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〜波照間に点在する「スク」とは?〜
こういった「グスク」に関しては、防御的機能を持つ城館跡であるという説や、集落跡であるという説、祭祀施設であるという説など諸説があり、1960年代から70年代にかけては「グスク論争」も起った。明確な結論が出たわけではないが、現在ではそれぞれの説を時系列的に統合した説が唱えられている。 まず、古集落や埋葬地であった場所が聖域となり祀られる。その霊力を内包する形で拝所と、周囲の集落をとりまくように城砦が作られ、防御集落としてのグスクが発生する。このようなグスクは居住地であり、政治の中心であると共に信仰の中心でもあった。そして、共同体の階級分化の発展とともに、いくつかのグスクは地方勢力の拠点として、大規模な城壁を有し、城塞としての機能をもつようになった。現在みられるグスクはこういった過程の様々な段階が残っているものである。 たしかに、巨大なグスクの中には御嶽(ウタキやヒヌカン(火の神)が必ずあり、それらの多くは現在でも崇拝されている。琉球諸島を統一した中山王朝(いわゆる琉球王国)は祭政一致国家であり、首里城の中にも何箇所か拝所・御嶽が存在している。(首里城の前庭には「首里森御嶽」が復元されている)
さて、「グスク」とされる遺構は沖縄本島を中心に、奄美から八重山に至るまで多く残っているが、八重山では近年まで「城」「グスク」という呼称ではな「スク」と呼ばれるのが一般的だったという。そして、それらは「城」というよりも、古い村跡を指して呼んでいる事が多いという。そんな中で注目されるのが、波照間に多く残る「スク(底)」のつく場所である。 波照間には「スク/シュク」が語尾につく場所がいくつかある。「美底(ミスク)御嶽」(北集落)、「阿底(アスク)御嶽」(冨嘉集落)、「大底(ブスク)御嶽」(前集落)といった御嶽や、「ミシュク」(ニシハマ上)「マシュク」(北東岸)、「ペーミシュク」(冨嘉集落南)といった古い村落の跡である。 (場所は「波照間島詳細MAP」、御嶽の詳細はこちらを参照の事) 「スク」のつく御嶽はいずれも「ウツィヌワー」(各集落の拝所、「シマの御嶽」)であるが、その周辺からは磁器、土器などが発掘されていることから、古い集落や屋敷の跡に立てられた御嶽だと推測されている。「美底御嶽」には15世紀末の英雄「獅子嘉殿(シシカドゥン)」の屋敷跡との伝承が残っているし、「阿底御嶽」は島の宗家として創世神話の残る家に隣接している。「大底御嶽」の地は、与那国に遠征した「ウヤマシアカダナ」に関連があるとされている。 また、「スク」が付く集落跡はいずれも聖域とされ、遺構が手付かずのまま残されている。「ミシュク」に残る井戸は島の神事に重要な役割を果たしているし、マシュクも普段は畏れ多くて立ち入る事を憚れる場所とされている。 一方、「スク」名はつかない集落跡も「シムス村跡」「タカツ村跡」などいくつか伝承されており、それらは比較的近年の集落跡といわれている。その跡地は「スク」と違い、畑にされたり上に新しい村落がつくられたりして、ほとんど形跡を残していない。 このように、波照間において、「スク」の名のつく場所はいにしえの島民の居住地が聖域となった場所であり、原初形態の「グスク」に相当しているといえる。
別項でも触れている通り、沖縄の人々の信仰の拠所となるのが「御嶽(ウタキ/オン)」である。「御嶽」には大きく分けて、祖霊神・島立神・島守神を祀った、シマ(部落)の御嶽と、ニライ・カナイの神や航海神、功績のあった個人といったものを祀る御嶽の2つがあるといえるが、そのうち特に重要なのがシマの御嶽である。シマの御嶽は、シマに暮らす人々を守護し、人々の結合の拠所となる聖地であり、年間を通じ神行事では神職によって必ず拝まれる一方で、平時にはむやみに立ち入る事はタブーとされている。 沖縄本島の「御嶽」を検証した仲松弥秀は、御嶽はかつての先祖の居住地であり、その場所は祖霊と結びつき、村を守護する「くさて(腰当)」「おそい(蔽い)」であるとしている。そして、基本的には村の宗家(村の発祥とされる家)に隣接しており、集落数と御嶽の数が一致しなかったり、御嶽が村から離れた場所にある場合、集落の統合や移住があったことが考えられるとしている。また、遠い時代のその村の葬所と推定される場合も多く、「神骨」がみられる御嶽もあるという。 仲松の説は主に沖縄本島の「シマの御嶽」を検証したものであるが、牧野清(「八重山のお嶽」)によれば八重山の御嶽に関しては、この説は必ずしも一般化できないという。牧野の調査によれば、八重山全域に232箇所ある御嶽のうち、墓や縁故地がもとになっているものは2割にすぎず、由来が不明であるものが3割以上ある。また神託によるものが1割以上あるのも特徴だ。 これは11世紀頃まで宮古・八重山の文化と沖縄本島の文化は全く異なっていて接点もほとんどなかったということにも理由があるのかもしれない。また、度重なる島分け(移住による新村創建)やマラリアによる廃村など、村の成立過程が複雑であることも原因だろう。 そもそも村の聖域に「御嶽」という統一名称を与えたのはおそらく首里王府であり、それ以前に統一した名称はなかったといわれている。(「モリ(森、岡)」と呼ばれることが多かったようだ。)現在でも御嶽の呼び名はウガン(本島北部)、オン、ワー(八重山)、ウガミ山・オボツ山(奄美)など、地域によって呼び名は異なっている。八重山では、首里王府の支配下におかれた15世紀末以降に、聖域のいくつかをシマの「御嶽」として指定し、その後聖域全般を「御嶽」と称するようになったのだろう。(御嶽の神職「神女(ノロ)/司(ツカサ)」は王府任命による官職であった) 波照間の場合はどうだろうか。18世紀初めに首里王府によって記された「八重山島由来記」によると、3つの野の御嶽(ピティーヌワー)は、16世紀はじめの首里王府による統一直後に神託によりたてられたとされている。当時の波照間は3与人により3エリア(やぐ村、あらんと村、かいしもる村)にまとめられ、3御嶽はそれぞれに対応するかたちとなっている。いずれも集落から遠く離れているが、水の得られない場所であるため、かつての集落跡であるとは考えにくい。また、おそらく埋葬地でもなかった。一方、集落内の5つの御嶽(ウツィヌワー/オン)は、「ピティーヌワー」の遥拝所として機能している。御嶽が村から離れている場合、村内に「御通(おとお)し御嶽」が設けられている場合があり、「ウツィヌワー」もそういったかたちがとられている。いずれの御嶽も、敷地や周囲から13〜15世紀の八重山式土器、青磁、南蛮、染付等が出土ていることから、首里王府の支配以前に存在した古い集落や屋敷の跡と推測されている。その点は仲松説があてはまることになるが、あくまで遥拝所である点で仲松説とはずれている。
なお、これらの「ウツィヌワー」は「八重山島由来記」には記されておらず、村落の単位が現在の5つに固定してから指定された可能性がある。波照間には村の統廃合が行われた形跡が伝承等で多く残されている。たとえば、現在の北・南部落のある一帯にかつて多くの村名があった。そして、北部落は南部落から分かれたといわれてもいる。そこから推測すると、この一帯がまず現在も北・南部落の総称として使われている「東村」として1つにまとめられ、そこから北部落が分離し、もとから獅子嘉殿の「スク(=聖地)」として崇拝されていた「美底」を北部落の「ウツィヌワー」に指定したと思われる。
冨嘉集落南に残されている「ペミシュク」遺跡も、小規模ではあるが同様の石垣による郭が残っており、八重山式土器、外来陶磁器、沖縄製陶器等が出土している。ニシハマ沿いの「ミシュク」にもやはり石塁遺構が残っているといわれている。島の北岸には、「下田原城(シモタバルグスク)」の遺跡がある。その名の通り「城跡」とされてきたが、近年では、城跡としてよりも、集落跡として捉えたほうが適切との見方が出てきている。「下田原城」は「マシュク」村より小規模で、構造も似ている。「下田原城」も波照間に点在する「スク」のひとつということになる。そして、これらのスクは「城」的な「グスク」であるともいえる。 こういった要塞状となっている村の遺跡は他に、石垣島のフルストバル遺跡(国史跡・オヤケアカハチ居城との伝承もある)や竹富島のハナスク村遺跡などがあり、いずれも琉球王朝の支配が八重山に及ぶ以前(1500年以前)の集落である。ハナスク村遺跡は遺跡に隣接して御嶽があり、後世に聖地として祀られたと思われる。このような村は日本全国でみても八重山地域にしか残されていない。これらは現在の八重山離島に見られるような、条理状の整然とした集落とは全く様子が異なっており、内部に現在の御嶽に相当するような崇拝施設もないことから、従来の八重山の集落社会の背景の解釈に大幅な変更を迫る可能性があるとして近年注目を浴びている。いわゆる「倭寇」(東シナ海を舞台とする、倭人による私貿易)からの防御を図る集落であるという説や、倭寇が住み着いて形成した集落ではないのかという説すらあるが、いずれにしても八重山地域の人々の暮らし、集落の形態は沖縄本島とはまったく別のかたちで形成されていた可能性があると近年では考えられている。そして琉球王朝の征服によって、現地民の力を解体するためにこれらの村が廃村とされたのではないかとみられている。 なお、安里進によると、向象賢〜蔡温の改革、特に地割制度(1747)以降、沖縄の村落は自然発生的な集落形態(不井然型)から碁盤型形態へと変化し、現在みられるような村落の原型ができたと推測されている。また、八重山の村々は明和の大津波(1771)による壊滅的な被害や、その後の復興の際の大規模移民などで、村落の再編整備が行われている。「スク」村落から、2段階以上の変遷を経ていることになる。 こうして見てみると、波照間において「スク(シュク)」は、聖域となった琉球王朝支配以前の村跡を指す名称であり、「グスク」の一形態であるといえる。また、聖域とされるにあたっては、仲松の推測する御嶽の成立過程と同じような心理がはたらいたのだろう。つまり、いにしえの居住地や埋葬地に付帯する記憶が、世代間で伝承されるうちに抽象化され霊性を帯びて、その結果その場所が聖域として祀られるようになったということだ。そこに降臨したり常駐したりする神は、祖霊が個別の人格を喪失し統合されたものだ。そして、「スク」のいくつかは琉球王朝による支配後、シマの御嶽として機能することになったのだろう。
ところで、この「スク」「グスク」という言葉が「城」でないとするならば、その本来の意味は何であろうか。仲松弥秀(「うるまの島の古層」)は、「グスク」の「スク」は、上代の日本語「シキ(磯城)」の系統の言葉ではないかと推測している。「シキ」とは「神祗祭祀の設備、神祗を奉斎する境域を岩石で巡らせたもの」であり、石に囲まれた聖域を指す言葉だといわれている。この言葉は大和朝廷とも縁深く、奈良県磯城郡など地名にもなり、また大和の枕詞「磯城島(敷島)」にもなっている。つまり、「スク」という言葉自体が聖域を指す言葉であるということだ。また、伊波普猷は、グスクの「グ」は「御」であると解釈している。 一方、琉球諸島における常世信仰である「ニライ・カナイ」の別の呼び名として「ニーラスク・カーナスク」があるが、ここからの関連による推測もある。外間守善は、「スク」は日本古語の「そこい」と関係があるとしている。「そこい」は「至り極まるところ・際限・はて」という意味で、「ひ(辺)」は地理空間を表す接尾語である。一方「ニライ」は、「根」+地理空間を表す接尾語「ラ」+方位を表す「ヤ」「イ」であり、「根になる所」「根の国」を指し、「ニーラスク」は遠い祖先の原卿であるとする。 そして、「ニーラスク・カーナスク」から来訪する神々を祀る場所として「スク」という呼び名ができたとする考えである。ニライカナイについては、地域により海の彼方・海底・地底等その観念的所在はさまざまであるが、外間によれば、神々の出現が水平軸(海の彼方からの来訪)から垂直軸(天からの降臨)へ変化するに従ってスクは遠いところから、高低の「底」になったとしている。なお、西表島には雨乞いの聖地として「イミスク」があり、古宇利島の頂上には「アミスク」という聖域があるという。また、沖縄本島本部半島の「天底(アミスク)」も関連する地名であろう。
八重山では「底」の字がつく姓もよく見られる。例えば仲底、冨底といった姓であるが、これらの「底」は「スク」と関係があるのだろうか。沖縄本島に多い大城、玉城などといった姓の「城」(かつては姓の場合も「グスク」「スク」という読みをしていた)と同じニュアンスであるのか。興味深いところだ。また、貝敷、渡嘉敷といった姓の「敷」も関連があるのか、気になるところだ。
国立歴史民俗博物館篇 1999「村が語る沖縄の歴史」−歴博フォーラム「再発見・八重山の村」−の記録
(※)「伝マシュク村跡遺跡縄張図」の出典は沖縄県立博物館編 (1998)「波照間島総合調査報告書」p.155より。(著作権法第32条に基づく引用の範囲内と考えていますが、差障りのある場合はすみやかに削除します。)
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