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後篇は天候願い、疫病払い・虫払い、及び事務的儀礼について紹介していく。前篇の年間神行事一覧及び種類別行事一覧を参照しながら読んで頂けるとわかりやすいかと思う。また、御嶽や聖地の名称や場所については「波照間島の聖地」を参照のこと。なお、記述の内容は中篇に引き続き、アウエハント(1985)の1960年代半ばの記録をベースに、宮良(1972)の70年代初頭の調査、畠山(1982)の80年代初頭の調査、仲底(1998)、中鉢(2002)の90年代半ばの調査結果、仲本(2004)の20世紀前半の覚え書きなどを反映させてまとめている。 【天候願い】 ヌブリ、ヒブリ、トマニゲーはいずれも天候に関する儀礼で、風を鎮め、波を鎮める祈願を行う。そのため儀礼には風に関するタブーがある。風の動きが目に見えるような動作や格好は避けるということで、かつては衣装の裾をたくし上げ、髪は手ぬぐいで覆った。また、香を焚くことも煙が風を視覚化することから禁じられているため、儀礼には灰を用い、また風に飛ばないように石の下に隠して捧げる。また、ヌブリ、ヒブリでは御嶽の井戸または神井戸の水を各地の所定の場所に捧げていく「ミジマチ」と呼ばれる神旅が特徴である。男子禁制で、神旅の途上に男に会うことは避けられた。「オルル」という呪文を唱えるのもほかにない特徴である。 ヌブリ
「野折り」の意。年間5回行われる。うち4回目は冨嘉のみ参加。冨嘉(阿底御嶽)主導の儀礼といってよく、阿底御嶽の司と2人の女パナヌファが、「ヌブリヌパンダ」として島内を西から東に向う神旅を行う。阿底御嶽を出発した「ヌブリヌパンダ」はトゥニムトゥ(宗家)N家で簡単な儀礼をすませた後、粥を受け取り、神井戸「フタムリゲー」の水をヒョウタンに入れ、ニシ浜近くの聖地「ウチムリ」に向かう。ここで先ほどの粥と水を捧げ、天候祈願を行う。こののち隣接する聖地「ミシュク」の井戸ミシュクゲーを清掃し、阿底御嶽に戻る。ここでトゥニムトゥB家からの粥を受け取り、「フタムリゲー」の水で満たしたヒョウタン2つと、トゥニムトゥF家のヒヌカン(火の神)の灰を葉に包んで持ち、ヌブリの神旅「ミジマチ」に出発する。
ヒブリ(ヒーブリ) 「家折り」の字があてられる。1回目は「アラブリ」、2回目はその60日後の「ナーブリ」、3回目はその30日後の「ブリブチ」となり、いずれも「ヌブリ」と連続して行われる。ヌブリと違うのは阿底御嶽だけでなくすべての御嶽のウガンパカにて各御嶽の司・パナヌファによりフナミとミジマチ儀礼が行われる点であり、海岸沿いの聖地が回られ、呪文「オルル」が唱えられる。ミジマチのルートについては注篇の図を参照のこと。なお、ヌブリ、ヒブリをあわせて1回目から日程順に追っていくと、「金」の日と「水」の日の繰り返しとなっている。
冨嘉ではF家、N家にて儀礼ののちミジマチが行われる。プルマ崎のブトゥングパナ石〜ミシュクゲー〜浜崎〜毛崎〜ピト石と島の北岸から反時計回りに海岸線の聖地を経て真徳利御嶽に寄った後、阿底御嶽に戻る。
午後になると、冨嘉から東に向かって「ユネーンピトゥ(ミジヌファ)」の神旅が行われる。阿底御嶽から3名の「ミジヌファ」(女性)が出発する。ルートは「ヌブリ」と同じだが、各御嶽で2名ずつ「ミジヌファ」が加わりつつ御嶽や拝所、所定の場所でオルルが唱えられ、美底御嶽を出るときには11名となっている。この後シムスケーに向かい、ヌブリと同様の儀礼の後、北岸の神道を西進する、マシュク村跡内の獅子石を過ぎると、ミジヌファの一人として加わっている大泊司がリーダーとなる(獅子石〜大泊浜一帯は大泊司のウガンパカであるため)。アラブリ、ナーブリの場合はウダツィ村跡近辺から南下、ブリブチの場合は大泊浜のケーラによった後南下し、島の中央部に戻る。阿底のミジヌファとそれ以外のミジヌファで途中離合しつつ、阿底御嶽に到着し、シムスケーの水を捧げる。他の4御嶽のミジヌファは北西岸のミシクゲーまで進み、祈願を行う。以上でヒブリの神事は終了する。 トマニゲー 「泊願い」。泊とは港のこと。「2月トマニゲー」「5月トマニゲー」の2回行われる。海が穏やかであることへの祈願、航海安全祈願が中心となり、また1回目は穀物の成長、2回目は夏場の漁期の安全にも焦点が置かれている。ヒブリと同じく各部落でフナミでの儀礼とウガンパカ内の聖地のミジマチが行われるが、浜が大きな役割をもっている。冨嘉はプリマ浜(ニシ浜の東側)、前・名石はペムチ浜、北はブドゥマリ浜、南はペードマリ(島北東岸)で儀礼を行い、供物は神酒が捧げられる。男子禁制のタブーはなく、呪文のオルルも唱えられない。また、午後の神旅もない。また、イナマでの儀礼も特徴である。ビッチュルワーなど港近辺の聖地でイナマ司が短い儀礼を行う。 シビランカン
年1回の行事で、スクマンの補完と天候願いの願解きの複合的性格を持つ。「カンヌフニアギ」とも呼ばれる。語源は「紫微鑾駕(しびらんか)」に由来すると推測されている。沖縄では、家の棟上げのときに棟木に「天官賜福 紫微鑾駕」の文字が記される。「天の統治者が福を授け、北極星の神が馬車に乗って降りてくる」という意味である。道教において北極星は人の運/不運を見届ける天の統治者で、この文言は家と居住者を守り、幸運をもたらし、火事を避ける効果があるという。
当日は朝、御嶽にて簡単な儀礼が行われる。夕刻には、前年のプーリンより使用していたグサン(神杖)を特定のヤマ(窪地)に遺棄する行事が行われる。ニゲーの後、ヌブリやヒブリと同様の「オルル」の呪文が唱えられる。その後、神杖はシビランカン以降にある海鎮め風鎮め神事3回分の杖を除いて束ねられ、船漕ぎを象徴する仕草がとられられる。航海に関係した文言が唱えられた後、神杖は出航の象徴として放り投げられる。 【疫病払い・虫払い】 カナムヌソージ 「金の物忌み精進」の意。虫払いの神事で、「金」の日(かのえ、かのと)に計3回行われ、1回目、2回目は甘藷の害虫駆除、3回目は粟・麦・稲の害鳥駆除とされる。かつては「ウヤダリピトゥ」と呼ばれる男性が島内を東から西に向かって「ソージ旅」を行った。美底御嶽を出発した「ウヤダリピトゥ」は各ウツィヌワーで供を加え、いくつかの聖地・井戸を経由しつつ旅の途上で害虫を集めていく。阿底御嶽に到達の後は、ヤグ村跡でホラ貝を吹く真似をした後、ニシ浜の西、民俗方位での最西端である浜崎に到達する。ここから芭蕉の葉で造った模型の船に供物と害虫を載せ「台湾に行くように」祈り、流した。また、その後、島民は家畜を連れ浜に集まり休んだ。このことから「イナアスビ」(海遊び)とも呼ばれる。現在は司が御嶽で供物を捧げ、簡単な祈願を行うのみとなっている。 シマフサラ 語源は「島楔」と推測されており、人間に対しての疫病払い、健康祈願となる。これも3回行われる。かつてはヤギや牛をつぶして調理し、年寄りを優先に振る舞った。また、その血を染み込ませた縄で島の北西部の道などにしめ縄を張った(災いは北西からやってくると考えられていたため)が、現在は御嶽での簡単な祈願のみとなっている。同様の儀礼は沖縄各地に存在する。沖縄本島屋慶名では「シマクサラシ」糸満では「マークサラー」。石垣島白保には旧5月の「シマフサラシ」、西表島星立には旧10月の「シマフサラ」があるが、いずれも年1回であること、波照間では「カナムヌソージ」で行われていた模型の船流しをこちらで行っている点が異なる。 トピムヌニゲー 年1回、4回目のヌブリと同日に行われる。「飛び物願い」の意。結実した稲や粟を食べる害鳥を追い払うための祈願。詳細は不明。 【その他事務的神事】 ミヨウクチェ(ミヤクツェー) 「宮拵え」の意。御嶽や神道の掃除を行う。年3回行われ、この日に限り男女問わず誰でも御嶽内に入ることができる。清掃が終わると神酒、塩、ニンニクを備えて祈願を行い、神酒を皆で分け休憩する。3回目のミョウクチェは翌日以降カンパナ(3回目)、プーリン、アミジュワと計6日間続く豊年祭のはじまりとなっている。 カンパナ 「神花」の意。これも年3回、ミヨウクチェの翌日に行われる。神への納税であり、各家庭から五勺米(グソミ)が集められ、司やオーシャピトゥ(島の役員)に俸給として届けられていた。その後司の家のブザシケー(一番座にある床の間で神を祀っている)で祈願が行われる。 バンユレー 「番寄合い」の意。それぞれ「ウシ(丑)ヌバンユレ」「ミ(巳)ニンバン」「トリ(酉)ヌバンユレ」と当日の十二支で呼ばれる。「ウシヌバンユレ」「トリヌバンユレ」の日に年間行事の日程を半期ずつ決める。かつては司の家で開催されたが、現在は公民館で開催されており、決定したスケジュールが予定表に記され配られている。
以上、長くなったがそれぞれの神行事の概要について簡単に紹介した。読めばおわかりのとおり、これらの神行事の中核は粟作儀礼に稲作儀礼が複合したものとなっている。しかし、現在では稲はまったく栽培されていないし、粟も同様だ。(最近、モチキビの栽培は盛んになっているが)。現在の主要作物であるさとうきびは、夏or春植え、初冬〜春収穫と、やや神事のサイクルとずれている。
参考文献:
Cornelis Ouwehand 1985 "HATERUMA :socio-religious aspects of a South-Ryukyuan island culture" E.J. Brill |
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HONDA,So 1998-2005 | 御感想はこちらへ |