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「忘勿石」とは
波照間島の北側、海の向こうに西表島が見える。横に広がっているその姿の右端に近い辺りが南風見田(はえみた)と呼ばれる一帯だ。南風見田は現在ではキャンパーの聖地として知られており、本来キャンプ禁止であるにもかかわらず、数ヶ月、場合によっては数年にわたって滞在するキャンパーが後を絶たない。 しかしこの場所は、第2次世界大戦末期、波照間の全島民が軍の命令により南風見田に強制的に疎開させられた場所でもある。当時一帯は伝染病マラリアの汚染地帯であり、ほぼ全員が疾患、島民の3分の1が命を落とした。このことに関しては別項「終わらない戦争 ―強制疎開マラリア事件・補償問題から歴史改竄までの経過―」で詳しくとりあげているのでぜひご一読いただきたい。このページでは、その悲劇を今に伝える「忘勿石」(わすれないし)を紹介したい。 西表島南風見田(はえみた)浜の東端の岩場、通称「ヌギリヌパ」(鋸の歯)の一角に「忘勿石」はある。現在では立派な「忘勿石之碑」が建てられているが、その右脇の岩盤にひっそりと、「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。これが「忘勿石」(わすれないし)である。(見難いが、上写真赤印のところに文字が刻まれている。) 文字が刻まれた岩盤は、疎開中のほんの一時期、波照間国民学校の校長であった識名信升氏によって国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所だ。疎開地でも教育を続けようとした試みに対し、強制疎開の命令者山下軍曹はそれを中止させた。間もなくマラリアの伝染が始まり、子供達も多くがその命を落とした。 この10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し、島に帰る際にひっそりと刻んだもので、ほとんどの者はその存在すら知らなかったという。1954年、波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されたが、その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめ翌年刊行された「もうひとつの沖縄戦」によってようやく、世間に知られることとなった。 識名校長は、軍命とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですらほとんどこのことは知らなかったという。 識名校長は石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えている。 1992年に「歴史を語り継ぎ、病没した人々の霊を慰め、平和創造への礎」とするため、有志により現在の碑が建立された。近年では「忘勿石」をテーマにした絵本や演劇が上梓され、「忘勿石」の伝える悲劇が語り継がれている。
「忘勿石」を訪ねる 「忘勿石」には西表島東部の大原港からアクセスすることとなる。大原港へは石垣島から1時間おき程度の頻度で高速船が就航している。所要時間は40分ほどだ。また、波照間発12時50分の石垣行き安栄観光の船が、定期観光ツアーの客が居る場合大原港に寄る。当日の朝安栄観光に問い合わせればわかるので、波照間からの帰路に立ち寄るのもよいだろう。 「忘勿石」は港から約6kmほどと、歩くには遠く、交通機関もないので、レンタバイク(原付)またはレンタサイクルを利用したい。2〜3時間あれば余裕を持って港に戻ってこれる。港から歩いて5分ほどの民宿「南風荘」で原付を借りると、主人が忘勿石保存会会長ということもあり、場所を教えてくれる。 西表島大原港から南風見方面に向かう一本道を西に向かい進む。この道は南風見の西部で行き止まりとなっているが、終点の1kmほど手前、大原からみて道路の左側にペンキで書かれた大きな標識が立てられている。そこから左に別れる未舗装の道を進むと、木に囲まれた空間に出て道は尽きる。すぐ向こう側が南風見田の海岸だ。車やバイク、原付はここに止めて砂浜に出る。 砂浜に出てすぐ左には、浜に流れ込む小川がある。水が淀んでいる。マラリアはこの南風見田浜東側が特にひどかった。水が流れず赤色をしていたという証言があるが、たぶんこの川のことだろう。 この一帯、海岸沿いの低木の生い茂る森の中にかつて非難小屋が建てられていたという。また、マラリアの病死者を仮埋葬した跡が今でも残っているという。 砂浜を左(東)へ3,4分歩くと浜が途切れ、岩場となる。岩が鋸の歯状に侵食されており、通称名「ヌギリヌパ」の語源となっている。この一番奥の岩盤の上、崖を背に「忘勿石之碑」が建てられている。「忘勿石」の文字は、碑の右側の岩盤上に刻まれている。非常にわかりにくいので注意して探そう。 「忘勿石之碑」の上部には識名校長の胸像と、「忘勿石」のレプリカが並ぶ。レプリカの下には碑の概要と、追悼の詩句を刻んだ石版が、胸像の下には、南風見田で亡くなった方々の名前を刻んだ石版が埋め込まれている。
ここから西方向(来た方向)を望むと、広い浜が延々と遠くまで延び、尽きる辺りでは急峻な山が海のすぐそばまで迫っている。浜伝いに戻り、そちらの方まで行ってみよう。浜伝いに歩いていってもよいが,ここでは一度道路に戻って、道路の終点まで行くことにする。 標識のある分岐点まで戻り、西(左)に向う。南風見に向かう道はどんどん細くなり、森の中に突入し、最後に砂利道になって南風見田浜西端に出る。道の終了直前の両脇の茂みの中にはキャンパーたちが暮らすテントが並んでいる。 浜に出ると、山沿いの小高くなったところにあずまやが建てられている。すぐ横には水場がある。水は浜に流れ込む小川から引かれている。この川は東側の川と違って渓流となっており、水も澄んでいる。この一帯にも非難小屋が建てられ、疎開生活が営まれた。東側に比べてマラリア被害が少なかったというが、確かに川の流れは速く、マラリア蚊は繁殖しにくそうだ。この川が「シタダレ川」と呼ばれる川だとすると、この渓流の上流で山下軍曹が中国人を殺したこととなる。 一帯は浜のすぐ背後まで山が迫り、濃厚な空気を孕んだ深い亜熱帯の密林が覆い被さるかのように圧倒的な存在感を示している。目の前に広がる砂浜にはただ波が打ち寄せる音と風の音が響くばかりだ。この独特の雰囲気を持つ風景はおそらく疎開当時とほとんど変わっていない。 砂浜に立ち、海の向こうに見えるはずの波照間を思いながら少し想像力を働かせてみる。変わらない風景の中で55年前に起った悲劇について。
参考文献 忘勿石期成会編 1992「忘勿石」
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