音をさらに細かく、各音の間に何段階もの細かい音階を刻むそうです。音がはずれてるのではないのです。この微妙な音色がトルコらしい味わいになるのでしょう。
アヴァノスの陶器工房
アヴァノスは陶器で有名な町で、その歴史は紀元前のヒッタイト時代までさかのぼります。足でロクロを動かしながら作っていました。ロクロで陶芸体験もできます。1つ1つ細い筆で描く繊細な模様、トルコらしい色使いに魅せられてしまいました。      

お土産の陶工作品
           トルコ絨毯
トルコ絨毯は、トルコの人々が中央アジアの遊牧民だった頃からの長い歴史があり、トルコが誇る芸術品です。この地域も絨毯の産地で、繊細で美しい手作りの絨毯が作られています。特徴はダブル・ノットという2重に糸を結ぶ方式で、とても丈夫です。素材はウール、ウール&綿、シルクがありますが、左の女性は先生格で一番高級なシルクを織っていました。
パシャバー地区
    キノコ岩で有名なパシャバー地区

不思議な形の岩ですね。上に岩がのっているように見えますが、硬度の違う地層が侵食されてできた形なので、1つにつながっている岩なのです。この地域にはこのようなユニークな形の岩がニョキニョキと、まるでキノコの群生の様です。
大自然の神秘を感じます。

美しい火山
デヴレント地区
            ラクダ岩

二瘤ラクダにそっくりな形の岩。
この地域は大小の白い岩々が連なり、動物のような面白い形の岩が点在しています。2000年前は海の中だったといわれています。
円錐の上にボールペンの先の様な岩がちょこんとのっかったような岩など、辺りは面白い岩ばかりで、別世界にいるようでした。
カッパドキアを後にして
アンカラへ
シルクロード
  アーズカラハン隊商宿(ケルヴァンサライ)

シルクロードの中継点として中央アナトリアにも
隊商宿(ケルヴァンサライ)が建てられました。
この隊商宿は13世紀のもので、トルコに40以上
残っている中で、最も保存状態が良いものの1つ
です。中には、監視塔やラクダ小屋、モスクまで
備えられています。
           隊商宿内部

人間の部屋かと思ったら、 ラクダ小屋でした。道理で天井がすごく高かったです。大事な労働力として大切にされていたのですね。
大塩湖 トゥズ湖
カッパドキアとアンカラのほぼ中間地点に南北に80mもある大塩湖があります。遠浅の海の様に、
見渡す限り湖です。しかも海水よりも塩分が多く、95%が塩分、とても泳げませんね。足元を見たら、
一面塩の結晶で手で摘むことができました。
アンカラ
アンカラは、1923年トルコ共和国の誕生で首都となる。イスタンブールに次ぐトルコ第2の大都市。アナトリア高原の西に位置し、イスタンブールから車で約6,7時間かかる。アンカラの歴史は古く、紀元前2500年頃にはヒッタイト人が住んでいたといわれる。ローマ時代にはアンキラと呼ばれ繁栄していた。その時代の遺跡が今でも街中に多く残っている。オスマン朝時代にはアンゴラと呼ばれていた。
アンカラの近代的な街中にローマ時代の遺跡が
あちこち残っています。泊まったホテルの前にもこのような遺跡がありました。(部屋の窓より)
アタテュルク廟
建国の父 ムスタファ・ケマル・アタテュルクの廟

ケマル・アタテュルクは、第一次世界大戦の敗北後亡国の危機にあったトルコを救い、1923年にトルコ共和国を樹立しました。
彼は初代大統領として、政教分離、一夫多妻制の廃止、婦人解放、アラビア文字を廃止しローマ字表記への導入、義務教育制度等、トルコの近代化を推進しました。
       アタテュルク廟の内部

黒大理石の石棺が中央奥に安置されています。
トルコを救い、トルコを変えた父として、国民に尊敬し続けられているケマル・アタテュルクの偉大さが、この廟の丘に立つと、伝わってくるようです。
トルコは感動の歴史を持つ国なのですね。
アンカラの街を一望できるアタテュルク廟
     アンカラ市内のアタテュルク像

トルコではケマル・アタテュルクの像や肖像画をあちこちで見かけます。お札やコインにも全て彼の顔が描かれています。国民のヒーローなのですね。
トルコのお菓子はWhat's Newで紹介しています。

トルコの料理・お酒 (Please click ! )

     

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