太平洋戦争末期の沖縄戦では日本国内唯一の地上戦が展開され、県民の4人に1人が犠牲になるという大惨事となったのは周知の事実である。しかしその中で、地上戦がなく空襲の被害も比較的少なかった八重山の戦争の実態は見過ごされがちである。
八重山では、軍による命令で、住民のマラリア汚染地への強制疎開が行われ、2万人以上の罹患者と、4000人近く(人口の11%)の犠牲者を出した。その中で特に波照間島は、全島民が西表南風見に強制疎開、その結果、疎開中もさることながら戦後、帰島後にマラリアが猖獗を極め、島民の98%が罹患し、3人に1人が犠牲となるという悲劇的状況となった。
戦後40年以上を経てようやく八重山の遺族が補償を求めて立ち上った。国の厚い壁に阻まれ補償は認められず妥協的な結果とはなったものの、マラリア被害を後世に伝えるための祈念館建設などがどうにかして認められた。
しかし、昨99年、祈念館では開館早々、展示内容の改竄が発覚し、現在も問題は継続中である。戦後55年を経てなお、マラリア被害者は翻弄されつづけている。
このHPでは波照間の戦争マラリア事件に関して取り上げることを今まで躊躇してきた。それは、島に対して旅行者としてしか関わっていない者が果たして声高に語ってよい問題なのか、また、自身の取材でなく2次的情報の引写しで記事をまとめることは、単に免罪符的なものになってしまうのではないかという懸念があったからだ。
しかし、今回の祈念館問題に接し、特にこの問題が全国的にはあまり報道されていないことが気になった。そこで、マラリア事件だけでなくその後の補償問題から現在の改竄問題までの経緯を整理して記すことで、島に関心を持ってこのホームページを訪れてくれる方が1人でも多くこのことを知り、考えるきっかけにしてもらえるのなら、取り上げる意義があるのではないかと考えた。
夏の波照間島の鮮やかな原色の風景、肌を刺すような日差し、七色に輝く海、集落を抜ける風、それらは旅人を魅了して止まないが、55年前の同じ夏、同じ風景の中で地獄の様相が繰り広げられたこと、それは戦争がもたらしたこと、そして島で出会いすれ違う55歳以上のほとんどの人が、それを体験しているということにほんの一時でも思いを馳せることがあってよい、いやあるべきなのではないだろうか。
長文となるが、ぜひ最後まで目を通していただけたらと思う。
遺族の方々による生々しい証言や山下軍曹の暴虐への告発に関しては、再引用になってしまうためここでは取り上げない。いくつかの、すぐれた書籍があるのでぜひそちらを読んでいただきたい。
「もう一つの沖縄戦-マラリア地獄の波照間島-」
石原ゼミナール戦争体験記録研究会編 おきなわ文庫
(ひるぎ社 1983年 951円 ISBNなし)
沖縄国立大学の石原昌家教授がゼミの生徒と共に調査、遺族の方60名以上の証言を集め、文献調査とあわせて、事件の全貌を浮かび上がらせた労作。「おきなわ文庫」は沖縄の出版社からの刊行であるため一般の書店では入手は困難だが、「地方小扱い」で取り寄せられるようだ。また、全国のわしたショップで取り扱っている。また、東京・神保町の「地方小出版流通センター」(tel:03-3291-8474)を通じて郵送注文も可能。ぜひ読んで欲しい1冊。「たましろ荘」のおばあちゃんの証言もある。
「日本列島を往く(1)国境の島々」鎌田慧著 岩波現代文庫
(岩波書店 2000年 900円 ISBN:4006030010)
こちらでも波照間島の章で、マラリア事件について大幅に紙面を割き、遺族の証言を載せている。1月に刊行されたばかりなので入手しやすい。他にも島の全体像について聞き書きを中心にバランス良くまとまっており、まずはこちらを読まれてもよいだろう。
「沖縄・戦争とマラリア事件-南の島の強制疎開-」毎日新聞特別報道部取材班編
(東方出版 1994年 1600円 ISBN:4885913888)
こちらは波照間の強制疎開を直接指示した山下軍曹をはじめ、沖縄の離島に残置工作員として派遣された陸軍中野学校出身者の戦争責任や、国の戦後補償問題を追及している。紀伊国屋のオンラインショップなどではリストに載っていることから、絶版にはなっていないようだ。取材者の方による関連HPがある。
「ハテルマシキナ−よみがえりの島・波照間−」桜井信夫著 津田櫓冬画
(かど創房 1998年 1800円 ISBN:4875980485)
「少年長篇叙事詩」の名の通り、児童文学として散文詩の形で書かれた物語だが、取材や今まで明らかになった事実をもとにマラリア事件を叙述してあり、読みやすい。第三十九回日本児童文学者協会賞と第三回三越左千夫少年詩賞の特別賞を受賞。石垣島や波照間での朗読会もひらかれた。(かど創房問合せ先:0489(86)8800)
HP「埋もれた沖縄戦−戦争マラリアを追って」http://www.interq.or.jp/osaka/magsuita/tokusyu/mararia1.html
上記「沖縄・戦争とマラリア事件-南の島の強制疎開-」の記者によるページ。
HP「消された「軍命」−沖縄・八重山平和祈念館にみる歴史の改竄−」http://www.cis.yamaguchi-pu.ac.jp/~iwashita/page/ronbun/1999/rondan2.html
一連の祈念館展示改竄問題についての論評。経緯を簡潔に知ることができる。
1944年10月
日本軍機1、2機波照間沖に墜落。
石垣島での軍作業への徴用始まる。
1945年
1月21日
波照間に空襲。8機が来襲し、機銃掃射。北集落の1軒全焼。
2月8日
再び空襲。B24型1機。鰹節工場3軒全半焼。
2月頃
山下虎雄(偽名)、青年学校の教師として波照間に赴任。25歳の若者は当初歓迎された。実は陸軍中野学校の教育を受け派遣された離島残置工作員だった。(後述)
2月 3度目の空襲。前集落が被害。
3月26日
米軍、ケラマ諸島に上陸
3月下旬
山下、米軍が上陸する恐れがあるとして、島民に強制疎開を命令。従わない者に対し、軍刀を抜き、脅す。軍人であることがあきらかとなる。以降、島民に対する態度が豹変。有力者達は、米軍上陸の可能性が低いこと、西表はマラリアの猖獗地であり感染が予想されることから反対したが、山下の強硬で暴力を厭わない態度に従わざるを得なかった。
この命令自体は石垣島の八重山守備軍(独立混成第45旅団)から出されたものとされているが、八重山の他の地域に比べ時期が早いことなど疑問が多い。また、当時、日本側から沖縄への差別意識は根強く、疎開は住民の安全を守るためと言うより、住民が米軍側につくことを恐れたものという見方が強い。(この点に関しては山下本人も取材に対し「島民がスパイになる可能性」を述べている。)
3月末
疎開先が西表島の南岸、南風見(はえみ)に決定。準備が始められる。この際、「上陸した米軍の食糧になる」として、豊富な島の家畜を全て屠殺する命令。牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、そして鶏5000羽が殺されたが、その大部分が軍の食糧として徴用された。屠殺は1ヶ月を要し、島内には屍骸があふれハエが大量発生、腐臭が漂った。なお、島民の一部は何頭かの家畜をこっそり隠した。これが疎開後の復興に役立つことになった。
4月1日
米軍、沖縄本島に上陸
4月8日
疎開開始。空襲を避け、夜間に鰹船3,4隻で何度も往復した。一部はマラリアを避け由布島へ疎開したが、大半の住民は波照間の見える南風見へ。4月終わりまでには全島民が疎開した。
萱葺きの掘立て小屋が建てられ、班や部落ごとの共同生活が始まる。わずかな食糧を共同炊事で分け合った。
山下は脅し、暴力により住民を統制した。一方でごく一部の住民に対しては温和に振舞っていた。後のことを考えた一種の懐柔策か。また、10代後半の男女30名ほどで挺身隊を組織した。
山下、西表西部の炭坑より脱走してきた台湾人労働者を惨殺(5人以上)。また、山下の命令により教師に暴行を加えられた生徒が死亡。
5月
国民学校の識名校長、「ヌギリヌパ」と呼ばれる岩盤状の海岸で子供達を集め「入学式」を行い、授業の再開を試みる。
蚊の発生とともに、マラリア罹病者出始める。特に、南風見東部地区への疎開者が多く罹病し、体力のない老人や子供から罹病した。薬は全くなく、患者を隔離するより他手だてがなかった。しかも多数が罹病するに至り、隔離も無意味となっていった。山下自身は軍支給のマラリア薬を持っており、ごく身近な者にのみ分け与えたという。
6月8日
第1回「決死収穫班」島に戻り粟の収穫。
6月10日
石垣島においても、マラリア汚染地への疎開命令が出される。(「甲号戦備下令」へ変換。) 軍関係者の回想録によれば、この命令は作戦展開上の必然性と言うよりも、八重山が戦場となる可能性が低下したことによる「たるみ」の引締めと演習的意味が強かったという。また、軍はマラリア汚染地域を事前に把握していた。一方で防衛庁の1966年の公文書には、台湾の第十方面軍の情報判断の誤りによる命令と記されているという。
6月23日
沖縄本島南部、摩文仁での牛島司令官自決により、日本軍の組織的抵抗終了
6月26日
第2回「決死収穫班」島に戻り稲の収穫。
7月2日
米軍、沖縄作戦の終了を宣言
マラリア罹病者が激増、死者もだいぶ出ていたが、山下、帰島を許さず。一部の女性達に対し、山奥に建てた避難小屋での集団自決を示唆していたという証言がある。
7月20日頃
島民の一部、島に戻り「豊年祭」の神事を執り行う。
7月30日
識名校長ほか数名、山下の監視を逃れ石垣島へ渡り、八重山守備軍の宮崎旅団長に直訴、帰島の許可を得る。
8月2日
山下はなおも帰島を認めなかったが、島民会議で帰島に全員賛成、なす術はなかった。
石垣の軍が許可したにも係らず山下がそれに従わなかったのは、彼が軍本部の直接の指揮下にあったからではないかという分析もある。彼は陸軍中野学校出身の離島残置工作員であり、その任務は、軍の組織的抵抗が壊滅した後なお、ゲリラ的活動による敵の後方霍乱を狙うものだったといわれている。山下は毎日新聞の取材に対し「当時の任務は死んでも言えない」と答えている。
※陸軍中野学校
1938年、設立。情報収集、防諜、謀略、スパイ活動といった秘密戦の専門員の養成学校。参謀本部直轄で、学校の存在自体が秘密にされていた。卒業生は特務機関や各司令部に配属された。太平洋戦争末期には秘密戦よりも遊撃戦(組織崩壊後のゲリラ的抵抗)教育に重点がおかれた。沖縄には離島に11名が無線機、拳銃、特殊爆弾、細菌入り万年筆などを隠し持って派遣された。
8月7日
帰島開始。この時点でマラリアによる死者はすでに70人近くに達していた。
8月末 帰島完了。小船が2艘だけだったので1ヶ月近くかかった。
9月7日
沖縄の日本軍、降伏文書に正式に調印
帰島した島民の間でマラリアが一挙に蔓延、島民のほとんど全員が罹患。戦地より復員した者も感染した。食糧不足による栄養失調が追い討ちをかけ、一旦回復した人々も再発した。食糧不足は疎開前の家畜屠殺や、疎開中に農作物の植付けが出来なかったことによるもので、家畜は農耕にも必要な存在だったため疎開後の耕作も遅れた。薬も無く、また家族全員が罹病している状況ではお互いの看病もできるはずもなかった。
10月頃
山下軍曹、人知れず島を離れる。
(山下が離島残置工作員として島に派遣されたことが判明したのはだいぶ後のことである。)
帰島後12月までに400人近くが死亡、冬季に入りマラリア蚊の繁殖が止まってようやく沈静化の方向に向ったが、マラリアによる犠牲は翌年暮れまで続いた。この結果、犠牲者は最終的に488人、疎開時の島民数の実に3分の1以上に達し、特に被害の酷かった北集落では半数以上の住民が犠牲となった。犠牲者は老人や子供が多かった。一家全員が死亡したり、17人の家族中、生存者が1名だけという家もあった。ほとんどの人が病に倒れている中、葬儀すら満足に出来ない状況となった。また、墓に遺体が入りきれなくなり、仮の墓や北岸の砂浜に埋葬された。中には埋葬すら出来ず、防空壕に運び込まれ腐敗した遺体もあった。
なお、八重山郡全体でのマラリア被害は、1945年には患者数16,884人(人口の約半数)、死者数3,674人、1946年には患者数9,050人、死者数128人となっている。これらも強制疎開を原因とする。
1946年1月
石垣島の旧旅団司令部より救援隊到着、わずかな食糧や薬が配給される。
食糧欠乏の中、波照間にはソテツの毒を取り除きデンプン質を採る方法が伝わっていたため、島民はソテツを食糧にしてしのいだ。15万本、1家庭あたり700本のソテツが倒され貴重な栄養源となった。半年から1年ほど、ソテツを主食とする期間が続いた。
46年に入ってようやくマラリアは沈静化に向う。共同作業で畑が開墾され、生き残っていた僅かな家畜が繁殖されて各家庭に配られた。
1948年頃
八重山のマラリア大流行はこの頃ようやく、臨時マラリア診療所開設、ハマダラカ撲滅工作、抗マラリア剤の普及などにより終息する。
1950年頃
ソテツ感謝祭。島北岸、サコダ浜の竜宮岩の大ソテツ。波照間のソテツの発祥の木とされる大ソテツに、ソテツのおかげで島民が生き延びることが出来たことを感謝した。45年に島内有志で組織され、農業復興とマラリア対策を指導した「復興委員会」は、これを機として解散。
1953年
西表、南風見海岸「ヌギリヌパ」の岩盤で識名信升元校長の刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字、発見される。入学式が行われた場所。
識名校長は、「忘勿石」(わすれないし)に関して生涯殆ど口にすることはなかったが、82年の石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えている。
1962年
1957年からのDDT散布により沖縄のマラリアほぼ撲滅。
1968年
山下軍曹波照間来島。
1974年
「陸軍中野学校3」刊行。ここでの山下に関する記述が事実と全く異なり、彼の言動を美化するものであることが後に島民の知るところとなり、抗議の声が高まる。
1977年
八重山守備軍 宮崎旅団長 死去
1978年
沖縄県公衆衛生大会において沖縄から風土病としてのマラリアがなくなったことが宣言される。
1981年8月
山下、戦後3回目の来島。公民館役員、町議、各集落代表などにより、来島への抗議書突き付けられる。なぜ彼が 3度にわたって来島したのか、謎な点が多い。
1982年9月
沖縄国際大学石原ゼミナール、60名以上への聞き取り調査と全世帯の被害状況調査を行う。翌83年7月、「もう一つの沖縄戦-マラリア地獄の波照間島-」として刊行。
1984年
波照間小学校、創立90周年記念事業として「学童慰霊碑」建立
「・・・強制疎開させられた全学童323名はマラリアの猖獗により、全員罹患中66名を死に至らしめた。かつてあった山下軍曹(偽名)の行為はゆるしはしようが忘れはしない
本校創立90周年を記念し、はるか疎開地に刻まれた「忘勿石」を望む場所にその霊を慰めあわせて恒久平和を願い碑を建立する」との碑文。
1988年
識名信升元校長、死去。
1989年5月
石垣島のマラリア犠牲者遺族を中心に「沖縄強制疎開マラリア犠牲者援護会」結成。マラリア犠牲は軍命によるもので、戦争協力者として国家補償をすべき、として国に対し謝罪と個人補償を求める活動を始める。県はこの活動を受け、国に対して「戦傷病者戦没者遺族等救援法(援護法)」の適用を求める。
しかし、厚生省は「軍命があったかどうか不明」として拒否。
山下軍曹、琉球新報の取材に対し、軍命はあったと証言。
援護会による証言や資料の収集活動といった実態調査により「軍命」の存在が濃厚となってくると、八重山で戦闘がなかったことを理由に「マラリア犠牲者は戦闘参加者ではなく一般戦災死」などとして援護法の適用を拒否。国内外の戦没者へ補償問題が波及するのを恐れ、個人補償も拒否。
1992年
3月
絵本「忘れな石―沖縄・戦争マラリア碑」刊行(文:宮良作、絵:宮良瑛子 草の根出版会)
4月
厚生省、沖縄開発庁、総理府で「沖縄・八重山諸島における戦争マラリアに関する三省庁連絡会」を発足させるものの、現地調査すら行わず。
8月
有志による建立期成会により、西表、南風見に「忘勿石之碑」建立。識名校長の銅像、忘勿石のレリーフ、犠牲者の名前などが記された碑が、忘勿石のそばに建てられた。
「軍命による強制疎開のため、風土病の悪性マラリアに罹患、戦わずして尊い人命を失った」との刻字。
1993年
5月
波照間小学校全児童の合作による鎮魂歌「星になった子どもたち」がつくられる。遺族への聞き取りを行った生徒達46人が作った詩をまとめ、先生が曲をつけたもの。翌94年、生徒の卒業製作により、学校の塀の壁画ともなる。
6月
毎日新聞による取材・報道。旧八重山民政府の「知事日誌」に「軍命」の記述があることや、マラリア有病地を調査した軍の機密文書があった(軍は事前に有病地帯を把握していた)ことなどが明らかになる。この時の調査は翌94年6月、「沖縄・戦争とマラリア事件-南の島の強制疎開-」として刊行。
一方、北沖縄開発庁長官が「特別措置」による対応を示唆。
9月
援護会が厚生省、総理府、沖縄開発庁へ直訴。国との直接交渉に踏み切る。この時歴代沖縄開発庁長官としてはじめて、上原康助長官が遺族と直接対話。上原長官は沖縄出身。
しかし、相変わらず「地上戦がなかった」「軍命を立証する決定的証拠がない」「マラリアで死んだという死亡診断書がない」ことを理由に交渉は難航。
1995年
3月
与党3党(自民党、社会党、さきがけ)による「戦後50年問題プロジェクトチーム」、「軍の命令による強制疎開が事件の原因」として、基金の設置により遺族への補償という解決策を提示。しかし、「国」としては軍命の存在は認めず、従って援護法適用は認められず公式謝罪もなし。いわゆる政治的解決であった。
12月
96年度沖縄開発庁予算に「犠牲者慰藉事業」として三億円を計上することに。国家による個人補償は拒否され、「補償金」でなければよいとして当初より1億円上乗せし、その中から県を通して何らかの形で遺族の手に渡す方向となった。事業自体も国では無く沖縄県が行うという形で、どこまでも国としての責任をあいまいにする結果となった。
これに対して遺族側は、不満が残るものの遺族の高齢化が進んでいることから早期決着をはかり受け入れる。
予算は祈念館設置、慰霊碑建立、上乗せ分は結局記念誌編纂、資料収集、それらに対する遺族への謝礼金にあてられることになる。
1996年12月
石垣島の児童劇団「星の子」、マラリアの犠牲になった波照間の子供達を描いた「星になったこどもたち」を上演
1997年
2月
山下軍曹死去。晩年は滋賀県の機会メーカーの会長を務めていた。
3月
石垣市パンナ公園にマラリア犠牲者慰霊碑が除幕、追悼式行われる。慰藉事業の一環。(4500万円、ほか式典に2000万円)
しかし、碑文に、軍命により強制疎開が行われたことを明記するという主張は退けられ、「軍作戦展開の必要性から」と、あたかも軍を正当化するような表現にされた。補償問題の結論に反発し参加を見合わせた遺族もいた。
沖縄開発庁長官の寄せた弔辞「・・・戦禍を逃れる多数の住民が避難を余儀無くされました・・・」これに対し、市長は「明らかに軍命によるもの。朝の大雨は国に承認されなかったという犠牲者の涙」と言い切った。(琉球新報)
「波照間にも慰霊碑を建てて欲しかった」「立派で無くてよいから大切な言葉(軍命による強制疎開)を入れて・・・」という声も聞かれた。(沖縄タイムス)
4月
県の編集により「悲しみを乗り越えて−八重山戦争マラリア犠牲者追悼平和祈念誌」刊行。非売品。
慰藉金の一部(4500万円)が見舞金の代りに原稿料、資料提供などの謝礼金として遺族に支払われるが、一人当たりで平均すると5万円程度になるという。
8月
八重山守備軍の陣中日誌が敗戦直後焼却処分されたことが、軍関係者遺族の証言により明らかになる。陣中日誌は、軍命の存在を立証する重要な証拠となるものだった。
「八重山平和祈念館」落成。事業費のうち1億5500万円が使われた。
1998年
8月
「ハテルマシキナ」刊行。各地で朗読会開かれる。
12月
人形劇「ホタル―沖縄・戦争マラリアものがたり」波照間ほか沖縄各地で上演。(福岡県北九州市、若松児童文化会)
1999年
5月28日
石垣市新栄町に「八重山平和祈念館」オープン。平家建て、赤瓦屋根の建物に2つの展示室と図書室、ホール。資料4500点を保管。「戦争マラリアの実相を伝える平和の発信拠点」
嘱託職員が2名のみで、学芸員がいない、スペースが狭く、展示内容が不十分、戦争マラリアの悲惨さが伝わってこない、加害責任の視点が欠落しているとの指摘もなされた。
これにより一連の補償問題が解決をみたとして、開館を機に沖縄強制疎開マラリア犠牲者援護会は解散した。
8月
新平和祈念資料館(沖縄本島)での展示内容改竄問題勃発。八重山祈念館でも同様の変更があったことが判明。
県知事が太田知事から稲嶺知事に代り、平和行政が方向転換されたことによるもの。「反日的になってはならない」「国策を批判するような展示はいかがなものか」という稲嶺知事の言葉が改竄の発端とされる。
一時期は基本理念のうち、強制退去命令を出した軍隊に係わる部分と、住民の踏みにじられた人権の部分の見直しも検討されていたことが明らかになる。歴史事実の改竄行為として非難の声が相次ぎ、沖縄県内では連日報道を賑わせた。
主な変更点
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ケラマでの「集団自決」写真のキャプションが「一説には集団死とも言われている」から「沖縄戦で犠牲になった人たち」に。
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波照間小学校の生徒が、マラリア犠牲者への鎮魂歌「星になった子どもたち」を唄う写真パネル、「沖縄戦と戦争マラリアの歴史年表」パネルが「消防法の理由」で開館直前に勝手に撤去される。「星になったこどもたち」のパネルは地元の批判により開館3週間後に戻される。
-
マラリア地域への「強制退去」「退去」の語句が「避難命令」「避難」に差し替え。
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「忘勿石」の説明文中「刻銘は、戦争への批判と鎮魂とを盛り込んだものと言われている」が削除。
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マラリア患者の看病の具体的な様子の説明が、単なる「マラリア患者の看病風景」という説明に変更。埋葬の様子も「埋葬等の風景」に。飛行場の整備に地元民や朝鮮人を動員したという記述も削除。
9月
石垣市消防本部は「現地調査の結果、消防法上問題なし」との見解。これに対し県側は「消防法」の発言自体を否定。
県文化国際局、見直しの際、監修委員会の承諾を得る前に、副知事に「承諾済」と虚偽の報告をしていた疑いが強いことが報道される。報告の後、解散した監修委員会の元監修委員に対し、形式的な説明をしたことで「承諾」とし、変更に関しての説明が不十分で議論もないまま記述変更、削除が行われた。
10月
元監修委員、専門委員と県側で検討会議始まる。県側の「他意はなかった」との説明に「納得できない」とし、会議は継続することに。
11月
県と元監修・専門委員との協議。県は「変更に関して細かい説明がなかったことは反省している」が、「歴史の改竄や実相を歪めるといった意図的なものはなかった」と釈明。展示の充実のため、地元関係者による館運営協議会の設置や、人員の充実をはかる意向を表明。
12月
軍命によるマラリア汚染地への「退去」を「退去(強制避難)」と統一表示するなど、キャプションの修正を行うことで合意。パネル展示を巡る協議は今後引き続き行われる予定。
「変更された説明文の「退去」という言葉は、軍が八重山の住人を死に追いやったときに発した用語である。マラリア補償問題で、軍命を認めない国の厚い壁を揺るがし、戦争責任を明確にするうえで、欠くことのできない用語である」
(沖縄タイムス99年10月5日朝刊、大田静男「内なる戦争の展示を」)
2000年
1月
県と元委員の三回目の検討会議が開かれ、元委員の提示した展示物のキャプション
などに関する六十項目の修正案を県側が了承。
9月
八重山平和祈念館の運営について地元の人たちと話し合う部会を県平和祈念資料館
の運営協議会内につくることを決定。
2001年
5月
「八重山平和祈念館」開館2周年。しかし、来館者は一日平均で十二人と低迷。展示
内容を巡る一連の騒動、県のPR不足、専属の学芸員の不在による運営の不全等が原
因として指摘されている。
8月
「忘勿石(わするないし)之碑」慰霊祭、10回目を迎える。 西表島大原の離島振興総
合センターで記念式典
11月
国に遺族補償を求め、「八重山戦争マラリア遺族会」が結成される。
「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」が、結局政治的決着により、慰謝事業の
実施にとどまったことに対する不満が残っていた。
2003年
3月
「八重山戦争マラリア遺族会」代表者などが内閣府沖縄振興局を訪問。
犠牲者遺族全員へ、補償として「見舞金」の個人給付を要請。
政府側は波照間をはじめ石垣、黒島、鳩間、新城について、軍の命令があったことを認めるが、
対応は困難と説明。
2004年
6月
「八重山戦争マラリア遺族会」、遺族の高齢化による活動継続の困難と、政府が軍命を認めたことを理由に、
今後見舞金の個人給付を政府へ要請しないことを決定。今後は、平和祈念館の有効活用を目指すことに。
症状
マラリアは今なお年間3−5億人の罹患者とl50一300万人の死亡者が出ている代表的な熱帯病であり,WHOが対策を推進する六大疾患の一つにもなっている。
蚊(ハマダラカ)に刺されることにより、体内にマラリア原虫が侵入することで感染する。原虫は肝細胞に侵入し増殖した後、血流中に放出され,赤血球に侵入し発育、増殖して赤血球を破壊していく。
9ー18日の潜伏期の後発病する。倦怠感や体調不全の後,突然,悪寒,戦慄と共に高熱が起こり,頭痛,嘔吐,関節痛等をともなう.発熱が周期的に起こるのが特徴で、高熱が4〜5時間持続し,その後,平温に戻る。その後36〜48時間すると再び高熱が襲う。これの繰り返しである。
発熱の反復が続いた後、貧血,脾臓や肝臓が腫れるといった症状が起こる。原虫には四種があるが、「熱帯熱マラリア」の場合、早期に適正な治療を開始しないと,脳,腎,肺,肝,消化器などに重篤な合併症を併発したり,全身出血,循環不全などに陥って死をもたらす危険が高くなる。
治療と予防
抗マラリア剤により症状を緩和させることができる。いくつかは予防効果もあるが、マラリア・ワクチンはまだ完全に実用化されていない。予防策は何よりもまず、媒介蚊に刺されないようにする。蚊の吸血時間は日暮れから夜明けまでの間なので,この間特に注意する。
八重山とマラリア
八重山では「ヤキー」「プーキ」などと呼ばれるマラリアは16世紀にオランダ船が持ちこんだものといわれている。マラリア病はマラリア蚊の繁殖しやすい、水溜りと森林の多い土地に発生し、水はけのよい土地や風通しのよい開けた場所では定着しにくい。したがって、西表島や石垣島北部がマラリアの巣窟地帯となった。これらの地域には18世紀にも首里王府が新村開拓のため強制移住を行ったが、当然マラリアが蔓延し、多くの村が廃村になった。
疎開者の状況
(石原ゼミの聞き取り調査によるデータ)
西表島への疎開者 1275人
うちマラリア罹患者 1259人 (98.7%)
マラリア死亡者 461人 (36.2%)
1945年から47年までの状況
(石原ゼミ。徴兵などにより、疎開時に島を離れていた者なども含んだ数字。)
人口 1511人
うちマラリア罹患者 1396人(92.4%)
マラリア死亡者 488人 (32.3%)
戦死者 38人
なお、八重山民政府の1947年のデータによれば
人口 1590人
うちマラリア罹患者 1587人(99.8%)
マラリア死亡者 477人(30%)
となっている。
毎日新聞(93年9/20, 95年3/31, 12/20)
沖縄タイムス(97年3/12,29, 4/5, 8/4,21,29, 9/4,5,18,19,
99年5/29,30, 7/19,20,21, 8/31, 9/3,8,13,14, 10/5,6,20,27, 11/22, 12/27)
琉球新報各記事
石原ゼミナール戦争体験記録研究会 1983「もう一つの沖縄戦-マラリア地獄の波照間島-」ひるぎ社
毎日新聞特別報道部取材班 1994「沖縄・戦争とマラリア事件-南の島の強制疎開-」東方出版
桜井信夫著 津田櫓冬画 1998「少年長篇叙事詩 ハテルマシキナ−よみがえりの島・波照間−」かど書房
鎌田慧 2000「日本列島を往く(1)国境の島々」岩波現代文庫 岩波書店
太田静男 1998「八重山の戦争」南山舎
楠山忠之 1996「日本の一番南にあるぜいたく」情報センター出版局
HP「埋もれた沖縄戦−戦争マラリアを追って」
http://www.interq.or.jp/osaka/magsuita/tokusyu/mararia1.html
HP「消された「軍命」−沖縄・八重山平和祈念館にみる歴史の改竄−」http://www.cis.yamaguchi-pu.ac.jp/~iwashita/page/ronbun/1999/rondan2.html
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