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    波照間島あれこれ

    ぶりぶち公園一帯のはなし
    石碑やコンクリートのベンチが設置されている。

    旅行ガイドブックに載っている波照間の地図のいくつかに、島の北岸近く、「ぶりぶち公園」の位置を記しているものがあります。島の観光ポイントが少ないせいか、たいがいの人がこのぶりぶち公園をめざして自転車をこいでいくのですが、たいていみつからなかったりします。それはここがあまりに公園らしからぬ場所だからです。

    島一周道路を港の方から東へ進んでいき、朽ち果てた標識(注:現在はかなり判りやすい標識が出ている)がたつところで道を北に折れ、急坂を下って行くと、左手に小さな溜め池、右手に鬱蒼とした森があります。ここがぶりぶち公園です。この「公園」は沖縄の日本復帰直後、島の老人会によりとして整備されたもので、費用は寄付によって賄われたようです。が、現在は荒れ放題になっていて、亜熱帯の自然の侵食にまかされたままになっています。
    「ぶりぶち」とは「城跡」を指す方言であるといいます。(「はじまり」の意だとする説もききました。本当のところどうなのでしょう。旧暦6月に「ぶりぶち」という神行事があり、(詳細不明)それと関係があるのかもしれません。)

    勇気を出して(?)茂みをかきわけ公園の中に入っていくとちょっとした空間がひらけます。一応標石がたてられていますし、コンクリート造りのベンチがいくつか、森の中に点在しています。前方に崖があり、左手には崖の上に続く崩れかけた石段があります。よくみるとこの崖の上に人工的な石組みがあることがわかります。実はその石組みは城壁の一部です。実はこのぶりぶち公園は、「下田原グスク」と呼ばれる城跡なのです。そして少し海岸寄りに進むとそこは「下田原貝塚」「大泊浜貝塚」という八重山の歴史を解明する上で大きな意味を持つ史跡となっています。さらに、ぶりぶち公園の入り口にある池は戦前の一時期に採掘された「燐鉱山」の跡となっています。このようにこの一帯は一帯は島の歴史に大変ふかく係わっている地域なのです。

    1.下田原貝塚

    大泊浜貝塚近辺。奥に見える森は下田原城跡(ぶりぶち公園)
    沖縄の歴史を扱う際、明治以前は別の国でしたから日本の歴史区分をそのまま当てはめるのは不適当で、考古学における時代区分もまた日本と異なっています。とくに、縄文・弥生時代が沖縄にはなかったことは注意すべき点でしょう。それは沖縄に縄文土器、弥生土器がないことを意味しています。

    縄文時代から平安時代後期にあたる時期は、沖縄本島地方では「沖縄貝塚時代」先島地方(宮古・八重山)では「先島石器時代」と呼ばれています。それ以降15世紀初め頃までは「グスク時代」とよばれます。
    現在「沖縄貝塚時代」に関しては縄文、弥生文化との関連が解明されつつありますが、一方で「先島石器時代」については南方系文化であることが明確になってきています。この南方系文化解明の発端となったのが波照間島の北部、「ぶりぶち公園」近辺にある「下田原貝塚」です。

    下田原貝塚は、ぶりぶち公園前の道を更に北海岸のほうに下っていった左手のほうにあります。発掘当初は14世紀頃のものと考えられていましたが、現在では約3700年前、紀元前1800年の遺跡と推定されています。
    貝塚の東側の大泊浜は船の接岸に便利な地形で、かつては港であったといわれています。そして、この一体は湧水が得られる数少ない場所でもあります。(地形と地質の項参照)こういった恵まれた立地条件により波照間に辿り着いた人々はここで暮し始めたと思われます。

    この貝塚からは多数の石器、土器、貝器、猪骨が出土しました。イノシシの骨、石器の材料の石は西表島から運び込まれたもので、海を挟んだ西表との交流がさかんだったことをうかがわせます。そして、発掘品の中でもここで発掘されたゆるやかな丸底の土器は「下田原式土器」と呼ばれる先島(宮古・八重山)最古の土器で、その後の宮古・八重山の土器の祖型とされています。
    この土器の系統は八重山より北の文化には見られず、一方で、台湾先史時代の土器と類似していることから、何らかの関連が推測されています。(台湾製の格子状押型紋土器のかけらも出土しています。)
    また石の斧はルソン島以南に分布するインドネシア系文化で使われていたものとよく類似していることが指摘されています。

    「下田原貝塚」を発掘調査した金関丈夫は出土品、特に石斧から、かつて波照間をはじめとする八重山一体にインドネシア系の漁労耨耕(じょくこう。掘り棒を使う農耕)文化が広がっていたと結論し、1954年、新聞紙上で発表します。これを機に、言語学者を巻き込んで琉球文化の「起源論争」が沸き起こりました。(「はてるま語源論争」の項参照)

    現在ではオセアニア、メラネシア文化の痕跡も確認され、先島石器文化が南方系であったことは確定しているが、それがどのように伝わり、また金関氏が主張したように北上して本土まで伝わっていたのかどうかはいまだ解明できていません。そして下田原貝塚のところに住んでいた人々が現在の島民の直接の祖先にあたるのか、全く別の民族が一時期暮していたのかも不明ですが、この「下田原式土器」をもたらした人たちの文化は紀元前はじめころには先島から消滅したと考えられています。

    その後しばらく人々が暮した痕跡は見つかっていません。3世紀ころに、今度は土器を持たない南方系の文化が流入し、その後の先島文化の基層になったとみられています。シャコ貝を食器として使い、焼き石調理法を使うなど、やはり南方系の要素が色濃いものです。下田原貝塚の東側には「大泊浜貝塚」が隣接しています。この貝塚がその、無土器時代の遺跡にあたり、4世紀〜12世紀にかけての遺跡と推測されています。

    2.下田原グスク

    森の中に城跡の石垣が続いている。
    12世紀末になると、農耕社会の発達と、中国を中心とした海外交流の活発化により、指導者層が現れ、先島地方に群雄割拠の時代が到来します。琉球王朝による記録では、八重山は14世紀末に、宮古と共に琉球中山王朝に服属朝貢したとされていますが、現実的には交易関係を結んだ程度のものでした。

    15世紀には西表島租内の慶来慶田城用緒、石垣島川平の仲間満慶山英極、大浜のオヤケ=アカハチ、石垣の長田大主、波照間の明宇底獅子嘉殿、与那国のサンアイ=イソバなど、各島、地域に群雄が割拠、勢力を競いあう状態となります。(オヤケ=アカハチ、長田大主とも波照間出身)
    一方で沖縄本島では統一国家琉球王朝が完成し、海外貿易のルートを手中におさめるため先島に進出、1500年、先島での覇権を狙っていたオヤケ=アカハチの乱平定により、八重山は琉球王国下におかれることとなります。

    「下田原グスク」をはじめとして島内は、この群雄割拠時代(13世紀から15世紀)のものと推定される遺跡が点在しています。下田原グスクは波照間北側の大泊浜近く、標高25mの丘陵上に位置しています。「グスク」とは沖縄で城跡のことをさす言葉です「ぶりぶち公園」の崖の上がまさにその城跡にあたります。城は崖を利用し、琉球石灰岩の野積みの石塁によって大小8つの郭を有する、東西150m、南北100mの城跡となっており、もっとも標高の高い所に遠見台が、また「兵器庫」であると伝えられる石室、井戸跡などが残っています。
    築城年、築城者は不明ですが、15〜16世紀の中国製の青磁のかけらが出土していることからその時期に築城されたものと推定されています。
    なお、ここの断崖下には多数の崖葬が見られます。年代等詳細は不明だが、少なくとも第2次大戦以前のものであるということです。

    下田原城跡は、沖縄の他の城跡にくらべ、戦災や破壊を受けずにきわめて良好な状態にあり、「琉球王国の歴史上重要な時期の様相を明らかにする上で貴重な遺跡である」として、2003年4月に、竹富町では初の国指定文化財に指定されました。今後2年ほどをかけて、竹富町委員会等により整備がなされるそうです。

    ここから東寄り250mの海岸ぞいには「マシュク村遺跡」があります。「タカフク」と呼ばれる石積みが100m以上にわたって続き、石積みは高い所で2〜3mになるといいます。下田原グスクと同じく大小の郭に区切られていますが、その規模は下田原グスクよりも大きいものとなっており、東西300m、南北150mの範囲にわたるものとみられています。

    3.波照間島の燐鉱山

    坑道の入口
    坑道の入口が残っており、湧水源となっている。
    時代は大きく戻ります。波照間では戦前の一時期、2箇所で燐の採掘が行われていました。
    東北部の鉱山は、港から製糖工場のほうに抜ける道の途中、一周道路との交差点の辺りにあったそうです。西北部の鉱山の跡は今でも見ることができます。「ぶりぶち公園」の入り口にある池に気付く人は結構多いでしょうが、その池の水が湧き出している崖を注意して見ている人は少ないのではないでしょうか。そこには半分以上を石積みで隠しているものの、ぽっかりと開いた坑道の入り口があります。

    波照間で燐鉱山が発見されたのは1921年頃で、1933年から本格的な採掘事業が始まりました。島の東北部と西北部で2つの会社が採掘を行い、肥料や薬品製造の原料として尼崎方面に出荷されたそうです。採掘は1939年頃には最盛期を迎え、島内外から集まった200名ほどの作業員が働いていました。そして島はにわか景気に沸いた、といいます。
    しかし、太平洋戦争が始まって輸送手段が無くなると、採掘は中止に追い込まれ、1943年には採掘会社は廃業。採掘された鉱石の半分は放置されたまま会社は引き揚げてしまいました。残った鉱石は島の道路に砂利として敷かれ、雨が降る度、その養分が土壌に溶け出し、農地の土壌を豊かにしたそうです。
    八重山に行くと、よく、波照間産の黒糖が八重山で一番美味しいと聞きますが、訳はサトウキビが育つ島の土壌にあるといいます。波照間は島全体の土壌に燐の成分が含まれているため、養分が豊富であるというのです。それはおそらくこのことを指していたのだと思われます。
    ぶりぶち公園の鉱山跡の湧水は島の簡易水道の水源としても使われていたようです。現在では波照間製糖の管轄下に置かれているということで、製糖工場の作業に使われているようです。

    このように、「ぶりぶち公園」一帯は4000年の昔から現在に至るまで、島の歴史に深く係わり続けている地域なのです。

    参考文献:
    沖縄県立博物館編 1998「波照間島総合調査報告書」沖縄県立博物館
    沖縄県教育委員会編 1994「グスク分布調査報告書III-八重山諸島-」
    名嘉正八郎著 1996 「図説 沖縄の城」那覇出版社
    新川明著 1978「新南島風土記」大和書房
    安里進著 1990「考古学からみた琉球史・上」ひるぎ社
    沖縄タイムス社編 1983「沖縄大百科事典 上・中・下巻」 沖縄タイムス社
    新城俊昭著 1994 「高等学校 琉球・沖縄史」沖縄県歴史教育研究会

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