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◇行って参ります
 BGM : Samba Goal Powered by R 10 / V.A.




 きのう書いた某誌コラムの件、誰が書いたものかは知らないが出来がひどく悪いものが1本あったとかで、結局、私の原稿がその代わりに掲載されることになった。なんだかなぁ。あらためて手を入れた原稿を送り直したりして、バタバタしている出国前夜である。これから日韓戦も見なきゃいけないし。ともあれ明日29日から8月7日まで日本を離れます。携帯の電話とメールは、通常どおり使用可能。PCメールのほうはホテルのビジネスセンターがまともに機能していれば送受信できるはずですが、まあ、行ってみないとわかりません。帰国したときに総理大臣と代表監督が交代してたら笑うなぁ。それでは。

記・平成十九年七月二十八日(土)







◇厄日
 BGM : 僕の中の少年/山下達郎




 その1。へろへろになりながら某誌の対談原稿を書き上げて朝5時に床についた数時間後に、けたたましいドリルの音で叩き起こされた。猛烈に不機嫌な精神状態で外に出てみると、うちのクルマを置いている集合住宅の駐車場で工事が始まっている。そんな話、聞いてないぞ。うるさいだけでなく、うちのクルマの周囲にトラックやら資材やら道具やらが無秩序に置かれていて、迷惑なこと甚だしい。猛烈に不機嫌な精神状態を維持したまま管理会社に電話で問い合わせたところ、新たに駐輪場を作るというので、これだけの騒音をたてる工事を始めるなら事前に説明なり連絡なりしとかんかボケ!と罵っておいた。ああそうだよ俺はクレーマー体質なんだよ。

 その2。きょうは出張の準備などするので仕事場に戻らなくても済むよう、ゆうべ慎重にチェックして必要なものは全て家に持ち帰ったつもりだったのに、忘れ物があることに気づいた。税務署から確定申告に修正が必要だとの連絡があり、そのために申告書の控えを確認しなければいけなかったのだが、それが自宅にあると思い込んでいたのだ。しかし無いので、汗をかきかき仕事場へ。控えはすぐに見つかり、たしかに定率減税額の計算にミスがあったので(こんなことは17年間で初めてだ)税務署に電話して修正申告書はどのように入手するのかと問い合わせたところ、「こちらで数字を修正したものを作成してお送りしますので、ご捺印の上ご返送ください」とのこと。えーと、それって、どう考えても、ひと手間多くないでしょうか。だったら最初から修正した申告書を送ってくれれば一発で片づくし、私も仕事場に戻らなくて済んだはずである。しかし、そのことは電話を切ってから気づいたので、クレームはつけなかった。まあ、ミスしたのはこっちだしな。しかも提出期限より2ヶ月遅れで。

 その3。某誌編集部から電話。出張前のクソ忙しい中で無理やり時間を作って、無い知恵を絞りながら必死で原稿を書いて2日前に編集部に送った短い単発コラムが、ページ数が減ったために掲載できなくなってしまいました本当にゴメンナサイ!とのこと。複数の筆者による同一テーマのコラム集のような企画で、事前にラインナップを聞いたら私以外は名だたるコラムニストや文化人ばかりだったので、その中の誰かひとりが泣かなければいけないとしたら、そりゃあ、誰がどう考えたって深川クンですわなぁ。担当者も、「深川さんがいちばんお願いしやすいものでスミマセン」と正直なことを言っていた。まあ、本当は原稿がつまらなかったからボツにされたのかもしれないし、何かと世話になっている編集部なので(原稿料はくれるというし)文句も言わずに電話を切ったが、もっともネームバリューが低いという自覚がある分、ほかの誰よりも指に魂込めましたという自負心があるだけに、ものすごく虚しい。ほかの筆者だったら電話1本で済ませられるか?とも思ってしまうしなぁ。実は泣き寝入り体質でもある自分が、ちょっと情けない。「掲載されないのならば原稿料なんか要らん!」と大見得を切れなかった自分は、もっと情けない。ま、いずれ幻のコラムとしてここに掲載することにしますか。

 と、これだけのことが目覚めてからわずか3時間のうちに起きたのだから、これを厄日と言わずに何が厄日かという話だ。出張前に怪我とかしないよう、せいぜい気をつけることにする。

記・平成十九年七月二十七日(金)







◇空飛ぶライター
 BGM : The Traveling Wilburys Vol. 1




 米国の運輸当局が、ライターの機内持ち込みを認めるとの報。久しぶりのグッドニュースだ。これで私も自分の職業を隠すことなく、堂々とアメリカ経由でブラジルに行ける。うんうん、違いますね。ライターじゃなくてライターの話である。

 あれは去年、ブラインドサッカー世界選手権に出場する日本代表チームの同行取材をするために、ダラス経由ブエノスアイレス行きのアメリカン航空に搭乗しようとしたときのことだ。うっかりポケットにライターを入れたまま成田まで行ってしまい、しかもそれは使い捨てライター(最も嫌いな日本語かも)ではなく、誕生日に愚妻からプレゼントされたジッポだったので没収されるわけにはいかず、えらく慌てたのだった。咄嗟の判断で、選手団を見送りに来ていた協会のIさんにジッポを預け、「その代わりに僕の魂を持っていって一生懸命に応援してください!」と感動的なことを言うIさんと力強く握手を交わしたりもしたのだが、あとで考えてみたらIさんは全盲なのであり、いくら他に知り合いがいなかったとはいえ、目の見えない人にそんなもん預けたら、管理が面倒臭くて負担をかけてしまうじゃないか!と、深く反省したものである。という話を別の全盲の人にしたら、視覚障害者は日頃から身の回りの品を紛失しないよう整理整頓を心掛けているので「かえって安心なんじゃないですか」と言われた(実際、選手たちが練習後に着替えたりするのを見ていると、彼らの「置き場所記憶力」には感心させられることが多いのだ)し、先日あるところで偶然Iさんに再会したら「あれから引っ越しをしたにもかかわらず、ちゃんとありますよ(笑)」とのことだったのはサスガだが、とにかく申し訳ないことだ。

 しかし今回は持っていけるのでそういう事態にはならないし、向こうで空港から出るやいなや狂ったように火を求めて右往左往することもないわけだ……と思ったら、実施は8月4日からでやんの。くっそー。出発は29日なのに。でも、帰りは8月5日だから持ち込めるはずだ。ブエノスアイレスでは土産物屋でチェ・ゲバラやマラドーナの顔をあしらったカッコいいジッポを見つけたのに買うことができず残念な思いをしたが、今回は空港のアメリカ人が「これは嫌味のつもりか?」と思うぐらい山ほど買って機内に持ち込んでやる。どんなジッポがあるかなぁ。ブラジルの英雄って誰だ。ペレか。ペレかよ〜。要らねえよ〜。ちなみにジーコはもっと要りません。「ZICO」と「ZIPPO」はちょっと似てるけどね。それよりアレだな、リバウドのジッポがあったら笑うよな。ないかな。ないよな。てっきりリバウドだと思って買ったら、じつはモアイだったりしてな。それもないよな。イースター島はブラジル領じゃなくてチリ領だしな。

 グループリーグから日本戦はすべて観ているが、アジアカップはいつだって面白い。きわめて扇情的で、皮膚感覚にじゅくじゅくと訴えるものがある。じゅくじゅく、じゅくじゅく。見る者に劣情を催させてこそのサッカーだ。もしかしたら、私はあらゆるサッカーイベントの中でアジアカップがいちばん好きかもしれない。なにしろ、そこではヨシカツのスパークが約束されている。ゆうべのオーストラリア戦、PK戦に突入したときに彼が見せたあの嬉しそうな顔をキミは見たか。私は見た。待ってましたと言わんばかりだった。変わった人だ。

記・平成十九年七月二十二日(日)







◇反抗しない子供と、旅立つ子供
 BGM : Lisa Ekdahl Sings Salvadore Poe




 ひとりで4大学の73学部・学科に(そのうち5つを除いてはハナから入学するつもりもないのに)合格して高校の実績水増しに貢献しやがった受験生が大阪にいるという報道で、多くの私立大学に、センター試験の結果だけで合否を判定する制度があるということを初めて知った。つまり、センター試験当日に体調不良とかで実力を発揮できなかった者は、それ一発だけで多くのチャンスを奪われるってことなのか? で、高校側が負担した受験料総額が約140万円ということは、ひょっとして、大学側は自前で試験問題も作らず、試験監督やら会場設営やら何やらのコストもかからないのに、ただ願書を受けつけて合否判定するだけで平均2万円弱の受験料を取るってことなわけですか? いろいろな意味で不愉快な話だ。

 しかしいちばん不愉快なのは、たかが5万円と腕時計という褒美で、学校という体制側にベッタリ協力していやがるその受験生(いまは大学生か)の性根である。反抗心ってものがないのかおまえには。だって、自分の能力が教師や学校の点数稼ぎに利用されてるんですぜ。悔しくないのかよそれ。恩返しでもしてるつもりなのかもしれんが、だったら腕時計なんか受け取ってんじゃないっつう話だ。どうせ、本人もその親も、もらった腕時計を眺めて「おれ(の遺伝子)って優秀だよな」とニタニタしてるに違いない。なるほどそうか、このニュースは「腕時計」というアイテムが不愉快度を余計に高めているのだな。そこに関係者全員のセンスの悪さが集約されているような気がする。週刊誌の人たちには、その腕時計がどこのブランドだったのかを突き止めてもらいたいところだ。しかしまあ、高校の教師から受験指導のようなものをされた記憶がなく、勝手に勉強して勝手に合格した私には想像がつかないが(当時の都立高校なんてみんなそんな感じだったと思う)、今はこんなことが起きるぐらい、学校と生徒が仲良くタッグを組んで受験ってものに立ち向かっているということなのかもしれない。気色悪いなぁ。

 小学校は今日から夏休み。セガレは朝からボールやらシューズやらユニフォームやらがぎっしり詰まった重た〜いスポーツバッグをえっちらおっちら抱えて、サッカーの合宿に旅立って行った。4年生から参加することになっており、初めてのことにコーフンしたセガレは、10日ぐらい前から荷造りを始めていた。海外留学でもするつもりかっていう勢いだ。もっとも、初めて何日も親元を離れる本人にとっては、それぐらい遠くて長い旅なのだろう。実際は、山中湖畔で3泊4日。どうやらGKとしての別メニュー練習もすることになっているらしい。右に左に横っ飛びさせられたりするんだろうか。肘とか膝とか傷だらけになって、日焼けして、さらにはちょっと痩せて帰ってくればよろし。

記・平成十九年七月二十一日(土)







◇捏造・アマゾン・無線LAN
 BGM : Cruel And Gentle Things / Charlie Sexton




 中国の段ボール肉まん報道は北京のテレビ局の捏造との報道。かの国のマスコミにも「自虐」ができると知って、妙に感心してみたり。しかし考えてみれば、肉まん捏造報道が捏造だとする報道も捏造かもしれず、いちいち気にするだけアホらしい。捏造のマトリョーシカ。めまいがする。というか、国そのものが捏造?

 サンパウロの空港で大事故発生。国内線専用の空港だとはいえ、10日後に現地へ行く者にとっては心臓に悪いニュースである。が、もっと心臓に悪いのは、かの国ではアマゾン上空の衝突事故も起きたことがあるという話。その上空だけは勘弁してほしい。アマゾンって、グーグルアースで見ただけでもかなり絶望的な気分になる。「アマゾンをグーグルで見る」って、なんかアレですけども。

 神保町方面の2社から、ゴーストした新書と文庫の見本がほぼ同時に届いた。かたや3部、かたや5部。こうして、読みもしない本(だって書いたから)が家の中にどんどん溜まっていく。これからは、1部だけでいいです、と、あらかじめ伝えるようにしよう。ところで、出来上がった本が届くのはいつも嬉しいものだが、新書は装丁を目にしたときの意外性や新鮮さがなくてちょっとつまらない感じ。

 自宅でMacBookをゴニョゴニョいじっていたら、何かの拍子に、どうしたわけか無線でネットに接続してしまっていてキモチ悪かった。無線LANのことはさっぱり理解できていないが、どうやら近所で使っている人の電波(電波なんだよな?)にうっかりタダ乗りしてしまったらしい。パスワードとか必要ないわけ? なんでそんな脇の甘いことになってるんだ? つながるとわかってしまったら、その誘惑に抗うのは大変じゃないか。いや、つながないよ。つながないけどさ。

 サンパウロで開催される視覚障害者スポーツ国際大会の試合日程が判明した。サッカー日本代表(B1=全盲)は、ブラジル(8/1)、スペイン(8/2)、アルゼンチン(8/3)の順で対戦。こうして国名を並べただけでも、わくわくしますね。総当たりのリーグ戦を終えたあと、8月5日に1位と2位が決勝、3位と4位が3位決定戦を行うようだ。昨年ブエノスアイレスで知った世界のスーパースターたちが、あれから半年経ってどんなことになっているのか楽しみ。一方、B2/B3(弱視)カテゴリーのほうは、ブラジル、スペイン、ウクライナ、ベラルーシが参加する模様。そちらもできれば観戦したいものである。

 海外出張があることを知ってか知らずか、その前に片づけるべき細かい仕事が次から次へと飛び込んでくる。どう考えても日程的な不可能な仕事もあり、断ってしまって申し訳ないことだが、ヤケクソにも限界があるのです。すみません。

記・平成十九年七月二十日(金)







◇幸福の黄色い半可通(意味不明)
 BGM : In My Own Time / Karen Dalton




 昨夜は一家三人で池袋の東京芸術劇場へ。読売日響の第462回定期演奏会である。家庭内に(というか世間に)のだめブームが巻き起こっていた数ヶ月前、セガレに生のオーケストラを聴かせてやろうということで、愚妻が予約したのだった。演目は、(1)ストラヴィンスキー「サーカス・ポルカ」、(2)ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、(3)ストラヴィンスキー「春の祭典」。しっかりブームを反映している。のだめの影響でにわかファン(おれたちのことだ)が増え、コンサート会場で顰蹙を買っているという話は聞いていたのでどんなもんかと思っていたのだが、とくに大きな問題はなかった。にわかファンに目くじらを立てる半可通にかぎって「ブラボー」の先陣争いに血道を上げていたりするから、どっちもどっちだと思うけどね。しかし一人だけ許し難い客がいて、それは私の隣に座っていた若い男だ。ピアノ協奏曲の演奏中にプログラムの小冊子を熟読していやがって、ときおり「カサッ……カサッ」と音を立ててページをめくりやがるので、ブッ飛ばしてやろうかと思いました。演奏してんだからちゃんと聴けよこの野郎。と、思いっきり目くじらを立てている半可通の私だった。

 指揮はパオロ・カリニャーニという人、ピアノは辻井伸行という全盲の19歳。べつにブラインドサッカーがらみでこの公演を選んだわけではないが、まあ、そっち方面に縁があるといえば縁がある昨今だ。晴眼者のピアニストと違うのは、演奏前に鍵盤全体を手で触って確認していたことと、指揮者とのアイコンタクトが当たり前だが一切ないことぐらいだろうか。すばらしい演奏だったが、あれはホールのせいなのか、オケの演奏能力のせいなのか、私たちが三階席だったせいなのか、あるいは私の耳が悪いせいなのか知らないが、全体に音響がこもりがちで、トゥッティ(トッティじゃねえぞ)になるとピアノの音がまったく聞こえないのが残念。そのせいもあって、アンコールで弾いたソロ曲のほうが印象的だった。当然それはプログラムに載っていないので何の曲かわからなかったのだが、なんとなく「これってドビュッシーじゃね?」と感じ、「そういえばドビュッシーに『映像』という曲があったはずだが、それはこんな感じかも」などと思いながら聴いていたところ、終演後のロビーにアンコールの曲名が掲示されており、それは本当にドビュッシーの「映像」(第一集・水に映る影)だったのだから、私の直観もまんざら捨てたものではないという話である。なぜこの直観が競馬にハマっていた頃に発揮されなかったのか不思議でしょうがない。ともあれ、生まれつき全盲の音楽家が「映像」という曲をどんなイメージで演奏しているのか聞いてみたいところだ。

 「春の祭典」は私の兄が高校時代から異常に偏愛していた曲で、私もその影響でちょうどセガレぐらいの年齢の頃から何度も何度も聴いていたのだが、ライブで聴くのは初めての経験。生で見ていると、木管の人たちに相当な緊張を強いる曲なのだということがひしひしと伝わってくる。クラリネットの高音が調子っぱずれだったからそう感じただけかもしれないけど。あれはいくら何でも許容範囲を逸脱していた。しかし全体的には、楽曲に対する敬意の感じられる実直な好演だったとおもう。セガレの感想は「これ、鼻歌で歌えるところのない曲だね」だった。わりと的を射ている。おれは歌うけども。

記・平成十九年七月十八日(水)







◇時速250キロの孤独
 BGM : OK Computer / Radiohead




 土曜日は日帰りで神戸出張。帰途、西明石18時14分発のひかり号に乗ったら、16号車(喫煙車)の乗客は新大阪まで私ひとりだった。

 無人の車両は、かなりSFホラーな感じ。車内アナウンスで「本日は15両編成で運行しております」なんて言われたらどうしようかと思いました。妖怪列車なのかそれは。こんなチャンスは滅多にないので思わず写真を撮ったものの、片隅に誰か写ってたりしなくてヨカッタ。座席は無人なのに窓ガラスには30人ぐらい映ってるとかね。怖いよう怖いよう。それにしても、あれほど寒々しい気持ちになることも珍しいと思う。現代文明の冷たさというものをひしひしと感じた。核シェルターに取り残されるのって、あんな感じかもしれない。「人類最後のひとり」には絶対になりたくないと思いながら、もさもさとステーキ弁当を食った夜だった。

記・平成十九年七月十六日(月)







◇禁欲と物欲
 BGM : Simple Soul / Eddi Reader




 ここへの引っ越しを機に、アクセス解析ってやつをやめた。もう、アクセス数もリンク元もアクセス者のリモートホストも使用ブラウザーも、何もかもさっぱり判らない。かなり不安だ。しかしアクセス解析をしていると、本来は不特定多数に向けて書いているはずなのに、現実には(悲しいことに)特定少数の読み手しか存在しないことがわかってしまい、なにか閉鎖的なサークルの中で活動しているような気分になる。すると無意識のうちに、実態があるのかないのかも判然としない「内輪」にだけ届きそうな射程距離の短い言葉を連ねてしまう可能性が高く、しかし読み手のほうは「不特定多数のひとり」として読んでいる(外から覗き見している)わけなので、そのコミュニケーションにはある種の断絶が生じているのではないか。というようなことを、以前から感じていたのだった。

 そういえば、アクセス解析のおかげで厚生労働省や文部科学省の人がアクセスしていることがわかったとき、厚生労働省や文部科学省の悪口を手加減して書いたり(逆に必要以上に挑発的に書いたり)した記憶もある。そんな言葉は、届くべきところに届かない。振り返ってみると、アクセス解析も掲示板も何もない状態で書いていた頃のほうが、飛距離を出すためにドライバーを振り回し、言葉を強打していたような気もする。なので今後はアクセス解析もせず、掲示板も復活させず、もちろんブログ的なコメント欄やらトラックバック機能やらもない、スタンドアローンな日誌としてやっていくことにした。まったくインターネット的ではないやり方だが、ちょっと世の中つながりたがりすぎているような気がしなくもないし、この孤立無援に耐えてこそ、筆力は鍛えられるはずぢゃ。べつに読者のみなさんを突き放しているわけではないので、メールにはちゃんと返事を書きますけども。

 と、ストイックな態度を見せているわりに、物欲のほうは旺盛な今日この頃である。iPod nanoや仕事机を購入したことはすでに書いたが、きのうはamazonからブラザーのレーザープリンタHL-2040が届いた。いままでプリンタがなかったわけではないが、それはMac OSXで使用することができないため、昔のMacをプリントアウト専用機として書庫の隅に置き、いちいちMOに落としてからそっちに持っていってプリントアウトする、というきわめて面倒臭いことをしていたのだ。しかもそちらは使えるソフトが限られているので、メールで自宅に送ってプリントアウトしなければいけないケースも多かった。「もうプリントアウトなんていうダサい作業は近いうちになくなるに違いない」と思って我慢していたのだが、どうもそういうことにはなりそうもない。だいたい、紙の本を作っている人間がそんな未来予測をしてどうするのだ。というわけで、買った。いまどきプリンタを買って「便利だ」などと感動するのもどうかと思うが、すごく便利。

 先日は、オリンパスのデジタル一眼レフカメラE- 410(ダブルズームキット)も買ってしまった。いままでデジタルカメラがなかったわけではないが、コンパクトデジカメでは、スポーツの写真を思い通りのタイミングで撮るのは不可能である。それを去年のアルゼンチン取材(ブラインドサッカー世界選手権)で学習したので、こんどのブラジル取材用に購入したのだ。アルゼンチンのときは自分の資料として撮るだけのつもりだったのだが、帰ってきたら雑誌にそれが掲載されることになってしまい、そういうことだったら、やっぱ一眼レフぐらい持ってないとイカンでしょう。だって、仕事なんだから。と、誰に向かって何を懸命に言い訳しているのかよくわからないが、E- 410は軽いのがいい。でも、写真は難しいよな。練習しようと思って、このあいだセガレのサッカーを撮りに行ったら、結局シャッターチャンス逃しまくりだ。明日、代表合宿の取材で神戸に行くので、もっと腕を磨かなければ。台風が来てるみたいだけど、大丈夫だろうか。雨の中での撮影には、どんな装備が必要なんだろう。またヨドバシに行ってグッズを物色したほうがいいだろうか、どうだろうか。

記・平成十九年七月十三日(金)







◇すべての文辞はセカイの埋め草である、のか?
 BGM : Dreams Come True / Judee Sill




 今日から、こちらで日誌を書くことにした。もう、いくら何でも「愛と幻想のフットボール」という旧来のタイトルでは内容との乖離が甚だしすぎて、うっかりサッカーサイトだと思い込んだサッカーファンには「なんだコイツ」と舌打ちされかねないし、てっきりサッカーサイトだと思い込んだ非サッカーファンにはスルーされかねないと思い、ちょうど欧州サッカーの06-07シーズンも終わったので、看板を掛け替えてみたのである。……と、表向きの理屈はそういうことであるが、ほんとうのことをいえば、要するに飽きたのだった。だから「倦埋草」だ。「うみうめぐさ」と読む。ヘンな言葉だ。倦んじゃったならやめりゃいいじゃねえか、などという浅薄な正論を吐いてはいけない。40歳を過ぎた人間には、飽きた途端に放り出せるものと、飽きてもなお放り出せないものがあるのだよ山田君。

 だいたい私の場合、手がけている埋め草は日誌だけではない。仕事で書く原稿はすべて埋め草だ、というのはちょっと過言だが、少なくともゴーストライターとしての私が書く原稿は私にとって埋め草である。この17年間、200ページのスペースをいかに手早く埋めるかということばかり考えてきた。いい加減、飽き飽きする。仕事に飽きるというより、自分が書いている文章そのものに飽きるのだ。異なる著者が異なるテーマで口述したものを文章化しているのに、いつも「オレってばまたこんなこと書いてやんの」と既視感にとらわれるのはなぜかといえば、「手癖」で書くのがいちばん手っ取り早いからである。地面の穴を次々と盛り土で埋めていくときに、いちいち新しい手法を考える奴はいない。穴の形や深さや土の質はそれぞれ違うが、基本的な埋め方は同じである。手に馴染んだスコップを握り、フォームやリズムを崩さずに、土を穴に放り込んでいく。読者が目にするのは穴の形や土の質だが、私にとってはそのスコップやフォームやリズムこそが私の文章だったりするわけで、そりゃあどうしたって飽きるよ。しかし今さらスコップを放り出すわけにはいかないのだし、人間、何事も倦んでからが勝負だ。判ったような判らんような話だが、まあ、そういうことなのである。

 で、倦怠感を克服する上で有効なのが模様替えだ。このサイトのリフォームもそうだが、その前に、仕事用の机を買い替え、それに伴って部屋のレイアウトを変更した。これまでの机は高さ70センチで、人並み以上に座高の高い私には低すぎて頬杖もつけないほどだったし、両脇に引き出しがついているので足元が狭く、しかも脚を前に投げ出すこともできない構造だったのだ。したがって「あー、脚を伸ばしてー」という欲求を満たすだけのために机を離れてソファに寝そべることもしばしばで、これは大変に仕事の進行を阻害する。なので、高さ77センチのテーブルを買った。天板と脚だけのシンプルな構造。もう頬杖をつける。頬杖をふつうにつけることが、こんなにも幸福だとは思わなかった。足元に低い台を置けば、あれは何というのか、よくプールサイドとかにあるアレに座っているようなリラックスした姿勢で原稿を書くこともできる。17年間もあんなに窮屈な机で我慢していたことがバカバカしくなるほど楽。芝生にたとえるなら、たぶん、ハノイのミーディン競技場とウェンブリーぐらい違うと思う。ウェンブリーには穴も盛り土もないけどね。それはさすがにハノイにもないが、ともかく1万数千円の投資でこんなに労働環境が改善されるなら、もっと早くやっときゃよかった。

 というようなことで、ご覧のとおり、フィールドは変わっても中身は何も変わらないわけですが、これからもよろしく。これまでと違って、最新の日誌は常に同じファイル名(umiume.html)で更新していく予定なので、ブックマークには(扉ではなく)このページを登録するのがよろしいかと存じます。では。


記・平成十九年七月十二日(木)



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