そーいった状況の中で、制度や肩書きや署名性でかろうじて保障される作家ではなく、単なる大衆の中の表現者としてライターというもの、その無署名性(大衆性)ゆえのリアル(ドキュメント・ルポ)に価値を見い出してるのが中森明夫をはじめとするライターたち。
このスタンスを有名作家でありながら無意識に選択したのが『アンダーグランウド』だとすれば、やはり村上は高度資本主義の表現者としてカッコイイです。その思想的力量は“純粋理性批判”や“トロツキー”といったプロットにシンボライズされてる、とゆーのがドーナツ的宇宙の解釈で、一つの商品のなかに資本主義のすべてがあるよーに、プロットの一つ、表現のディテールに小説や表現の意味や価値のすべてがあります、と考えちゃいます。小林秀雄を読むまでもなく、ですね。
アンダーグラウンド - 村上春樹 / <作品・物語 - 作家・有名・制度>
アンダーグラウンド - 村上春樹 / <商品・ドキュメント - ライター・無名・大衆>
そして、村上春樹の限界は作家の限界だともいえるでしょー。その限界を突破するには…。
これは、まんま、印象批評の限界を突破することと同等同質の問題で、最初から突破してる人も多いですが、まあ、作家タイプにはあんまりいません。政治家には多いかなあ、とゆーより前提なんだけど。
ポイントは、リアルとゆーこと、
リアルの依拠するトコ。依拠するトコのリアルとゆーか。
もちろん、この突破口としてその思想的力量を問うのが吉本隆明の批評であることはジョーシキかもしれませんねえ。吉本のスタンスは依拠するトコをあくまで個人(大衆の中の一人)にもとめ、それは個人の思想的力量に還元されます。一方、ライターとしてのスタンスは大衆そのものにもとめるコトです。何故ならライターというのは資本主義による職業だからですね。その価値は市場と技量・テクノロジーにより決定されます。
音楽という表現であれば前者が坂本龍一で後者が小室哲哉ってゆーのはドーナツ的宇宙のコンセンサスですけど。
村上への理解が大きな分水嶺であることをハッキリさせる時期が来つつあるよーな気がします。
メエメエ
■ホットケーキ・・・ 97/7/15
ホットーケーキは断じてパンケーキではありませんが、
今日はそんな話しではなく、鼠が好きなコーラがけホットケーキのことでもありません。
神田の万惣と、日本橋の三越と、マウイ島と、珈琲館の話しです。
神田の万惣は銀座の千疋屋の向こうをはるフルーツ屋さん。レストランもあるけど、人気なのはここのホットケーキ。蜂蜜のおかげでコゲ茶色に焼けてでてくるホットケーキは糖分の焦げるカラメルの香りでいっぱい。これにバターをどーんと塗って、とゆーよりのせて食べましょー。浅草の神谷バアで電気ブランでも飲んでいたそうなお爺さんをおいて、日本橋の木屋で洋裁バサミを砥いでもらったお婆さんが、お爺さんとの若い頃の思い出に浸りながらホットケーキを食べていそうなお店です。バターを飲むみたいなアボガドのジュースも気に入ってます。
ホットケーキの記憶の原形をつくってくれたのは日本橋三越の新館1階にある喫茶店のホットケーキ。小麦の香ばしさとバターの味、メイプルシロップの深ーい味わい。ボクの原体験はここ。昔、メニューが英語だった時期もあり、もともとは外国人向けの喫茶店でもあったとゆー話しを聞いたことがあります。近所でアルバイトをしていた頃よく食べに行きましたが、ホットケーキがだんだん小さくなったよーな気がして、いつのまにか行かなくなってしまいました。バブル以前のお話です。サンドイッチやコーヒーも美味しいお店。日本橋のすぐ際でもあり、とってもオシャレな場所なのかもしれません。
マウイ島に日系人のオバさんが5名でやってるホットケーキの美味しいお店があると聞いたことがあります。このホットケーキを食べにわざわざマウイ島までいった人から聞いたのでホントでしょー。こんどもっと詳しく聞いとこ。
ところで最近知ってしまったのが喫茶店とコーヒー販売のチェーンである珈琲館のホットケーキ。ドトールコーヒーだのコロラドだの、古くはルノアールだの、喫茶店でコーヒーがリーズナブルで美味しいとこは少なくありません。打合せや、原稿書きや、一人でボンヤリするのによく行きます。同じ系列でもお店によってコーヒーの味が全然違ったりするので、美味しいポイントが見つかるとくり返し行ったりするもんです。喫茶店も過当競争のせいかチェーン展開でもメニューの変化が目立つお店もあって、たいていのお店は季節毎に多少なりともメニューが変わるんでしょー。先日ふと気になったのが珈琲館のホットケーキです。メニューには手作りと書いてあるんで、本部から冷凍のホットケーキが送られてきてチンするやつじゃないんだな、と思って頼んでみました。でてきたホットケーキはコゲ茶色。多少いびつなそのカタチは手作りの証明か。チンするやつ特有のヘンな湿り気もなく、直前までフライパンで寝そべっていた雰囲気がします。食べてみると…。オヨヨ、ホットケーキを巡るいくつもの記憶がフラッシュバック! うーん、こんなに安くて美味しいホットケーキがチェーン展開の喫茶店でも食べられるんだあ、と感激したボクは、高度資本主義への忠誠を胸に誓うのでした。
■ベーカリー・・・ 97/7/11
この世で初めて憶えた外国語が「ベーカリー」です。
今はない基地の街の今はないパン屋さんの名前がそう。
カリコリしたかたいドーナツや大きなコッペパンがガラスケースに並んでました。
ベーカリーの看板は今なら横田基地前の国道16号沿いにあるお店のような、アメリカ兵向けのモダン?なやつです。
空色のバックに青い文字で「Bakery」と描いてあって、太ったオバさんみたいな“B”の文字や、旗めいてるよーな文字のデザインを見て、英語にも毛筆があるんだなあ、と感心。習字の稽古なんて墨塗りケンカと半紙のまる投げ合戦以外記憶にないけど、アメリカの習字?みたいなパン屋の看板にはけっこう感動したもんでした。
もちろんもっと感動したのは味。
かたいドーナツに粗目ではなくパウダーでもない砂糖のつぶつぶが塗してあって、つまむだけで油だらけになる指を舐めながらパクパク食べるんだけど、牛乳がないと食べられません。アメリカ人はこんな甘いもんをいつも食べてるのかなあ、と子供が思うほど砂糖だらけ。こげ茶色でカリコリした厚い皮?の下は黄色でやはりかたいカステラのようなパンのような中身があります。卵の色だとすぐ納得できるよーな黄色のスポンジは意外に食べ応えがあって、砂糖の甘さ、中身のボリューム感は牛乳やコーヒー牛乳を飲みながらでないと食べられないもんです。このドーナツを伸ばしてねじったようなネジリパンもあったけど、こちらの感触は今のパン風。柔らかくって、引っ張ると細く伸びてちぎれます。しかし、ドーナツはボソッと折れるだけ。伸びたりしません。
そんなベーカリーとドーナツを忘れた頃、巷で出てきたのがオールドファッション・ドーナツ。固くて茶色いシンプルなドーナツです。見た目が違うけど懐かしくなって食べてみました。しかし、やはり違います。全然違う。こんなに軽くて、さっぱりしてるなんて、こりゃアメリカのどこのサンプルだ、とか考えてしまいました。アメリカつったって広しな、とか。
とにかく、軍服着たアメリカ兵が食べてたドーナツ、コーヒー牛乳の味と一緒に憶えたあのドーナツと違います。紙の上に置くと紙全体がパラフィン紙みたいに油が染みて透明になっちゃうドーナツ。2〜3mmのコゲ茶色した砂糖だらけの皮と、卵色のホクホクした中身の味の二段階的ドーナツと違います。
オールドファッション・ドーナツなんて、ニセモノだあ。
お店の場所を知ってる人にドーナツを買ってきてもらい、カメラマンに撮影してもらい、今はもう覚えていないドーナツについてのコラムを書きました。
しばらくして、そのパン屋を訪れると、もう店じまいしていました。
今やドーナツのオリジナルは、記憶の中だけになってしまったのです。
■小室哲哉は何を歌っているのか・・・ 97/7/3
“小室哲哉は何を歌っているのか”
“自分の孤立感、無意識に”
・・・とゆー記事が朝日新聞の文化欄に載りました。執筆者は村瀬学氏です。
村瀬学氏の初めての著書『理解のおくれの本質/初期心的現象の世界』は、そのタイトルでわかっちゃう人もいるでしょーが吉本隆明氏の『心的現象論序説』に影響されて書かれた本です。はじめて『理解のおくれの本質』を読んだときに、きっと世界的な価値ある名著になるだろーと思いました。『心的現象論序説』は実際に多くの心理学者や医者に影響を与え、東大病院や都立病院などでそれに基づいた研究や治療が行なわれてるよーですが。この『理解のおくれの本質』も、宇宙を突き抜けそーなスルドサと宇宙のよーな深ーい優しさに貫かれた、ホントに根本的なテーマの心理学書です。これを読んでから自閉症や心身の障害をはじめ身体へのイメージや理解が変わりました。
ところで新聞紙面での村瀬氏による小室分析はなかなかのもの。もちろん異論がありますが、歌詞、曲、旋律を別々に捉え、それらが“「絶妙のバランス」として「編集(プロデュース)」される。”という指摘や、“「歌」を味わうというふうにはできていない。途中から始まり、途中で消えてゆくような「マントラ」のような感じ。”なんていうふうに興味深いコメントがされてます。
小室の歌詞の特徴は日常とかリアルといったものに関係があります。人々が空気や水を意識することがないように、ホントのリアルとか日常は意識されません。小室の歌詞の特徴は意識されないこと、まあフツーなとこです。いちいち意識させられる表現に価値を見い出しそれをアイデンティティにしているアートとか芸術的表現といった陳腐なものからは完全にフリーハンドなところにある表現として、小室は優れて資本主義的あるいはベンヤミン的なんですね。しかし、こういった小室への分析をほかに見つけることができないでチョット残念だったのですが、村瀬氏の分析はこのことに触れてます。
歌詞が“味わうというふうにはできていない”
その分だけ“曲に「聞かせどころ」が秘められている”、
そして“聞くともなく聞いていると”
・・・という過程をへて歌詞をあらためて意識したときに
“妙に聴き手の状況にマッチするようなメッセージを伝えていることに気がついて”
さらにその世界に引き込まれていく・・・。
・・・というように村瀬氏は洗脳の過程とシステムそのものまで解説してます。
これらは坂本龍一が小室の楽曲に関して(自分なら)恥ずかしくてできないとコメントした魅惑するためのテクニックで、優れた表現者にとっては特別のことではないでしょー。
これらを企画し表現の戦略をたてることが表現者の頭脳で、それを実現する方法がテクノロジーなのはもはや常識だし。
もちろん、村瀬氏の小室論は解説や批評、分析そのもののレベルも示していて、意味深いものだと思います。
■村上春樹のリアル・・・ 97/6/28
『アンダーグラウンド』を読んだ第一印象といったら、“典型的なインタビュー原稿、しかもレア”ってゆー感じです。編集やライターの方ならそう思った人は多いんじゃないでしょーか。
ポイントはもちろん“レア”なとこ。
恣意的なコンセプトとかいうデッチ上げで方向づけされることが大部分のその辺の雑誌や本のインタビュー記事ではなく、その方向づけ以前のレアな感じがそのまま、あるいはテープをおこしてそのままみたいな感じのインタビューが、現実とは数えるだけ数があると確信させてくれるほどのボリュームと深さで並んでます。
圧巻ですね、コレ。
そして、口数少ない質問が染みわたるように、またしおりのようにポツ、ポツ、っとページの所々に入ってます。そこには繊細だけど力強い、自然の積分を言葉で表現したような世界が広がっていきます。
リアル、ボクはそう思いました。
これが、リアルだ、って。
言葉ではいい現わせないほどの遠景から、すべてのものを美しく見ようとしている村上春樹の視線は、その視線ゆえの世間とのズレを、彼女との別れや誰とも理解し合えないことを通して描いてきました。「僕」がかつての友だち「鼠」の導きによって、ズレを超えて生きていくことを決心した時、「高度資本主義」という「生」がクローズアップされ第2幕がはじまります。『風の詩を聴け』から10年、村上春樹は全集を出し早くも総括してしまったけど、総括されたのは何か? それは誰も知らないし、本人も語りません。
それぞれがわかってることを語ればいいんだと思う。たとえば、このテキストのように。あなたの日記でも可、ラブレターならグッー、てな感じ、かもしれません。
高度資本主義は特別のものではないし、美味しいビールやサンドイッチといった存在を可能にしカリフォルニア・ガールズを聴けるようにもしてくれる。オウムという事件も高度資本主義の一部であり、特別のものでもない。
だから村上はこれまでと同じスタンスでこの事件=オウム・サリン事件にアプローチする。このアプローチの方法こそが村上のオリジナルであり哲学でしょう。本質(≒哲学)は語られる内容より語り方の方にあるもんだと思います。
たとえば、「事態の核心をなすものは、個別的なテロよりもむしろ、文化の総体的状況である」という言葉は村上の『アンダーグラウンド』にのぞむスタンスを表わしてピッタリだけど、しかし、これは村上の言葉ではなくて、ナチズムに追いやられ非業の最期を遂げたベンヤミンの言葉。ベンヤミンのナチズムに対する批評と同じスタンスでオウムを見ているのが村上のオリジナルであり、だからこそ批評的だし実践的なんだということの証明でもあるでしょう。ベンヤミンはナチズムを登場させた社会の全体像をターゲットにし、村上もオウムを生み出した現代社会つまり高度資本主義の全体像そのものを意識してる。この村上の基本的なスタンスはデビュー以来ずっと変わっていないですね。石の上にも3年だし、あるジャンルで新発見をしそのプロ(プロフェッサー)になるには5年だし、村上はこの道10年以上。カックイイ…。言い方を変えれば、村上は当初から批評的であり政治的でありイデオロギー的だということでもあるんですが。というか、それがホントの村上です、ゼッタイ! とゆー感じがします。それは当初から作品の内外で明示されていることでもあるけど、もちろん読者やファンがそれを受けとめているかどうかは別の問題だし、そっちの方がホントはラディカルな問題でもあるでしょー。しかも、多くの場合、そういった問題は不幸な回答しか用意してないもんですが。不幸というのも、作者にとっての、と断わり書きつきだし…。作者と読者、表現者と亮受者はその程度の関係でしかなく、その程度の状況の中で作品について語るなんて、身内だけで絵の値段を吊上げる画商やその効能書しか書けない美術評論家の仲間入りをするような居心地の悪ささえするもんです。
朝日新聞に2回にわたり掲載された《村上春樹「変化」を語る》でも、「個人的に政治的な人間」であることが村上自身の言葉と自己規定としてクローズアップされ、そして「全共闘の世代」をふり返って「政治的なアイデアリズム(理想主義)は、一つのありかたとして正しかったと思う」と紹介されてます。
大塚英志が過去の記憶を癒しの場であり、癒しの大きなファクターだとしているように、未来への希望もそういった意味があります。しかも希望というものは記憶のように個人的に収束する価値ではなく、共同性の説得力を持った価値判断としてあります。
理想郷をユートピア(UTOPIA)というはそれはまさしく“ない/ところ(U/TOPIA)”であり「理想主義」とか「理想」とはそういう“いまだない”ことを“あるべくする”ことで“現実”と現実に“生きる”人々へ希望を与えるもんだからです。
明日もゴハンを食べられるっていうのは、今日に意味や価値を与えてくれるものなんですよね。革命だって革命書から始まるんじゃなくて、パンよこせ、てな日常から始まるんだから。
そして、村上はこういった日常を並べて、何かをはじめようとし、実際はじめて、それが、ボクたちを誘う春樹ワールドじゃないでしょーか。本人はすでにその総括さえしてます。
むしろ、読者の方こそ何をはじめたのか、何がはじまっているのか、と自問自答する季節に来ているんじゃないでしょか?
あなたは何をしてますか?
たとえば、ボクは、こうやって書いてます。
あなたは、今、読んでくれてますよね。
とりあえず
■東京ビョー・・・ 97/6/27
今、流行
ボクもワタシも、東京ビョー
正確には、東京ナリタイビョー(ナイタイじゃないよ)
訳すと、「東京みたいになりたいよー、なりたいよー、なりたいよー病」てな感じ
病原菌はあまりにも多くの人がキャリヤーなのでわかりませんが、
キッカケは「シュトイテン」病で、ちょっとドイツ語風ですが、
正確には「首都機能移転構想」とかいう妄想だか幻想だかが原因ともされてます。
典型的な共同性の病、まあ共同幻想なんですが、困ったのは患者のアタマには自己利益・自己都合しかない点だともいわれてます。
カラダまでズッコンこのビョーキに浸ってるケースが目立つのは、名実ともに世紀末に近づいてるしょーこ、と主張する人も少なくありません。
「みんな」を言い訳にしながら「自分」の妄想を合理化しようとする典型的な共同幻想性の病です。
政治家特有の病だとする人もいますが、ほぼ全日本人がキャリヤーであり、千日回峯レベルの修行をもって治療しなければなりません。
PS・・・
軽症者は、いません。念のため。
ここは修行の場。念のため。
メエメエ
■もう、いる・・・ 97/6/24
もう、いるなあ。
『ギフト』のキムタクの着こなしつーか、マネしてるヒト。
刑事コロンボのマネならしたことあるけどさあ。(^^;)
ところで放っぽとくと肺炎になる風邪を(ハウスダストの肺炎で、すでに肺の一部は死んで形が変わってます。これを結核と誤診したよーな医者は、もう信じないもんね)をビタミンと卵で乗り切ったココ数日でしたん。
ゼエゼエ
■マック憲章、っだ!・・・ 97/6/17
日本人にイデオロギーや宗教を求めてもムダでしょー。
ところで、聖書に手を置いて大統領就任の宣誓をする国が生んだのがマック。
まだ日本語のシステムがない頃、マックに触れたことがあります。
そのちょっと前まで、コンピュータそのものがあまりなく、高校や大学でも東京都の施設や企業までコンピュータの勉強をしに行くような状態でした。企業や官庁では180円/1分てな感じでコンピュータを貸してくれたんですね。
「計数室」とか「電算室」とか札のかかったコンピュータルームは、どこでも室温22度・湿度55%・絶対禁煙・宿泊自由みたいな管理された空間です。怪獣マタンゴみたいなHDがニョキニョキ並び、38テープみたいなテープがキュルキュルッ、キュルキュルッと回ってるなかで、火事の時にハロン化合物のガスを吹き出すパイプに顔を突っ込んでア〜アア〜なんてやっていて喝られるヤツがいたりします、たいてい。
ボクじゃないですけど。
・・・
たいがい並んでいるコンピュータはIBMで、キーパンチャーもIBM。
ズラっと暗い蛍光灯の下に列をつくってるキーパンチャーは映画『審判』のシーンみたいで、ゾクッとしたことがあります。
大量に出るフォートランのパンチングカードのゴミは普通のゴミとは別扱いで、あまりにも大量のせいか、それとも機密保持のせいか想像したくなってしまうよーな空間が「計数室」の魅力なんですね。
ほとんど、結界です・・・。
ところで、日本人には革命や批評性を求めても、やっぱりムダでしょー。
国家に貢献しない、企業に貢献しない、世界を革命する・・・
アメリカ帰りのアップルの顧問に聞いた「マック憲章」は、まるでアメリカ憲法みたいに革命的でした。アメリカ憲法には革命権というのがあって、人民には人民の利益に合致しない国家を革命する権利が保証されてるんですね。
真にアメリカやアメリカ的なものを理解することは、憲法9条も守れない日本では無理な気がしてきます。
もちろんゼロックスのパロアルト研究所でGUIのデモンストレーションが行なわれ、それを研究したアップルとマイクロソフトの社員が現在のベースを作るワケですが。
その精神はやっぱり、なんつたって、カウンターカルチャー。マック憲章を生みだした世界であり哲学です。
逆に、批評精神や哲学のない日本でのマック憲章に反するマック人気から分析できることはたくさんあるかもしれません。
インターネットのアクセス分析では、ここ1年で、マックの割合いが半減しました。現在は20〜25%です。
マック憲章に敬意を表して。
がんばれ、マック!
■エイズ、ホントの起源・・・ 97/6/14
『悪魔の遺伝子操作』(徳間書店・1500円)は100本近い科学論文をはじめワシントン・ポスト紙やアメリカ議会の公聴会記録など豊富な資料を示しながらエイズウイルスの起源を明らかにした本。原題は『エイズの起源』。徳間書店でつけた題名の方はなんか興味本位みたいで、これほど重要な著作としてはふさわしくないよーな気もしますが。
でも、とにかく内容はスゴイ。
○ 研究は大学の研究室か学術研究所のものに限られ、企業の研究所は除外されている。
○ 論文は専門科学誌に掲載されたものであり専門の図書館で閲覧でき、科学ジャーナリズム誌や一般雑誌のものは除外されている。
○ 異義が申し立てられた論文や実験は除外されている。
・・・ということを前提にして書かれた本であり、ヌクレオチド配列から解析されていくエイズウイルスの本質の解明は、事実は小説より奇なりとかエボラウイルスどころの問題ではないことがわかります。エボラはただ症状が激しく致死率が高い、また感染原因が不明というレベルでしたが、エイズは違います。遺伝子工学が生んだ化け物であり、そーいったものを自らつくってしまう人間の愚かさと、つくったものをまったくコントロールできないというザマ、そしてその自業自得なエイズに対して知恵の限り闘いを挑んでいく人間の崇高さをも感じることができる問題でもあるでしょー。
何よりも豊富なデータと厳密な論証、WHO(国連保険機構)や日本などの先進的な研究分野からの考察を駆使した証明が説得力バツグンです。著者はフンボルト大学生物研究所の所長で細胞タンパク質の分子構造や遺伝子解析など理論生物物理学の研究者ヤコブ・ゼーガル。パリの国立科学研究センターの主任をはじめ先進の研究と緻密な検証でフランスから東ドイツ時代まで高い評価を得ている博士です。
■ヒスイメン・・・ 97/6/7
椎名へきるちゃんの名前を思い出してしまうのがヒスイメン。
そーです、翡翠麺ですもん。
ほうれん草を練りこんだ麺はみどり色に輝く不思議な中華麺です。
鳥ガラのスープに生姜をスリおろしたお汁は爽やかで、しかも身体が暖まり、ゆえに発汗して涼をよぶ、中国四千年の歴史・・・という感じのラーメンです。
北京を代表する2大飯店のひとつ王府井(ワンフーチン)にあります。
えー、もちろん日本のワンフーチンです。銀座にも国分寺にも、府中の伊勢丹の中にもあります。
美味しい冷し中華はなかなかありませんが、このヒスイメンで美味しく爽やかな一時を過ごすのも、グッー。
■『パワーサーチ』・・・ 97/6/7
パワーサーチ・・・という言葉で思い当たることがある人はどれだけいるでしょー。
その人は怠け者で面倒くさがり屋で、しかも超整理法の読者だったり信奉者だったりするハズです。えへん
ワープロ専用機で原稿を書いたりログの整理をしていて困ったのはデータベース化ができないことです。現在のワープロはどーだか知りませんが、以前のCPUにintel286程度のものを使っていたワープロではそーでした。文書ファイルが10数頁から数10頁位の収容能力しかなく、複数のファイルを一度に検索することもできません。同一ファイル内の文書の校正や文章チェックには使えても、情報を探したり分析したりするデータベースにはほど遠いんです。これではいままで文書をストックしてきた意味もありません。こまったあ
そこで、ワープロ機からパソコンに移行しようということになって調べたのがデータベースのソフト。パソコンはデータベースで使う以外には全く興味がなく、文章を書くのは依然としてワープロ機でした。
ところでデータベースのソフトを調べていてすぐに問題が見つかりました。
どのソフトも、データがそのソフトのフォーマットでなければ使えないのです。
するとたくさんストックしてあるログも、データベースのソフトにインプットし直したり、登録作業をゼロからしなければいけないわけです。げげげ
もともとそういった手順や手続がイヤでデータベースのソフトを探していたということでもあるので、途方にくれました。
いちいちデータベースのフォーマットを意識してメモを作ったり文を書いたり、また登録するために手をかけたりしてられません。パソコンが便利だなんて、その世界にハマったヤツの言い分だあ、と思いました。オタクめえ
そこで、今度はデータベースというより検索のしやすいものをと考えて見つけたのが、『パワーサーチ』と『ハイパーリンク』です。
パワーサーチはソフト会社が開発したものではなく、ある商社が作ったもの。つまり文系・事務系の企画によるプロダクトです。世界中を跳び回って、情報メモだの契約書だのを書き散らかす毎日を過ごしているビジネスの現場からの要請によるソフト。どうりで合点がいきます。これはもう超便利なのです。
全くファーマットも何もありません。検索の対象となるファイルを指定するだけで、一切ワクがないのです。検索語の定義は15種類の文字・短文の組み合わせまで可能で、検索語の間でandやorやnotなどの式が自在に設定できます。あとは自由に設定できる検索語を探しまわってくれる、その名の通りのパワーサーチ。検索語は7色の色別に表示されるので、複数の検索語を設定し該当語が多くなっても表示が見やすいように工夫されています。ヒットした語の該当数や分布も表示され一覧としてプリントもできます。ファイルの閲覧中に必要な部分の切出しやエディターの起動によるカット&ペーストも簡単にできます。
1〜2行のメモから定型化した住所録や長い論文まで、DOSのデータであれば何でもサーチしてしまうパワーサーチ。そして、このパワーサーチがNECの98用しかなかったのが、98を購入した理由なんですねえ。こほん
そして、もうひとつのソフトであるハイパーリンクはその名の通り。DOSのテキストに<>などの記号でタグをつけておくと、そのタグにリンクした別のファイルにとぶのです。とんだ先がテキストならばテキストを表示し、そこが実行ファイルであれば画像を描画したり音を鳴らしたりします。
そーです。
これこそインターネットの、ハイパーテキストの原型であるハイパーリンクのプログラムなんですね。
当時はDOS上のあらゆるデータとプログラムをバラバラに分散したままでアクティブなデータベースを構築できるソフトとして売り出していました。たぶん、大学の研究所やディレッタントの間でしか使われなかったんじゃないでしょーか。同封の解説にはフレームマシンやIBMのオフコンに対する革命である、とかいう仰々しい論文が入ってました。
アメリカの開発者は元気だなあと思ったんですが、それが今やインターネットで本当にパラダイムシフトの真最中。
先見の明、やる気、アイディア、そして何よりも自己主張。そんなメリケンなカッコ良さを教えてくれたソフトでもあります。
このソフトを使って自分なりの都市論のデータベース事典を作りかけました。
自分の仕事環境もWindowsの登場で、その便利さと安定性からWindows 95に移行しつつありますが、伝説の日本語ワープロの王者『松』を数日前に再びインストールしたりして使ってもいます。『パワーサーチ』とこの『松』は超整理法の野口教授のお気に入りでもあり、超整理法の本を読んでいてパワーサーチの名を見つけた時には笑ってしまいました。
うーん、怠け者は同じことを考えるんだろーか。わははは
いやいや、教授は忙がしすぎるだけなのでしょーけど。
仕事の度にパワーサーチの全文検索の嵐が大いに力を発揮してくれます。うひょひょ
このパワーサーチを98Rv2で駆使するのがささやかな夢。
ペンティアム2・266MHZでカッとぶパワーサーチ・・・。
単なる趣味の世界かもしれませんけど。
あるいはオタク・・・
メエメエ
■ブライアン・フェリー・・・ 97/6/5
あやや〜、パリのクレージ・ホースみたいな碧眼トップレスオネエサンの踊るJ-FOXに主人公のキムタクが入って行って、ちょっとダンディな外人さんとコトバを交わします。
そ、その外人って、ブライアンなんですねえ。
カックイイ
(昨日も『ギフト』を観てしまいましたあ。)
きっとお、ポラロイドカメラとチャリンコが、あらためて流行るんだよなあ。
で、シャツとジャケットをほぼ同色で合わせるのも、流行るんだよなあ、たぶん。
■ひとりのセカイ・・・ 97/6/5
「ひとりのセカイ」
「ひとりのセカイ」
両手で双眼鏡をマネするように目の上に覆いをつくって、小指の方を電車の窓ガラスにくっつけると、ろんぱあちゃんはひとりでつぶやいている。
「ひとりのセカイ」
周囲の視線をさえぎり、自分の見たい景色だけ照準を合わせた遠くを見るような目に、声そのものが遠いようなつぶやきがたどたどしいリズムを与える。
「ひとりのセカイ」
「ひとりのセカイ」
・・・
ろんぱあミッフィーちゃんのお供をして散歩にでると、時々、こういう姿を見る。
方角や地図がわからないろんぱあちゃんは、時々、自分の行きたい方へズンズン歩いていってしまう。ひとりで出かけて、橋のない川を渡ってしまったこともあるらしい。
出生不明のろんぱあちゃんはあっちの街やこっちの街で暮したりしている。
トコトコと出かけるのが好きらしいが、どこへ行きたいのか第3者にはよくわからない。
ただ、緑の多いところとか神社やお寺に行くと機嫌がいいし、遠くからお寺の伽藍や鳥居が見えるだけでニコっとするのだ。
たぶん、あっちの世界から来た子なんだと思う。
メエメエ
■たまごっち、ねえ・・・ 97/6/3
アメリカでは生き物の大切さがわかるとゆーので学校がたまごっちを購入。生徒に配って世話をさせてるそー。死んじゃったら、子供が悲しくって泣きだしたとか。
イタリアでは、途中で死ぬと子供がカワイソーとゆーことで、たまごっちはダメなんだって。
韓国では授業の邪魔だっ、と禁止ですう。
いやー、なんか、とてもとても、それなりのお国柄がわかりませんかあ?
イタリア人て、けっこう、繊細なんでしょーか。
ホントはすっごくクライって、イタリアの学者が言ってましたけど、以前。
クライって、別に悪いことじゃないですよねえ。
どっかの若者のよーに、アカルく見えて実はバカ、なんつーよりいいんじゃないでしょか。
あー、なんかあ、クライ言い方しちゃったあ?
『鉄道員』とか『自転車泥棒』とか、何回見ても感動できるステキな国ですよ。イタリア
■今日の景色・・・ 97/6/1
ときは今日、ところは多摩川堤防上。
ビキニのお姉さんが一人。上は青で下は赤。横には彼氏。
芝生の上にもセパレートのネーやんとカレシーのカップル。
ケッコウ、こういったカップルがたくさんいます。
川原で日焼のチープな日光浴。
バブル崩壊後も残っているウザッたい消費流行はようやく沈静化か?
これからアウトドアブームの余勢をかって、休日のご近所ピクニックとリバーサイド・リゾートがあふれそーな感じがします。
バブル期、最高にオシャレを決めそーになった多摩川リバーサイド・ライフも最近は再び秘かな人気とか。もちろん、その背景は産業と経済でしょう。これは島田雅彦氏が暮らしてる辺りの多摩川沿いのマンションなどですね。郊外の風と、意外に近い渋谷をはじめとする東京区内が目前です。女性に人気の自由が丘や二子玉川はほとんど隣の気分かな。
先日の日経新聞にはJR中央線がハイテクやSOHOの一大拠点である、てな特集記事がありました。なるほど、ナルホド。
昔言われた「3寺」の高円寺、吉祥寺、国分寺に代表される中央線文化は、確かに太宰治だけじゃなく錚々たる文人の拠点としてスタートし、現在、この地域が編集者、マンガ家、ライター、ロッカー、ミュージシャンなどの日本最大のライフエリアであるのは確か。高円寺のメシ屋でサボテンアタマやほっぺたピアスに出会っても珍しくないし、中野の駅前で吹けないブルースハープを吹いてるふりの白人ケトーにお金をめぐんでやる余裕もあります。ついでにその向かいでプラムの大判焼きなんか買ったらオシャレ以上に涙が出ます。とっても、美味しいのお、ココ。で、チーズの大判焼きはチーズケーキよりもオススメ。
国分寺で村上春樹が喫茶店をやり、吉祥寺のファンキーでパラゴンのスピーカーに圧倒されながら全共闘の勝利に期待をかけ、伝説のバンド外道の取巻きをヘルスエンジェル日本版てな感じの地元のボーソー族が占め、青い目の金髪のグルーピーに目を白黒させて昇天した若いのが、今やディレクターや編集長クラスになり、なおかつてのパンクから皿回しコゾウまでがクラブとコンビニの間で暮らしてる中央線のカオスはますます健在。夜になれば30代半ばまでは絶対独身風の女性編集者から飲んだくれライターの真剣勝負をはじめ、数の多さと達者な口ぶりに反比例するような暮らしの方がいっぱい集まって近寄り難いエリアになるのはこの辺の飲屋。新宿ゴールデン街がNTTみたいなメジャー志向の文人で溢れる時、しっかりサブカルチャーを担っている各プロバイダー風さんが集まるのがこの辺の特徴。それだけ真に東京という雰囲気が醸し出され、MXTVが話題になったりもします。富士山から皇居へ至る日本最大の気脈の上を走る中央線が、いよいよマルチメディアからSOHOまで、すでにはじまっている次世代の社会をリードする人々を乗せて息づいてるんでしょーか。
もちろん、多摩川は彼らを含めて憩いの場。
PUFFY風をはじめ女の子同士のカップルも多く、ビール工場や競馬場近くの多摩川の土手を登ってきます。川原に着くと、ドテっと寝ころんでムニャムニャしてる彼女らの光景は、もしかすると日本はとっても平和なのかもしれない、と思わせてくれます。
まだ寒い頃、同じ所でろんぱあミッフィーちゃんとカモにエサをあげていたら、集まってきた100羽近いカモを撮影しようと、これまた集まってきたカメラマンやバードウォッチャーの姿にも小さな平和は感じました。
土手下の撮影スタジオの前では、SPEED風の女の子のが3人。黒いシャツとキュロットをピラピラさせてローラースケートの真最中。
ゴッデス近くの海沿いの公園でボードを操ってるボウヤたちのように、一般的なボードコゾウのイメージとは全然違ったオジョーとボウヤ風が、この郊外の特徴かもしれません。
東京の“地”ですね。
コマーシャルではない、ジャーナルではない、トレンドではない、そーいった。
国の予算外、つまり予定外の大きな吊り橋をはじめいくつもの橋が新規にかけられつつある多摩川の空に、これまた建設中のモノレールの橋を眺めながら、街の方へ引き返すと、大きな坂の上の方に間もなく中央線の駅ビルが見えてきます。
もうすぐお昼の時間です。

