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〜波照間島に暮した異国人の伝説〜
琉球王国は中国との朝貢貿易の他、1420年から1570年まで、タイをはじめ、現在のインドネシア、マレーシア、ベトナム、フィリピンにあたる東南アジア全域にわたって貿易船を派遣し、中継貿易国家としての名を馳せた。一方で各地域でも王府の手によらない私貿易が行われていたと推測されている。しかし、世界史が大航海時代に入り、スペインやポルトガルといった国々がアジアに進出するにつれその勢力におされる形で衰退していった。 こうした中で八重山の人々と西洋人との接触が起こるようになっていった。16世紀に入ると、「南蛮船」が八重山諸島に頻繁に姿を現すようになった。記録に残っているだけでも1522年頃に西表島租納、1622年に石垣島冨崎、1639年に波照間、1640年に西表、1659年と1692年に与那国、1697年に石垣島川平で船の漂着などで西洋人が島民と接触している。
そうした流れの中で、波照間の「南蛮人ゲート・ホーラー」の伝説は生れた。巨体と怪力の持ち主であったゲート・ホーラの伝説は子孫によって語り継がれ、今なおその墓は一族の聖地として拝まれているという。 国文学者永積安明氏の聞き取り(1983)によって、ゲート・ホーラーの子孫にあたる2人の古老と、島の歴史に詳しい老人の語った伝承が詳しく記されているので、それを整理してゲート・ホーラーの実像に迫ってみよう。
出生 「ゲート・ホーラー」の出生には2つの異なった由来が伝えられている。 「人頭税時代のこと、加屋本家の女が波照間の対岸の新城島に出かけ、麻布を塩水に漬けては打って乾かし、白い砂浜でさらしておった。そのとき、オランダ船が難破して島に漂着し、その船から上陸してきた男に犯された。その結果生まれたのが成長して「ホーラー武士」になった。」 「波照間島南西方のリーフにオランダ船(当時は眼の青い人を見ると総てオランダ人と言った)が座礁遭難した。オランダ人が帰郷のための船を待って、およそ三ヵ月間滞在しているうちに、島の娘と相通じて生まれたのが、ゲート・ホーラー」 いずれにしても、「ゲート・ホーラー」は漂着した西洋人と島人とのハーフであったということになる。 時期 伝承を語った1905年生れの古老がホーラーから七代目にあたるという。一代20〜30年として140〜210年位となるから、ホーラーの生存年代は17世紀末から18世紀後半となる。子孫の本家の位牌に「乾隆元年 赤頭伊勢」と書いたものがあり、これがホーラーの位牌かもしれないという。彼が赤毛だったという伝承から位牌の名と結びつけたものだろう。「乾隆元年」は1736年にあたる。これが正しければ、ホーラーの生存年代はだいたい18世紀前半ということになり、古老の証言と重なる。明和大津波(1771年)と絡められた伝承もあるが、それが正しいとすると、18世紀後半となり、位牌とは矛盾してしまう。 名前の由来 「ゲート」は「加屋本」姓の方言あるいは屋号で、今でもゲートと呼ばれているという。この呼び名はホーラー出生以前からのものであるという。「ホーラー」は父親のオランダ人が命名したという説もあるが、出生の由来からは本人が生れた時点では父親は島を去っていることになり、疑わしい。一方で鍛えあげた鉄の芯の名から来ているという見方もある。彼は「ホーラー武士」とも呼ばれていたが、波照間では抜きん出て力の強い人のことを「武士」(ムシャー)と呼び、そこで怪力のゲートホーラーを「ホーラー武士、ホーラー武士」と呼んだという。 追記:(2000.10.7) ゲートホーラーの子孫にあたるカヤモトタケシ様から、「ゲートホーラー」の語源とホーラーの父親の出身国について興味深い証言と推察のメールを頂きましたので、ご紹介します。 頂いたメールによれば、「私の親、親類に聞いていた「ゲートホーラー」の話では「ゲートワーラー」と発音していました。なぜ「ワーラー」と言う名前がついていたかの理由は、船が座礁し西洋人が陸に上がり波照間の人間に会った時、西洋人が「ワーラー」「ワーラー」と連呼していた事から、その子供に「ワーラー」と名前をつけたと聞いていました。」とのことです。 米軍占領下の沖縄では、耳に聴こえた発音のままに表記した独自のカタカナ英語がいくつか使われていましたが、その中のひとつに「ワーラー」という言葉があり、(今でも年配の方は「アイスワーラー頂戴」などと言います)これは「water」すなわち水のことです。 このことから、島民が聞いた「ワーラー」という言葉は、漂着した異国人が飲み水を欲して発した言葉なのではないか、また、従って異国人は英語圏の人(イギリス人もしくはアメリカ人)だったのではないかと推察なさっています。 確かに、当時の沖縄における「オランダ人」とは、西洋人を総称した言葉であり、必ずしもオランダ国の人というわけではありません。(戦後占領下では「アメリカー」という言葉が、西洋人すべてを指した。)また、ゲート・ホーラーが生まれたと推定される18世紀後半にはスペイン、ポルトガルに代わってイギリスやアメリカがその覇権を東アジアに伸ばし始めていた時期であり、英語圏の人の漂着にも十分可能性があるといえるでしょう。 「ホーラー」が「ワーラー」であったという証言はおそらく今まで文献などには記されていなかったものであり、そこから得られた以上のような推測も非常に興味深いものです。貴重なご報告、どうもありがとうございました。
ホーラーは首里へ行って琉球国王に謁見したことがあり、また、少年時代には山原船のコックとして唐に渡ったことがあるという。部落の役員を務めていたともいわれている。彼が特にその出生によって差別されることなく、むしろ島でリーダーシップをとるような地位にあったことを示しているといえよう。彼は巨体であり、また、怪力の持ち主であったといい、そのことにまつわる伝承が多い。 巨体のエピソード ホーラーが膝を抱くと腹との間に一斗五升入ったという。彼が使ったという大きなヘラや、大きな赤いお膳が近年まで残されていた。 暴風が来て船を避難のため陸上げしたとき、畑で作業中の男女を船揚げ場に狩り出した。自分もそこへ走る途中、ヤタプー(コーリャン)の穂をもぎ取って脇の下に抱えてきたが、その束の太さは大きな俵一俵分あったといわれている。 怪力のエピソード 島に上陸してきた大和人が、彼に相撲を取ろうと言ったところ、彼は持っていた竹の棒を引き回して帯にして向かってきたため、大和人は驚いて逃げ去ったという。これを中国でのエピソードとし、相撲を挑んできたのは唐人(中国人)だとする伝承もある。中国でのエピソードとしては以下のような話も伝えられている。 唐に行くとき、ホーラーの妹が丹前をつけて行けと言った。そうして、唐に行って招待されたら丹前を着て出なさいと言う。はたして、唐に行ったら唐の強い酒を呑まされた。酒を丹前に染み込ませ自分は飲まず酔ったふりをしていたら、槍や剣の使い手が出てきて殺されそうになった。ホーラーは百斥もある黒木をふり回し、誰も手を出すことはできなかった。 ここには妹の予言で兄が助かるというモチーフもみられる。これは沖縄全域でみられる「オナリ神信仰」(女兄弟が男兄弟を霊的に守護しているという思想)の一例である。また、怪力に関しては、石にまつわるエピソードが多いのが特徴的だ。 島の東、現在の空港の南側にホーラーの畑があるが、海際で風が強い。そこでホーラーは大きな石を持って来て積み上げ、防風壁にした。いまでも残っているという。 また、昔の波照間の農道は歩きにくい粗い砂利道だったが、ある畑の畦道だけは、固く締められた上等の道だった。この道はホーラーが自分の畑を作るとき、畑の中からでる小石を拾ってきては敷き詰め、固めたものだと伝えられている。 ホーラーの屋敷跡の北側には彼の築いた石垣が残っているという。幅と高さのしっかりした頑強な石垣で、彼の植えた植えた蘇鉄がその上に生えているという。 加屋本本家の隣の家の石垣の東南の角には高さ1.5mほどの一個の大石が置かれ、スミ石と呼ばれているが、子供達の間で「ホーラー武士」の石だと言われていた。ホーラーが、農具用の編み袋にその石を入れて肩にひっかけて来たと言われている。 明和大津波の被害で石ころで埋まっていた畑の石を片付けて子供達に畑を分け与えた。畑の境に自分で転がしてきておいた大石が現存していて、ホーラーが今後、一人でこの石を転がすことのできる子孫が生まれたら動かして、この境界を変更せよ、そんな子孫が生まれなければ記念に残しておけ、と言ったと伝えられている。 大きな石などのいわれが伝承で説明されることはよくあり、ここで語られているもののいくつかも、後世にホーラーの怪力に結びつけて加えられたものなのではないだろうか。
墓 沖縄県教育委員会の報告(1991)によると、ゲートホーラの墓は島の東部、揚田原に現存しており、南東、すなわち民俗方位(別項参照)の<東>に墓口を向けて建てられている。平面で見るとやや長方形、正面から見ると3段の箱を重ねたピラミッド状になっており、粗いサンゴ石を積み上げて作られている。最上部には大きなテーブルサンゴの平石が載せられている。石組みは1段目が6.5m×7.5m、2段目が5m×6m3段目が3.5m×4m。周囲は高さ60cmほどの石垣が囲っている。波照間の古墓にはこのような方形のピラミッド状の墓が多い。 波照間の墓は最近つくられたものも含めてほとんどが島の北側に集中しており墓口は北〜西に向けられている。島の東側にあり、しかも東に向っている墓はホーラー武士の墓だけであるという。この理由を説明する話が伝えられている。
この話からは、ホーラーが支配する側にとってやっかいな存在であったことがうかがわれる。そして、それが首里王府の役人ではなく、大和の役人だったというのが興味深い。一方で、自らの遺言によるという話も伝わっている。
ひとつには、穢れの場所である墓が、聖なる方向にむいているということがタブーにあたるということがあるのかもしれない。また、石垣繁(1998)によれば、波照間島では他の島と違い遺体を墓に収めるとき足の側から入れるという。そして、死者は体を起こすという。この時、波照間の墓は西〜北を向いているため、死者は東〜南の、常世の国の方に向く。しかし、ゲート―・ホーラーの場合、常世の国に背を向けることとなる。このことが何らかのかたちで関係しているのかもしれない。 また、いずれの伝承にもある、彼以後「武士」や偉人が生まれなくなったという結論が何を示しているのかも興味深い。波照間島は16世紀初めには「長田大主」と「オヤケ・アカハチ」という八重山に大勢力を持った二人の豪傑を生み出したが、「長田大主」は宮古の豪族の落し子だという伝説があるし、「オヤケ・アカハチ」も異国人の子で、赤毛だったという伝承がある。そういった面では「ゲート・ホーラ−」も同じ系譜に属していると言える。かつてあった、そうした系譜への想いがこの結論を導いたのだろうのか。そして波照間は琉球王府の政治犯流刑地でもあった。政治犯とは首里王府に従わなかった者である。支配者に対する無念の心が反映されているということなのだろうか。
ホーラーの子孫は現在でも島で生活している。他の島民と比べて大柄で鼻が高く、髪も赤毛であったことから、「オランダだね」と言われていたという。本家では数代前に特徴は消えたが、分家の人は今でもこれらの特徴が残っているという。このため、正確なことはもはや誰にも分からないが、オランダ人の血をひいているということは本人達のみならず島人みなが信じているという。 宮良高弘(1972)によれば、ホーラーは今の子孫の3代前から神として祀られるようになり、一族は墓を拝所として、司祭をたて崇拝しているという。他の御嶽や拝所と違って、当家の主人、つまり男が司祭をしているということである。 ゲート・ホーラーについての史実は文献などにはまったく残っておらず、子孫や島民の間で言い伝えとして語り継がれた。語られていくうちに様々なフィクションも加わっていっただろう。中にはもともとはホーラーとは関係のない事柄もあるかもしれない。しかし、当時の八重山の状況を考えたとき、彼が実在の人物であったことはおそらく確かなのだろう。 彼の父親はその後オランダに帰りついたのだろうか。そしてオランダにもゲート・ホーラーと同じ血をひく者達が今でも暮しているのだろうか。 異国の土地で生れ一生を終えた男はひっそりと語り継がれ、いつしか神となって、その子孫に奉られている。
永積安明 1983「南蛮人ゲート・ホーラー〜波照間島の伝承〜」『青い海』124号所収 青い海出版社
special thanks: Mrs.Nakijinn |
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HONDA,So 1998-2000 | 御感想はこちらへ |