ドーナツ的宇宙の、現実・・・


(NSカード情報誌エッセイ『ドーナツ的宇宙の、現実』から)




旅に出る、夢を見る


 若い女性の必須アイテムと言えば“旅に行く”ことと“夢を、見ること”、ですよね。
 だって、学校がつまらなくても、会社でイヤなことがあっても、旅行パンフレットを集めて「今度はどこへ行こうかな」なんて思いを巡らせれば、もうシアワセ、でしょ。まあ、誰だってイヤだったり、めんどくさかったりする現実から目をそらして、旅先でのアバンチュールや、絶対食べたい! なんて決めちゃっている美味しいお料理のことなんか考えている時は、シアワセなもんです。

 この“心、ここにあらず”、っていうノリが、彼女らを現実から救っているわけです。

 しかし、それは救済であっても、解決ではないですよ。キャリアウーマンとして、あるいはアホな上司に疲れる大変な毎日を送っている平凡なOLとして、毎日焼肉食べても埋め合わせにならない(?)ような彼女たちのケだるい日常生活のために提供された商品。それが、資本主義社会システムが商品として届けてくれる救済アイテムとしての旅や夢、というハレバレとした商品でしょ。

 ただ、ラディカルな問題として、それらは解決にはならないんですよね。あくまで、救済だけであって。解決とは、ちょっと違う。

 説明しちゃうと、旅はケだるい日常生活の場である“ここ”から、空間的な距離をおくことで、救済してくれます。ハレの場へ連れていってくれるわけですね。そして、夢は、現実のいろいろな思いやイヤなことから、時間的な距離をおくことで、気分を紛らわせてくれるわけです。
 問題は、旅からは、必ず帰宅しなければいけないし、夢は、醒めてしまう、ということ。男の子ならば、成長するために旅に出て、理想を実現するために夢を見る・・・という伝説?か神話? があったかもしれませんけど。



繰り返し、繰り返す


 旅から戻り、夢から醒めれば、また、旅に出たくなるし、もっと、夢を見たくなります。
 そうやって、人間は生きているんだ、と考えても間違いじゃないでしょ。
 ジェットコースターのように、繰り返しでも、ないよりあったほうが、いいものですね、きっと。いや、かえって、繰り返しの方が安心して、すべてをゆだねられる心地好さがあるかもしれません。

 だから、繰り返し繰り返すリフレインの叫びをそのまま曲にし、ヒットさせるユーミンは、そのへんがよく分かっている人だと思います。ユーミンの曲には、心地好いせつなさが、いっぱいあるから。

 ユーミン自身が「せつない」という感情が好きだそうです。「せつない」っていうのは、届きそうで、届かない思いとか、近づきたくても近づけない時の、あの思いや気持ちですよね。“つめられない距離”を感じる時の、心の反応です。

 “旅”や“夢”が、現実にワタシたちが生きている“ここ”に対する空間的、時間的な距離だとすれば、そうやって、距離をとらなければいけない現実というものは、とても、「せつない」もの・・・だということになるでしょう。
 だとすれば、ユーミンや村上春樹の作品に感じる“せつなさ”こそ、現実をあらわしたものと言えるわけですよね。
 ユーミンがヒットし、『ノルウェイの森』が読まれるのは、作品が現実を確実に反映してるからではないでしょうか。

 そして、ユーミンやハルキワールドを読み解くことは、現実を知ることになります。



スタンス


 村上春樹の作品に出てくる主人公の「僕」は
「遠くから見れば、たいていのものはキレイに見える」とクールに言いながら生きています。しかし、このクールさも、よく考えてみると大変せつないものだとわかります。いや、考えなくても、せつなさが伝わってくるとこが村上作品の魅力でしょ。
 何かをすると、誰かに迷惑をかけてしまう、だから、他者にむかっては何もしない、というような人生哲学を持った「僕」は、それゆえに他人と距離をおき、孤独な内面を抱えて生きています。

 その「僕」がたった一度だけ本気になったのが「直子」との恋愛。100パーセントの恋愛小説である『ノルウェイの森』のヒロイン、直子です。そして、クールな「僕」がいくら距離をつめようとしても、直子との距離は縮められず、終局をむかえてしまいます。心を病んでいた直子を、「僕」は救うことができなかったのです。
 つまり、いろいろなものごととスタンス(距離)を保ち、“キレイ”な人生を送ってきた「僕」は、直子の問題も、直子との恋愛も解決できずに生きていくことになるわけです。
 でも、「僕」は、好きで何事に対してもスタンスを保っているわけではありません。村上春樹の初期3部作のラスト作品『羊をめぐる冒険』では、友人の「鼠」にたのまれて、物語のエンディングを用意する大役をこなします。ここで「僕」は、はじめて積極的に他者に関わっていき、友人のためにはたらきました。

 こうして、「僕」はひとまず、人間として他人との関わりを知り、人生の再出発をします。1982年ですね。



回想・・・回帰・・・


 そして、1987年に18年前の思い出を回想するかたちで『ノルウェイの森』が書かれます。

 デジャ・ビュのような感覚さえともなって、よみがえってくる記憶が、この作品。ここに、大きなキーポイントがあるんですね。
 デジャ・ビュは「既視現象」と呼ばれる心理学的な時間上の距離感のこと。初めて見たものでも「いつか、どこかで見たことがある」ように感じる現象で、時間認識の狂いによります。
 デジャ・ビュは自分に対してさえ距離をおいてしまった心のトラブルだと言えるでしょう。でも、これはめずらしいものではなく、疲れていると1日が長く感じたり、楽しいとあっという間に終わってしまったりする、誰にでもある、あの気ままな時間感覚のアバウトさのことです。

 しかし、生きていくのに、すべてがその調子では大変ですが、実際、そういう人もいました。キルケゴールという人が、そう。実存哲学の人として有名ですが、彼のメランコリーは、並みではなかったようですね。彼は恋したその瞬間から、失恋の感情の中、思い出の中で相手を思ってしまうというタイプの人間でした。
 実存哲学とは、「ワタシは誰? ココはどこ?」という人間の根本的な認識を探る哲学ですが、いろいろなことに距離をおき、とうとう最後には自分自身にまで距離をおいた時に生まれてくる疑問のことです。この疑問への解答が、“悟り”というもの。

 村上春樹は、そんな哲学的なレベルまで人間を探っている作家と言えるでしょう。

 旅や夢に逃避する機会が多くなり、現実生活との距離をおきたくなるほど、村上春樹の作品は現実を反映し、哲学的になっていくような気がします。
 たとえば、『1973年のピンボール』の中で「僕」が読んでいるカントの『純粋理性批判』は“真理とは直接知ることができないもの”という内容の哲学書です。
 ここにも、つめることができない距離、けっして触れることができない真実、というものが表現されています。
 そして、村上春樹の作品全体は、“生きることは、相手との距離をつめていこうとすること・・・”と語っているように感じます。
 つめられなくても、つめようとすること、ですね。繰り返しになるけど、そのせつなさが、村上作品の魅力でしょう。ニーチェのように永遠回帰するわけです。もちろん、都会的にだけど。ドーナツの輪のように、ね。





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    羊5(ひつじファイブ)参考データ『羊通信』
   PROFILE     設計会社、コンサートステージのセッティングをはじめ長いバイト生活の後、
    雑貨・化粧品店の業態開発、化粧品・百貨店のコピーライター、企業PR誌
    編集長を経験。ある年度はコンピュータ・ネットワークで400本ほどの原
    稿を書いた。当然、その数量は仕事より多い。しかし、コンピュータには弱
    く、オタクでもない。ただ中途半端なだけらしい。
   E-mail     メールで教えられることも多いし、メールだからこそ丁寧に解答できることも
    多いですね。卒論に役に立ったり、表現に役に立ったという連絡をもらい、感
    動してます。このHPで発信すること以外にもメールをはじめ多くの可能性が
    あると思います。カタツムリの歩みですが「これからもヨロシク」でーす。
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