TYO & SKY/DOMO/羊通信/羊通信パラパラ版/ターゲットは?(投稿)
哲学してみると・・・ (DCカード情報誌小特集「哲学のある生活」エッセイから) 村上春樹の哲学
「純粋理性批判」
闇夜のカラス
大衆・・・
出会った時に、失恋している
「遠くから見れば、たいていのものはキレイに見える」 コレが、村上春樹が主人公の「僕」に語らせている哲学の一片だ。距離というパースペクティブがたいていの ものをキレイに見せる、という審美学的なセリフがカッコイイ。 ところで、今は、デジタルの時代。コンピュータグラフィックの画像データを拡大してみれば、ドットが見える。 遠くからキレイに見る感性と、近づいたらドットばかりの現実。 ボクたちはそのギャップを埋めながら生きている。 お疲れさまです。 そこで、ボクらにとっての“現実”とは? “リアル”とは、何なのか? キレイであることの意味は、ドットの無意味さは? こうやって、大きな疑問を持つこと。 これが哲人への、第一歩だ。
ドイツの哲学者カントは、人間は真理に到達することはできない、と考えた。毎日の生活は現象であって、真 理そのものではないと。プラトンの主張も似たようなものだ。イデーは現実ではない、とか。 村上春樹の「僕」はこのカントの「純粋理性批判」を愛読書にしている。到達できない何か、つめることので きない対象との距離。この距離をプラスにとるか、マイナスと判断するか。その距離をめぐるトーンと変化が 春樹ワールドの構造なのだ、とボクは思った。 春樹ワールドを象徴する典型的なオブジェ。小説の中の小道具ひとつでも、計算し尽くされている演出なら、 意味も深い。春樹ワールドは緻密にできているようだ。 いく度か登場する「純粋理性批判」は絶妙な効果を放っている、と思う。
闇夜のカラスの問題っていうのは、とても哲学的なモンだと思う。 闇夜のカラスが見えないとしても、それはカラスの存在論的テーマではなく、そこに可視光線があるか/ない かの物理的な問題だ。見えるか/見えないかという認識の問題は、第一次的には物理的な条件に左右されて いるにすぎない。 暗けりゃ見えないのは当たり前。 この物理的な条件を大前提とする哲学が“唯物論”というもの。「心眼で見る」とかいう“唯識論”は宗教的 な主張であって、物理的な条件なしでは成立しないタワごとだ。宗教は科学を超えるなどというフザケた主張は オウムという悲喜劇でお仕舞いにしよう。 だまされちゃだめだよ、みんな。
「大衆が間違っていても、大衆に従おう」 コレはある有名な革命家が同志に向かって訴えたコトバ。なかなかカンタンに言えるセリフじゃない。宗教じゃ 神の教えを判断の基準にし、科学では合理的客観的判断を基準にし、人気投票だったら得票数を基準にしたり、 する。なかなか、それぞれ、大変だ。 ところで、大衆を基準にしたらどうなるのだろうか? 日本にも大衆を基準にしてモノゴトを考えてきた人がいる。吉本ばななのお父さん、吉本隆明がそう。彼は “大衆”を基準にして哲学しているに違いない、と思わせるスルドクてカンタンなコトバを放つ。弱くって、ず るくって、ガマン強くて、したたかな大衆。 ボクもアナタも、大衆だもんな。 G7と呼ばれる先進国首脳会議参加国はいずれも大衆消費社会という共通点があり、GNPの半分以上 を消費財が占め、就労人口の半数以上が消費関連の仕事に携わり、農業人口は数%しかいない・・・ という国家なのだ。 バブル崩壊後の日本でも、バブル期の金余りをベースにした“買いまくり”消費の気分は、一向に変わってない。 その証拠に500万円以上もするセドリックやクラウンが予想の4〜6倍も売れまくり、1台10万円以上はす るコンピュータが50%成長している。売れなくなったのは連続4年間マイナスの百貨店をはじめとする“ただ のモノに付加価値をつけてイメージで売っていた商売”だけ。もはや大衆はイメージになんかに惑わされてはい ないんだから当然のコト。今は、コストと中身で的確に判断され、しかも、その判断をシビアに保証しようとす るPL法だって登場したのだから。 今、平均すると1ヶ月の家計支出のうち20万円くらいが必要でない買い物で消費されている。3000万世 帯あるとして1ヶ月で6兆円の必要でない買い物が行なわれているコトになる。1年間で72兆円。コレは国家 予算に匹敵する額だ。これだけの額を大衆が左右している(しかも必要でない買い物なので、いつでも止められ る)ということは、国家や産業の運命はすでに大衆に握られているワケだ。1ヶ月不買運動をすればどんな 大企業も倒産するし、半年不買運動をすれば国家は崩壊する。吉本隆明は現在の超高度資本主義をこんな風に わかりやすくカンタンに分析してみせる。神奈川県知事選挙の22万票もあった無効票のことをあわせて考えると、 大衆が政治に対して決定的な影響を与えることは現実味がないわけではないだろう。そして、今だに土建業や大手 製造業のために予算を組んで、景気回復・内需拡大のキッカケを目指そうとしている政府の愚劣さがよーくわかっ てしまう。 哲学とは、専門書を読むことじゃない。消費という日常と、大衆という主体を考えてみることなんだ。
記憶喪失は、何かを守ろうとする防衛機制による強烈な現象だ。激しく何かを守ろうとするがゆえに、何かに 対して無限の距離をおく。 無限の距離をつめられない限り、何かが何であるかはわからない。無限の遠くにあ るものをわかる人はいない。 人間がモノゴトを判断する時、必ず時間がかかるようになっている。コンピュータの回路と同じで、どんなに 瞬間でも時間はかかっている。認識は時間をともない、対象は空間として認識される。 たとえば見たコトはわかっているが、見たモノがなんであるかはすぐにわからないことがある。前者を 指示決定、後者を自己決定という。この指示決定から自己決定するまでにかかる時間はまちまちであり、 また、そのかかった時間を別の感覚が感じるようになっている。だから、楽しいことはアッという間に過ぎ、 苦しいことが延々と続くように感じるワケだ。「長い1日だったなぁ」てな具合。 今、初めて見たのに、前に見たような、前から知っていたような感じがするデジャヴ・既視現象も同じ。疲労 している時など防衛機制が高まっているとなりやすい、自己決定するまでにかかった時間を異様に長く感じ過去 のことと捉えてしまう病理作用の一種だ。 しかし、そこにロマンがないわけじゃない。 対象を大切に思うがゆえに、初めから対象に認識上の距離をおいてしまうこと。記憶喪失のように喪失してし まうほどではないが、対象と距離をおく作用。距離をおくことによって対象を守ろうとするチョット悲しい作用 なのだ。 たとえばキルケゴールという哲学者は、そういった恋しかできなかったという。激しく思うがゆえに、最初か ら失恋してしまった心象のなかで彼は女性と出会う。 初めて会ったのに、失恋している。 キルケゴールの哲学は何も解決してくれないが、大切なことを教えてくれる気がする。 きっと、いいヤツだったに違いない、と思う。
◆◆◆◆◆◆◆ NAME 羊5(ひつじファイブ) PROFILE 企画制作会社にて企画や編集を担当。企業からの相談で多いのが「代理店→なくす」「郵送→宅配」 の2つ。コンピュータ化で広告や編集のファクトリーアウトレットが登場し、電子メールで中間管理職もなく なると予測。もう半ば現実か。超整理法の熱烈なファンだがまったく実行できない。いい加減なヤツです。 文句に注文、お問い合わせ、仕事?・・・なんかあったらお気軽にメールください。気軽な人です。(^^)v 宛先 ↓sheep5@1.104.net
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