羊通信 1997.6.1〜9.30


TYO & SKYDOMO羊通信羊通信パラパラ版ネタちょー(ネタ募集中)


■感じ方の違いのワケ・・・   97/9/27


散歩に出かけたとします。だいたい5qぐらい。JR中央線で2〜3駅分くらいでしょーか。最初は元気です。あそこでラーメン食べてエ、途中の公園でチョット休憩、最期にあの喫茶店でケーキセット、帰る前に買い物して・・・。仕事や予定がない時はそんな風に過ごすのもいいもんです。途中で腰痛にでもならきゃ、だけど。

ところでこの5kmは同じ調子で歩きとおす訳じゃありません。最初の1qと最後の1qは全然違うでしょ。何が違うって、感じ方が違いますよね。諺にもありますが“終わりの一里は始めの九里より大変”だったりします。同じ1qだって始めと終わりじゃ違うんですね。

客観的には同じ1qという距離です。1qという空間性。1qを歩く時間性。
誰にでも共通の知識として1qというイメージがあるでしょー。
でも実際に歩いてみると、現実の1qという空間や時間は人それぞれだしケースバイケースでもあります。同じ街並みの1qだって始めと終わりじゃ全然イメージが違います。
終わりの1qだったら、少し疲れてもいるし、散歩が終わった次の行動予定なんかも考えてたりします。これから行くぞってゆー始めの1kmとは、もうずいぶん違うハズですね。

ところで、この違いは何なんでしょー。

この違いが分かるのはなぜなんでしょー。

元気に歩ける1qと疲れてきてからの1qでは感じ方が違うのは当たり前だけど、この“感じ方が違う”とゆーことが自覚できるのが人間の特徴じゃないでしょーか。また、この“違い”を自覚するのが、自分自身を知ることであって、それこそ人間の特徴でしょー。“違いの分かる人間”つーことですね。ところが動物では始めの1qも終わりの1kmも、まるで疲れを知らない子供のように同じ様にしか感じていないよーです。

人間が違いが分かるのは、知識(としての認識)と感覚(としての受容)という認識の二重性のおかげですね。

誰でも知識として、1kmとゆー空間性を知ってます。また誰でも「1kmしかないの、ウォーキングにならないぜ」とか「1kmもあるの、遠ーいなあ」とゆー人それぞれ、条件それぞれで感じ方も判断も違うことを知ってます。
この時基準となっているのは誰にでも共通の知識としての1kmですね。
客観的で均質な概念としての1kmがあってこそ、それぞれの個別体験やTPOによる1kmとゆー感じ方の偏差がわかるんですね。違いが分かるとゆーことです。

そして、この偏差が“個性”とか“具体”で、この偏差へのアプローチを“リアル”とか“現実”などといいます。


これらの偏差はTPOとそれを体験する感覚によるもので、身体が別ならば別の体験があるのは当たり前。それが個性でしょ。
逆に、別々の体験に左右されることなく客観的で均質な概念を獲得するための感覚が目。視覚です。眺めること。

視覚による発展をとげた資本主義は文字どおりすべてが均質化する過程でもあるんですね。
でも、それは没個性でもあります。
一般に芸術などは視覚による感動ですが、それは均質化するイメージに対する均質化した感覚を生み出すのであるとすればサイテーのデキゴトかもしれません。
その閉塞を突破するのは、何よりも芸術という根拠のない定義や特権を無化して、誰もが芸術家になることであり、何をも芸術として見て取ることができる感性を育むこと。
これがパラドキシカル・ジャーンプ、です。

シュールレアリストはそーやってきたんだから。



■98は第二のマックかあ?・・・   97/9/16


いきなりNEC-98がマックです。てゆーか、もっと急速に、かつてのEPSON-98てな感じになりそーですねえ。
現在、Microsoft社とIntel社は次世代のパソコン基本仕様「PC 98」(Windows 95の次世代OSに対応したハードの規格)を開発中です。で、NECはこの規格に準拠するPCを今週中にも発表するとか。従来の98は継続するようですが、DOS使用でもない限り新シリーズへのシフトが進むんじゃないでしょーか。
官庁の入札条件でBASICの搭載が前提になっていたために最新鋭機でもROMでBASICを搭載していた98ですが、その辺の条件緩和もあってのことでしょー。
で、98ファンのボクは、密かに最後の98を物色中。
その後は98の希少価値にかけます。(笑)
マイブーム98…



■パワーコンピューティングがWindowsへ・・・   97/9/11


ああ、ちょっと誤解してました。アップルによるパワーコンピューティング買収ってゆーのは会社全体の買収じゃなくて、マック互換機製造能力とマックOSのライセンスの事実上の買戻しですね。
で、当のパワーコンピューティングはマック互換機を年内で打切り、以後はIBM互換機メーカーになるとゆーことでした。


LDPさんやエヴァ論者、そしてマックファンに教えてあげたいのはエヴァとマックの類似性です。(笑)
ジョブズがマックファン(信者)にどう対応していくかは、庵野氏がエヴァファンにどう対応していくかと同じよーな気がします。


メエメエ


■AOL、マッークのことなど・・・   97/9/10


「AOL、コンピュサーブ買収」(日経9月9日)

オオー、パソコン通信最大手のAOLが第二位のコンピュサーブを買収しました。
ユーザー1100万人以上のパソコンネットワークの登場ですね。
マイクロソフトネットワークの約5倍の規模です。デッカイなあ。
コンテンツやサービスの統合はないよーですが、当然なんか相互乗り入れするんでしょー。


ところでパワーコンピューティングを買収し、互換機メーカーへのマックOSのライセンス供与を事実上中止したアップルですが、これはアーキテクチャーを公開して互換機メーカーにシェアを奪われてしまったIBMの混乱を思い出しますね。
当時IBMは互換機に対抗して新しくオリジナルのPC規格(バスが高速で高性能)を打ち出したり、Windowsに対抗してOS2を出したりしたけど、どーっなったんでしょーか。

新しいマックOS-8もマルチスレッドですが、技術的には完全なマルチタスクじゃなくてWindows3.1と同じアプリがクロックを確保するもの。Windows 95やWindows NTのようなシステムがクロックを振分けるものじゃないんですね。だからその安定性はWindows3.1と同程度。
なぜジョブズはラプソディのような完全なマルチタスクで安定したものを目指さなかったんでしょー。提携の話しを持ちかけた時、ジョブズはゲイツとWindows NTについて話したと言われてます。たぶんジョブズの頭の中にはマックOS-8はありません。NeXTを作ったジョブズが技術的に後戻りすることは考えられないし、すでにジョブズの興味がWindows NTに向かっている兆しがあるからです。
ラプソディとWindows NTは似ています。完全なマルチタスクとゆーだけではなく、いろいろなCPUに対応しています。これでプラットホームを整備し相互にアプリを載せられるようにするなら…。最初からOSを統合しちゃった方が…。

ラプソディとWindows NTの統合?
それをやらなきゃ革命じゃないもんねえ。

ジョブズはアップルのCEOになんかならなくていいから、革命家になってほしいです。



■新コーナーなど・・・   97/9/7


このサイトを立ち上げた最初の頃に予告していたPARISやN.Y.からの消息、サイバーパンクなマンガ、諸々のエッセイorコラム……なんつーのはどこに行ったのか知りませんが、写真の小さなギャラリーや写真展の案内が常設ではじまります。今月中にはオープンの予定。イラスト関係の予定もあります。えー、ボクの連絡不精が主な原因で頓挫してる企画が多いよーな気がしますが、そーゆーことを気にする人ではないので、どんどん裏切られてください。人はそーやって成長するのさあ。あああ、石がぁぁぁ……



■ブチのウサギ、メールなど・・・   97/9/7


先日、もう夏も終わりかなあ、と思って、ひときわ輝く太陽の下へサイクリングしました。
やっぱり、深すぎる空の青さは、もう秋の予兆でした。

で、またまた調布の多摩川で見つけたのが野ウサギです。
耳の先と尻尾と前足の一部が黒のブチ。

自転車を止めて、土手下にいるウサギの方を見下ろすと、気がついたウサギは身体をこちらに向けて、ジッと動かず、こっちの様子を見てるみたいです。
ソっと視線を外してあげると、スグにモグモグしはじめました。

オーイ、無事に太ってくれえ。
寒くなる頃に、茶色になったウサギに会えるんでしょーか。
井の頭公園や野川公園で会ったウサギを思い出しながら、また自転車をこぎだします。




今まで頂いたメールで多いのはユーミンに関するものでしょーか。
二子玉川の駅が登場するユーミンの曲を教えてください、なんてゆー探し物が楽しいメールもありました。徹夜して探してメールしましたけど、お役に立ったでしょーか。
ボクにとっても想い出深ーいニコタマでーす。


アマチュアバンドでユーミンを演奏したこともある斉藤さんは、音楽的な魅力を説明してくれました。「ユーミンの魅力はこの心をひきつけて奥底に訴える音楽性とあまりうまくはないが不思議に胸をうたれるあの歌声にあると思います」との指摘も。ご自身の恋愛シーンといくつかの曲を配したエピソードは女の子が読んでも感動しそうなメールでした。ありがとうございまーす。


橋本首相のいる総理官邸でもここのサイトを見に来てくれましたが、メールはくれませんでした。ケチ。(笑)
何を見ていったんでしょーねえ。
ベンキョーになったでしょ?


メエメエ



■イナイイナイバア・・・   97/8/30


赤ちゃんをあやして、笑顔や可笑しい顔をします。
でも、笑顔だけ可笑しい顔だけといった単調な表情では、赤ちゃんは笑わなくなります。表情の変化がなければ赤ちゃんは笑いません。


そこでするのが、イナイイナイバア。


イナイイナイバアは何度くり返しても、赤ちゃんは笑います。

イナイイナイとバアの簡単な組み合せ。
くり返す、くり返し。



顔の見えないイナイイナイは赤ちゃんがひとりぼっちになる瞬間です。
赤ちゃんの瞳は、いっしょうけんめいに誰かを探します。


バア

ここだよ バア


赤ちゃんは誰かの顔を見つけたとたん笑いだします。


イナイイナイバア


赤ちゃんの時から知っている、出会いと別れ、ですね。


大人になっていろいろなことを知るわけでもなく、
赤ちゃんだから何も知らないわけでもありません。


出会いと別れのワンセットになった感覚と感情は、すべての人間の感性の源

大人の文化は、この出会いと別れの微分にすぎないのではないでしょーか。

このゼロ(出会い)と無限大(別れ)を行き来する距離感こそ、認識のパースペクティブ

それは、たった一つの、認識の原点。思想の源のハズです。



■日本ほーかい、そーかい・・・   97/8/22


えー、企業にとって大きな目標の一つに、株式の上場があります。
えー、東証とかで堂々と株式を公開し、売買してもらうわけですね。
で、ホントの目的は、株式を売買してもらうことや資金調達ではありません。

ま、成人式みたいなもんで、上場することによって一人前の企業である、と広く世間から認めてもらう…これが目的ですね。

上場することそのものが目的。それは、公式に認めてもらい、責任ある企業なんだぞって認知されることです。
つまり上場するための審査に合格することそのものが名誉であり、目的そのものでもあるんですね。

合格そのものが目的になるほど、それほど上場の審査はキビシイということ。
この企業にとっての通過儀礼は、いい加減なものじゃーないんです。

でも、これは当たり前。
いろいろなモノを作ったり、それを多くの人に売ったり、また、多くの従業員を抱えてその給料を払ったり保険を保障したり…。多くの人々の暮らしと生活に影響を与え、それを左右する企業とその活動がキビシイ審査を受けるのは当たり前のことです。

もちろん、企業よりもっとダイレクトに人々の生活と生命を預かっている国家や政府や役所は、当然、企業よりもっと厳しくチェックされる必要があるのも、もっと当たり前のことでしょー。


ところで、株式の上場をする時にいちばん厳しくチェックされるのが、企業の内部におけるお金の流れです。多くのお金が動く資本主義経済活動への参加が公式に認められる前提として、企業内部でのお金の流れがチェックされます。これがいい加減だと最近ニュースで騒がれてる銀行や証券会社みたいな事件が起こってしまうし、何よりお金の流れは裏表なく誰にでもわかるようにハッキリしてなきゃいけません。誰にでもわかるとゆーこと、ハッキリしてるとゆーことは自由主義社会、市場経済の基本です。

このお金の流れをクリアにするために多くの企業が組織改革をします。
そうしないと審査に合格しないし、合格できるように組織改革の指導やアドバイスを受けます。でも、お金の流れをハッキリさせればいいので、この指導を実行するのは意外と簡単なんですね。

企業に入って来るお金と企業から出て行くお金のルートを、それぞれ別々にしてハッキリさせればいいのです。この入金と出金のルートが同じだとお金の流れがハッキリしなくなり混乱します。たとえば原材料を100円で買って(出金)商品を作り、それを130円で売った(入金)とします。ここでは合計230円のお金が動いています。でも単に±すると30円の入金があったことにしかなりません。あとの200円の動きはつかめません。そしてこーゆーところに裏金や闇取引など反社会的な問題が生じるスキができてしまいます。

組織改革は反社会的なスキを生まないためにされます。そしてそれは、出金と入金のルートを別々にするという簡単なことでOKなんですね。

売上げという入金ルートは営業部とし、出金ルートは経理部に一本化する、といったような単純で明快な組織構成が株式上場審査に合格する基本です。

たとえば中小企業では入金も出金も社長の一任だったりするケースが多いので、それを公的に認められるように組織改革が必要なわけです。また、入金出金というルートを一手に握っていれば、それは絶大な権力となり、あるいは独裁的な力になります。これが中小企業のオヤジ社長レベルならまだしも、従業員や顧客、株主などを抱えた企業が社長の独裁で動いていては大変。まだ業績が良くて経済的に順調がうちはいいですが、業績が停滞したり悪化してリストラになったり欠陥商品を作ってしまってからでは無責任です。社会的に許されることではありませんね。困難な時ほどみんなで知恵を出し合うべきで、独裁なんていい迷惑です。こーゆーことが国家レベルでおこるのがファシズムです。



結論は、くり返しますが、健全な企業とは、入金と出金のルートを別々にし、それぞれのお金の流れを常時ハッキリさせ、チェックと検討を怠らないことです。


国家では入金は税収であり、出金は予算編成です。

このルートを別々のものにし、常時お金の流れをチェックし、情報を公開するのが健全な国家や政府の在り方です。



株式の上場には企業の組織改革が必要ですが、それはシンプルで明快なもの。 その気になればどこの企業でも実行できるものです。

日本の企業は株式上場から石油ショック以来のリストラにしろ、組織改革や大きな変革を経てきました。現在はコンピュータ化、イントラネット導入など休みなく改革を実行中です。

ところが、日本の政府は行政改革ができませんでした。シンプルで明快なハズの行政改革でしたが、文字どおり官僚の組織改革はいちばん大事なお金の流れのルートの分割を否定し、ゴマカシが可能で、しかも絶大な権力が集中する大蔵省をそのままにしました。かつてGHQが詳細な検討の末試みた税収と予算編成の分割つまり大蔵省分割案は今回も立消えになっちゃいました。

国家にとって財政、通貨、予算の3つは経済の基本的なワク組です。そして欧米ではこの3つが分離独立して国家経済を支えコントロールしてます。それが自由主義経済、市場経済の基本だから、当然ですね。

日本だけが、お金の入金も出金も使い道も一極に集中し、一手に握られたままの特殊な国家機構になってます。



企業が苦しいリストラで社員をクビにし、工場を海外へ移転し、体質を改善してきているのに、官庁は何もしません。

今回の行革では官庁のナワ張りと組み合せが変わっただけで、公務員の削減もなく、どこにもリストラらしきものはありません。


コンピュータ関係をはじめ海外事情に明るい大企業は日本国内でもドル決済することを決め、日本国内にあってもドル経済圏の一員となる方途を決めつつあります。別の言い方をすれば経済的には日本の国家体制を捨てたことになります。


ボードリヤールの用語ですが、「内破」がはじまったといえるでしょうね、日本の。



■ポツダム宣言の粋・・・   97/8/15


このあいだNHKを見ていてオロロいたコトがありました。
ドキュメント番組のNHKスペシャル『太平洋戦争』最終回だったんですが、
なんと「ポツダム宣言」て日本国を対象にしてるんじゃないんですね。


ポツダム宣言が無条件降伏を要求した相手は・・・

     日本軍部!

だったんです。

そう明記してあるなんて、はじめて知ったなあ。



もちろん、ポツダム宣言を受託しよーとする日本政府と、
自己保身にビビっちまってる軍部は対立し、
軍部はポツダム宣言受託に反対、本土決戦を主張する始末。

そして、原爆の投下となり、人類史上最大の悲劇となります。

軍が国を売り、国民を犠牲にし、ひとりよがるのは歴史上の常識だけど、
その愚劣と卑劣にもほどがあります。

おまけに170万のソ連軍が満州に突入した時に、
鉄道で避難しようとする日本人開拓団を日本軍は“軍は朝鮮で戦線構築する”とかいって列車から降して自分たちが乗込み、先に朝鮮まで逃げてしまいます。
荒野に置き去りにされた日本人開拓団など約20万人。

しかも日本軍の幹部はこの半年前から財産などを日本へ移動し帰国してるんですねえ。

まあ、重慶からの英語放送でも聴いてりゃ、日本が敗北するのは1年くらい前からわかっててあたりまえでしょーが。


統帥権(軍事司令権)の独立(国務指令・政府からの独立)を主張する軍部は勝手に中国を侵略し続け、太平洋戦争のキッカケを作っていきました。

太平洋戦争前から、優れた洞察力、あるいは思想や宗教的信念に基づいて侵略反対・戦争反対を主張した人々が少数ながらもいたことは、とっても貴重な事実ですね。

リアリズムに対する期待とはそーゆーもんでしょーか。



■竹の子、ムーンウォーク・・・   97/8/12


今やどとーの勢い油そば〜〜〜の吉祥寺でシマをきる油そば&ラーメン屋ぶぶかの前でしっかとかつて元祖油そばを教えてやった竹の子ぼうずに会ってしまいました。

おー、何年ぶりだろーか?

で、同じく吉祥寺でシマをきるケーキ屋LEMONDROPSでミルフィーユとアイスコーヒーを頬張り、竹の子ぼうずに「羊さん、あいかわらずオチャメ」とかいわれながら、まったくあたっているそのコメントにノーコメントで通すダンディズムは、まさしく羊のものだがアンタは知らんだろー、当然、てな感じ。

まあ、凡俗には意味不明だろーが。
もちろん、ボクはボクに関しては凡俗ではないのです、アーメン、セルフリファレンシャル。

この竹の子ぼうずくんは、ホントにあの竹の子族出身のキョーレオピン常習者なのであり、パパとなって1ヶ月めのホヤホヤぼうずなのでもあり、ビデオやCDのパッケージをデザインして暮してるとゆー。まあ、一時期猛烈に働きタップリ貯金はあるらしいので40歳までに俗世間から離れ、後は仕事をせずにブラブラと生きていく計画だとゆー。
いいなあ。後がないボクとはずいぶん違うじゃんかよー。


ところで、時々フッと思い出すのが、以前、幽霊が出るとかなんとかその筋では有名な雑居ビルのエレベータのフロアで竹の子ぼうずとムーンウォークを練習したことだった。

ちっちっ、ヤツはボクより15パーセントくらいムーンウォークがうまかったのだが、竹の子出身者として当然のことであるので気にしないっと、と思いながらなぜかムーンウォークの練習をしたみたいとセツに思うことがあります。

メエメエ



■白旗はもちろん自分から・・・   97/8/9


「白旗」ってゆーくらいなんで明白ですが、株の買収と提携を申し込んだのはアップルの方から。ジョブスがゲイツに電話して頼んだそーです。マイクロソフトが攻勢にでたわけでも、話題になりがちな「マイクロソフトの勝利」でもないでしょー。
まあ、だからカッコイイ白旗なんですよね。

今回の取り引きはジョブスもゲイツもカッコイイと思います。
弱者が強者を利用する戦略はサイコーにカッコイイと思っちゃうのが羊のココロ。
強者のゲイツも「議決権の無い株式」を買ったわけで、アップルに対する支配権なんつーものはありません。反トラスト法をかわすためでしょーが、金は出すが口は出さないって粋だなあ、ゲイツくん。
しかし、マックにIEをバンドルするんだからマイクロソフトは最大の目的を成しとげつつあるんでしょー。ブラウザ戦争にケリをつけるとゆーこと。

ところでジョブスがかつて絶賛した即興的多次元分析ソフトのインプロブがNEXTからWIN31に移植され(NEXT以前にもいずれかのOS上で作動していたらしい)て存続してるよーに、素晴らしいものを存続させ生き長らえさすことが好きならしいジョブスは、今回のゲイツとの取り引きで何を存続させよーと思ったんでしょーか? うーん、興味はつきないぞお。



■カッコイイ、白旗・・・   97/8/8


「マック 白旗」「天敵の力添えでの再建」てな記事とタイトルが第一面に載っちゃうこのスゴサ。(何がスゴイのか?)

皆さんご存知しょーが、アップルとマイクロソフトが提携でーす。

えー、ジョブスの演出がなんつたってカッコイイです。
「われわれはマイクロソフトに勝たなければいけない」と会場に語りかけ、
「その協力者こそ彼だ」とか言って、ビル・ゲイツを紹介します。
おおー、カッコイイとゆーか恐いもの知らずとゆーか。
目の前に恐いものがいっぱいいるのに(笑)。
とたんにブーイングと拍手ですね。

でも、やはりズルイと思うのはIEを標準ブラウザとしてマックにバンドルすることです。
うーん、なんかそこまで認めちゃうのはアップルもみっともないなあ。
情けないぜえ。

つーことで、IEを削除したボクです。

グアンバレ NETSCAPE!



■ジョブス!・・・   97/8/1


ワーオオッ、である。

スティーブ・ジョブスがアップルの会長に就任!?

オオッー、かつてマックのいいかげんさに呆れてアップルを去ったアップルの創始者ジョブスがアップルに完全カンバックか!!!

泣く子も黙るNEXTの創始者として、アップル草創期の理想を産業社会にぶつけた未来派野郎ジョブス。NEXTの優秀さはハード、ソフトを問わずコンピュータ界の多くが認めるところ。うーん、あれでMPUの選択さえ間違ってなけりゃ…

Windowsが動作するNEXT・OSまで作られたよね。
シェアウエアやフリーソフトでNEXT風デザインなんてゆーのもあったし。

PC補完計画になるくらい、ビシッとしたマシンを作ってほしいぜ、ジョブス。
セントラルドグマはintelだったりして…


ところでCanonて、まだNEXTマシン作ってんの?

もうないんだっけか…



■トマトのC・・・   97/8/1


夏の初め、トマトの旬の季節に、48個のトマトをもらいました。

トマトソースを作ろうと思って、手でトマトを潰したんですが、これが痛い。

トマトが指にしみて痛いんですね。手にキズやケガがあるわけじゃないんだけど、
爪の際とかにトマトがしみます。新鮮なビタミンCがいっぱいある証拠。

トマトの香りも強くて、銀座にある本場スペイン料理店のカナッペなんてメじゃない香ばしさ。はじめて地鶏を食べた時に味わった強烈な香りを思い出したほどです。

口に含むとピリピリするようなアスコルビン酸ことビタミンCの新鮮な酸っぱさと、熟したさわやかな甘さも、自然の力強さを感じるような味わいです。

植物が太陽光線による活発な光合成と呼吸の酸化から組織をまもるために生成するビタミンCは、太陽光線をたくさん浴びればそれだけたくさんできます。

青空の下、まぶしい太陽光線で育った野菜と、調光や温度調整などで生産される屋内野菜のビタミン含有量の差は大きく、時には数倍から10倍以上も違ったりするとか。

何よりもまず、味も香りも強く、手にしみるほどであることが体験できました。

来年も真っ赤なトマトがどこからか届くのが楽しみです。



■伝えたいこと?・・・   97/7/30


伝えたいことがあるんだ 君のことが好きだから〜



常磐chanはカワイイ。

「女の子が言ってほしい言葉を言ってくれる、そういうドラマです」
と常磐貴子が紹介するのはまたも北川女が脚本を書いた『最後の恋』。
ロンバケといい勝負だけど、もちろん男の子に受けるのはコッチかな。

たぶんhardな青春をおくったんじゃないかと当時から友だちの間で話しのネタにしちゃ聴いてた小田和正の曲と詞は心にring a gongする。

『伝えたいことがあるんだ』

当たり前の詞に、TK世代ならTOTOを思い出してニヤリとしてしまうようなシンコペーションとメロディ。“ホテル・カリフォルニア”を“さよなら”に仕上げてしまった小田の才能はここでも発揮されてる。



遠くから見れば、たいていのものはキレイに見える。
って、村上春樹を読んだときにうなずいたもんさ。


だから、実を言うと恋人がかわいくてキレイなのは、ホントは遠く離れてるからなんだ。

そのことを知りながら知らないフリができれば、もう立派な男の子。

世界中を独り占めするように愛したって誰にも文句は言わせない。
恋人が何人いたっていつも「君だけ」さ。



でも、ビンボーじゃデートもできないけど、
「女の子が言ってほしい言葉」を探したり、見つけたり、
そして君に伝えるのは得意だぜ。

だから、コピーライターになったのさ。


はじめにロゴスありきは、ボクのセリフだから。



世界のイエスへ。

元気かーい?
all right!


当時、友だちと不思議に思っていたコトが一つ。
オフコースのファンにキリスト者の女の子が多いこと。

なんだ、ナゾはカンタンだったんだ。

HERE WE GO



また、去年の夏みたいに『愛していると言ってくれ』の撮影場所だった井の頭でも散歩しようか?



■オタキング、宮台、大塚、その3・・・   97/7/27

オタキングも否定性の重要なことには気がついているんですけどね。

洗脳社会の代表例、これからの時代の典型的なモデルとしてディズニーランド取り上げて....

「お金儲けではなく、人々をとことん楽しませようというコンセプト。」

....があることを指摘してます。

そして、楽しいことを探すのこそ洗脳社会だ、これからの社会だと繰り返し主張してます。その一方で洗脳社会のもう一つの姿として


   「人々の不安や不満をつかみ、最も効率よくそれを解消する方法を提案することによって、
   多くの尊敬と賞賛を得られるのが、自由洗脳競争社会。
   得られる利益は経済利潤ではなく、洗脳利潤、つまりイメージである」


と説明します。これは否定性が重要なファクターであることを示した大切な指摘です。
しかし、オタキングの主張はそれだけです。 そこから先が全然ありません。ないんですねえ。ない。 こんなに重要なことを指摘できてるのにそこから先が全くない。 これじゃ、ここから先を専門にしてるイデオロギーや宗教を超えられません。もちろんオウムを超えることもできない。信者にとっては 「不安や不満をつかみ、最も効率よくそれを解消する方法を提案」し「多くの尊敬と賞賛を得られ」たオウムとその結果教団が得た 「利益は経済利潤ではなく、洗脳利潤、つまりイメージ」というものを超えることができませんねえ。こまったもんだあ。オタキングくん。 やっぱりその辺を直視できたのは宮台氏や吉本氏しかいないとゆーことでしょーかあ。 社会どころか宗教やイデオロギーの必然性と魅力がどこにあるのか、とゆー問題でもあり、 これに対してアンタッチャブルであることでしか自己のアイデンティティも維持できない輩がメディアでも コンピュータネットでも多数を占めてるなか、やっぱ、オタキングもその程度ってなグチも言いたくなります。 「オウムの教義をマトモに受けとってその正当性を弁護しちゃう吉本隆明せんせい」 と主張するオタキングには、大塚英志が何故M君の弁護をしたかの理由も理解できないに違いありません。
そーゆー程度のコトってゆーことでしょーかあ。 たとえば宮台氏は「感覚の変容」以前に自分で選択する能力(認識力)を身につけておくことが大切だと主張してます。 そのため社会が受容のシステム(否定性の受容あるいはアジール的空間性)であることが必要でしょー。 ところで、宮台氏をシャーレの中の実験のように女子高生をながめてるなんて評価するオタキングのコメントは大きく誤解されちゃう可能性があります。 実際、このオタキングの主張を宮台批判として受けとめるオメデタイ方は少なくありません。分水嶺は微妙なとこにもあるんですねえ。 ネットワーカーからオタクまで、何だか知的好奇心が旺盛そーなピープルの間でこそ、誤解が生じるのは、 やはり認識力の決定的な?によるもんでしょー。コップの外は知らない、じゃ話しにならないんでしゅが。コップを通底させるのが 都市の街路でありネットワークであることぐらいはシュールリアリズムやマルクスじゃ常識だったのに、などとグチをこぼすヒマはありませんけど。    「普通の企業にはなくて、ディズニーランドにあるものは何でしょうか。    みんなが持っている、ディズニーランドという職場に対するプラスのイメージです。    こういうプラスイメージが、現代では資本力よりも大きな力を持ちつつあります。」 それはわかりやすいことですが、じゃー、マイナスイメージはどーするの? とゆー問題があるわけで、 それをどーするかですよね、ホントに大切なのは。

■オタキング、宮台、大塚、その2・・・   97/7/26

「楽しいこと」が「人」「それぞれ」なのは当たり前ですね。
チョコパーが好きな甘党の人もいればキムチが好きな辛党の人もいます。ハワイ旅行よりディズニーランドが好きな人もいるし、ドイツのメルヘン街道より多摩川のサイクリングロードの方が好きな人もいます。オヤツはチョコパーだけど夕飯はモランボンの牛タンとオイキムチじゃなきゃイヤだとゆー人もいるでしょー。1ヵ月の1/3は昼寝してたり、24時間ニューヨークとロンドンと東京市場でディーリングするのが生きがいだったり、Internetでサーフするのが好きだったり、新刊本のレビューを書留めるのが趣味だったり、いろいろあるでしょー。
好きなことや楽しいことといった“肯定性”というのは人それぞれ。人の数だけ同好会があるよーなもんで、人の数だけオタクがいるんですよ。世の中って。


逆に“否定性”というものは多くの人々にとって共通です。イヤなことは誰にとってもイヤなもの。痛いこと苦しいこと大変なこと、イジメられること、恋人にフラれちゃうこと・・・こういった否定性は実際のところ少ないどころか多いのが現実。



資本主義は肯定性の対象を商品として提供し、そのアイテム数の増加が都市化のレベルに比例するといったシステムで、アイテムは任意に多様化し、人々はそれに応じてバラバラになっていきます。オタキングはこのバラバラになっていく状況を肯定します。それもそれでいいでしょー。必然の方向を肯定し、すべてを受容していくのはいちばん大切なことでもあるだろーし。
しかし、オタキングにはもう一方の重要なファクターである否定性への分析がありません。むしろ社会を形成するにはこっちの方が重要だしキーポイントなんですが、それへの分析もしてくれません。

そもそも否定性のアイテムなんて面白くないから無理かもしれませんが。
ただ、せっかく透徹した世界観でもって歴史を読み、解説してみせ、さらに現代から近未来までを描いてみせる『ぼくたちの洗脳社会』やオタキングの思想に否定性への分析がないとすればそれはヘンです。残念だし、もったいないもんね。


確かに否定性は取り上げてもつまらないもんです。でも、肯定性が商品アイテムとして資本主義の結果生み出されるのに対して、否定性は社会そのもののキッカケとして社会を形成していくファクターそのものであることを見つめなきゃダメです。見るべきところを見ないとダメなんですよね。たとえば村上春樹はそこちゃんとを見てる作家なわけだし。



■オタキング、宮台、大塚、その1・・・   97/7/25

先日、CATVでチラッ見たのが「朝まで生テレビ」。
オタキング伝説を納得させるよーなあの声でシャベっているムーンフェイス岡田氏。
それとオタキングにボコボコにやられて逆上風のソフィスト西部氏のみっともない姿。でも、ソフィストの詭弁に圧倒されちゃうオタキングやライターの藤井氏ももっとガンバッテほしいです、てな感じ。何を言われてもモグモグしてグーグー寝てるよーな羊のコンセプトを見習いましょー。なおこの翌週だか、「異議あり」で西部氏は宮台氏に木っ端微塵にされ番組途中退場された模様。一部で大きなお笑と保守論客のレベル露呈に貢献という高い評価を得てるよーです。



ところでムズカシイコトをカンタンに説明できる世紀末インテリゲンちゃん岡田氏『ぼくたちの洗脳社会』はまるでK,Marxの『資本論』。わかりやすくてグツー。全体の構成もしっかりしててオタキングの頭脳まで分析したくなっちゃうよーな出来です。トフラーの『第三の波』をベースにしてるのも一つのキーポイントでしょーけど。



TVでも本でもオタキングが主張してるのは「楽しいことを探そう」です。で、ソフィスト西部はその矛盾を激しく攻めます。「楽しいことは人それぞれ」「何が楽しいかはわからない」といいながら「楽しいことを探そう」とは何事だあ、とまあこんなとこ。 もちろんソフィストの言い分は詭弁です。部分的にそこだけ取り出せば矛盾してるよーに見えるところだけをクローズアップしてみせただけですね。 コンテキストや主張の全体像をワザと無視するこのやり方は、共同性として成立すればファシズムとなるものです。個人のレベルでは“自己の正当化”で済んでるけど。権力はブラックボックスでいいんだ、とかいうソフィスト西部のキレちゃってる根本思想からして、もうあっちの世界かもしれません。まあインテリを自称する人のやり方ではありません。政治家のやり方でしょーね、こりゃ。



ところでオタキングの問題点とゆーか限界もあって、ここではそれを指摘しておきます。オタキングが主張するとおり「楽しいことを探す」のはいいことです。そして、社会の進歩とともに細分化していく楽しいことを見つけたり作り出したりできるオタクになることがグッドなのもわかります。
で、そこまで、それまでなんですか?
そんだけ? オタキングの主張って。

せっかくムズカシイコトをカンタンに説明してくれてるのに、その思想や認識がそこまでしかないなんてもったいないです。



■中森、春樹、リアル・・・   97/7/18

言葉というものは、東京で、十五歳で、本当に何も持っていなかった少年が唯一つ持っていた武器、てなことをコンセプトにした小説『東京トンガリキッズ』の作者としての中森明夫は、しかし断じて作家にはならないとのこと。作家という制度に保障される表現の世界でじゃなく、現役でいることでしかやっていけない表現者としてライターであり、現実をワク取りする認識者として編集者であり、“僕たちの「言葉」に墓碑銘なんかいらないんです。”と言えるカッコイイストリートキッズなんですね。


作家は「作品」を書き、ライターは「商品」を書いてる、という中森明夫のスルドクて当たり前の指摘は、そのまんま資本主義分析でしょー。


もちろん「作家」と「ライター(ルポ)」というはざ間に生まれた“作品=商品”として『アンダーグラウンド』を考えたとき、村上春樹がどの作家もなし得なかった


    作家 → ライター  というベクトル

 と、

    物語 → ドキュメント(ルポ)  というシフト

を自己否定の緊張を含みながらなし得たということは、必然の革命。デビュー以来、作家や文壇という制度内からは否定的見解を投げかけられることの多かった村上にとって『アンダーグラウンド』はバベルの塔かもしれません。もちろん作家はキリシタンで教会は文壇ですね。
吉本隆明による『アンダーグラウンド』へのラディカルな批判(『思想の原像』収録)は、“作家&作品”への批評として極めて正当で、作家表現への評価と思想的力量への批判は吉本ならではのもの。吉本をはじめとした幾らかの思索者に見られる二重性(弁証法)を自在に駆使した価値判断はアッパレです。


ところで、<作品-作家>=<商品-労働>という二重性の構図があります。資本主義社会での疎外の超越を可能にするのはこの構図の微妙なシフト。労働が自己表現であるのはマルキシズムの初歩ですが、資本主義はそこから表現性(アウラ)を奪い100%商品化します。でも、一方で作家らが隠匿してた各種表現の方法はテクノロジーとして商品化され一般化します。これも資本主義ではじめて可能になったコトです。ココがブレヒトベンヤミンが資本主義を評価するポイントですね。マルキストもしかり。ダダシュールレアリズムの前提でもあるコトで。作家は表現方法の隠匿・独占によってでしか作家ではなかったことが資本主義によってバレちゃったわけです。一方資本主義の疎外を超越するのに必要な商品の作品化もテクノロジーの一般化、つまり大衆の表現者化、たとえば1億総エッセイスト化によって現実化していきます。


そーいった状況の中で、制度や肩書きや署名性でかろうじて保障される作家ではなく、単なる大衆の中の表現者としてライターというもの、その無署名性(大衆性)ゆえのリアル(ドキュメント・ルポ)に価値を見い出してるのが中森明夫をはじめとするライターたち。
このスタンスを有名作家でありながら無意識に選択したのが『アンダーグランウド』だとすれば、やはり村上は高度資本主義の表現者としてカッコイイです。その思想的力量は“純粋理性批判”や“トロツキー”といったプロットにシンボライズされてる、とゆーのがドーナツ的宇宙の解釈で、一つの商品のなかに資本主義のすべてがあるよーに、プロットの一つ、表現のディテールに小説や表現の意味や価値のすべてがあります、と考えちゃいます。小林秀雄を読むまでもなく、ですね。


    アンダーグラウンド - 村上春樹 / <作品・物語 - 作家・有名・制度>

    アンダーグラウンド - 村上春樹 / <商品・ドキュメント - ライター・無名・大衆>


そして、村上春樹の限界は作家の限界だともいえるでしょー。その限界を突破するには…。

これは、まんま、印象批評の限界を突破することと同等同質の問題で、最初から突破してる人も多いですが、まあ、作家タイプにはあんまりいません。政治家には多いかなあ、とゆーより前提なんだけど。

ポイントは、リアルとゆーこと、
リアルの依拠するトコ依拠するトコのリアルとゆーか。


もちろん、この突破口としてその思想的力量を問うのが吉本隆明の批評であることはジョーシキかもしれませんねえ。吉本のスタンスは依拠するトコをあくまで個人(大衆の中の一人)にもとめ、それは個人の思想的力量に還元されます。一方、ライターとしてのスタンスは大衆そのものにもとめるコトです。何故ならライターというのは資本主義による職業だからですね。その価値は市場と技量・テクノロジーにより決定されます。

音楽という表現であれば前者が坂本龍一で後者が小室哲哉ってゆーのはドーナツ的宇宙のコンセンサスですけど。


村上への理解が大きな分水嶺であることをハッキリさせる時期が来つつあるよーな気がします。



メエメエ



■ホットケーキ・・・   97/7/15

ホットーケーキは断じてパンケーキではありませんが、
今日はそんな話しではなく、鼠が好きなコーラがけホットケーキのことでもありません。

神田の万惣と、日本橋の三越と、マウイ島と、珈琲館の話しです。


神田の万惣は銀座の千疋屋の向こうをはるフルーツ屋さん。レストランもあるけど、人気なのはここのホットケーキ。蜂蜜のおかげでコゲ茶色に焼けてでてくるホットケーキは糖分の焦げるカラメルの香りでいっぱい。これにバターをどーんと塗って、とゆーよりのせて食べましょー。浅草の神谷バアで電気ブランでも飲んでいたそうなお爺さんをおいて、日本橋の木屋で洋裁バサミを砥いでもらったお婆さんが、お爺さんとの若い頃の思い出に浸りながらホットケーキを食べていそうなお店です。バターを飲むみたいなアボガドのジュースも気に入ってます。


ホットケーキの記憶の原形をつくってくれたのは日本橋三越の新館1階にある喫茶店のホットケーキ。小麦の香ばしさとバターの味、メイプルシロップの深ーい味わい。ボクの原体験はここ。昔、メニューが英語だった時期もあり、もともとは外国人向けの喫茶店でもあったとゆー話しを聞いたことがあります。近所でアルバイトをしていた頃よく食べに行きましたが、ホットケーキがだんだん小さくなったよーな気がして、いつのまにか行かなくなってしまいました。バブル以前のお話です。サンドイッチやコーヒーも美味しいお店。日本橋のすぐ際でもあり、とってもオシャレな場所なのかもしれません。


マウイ島に日系人のオバさんが5名でやってるホットケーキの美味しいお店があると聞いたことがあります。このホットケーキを食べにわざわざマウイ島までいった人から聞いたのでホントでしょー。こんどもっと詳しく聞いとこ。


ところで最近知ってしまったのが喫茶店とコーヒー販売のチェーンである珈琲館のホットケーキ。ドトールコーヒーだのコロラドだの、古くはルノアールだの、喫茶店でコーヒーがリーズナブルで美味しいとこは少なくありません。打合せや、原稿書きや、一人でボンヤリするのによく行きます。同じ系列でもお店によってコーヒーの味が全然違ったりするので、美味しいポイントが見つかるとくり返し行ったりするもんです。喫茶店も過当競争のせいかチェーン展開でもメニューの変化が目立つお店もあって、たいていのお店は季節毎に多少なりともメニューが変わるんでしょー。先日ふと気になったのが珈琲館のホットケーキです。メニューには手作りと書いてあるんで、本部から冷凍のホットケーキが送られてきてチンするやつじゃないんだな、と思って頼んでみました。でてきたホットケーキはコゲ茶色。多少いびつなそのカタチは手作りの証明か。チンするやつ特有のヘンな湿り気もなく、直前までフライパンで寝そべっていた雰囲気がします。食べてみると…。オヨヨ、ホットケーキを巡るいくつもの記憶がフラッシュバック! うーん、こんなに安くて美味しいホットケーキがチェーン展開の喫茶店でも食べられるんだあ、と感激したボクは、高度資本主義への忠誠を胸に誓うのでした。



■ベーカリー・・・   97/7/11

この世で初めて憶えた外国語が「ベーカリー」です。

今はない基地の街の今はないパン屋さんの名前がそう。

カリコリしたかたいドーナツや大きなコッペパンがガラスケースに並んでました。


ベーカリーの看板は今なら横田基地前の国道16号沿いにあるお店のような、アメリカ兵向けのモダン?なやつです。
空色のバックに青い文字で「Bakery」と描いてあって、太ったオバさんみたいな“B”の文字や、旗めいてるよーな文字のデザインを見て、英語にも毛筆があるんだなあ、と感心。習字の稽古なんて墨塗りケンカと半紙のまる投げ合戦以外記憶にないけど、アメリカの習字?みたいなパン屋の看板にはけっこう感動したもんでした。


もちろんもっと感動したのは味。

かたいドーナツに粗目ではなくパウダーでもない砂糖のつぶつぶが塗してあって、つまむだけで油だらけになる指を舐めながらパクパク食べるんだけど、牛乳がないと食べられません。アメリカ人はこんな甘いもんをいつも食べてるのかなあ、と子供が思うほど砂糖だらけ。こげ茶色でカリコリした厚い皮?の下は黄色でやはりかたいカステラのようなパンのような中身があります。卵の色だとすぐ納得できるよーな黄色のスポンジは意外に食べ応えがあって、砂糖の甘さ、中身のボリューム感は牛乳やコーヒー牛乳を飲みながらでないと食べられないもんです。このドーナツを伸ばしてねじったようなネジリパンもあったけど、こちらの感触は今のパン風。柔らかくって、引っ張ると細く伸びてちぎれます。しかし、ドーナツはボソッと折れるだけ。伸びたりしません。


そんなベーカリーとドーナツを忘れた頃、巷で出てきたのがオールドファッション・ドーナツ。固くて茶色いシンプルなドーナツです。見た目が違うけど懐かしくなって食べてみました。しかし、やはり違います。全然違う。こんなに軽くて、さっぱりしてるなんて、こりゃアメリカのどこのサンプルだ、とか考えてしまいました。アメリカつったって広しな、とか。

とにかく、軍服着たアメリカ兵が食べてたドーナツ、コーヒー牛乳の味と一緒に憶えたあのドーナツと違います。紙の上に置くと紙全体がパラフィン紙みたいに油が染みて透明になっちゃうドーナツ。2〜3mmのコゲ茶色した砂糖だらけの皮と、卵色のホクホクした中身の味の二段階的ドーナツと違います。

オールドファッション・ドーナツなんて、ニセモノだあ。

お店の場所を知ってる人にドーナツを買ってきてもらい、カメラマンに撮影してもらい、今はもう覚えていないドーナツについてのコラムを書きました。

しばらくして、そのパン屋を訪れると、もう店じまいしていました。


今やドーナツのオリジナルは、記憶の中だけになってしまったのです。



■小室哲哉は何を歌っているのか・・・   97/7/3

“小室哲哉は何を歌っているのか”
“自分の孤立感、無意識に”

・・・とゆー記事が朝日新聞の文化欄に載りました。執筆者は村瀬学氏です。


村瀬学氏の初めての著書『理解のおくれの本質/初期心的現象の世界』は、そのタイトルでわかっちゃう人もいるでしょーが吉本隆明氏の『心的現象論序説』に影響されて書かれた本です。はじめて『理解のおくれの本質』を読んだときに、きっと世界的な価値ある名著になるだろーと思いました。『心的現象論序説』は実際に多くの心理学者や医者に影響を与え、東大病院や都立病院などでそれに基づいた研究や治療が行なわれてるよーですが。この『理解のおくれの本質』も、宇宙を突き抜けそーなスルドサと宇宙のよーな深ーい優しさに貫かれた、ホントに根本的なテーマの心理学書です。これを読んでから自閉症や心身の障害をはじめ身体へのイメージや理解が変わりました。


ところで新聞紙面での村瀬氏による小室分析はなかなかのもの。もちろん異論がありますが、歌詞、曲、旋律を別々に捉え、それらが“「絶妙のバランス」として「編集(プロデュース)」される。”という指摘や、“「歌」を味わうというふうにはできていない。途中から始まり、途中で消えてゆくような「マントラ」のような感じ。”なんていうふうに興味深いコメントがされてます。



小室の歌詞の特徴は日常とかリアルといったものに関係があります。人々が空気や水を意識することがないように、ホントのリアルとか日常は意識されません。小室の歌詞の特徴は意識されないこと、まあフツーなとこです。いちいち意識させられる表現に価値を見い出しそれをアイデンティティにしているアートとか芸術的表現といった陳腐なものからは完全にフリーハンドなところにある表現として、小室は優れて資本主義的あるいはベンヤミン的なんですね。しかし、こういった小室への分析をほかに見つけることができないでチョット残念だったのですが、村瀬氏の分析はこのことに触れてます。

歌詞が“味わうというふうにはできていない”
その分だけ“曲に「聞かせどころ」が秘められている”、
そして“聞くともなく聞いていると”
・・・という過程をへて歌詞をあらためて意識したときに
“妙に聴き手の状況にマッチするようなメッセージを伝えていることに気がついて”
さらにその世界に引き込まれていく・・・。

・・・というように村瀬氏は洗脳の過程とシステムそのものまで解説してます。

これらは坂本龍一が小室の楽曲に関して(自分なら)恥ずかしくてできないとコメントした魅惑するためのテクニックで、優れた表現者にとっては特別のことではないでしょー。
これらを企画し表現の戦略をたてることが表現者の頭脳で、それを実現する方法がテクノロジーなのはもはや常識だし。

もちろん、村瀬氏の小室論は解説や批評、分析そのもののレベルも示していて、意味深いものだと思います。



■村上春樹のリアル・・・   97/6/28

『アンダーグラウンド』を読んだ第一印象といったら、“典型的なインタビュー原稿、しかもレア”ってゆー感じです。編集やライターの方ならそう思った人は多いんじゃないでしょーか。
ポイントはもちろん“レア”なとこ。

恣意的なコンセプトとかいうデッチ上げで方向づけされることが大部分のその辺の雑誌や本のインタビュー記事ではなく、その方向づけ以前のレアな感じがそのまま、あるいはテープをおこしてそのままみたいな感じのインタビューが、現実とは数えるだけ数があると確信させてくれるほどのボリュームと深さで並んでます。
圧巻ですね、コレ。

そして、口数少ない質問が染みわたるように、またしおりのようにポツ、ポツ、っとページの所々に入ってます。そこには繊細だけど力強い、自然の積分を言葉で表現したような世界が広がっていきます。

リアル、ボクはそう思いました。
これが、リアルだ、って。



言葉ではいい現わせないほどの遠景から、すべてのものを美しく見ようとしている村上春樹の視線は、その視線ゆえの世間とのズレを、彼女との別れや誰とも理解し合えないことを通して描いてきました。「僕」がかつての友だち「鼠」の導きによって、ズレを超えて生きていくことを決心した時、「高度資本主義」という「生」がクローズアップされ第2幕がはじまります。『風の詩を聴け』から10年、村上春樹は全集を出し早くも総括してしまったけど、総括されたのは何か? それは誰も知らないし、本人も語りません。

それぞれがわかってることを語ればいいんだと思う。たとえば、このテキストのように。あなたの日記でも可、ラブレターならグッー、てな感じ、かもしれません。



高度資本主義は特別のものではないし、美味しいビールやサンドイッチといった存在を可能にしカリフォルニア・ガールズを聴けるようにもしてくれる。オウムという事件も高度資本主義の一部であり、特別のものでもない。
だから村上はこれまでと同じスタンスでこの事件=オウム・サリン事件にアプローチする。このアプローチの方法こそが村上のオリジナルであり哲学でしょう。本質(≒哲学)は語られる内容より語り方の方にあるもんだと思います。


たとえば、「事態の核心をなすものは、個別的なテロよりもむしろ、文化の総体的状況である」という言葉は村上の『アンダーグラウンド』にのぞむスタンスを表わしてピッタリだけど、しかし、これは村上の言葉ではなくて、ナチズムに追いやられ非業の最期を遂げたベンヤミンの言葉。ベンヤミンのナチズムに対する批評と同じスタンスでオウムを見ているのが村上のオリジナルであり、だからこそ批評的だし実践的なんだということの証明でもあるでしょう。ベンヤミンはナチズムを登場させた社会の全体像をターゲットにし、村上もオウムを生み出した現代社会つまり高度資本主義の全体像そのものを意識してる。この村上の基本的なスタンスはデビュー以来ずっと変わっていないですね。石の上にも3年だし、あるジャンルで新発見をしそのプロ(プロフェッサー)になるには5年だし、村上はこの道10年以上。カックイイ…。言い方を変えれば、村上は当初から批評的であり政治的でありイデオロギー的だということでもあるんですが。というか、それがホントの村上です、ゼッタイ! とゆー感じがします。それは当初から作品の内外で明示されていることでもあるけど、もちろん読者やファンがそれを受けとめているかどうかは別の問題だし、そっちの方がホントはラディカルな問題でもあるでしょー。しかも、多くの場合、そういった問題は不幸な回答しか用意してないもんですが。不幸というのも、作者にとっての、と断わり書きつきだし…。作者と読者、表現者と亮受者はその程度の関係でしかなく、その程度の状況の中で作品について語るなんて、身内だけで絵の値段を吊上げる画商やその効能書しか書けない美術評論家の仲間入りをするような居心地の悪ささえするもんです。


朝日新聞に2回にわたり掲載された《村上春樹「変化」を語る》でも、「個人的に政治的な人間」であることが村上自身の言葉と自己規定としてクローズアップされ、そして「全共闘の世代」をふり返って「政治的なアイデアリズム(理想主義)は、一つのありかたとして正しかったと思う」と紹介されてます。
大塚英志が過去の記憶を癒しの場であり、癒しの大きなファクターだとしているように、未来への希望もそういった意味があります。しかも希望というものは記憶のように個人的に収束する価値ではなく、共同性の説得力を持った価値判断としてあります。
理想郷をユートピア(UTOPIA)というはそれはまさしく“ない/ところ(U/TOPIA)”であり「理想主義」とか「理想」とはそういう“いまだない”ことを“あるべくする”ことで“現実”と現実に“生きる”人々へ希望を与えるもんだからです。
明日もゴハンを食べられるっていうのは、今日に意味や価値を与えてくれるものなんですよね。革命だって革命書から始まるんじゃなくて、パンよこせ、てな日常から始まるんだから。
そして、村上はこういった日常を並べて、何かをはじめようとし、実際はじめて、それが、ボクたちを誘う春樹ワールドじゃないでしょーか。本人はすでにその総括さえしてます。
むしろ、読者の方こそ何をはじめたのか、何がはじまっているのか、と自問自答する季節に来ているんじゃないでしょか?

あなたは何をしてますか?
たとえば、ボクは、こうやって書いてます。
あなたは、今、読んでくれてますよね。

とりあえず



■東京ビョー・・・   97/6/27

今、流行
ボクもワタシも、東京ビョー

正確には、東京ナリタイビョー(ナイタイじゃないよ)

訳すと、「東京みたいになりたいよー、なりたいよー、なりたいよー病」てな感じ

病原菌はあまりにも多くの人がキャリヤーなのでわかりませんが、
キッカケは「シュトイテン」病で、ちょっとドイツ語風ですが、
正確には「首都機能移転構想」とかいう妄想だか幻想だかが原因ともされてます。


典型的な共同性の病、まあ共同幻想なんですが、困ったのは患者のアタマには自己利益・自己都合しかない点だともいわれてます。
カラダまでズッコンこのビョーキに浸ってるケースが目立つのは、名実ともに世紀末に近づいてるしょーこ、と主張する人も少なくありません。

「みんな」を言い訳にしながら「自分」の妄想を合理化しようとする典型的な共同幻想性の病です。
政治家特有の病だとする人もいますが、ほぼ全日本人がキャリヤーであり、千日回峯レベルの修行をもって治療しなければなりません。



PS・・・

軽症者は、いません。念のため。

ここは修行の場。念のため。

メエメエ



■もう、いる・・・   97/6/24

もう、いるなあ。
『ギフト』のキムタクの着こなしつーか、マネしてるヒト。

刑事コロンボのマネならしたことあるけどさあ。(^^;)


ところで放っぽとくと肺炎になる風邪を(ハウスダストの肺炎で、すでに肺の一部は死んで形が変わってます。これを結核と誤診したよーな医者は、もう信じないもんね)をビタミンと卵で乗り切ったココ数日でしたん。

ゼエゼエ



■マック憲章、っだ!・・・   97/6/17

日本人にイデオロギーや宗教を求めてもムダでしょー。

ところで、聖書に手を置いて大統領就任の宣誓をする国が生んだのがマック。

まだ日本語のシステムがない頃、マックに触れたことがあります。
そのちょっと前まで、コンピュータそのものがあまりなく、高校や大学でも東京都の施設や企業までコンピュータの勉強をしに行くような状態でした。企業や官庁では180円/1分てな感じでコンピュータを貸してくれたんですね。

「計数室」とか「電算室」とか札のかかったコンピュータルームは、どこでも室温22度・湿度55%・絶対禁煙・宿泊自由みたいな管理された空間です。怪獣マタンゴみたいなHDがニョキニョキ並び、38テープみたいなテープがキュルキュルッ、キュルキュルッと回ってるなかで、火事の時にハロン化合物のガスを吹き出すパイプに顔を突っ込んでア〜アア〜なんてやっていて喝られるヤツがいたりします、たいてい。
ボクじゃないですけど。
・・・
たいがい並んでいるコンピュータはIBMで、キーパンチャーもIBM。
ズラっと暗い蛍光灯の下に列をつくってるキーパンチャーは映画『審判』のシーンみたいで、ゾクッとしたことがあります。
大量に出るフォートランのパンチングカードのゴミは普通のゴミとは別扱いで、あまりにも大量のせいか、それとも機密保持のせいか想像したくなってしまうよーな空間が「計数室」の魅力なんですね。
ほとんど、結界です・・・。



ところで、日本人には革命や批評性を求めても、やっぱりムダでしょー。

国家に貢献しない、企業に貢献しない、世界を革命する・・・
アメリカ帰りのアップルの顧問に聞いた「マック憲章」は、まるでアメリカ憲法みたいに革命的でした。アメリカ憲法には革命権というのがあって、人民には人民の利益に合致しない国家を革命する権利が保証されてるんですね。
真にアメリカやアメリカ的なものを理解することは、憲法9条も守れない日本では無理な気がしてきます。

もちろんゼロックスのパロアルト研究所でGUIのデモンストレーションが行なわれ、それを研究したアップルとマイクロソフトの社員が現在のベースを作るワケですが。
その精神はやっぱり、なんつたって、カウンターカルチャー。マック憲章を生みだした世界であり哲学です。

逆に、批評精神や哲学のない日本でのマック憲章に反するマック人気から分析できることはたくさんあるかもしれません。

インターネットのアクセス分析では、ここ1年で、マックの割合いが半減しました。現在は20〜25%です。

マック憲章に敬意を表して。
がんばれ、マック!



■エイズ、ホントの起源・・・   97/6/14

『悪魔の遺伝子操作』(徳間書店・1500円)は100本近い科学論文をはじめワシントン・ポスト紙やアメリカ議会の公聴会記録など豊富な資料を示しながらエイズウイルスの起源を明らかにした本。原題は『エイズの起源』。徳間書店でつけた題名の方はなんか興味本位みたいで、これほど重要な著作としてはふさわしくないよーな気もしますが。

でも、とにかく内容はスゴイ。

○ 研究は大学の研究室か学術研究所のものに限られ、企業の研究所は除外されている。
○ 論文は専門科学誌に掲載されたものであり専門の図書館で閲覧でき、科学ジャーナリズム誌や一般雑誌のものは除外されている。
○ 異義が申し立てられた論文や実験は除外されている。

・・・ということを前提にして書かれた本であり、ヌクレオチド配列から解析されていくエイズウイルスの本質の解明は、事実は小説より奇なりとかエボラウイルスどころの問題ではないことがわかります。エボラはただ症状が激しく致死率が高い、また感染原因が不明というレベルでしたが、エイズは違います。遺伝子工学が生んだ化け物であり、そーいったものを自らつくってしまう人間の愚かさと、つくったものをまったくコントロールできないというザマ、そしてその自業自得なエイズに対して知恵の限り闘いを挑んでいく人間の崇高さをも感じることができる問題でもあるでしょー。

何よりも豊富なデータと厳密な論証、WHO(国連保険機構)や日本などの先進的な研究分野からの考察を駆使した証明が説得力バツグンです。著者はフンボルト大学生物研究所の所長で細胞タンパク質の分子構造や遺伝子解析など理論生物物理学の研究者ヤコブ・ゼーガル。パリの国立科学研究センターの主任をはじめ先進の研究と緻密な検証でフランスから東ドイツ時代まで高い評価を得ている博士です。



■ヒスイメン・・・   97/6/7

椎名へきるちゃんの名前を思い出してしまうのがヒスイメン。
そーです、翡翠麺ですもん。
ほうれん草を練りこんだ麺はみどり色に輝く不思議な中華麺です。
鳥ガラのスープに生姜をスリおろしたお汁は爽やかで、しかも身体が暖まり、ゆえに発汗して涼をよぶ、中国四千年の歴史・・・という感じのラーメンです。
北京を代表する2大飯店のひとつ王府井(ワンフーチン)にあります。
えー、もちろん日本のワンフーチンです。銀座にも国分寺にも、府中の伊勢丹の中にもあります。
美味しい冷し中華はなかなかありませんが、このヒスイメンで美味しく爽やかな一時を過ごすのも、グッー。



■『パワーサーチ』・・・   97/6/7

パワーサーチ・・・という言葉で思い当たることがある人はどれだけいるでしょー。 その人は怠け者で面倒くさがり屋で、しかも超整理法の読者だったり信奉者だったりするハズです。えへん

ワープロ専用機で原稿を書いたりログの整理をしていて困ったのはデータベース化ができないことです。現在のワープロはどーだか知りませんが、以前のCPUにintel286程度のものを使っていたワープロではそーでした。文書ファイルが10数頁から数10頁位の収容能力しかなく、複数のファイルを一度に検索することもできません。同一ファイル内の文書の校正や文章チェックには使えても、情報を探したり分析したりするデータベースにはほど遠いんです。これではいままで文書をストックしてきた意味もありません。こまったあ

そこで、ワープロ機からパソコンに移行しようということになって調べたのがデータベースのソフト。パソコンはデータベースで使う以外には全く興味がなく、文章を書くのは依然としてワープロ機でした。

ところでデータベースのソフトを調べていてすぐに問題が見つかりました。
どのソフトも、データがそのソフトのフォーマットでなければ使えないのです。
するとたくさんストックしてあるログも、データベースのソフトにインプットし直したり、登録作業をゼロからしなければいけないわけです。げげげ

もともとそういった手順や手続がイヤでデータベースのソフトを探していたということでもあるので、途方にくれました。
いちいちデータベースのフォーマットを意識してメモを作ったり文を書いたり、また登録するために手をかけたりしてられません。パソコンが便利だなんて、その世界にハマったヤツの言い分だあ、と思いました。オタクめえ

そこで、今度はデータベースというより検索のしやすいものをと考えて見つけたのが、『パワーサーチ』と『ハイパーリンク』です。

パワーサーチはソフト会社が開発したものではなく、ある商社が作ったもの。つまり文系・事務系の企画によるプロダクトです。世界中を跳び回って、情報メモだの契約書だのを書き散らかす毎日を過ごしているビジネスの現場からの要請によるソフト。どうりで合点がいきます。これはもう超便利なのです。
全くファーマットも何もありません。検索の対象となるファイルを指定するだけで、一切ワクがないのです。検索語の定義は15種類の文字・短文の組み合わせまで可能で、検索語の間でandやorやnotなどの式が自在に設定できます。あとは自由に設定できる検索語を探しまわってくれる、その名の通りのパワーサーチ。検索語は7色の色別に表示されるので、複数の検索語を設定し該当語が多くなっても表示が見やすいように工夫されています。ヒットした語の該当数や分布も表示され一覧としてプリントもできます。ファイルの閲覧中に必要な部分の切出しやエディターの起動によるカット&ペーストも簡単にできます。 1〜2行のメモから定型化した住所録や長い論文まで、DOSのデータであれば何でもサーチしてしまうパワーサーチ。そして、このパワーサーチがNECの98用しかなかったのが、98を購入した理由なんですねえ。こほん


そして、もうひとつのソフトであるハイパーリンクはその名の通り。DOSのテキストに<>などの記号でタグをつけておくと、そのタグにリンクした別のファイルにとぶのです。とんだ先がテキストならばテキストを表示し、そこが実行ファイルであれば画像を描画したり音を鳴らしたりします。

そーです。
これこそインターネットの、ハイパーテキストの原型であるハイパーリンクのプログラムなんですね。
当時はDOS上のあらゆるデータとプログラムをバラバラに分散したままでアクティブなデータベースを構築できるソフトとして売り出していました。たぶん、大学の研究所やディレッタントの間でしか使われなかったんじゃないでしょーか。同封の解説にはフレームマシンやIBMのオフコンに対する革命である、とかいう仰々しい論文が入ってました。 アメリカの開発者は元気だなあと思ったんですが、それが今やインターネットで本当にパラダイムシフトの真最中。
先見の明、やる気、アイディア、そして何よりも自己主張。そんなメリケンなカッコ良さを教えてくれたソフトでもあります。

このソフトを使って自分なりの都市論のデータベース事典を作りかけました。
自分の仕事環境もWindowsの登場で、その便利さと安定性からWindows 95に移行しつつありますが、伝説の日本語ワープロの王者『松』を数日前に再びインストールしたりして使ってもいます。『パワーサーチ』とこの『松』は超整理法の野口教授のお気に入りでもあり、超整理法の本を読んでいてパワーサーチの名を見つけた時には笑ってしまいました。
うーん、怠け者は同じことを考えるんだろーか。わははは
いやいや、教授は忙がしすぎるだけなのでしょーけど。

仕事の度にパワーサーチの全文検索の嵐が大いに力を発揮してくれます。うひょひょ
このパワーサーチを98Rv2で駆使するのがささやかな夢。
ペンティアム2・266MHZでカッとぶパワーサーチ・・・。
単なる趣味の世界かもしれませんけど。
あるいはオタク・・・


メエメエ



■ブライアン・フェリー・・・   97/6/5

あやや〜、パリのクレージ・ホースみたいな碧眼トップレスオネエサンの踊るJ-FOXに主人公のキムタクが入って行って、ちょっとダンディな外人さんとコトバを交わします。
そ、その外人って、ブライアンなんですねえ。

カックイイ

(昨日も『ギフト』を観てしまいましたあ。)

きっとお、ポラロイドカメラとチャリンコが、あらためて流行るんだよなあ。
で、シャツとジャケットをほぼ同色で合わせるのも、流行るんだよなあ、たぶん。



■ひとりのセカイ・・・   97/6/5


「ひとりのセカイ」
「ひとりのセカイ」

両手で双眼鏡をマネするように目の上に覆いをつくって、小指の方を電車の窓ガラスにくっつけると、ろんぱあちゃんはひとりでつぶやいている。

「ひとりのセカイ」


周囲の視線をさえぎり、自分の見たい景色だけ照準を合わせた遠くを見るような目に、声そのものが遠いようなつぶやきがたどたどしいリズムを与える。


「ひとりのセカイ」

「ひとりのセカイ」

・・・

ろんぱあミッフィーちゃんのお供をして散歩にでると、時々、こういう姿を見る。
方角や地図がわからないろんぱあちゃんは、時々、自分の行きたい方へズンズン歩いていってしまう。ひとりで出かけて、橋のない川を渡ってしまったこともあるらしい。

出生不明のろんぱあちゃんはあっちの街やこっちの街で暮したりしている。
トコトコと出かけるのが好きらしいが、どこへ行きたいのか第3者にはよくわからない。

ただ、緑の多いところとか神社やお寺に行くと機嫌がいいし、遠くからお寺の伽藍や鳥居が見えるだけでニコっとするのだ。

たぶん、あっちの世界から来た子なんだと思う。


メエメエ



■たまごっち、ねえ・・・   97/6/3

アメリカでは生き物の大切さがわかるとゆーので学校がたまごっちを購入。生徒に配って世話をさせてるそー。死んじゃったら、子供が悲しくって泣きだしたとか。
イタリアでは、途中で死ぬと子供がカワイソーとゆーことで、たまごっちはダメなんだって。
韓国では授業の邪魔だっ、と禁止ですう。


いやー、なんか、とてもとても、それなりのお国柄がわかりませんかあ?

イタリア人て、けっこう、繊細なんでしょーか。

ホントはすっごくクライって、イタリアの学者が言ってましたけど、以前。

クライって、別に悪いことじゃないですよねえ。
どっかの若者のよーに、アカルく見えて実はバカ、なんつーよりいいんじゃないでしょか。
あー、なんかあ、クライ言い方しちゃったあ?

『鉄道員』とか『自転車泥棒』とか、何回見ても感動できるステキな国ですよ。イタリア



■今日の景色・・・   97/6/1

ときは今日、ところは多摩川堤防上。
ビキニのお姉さんが一人。上は青で下は赤。横には彼氏。
芝生の上にもセパレートのネーやんとカレシーのカップル。

ケッコウ、こういったカップルがたくさんいます。
川原で日焼のチープな日光浴。

バブル崩壊後も残っているウザッたい消費流行はようやく沈静化か?
これからアウトドアブームの余勢をかって、休日のご近所ピクニックとリバーサイド・リゾートがあふれそーな感じがします。

バブル期、最高にオシャレを決めそーになった多摩川リバーサイド・ライフも最近は再び秘かな人気とか。もちろん、その背景は産業と経済でしょう。これは島田雅彦氏が暮らしてる辺りの多摩川沿いのマンションなどですね。郊外の風と、意外に近い渋谷をはじめとする東京区内が目前です。女性に人気の自由が丘や二子玉川はほとんど隣の気分かな。


先日の日経新聞にはJR中央線がハイテクやSOHOの一大拠点である、てな特集記事がありました。なるほど、ナルホド。

昔言われた「3寺」の高円寺、吉祥寺、国分寺に代表される中央線文化は、確かに太宰治だけじゃなく錚々たる文人の拠点としてスタートし、現在、この地域が編集者、マンガ家、ライター、ロッカー、ミュージシャンなどの日本最大のライフエリアであるのは確か。高円寺のメシ屋でサボテンアタマやほっぺたピアスに出会っても珍しくないし、中野の駅前で吹けないブルースハープを吹いてるふりの白人ケトーにお金をめぐんでやる余裕もあります。ついでにその向かいでプラムの大判焼きなんか買ったらオシャレ以上に涙が出ます。とっても、美味しいのお、ココ。で、チーズの大判焼きはチーズケーキよりもオススメ。

国分寺で村上春樹が喫茶店をやり、吉祥寺のファンキーでパラゴンのスピーカーに圧倒されながら全共闘の勝利に期待をかけ、伝説のバンド外道の取巻きをヘルスエンジェル日本版てな感じの地元のボーソー族が占め、青い目の金髪のグルーピーに目を白黒させて昇天した若いのが、今やディレクターや編集長クラスになり、なおかつてのパンクから皿回しコゾウまでがクラブとコンビニの間で暮らしてる中央線のカオスはますます健在。夜になれば30代半ばまでは絶対独身風の女性編集者から飲んだくれライターの真剣勝負をはじめ、数の多さと達者な口ぶりに反比例するような暮らしの方がいっぱい集まって近寄り難いエリアになるのはこの辺の飲屋。新宿ゴールデン街がNTTみたいなメジャー志向の文人で溢れる時、しっかりサブカルチャーを担っている各プロバイダー風さんが集まるのがこの辺の特徴。それだけ真に東京という雰囲気が醸し出され、MXTVが話題になったりもします。富士山から皇居へ至る日本最大の気脈の上を走る中央線が、いよいよマルチメディアからSOHOまで、すでにはじまっている次世代の社会をリードする人々を乗せて息づいてるんでしょーか。


もちろん、多摩川は彼らを含めて憩いの場。

PUFFY風をはじめ女の子同士のカップルも多く、ビール工場や競馬場近くの多摩川の土手を登ってきます。川原に着くと、ドテっと寝ころんでムニャムニャしてる彼女らの光景は、もしかすると日本はとっても平和なのかもしれない、と思わせてくれます。

まだ寒い頃、同じ所でろんぱあミッフィーちゃんとカモにエサをあげていたら、集まってきた100羽近いカモを撮影しようと、これまた集まってきたカメラマンやバードウォッチャーの姿にも小さな平和は感じました。

土手下の撮影スタジオの前では、SPEED風の女の子のが3人。黒いシャツとキュロットをピラピラさせてローラースケートの真最中。
ゴッデス近くの海沿いの公園でボードを操ってるボウヤたちのように、一般的なボードコゾウのイメージとは全然違ったオジョーとボウヤ風が、この郊外の特徴かもしれません。
東京の“地”ですね。
コマーシャルではない、ジャーナルではない、トレンドではない、そーいった。


国の予算外、つまり予定外の大きな吊り橋をはじめいくつもの橋が新規にかけられつつある多摩川の空に、これまた建設中のモノレールの橋を眺めながら、街の方へ引き返すと、大きな坂の上の方に間もなく中央線の駅ビルが見えてきます。

もうすぐお昼の時間です。