3月の日誌

扉(目次)

深川全仕事

大量点計画

江戸川時代

メ ー ル

平成二十年四月三十日(水)  85.0 kg


プロジェクトB
BGM : Live at Olympia / Jimi Hendrix


 発売中の「小説すばる」5月号に掲載されている、川端裕人『スタジアムは宇宙船〜もう一つの「銀河ワールドカップ」〜』という短編は、ブラインドサッカーを素材にした小説である。JBFA関係者がご親切にも教えてくれたので読んでみた。「小説すばる」を買ったのは初めてかも。編集長の名前に見覚えがあり、どこかで名刺交換したような記憶がなくもないのだが、それがどこだったか思い出せない。銀座かな。まあいいや。そんなことはともかくとして、同じ素材でノンフィクションを書いている最中の私にとって、これを「小説」として読むのはとても難しい。「北京へGO!! スポーツ小説特集」という(いささか脳天気なタイトルの)特集に寄せられた一編でありながら、「スポーツ小説」というよりもむしろ「SF小説」のような中身になっているので、なおさらどう読めばいいのかわからないのである。SFに向かって「このプレイは無理でしょ」とか突っ込んでも馬鹿だしなぁ。とはいえ、リアリティがないというわけでは決してなく、以前にもブラインドサッカー物をお書きになったことがあるという作者が、けっこう丁寧に取材しているのであろうことはよくわかる。ドリブルで相手を抜く際に「ほんの一瞬、足首にやわらかく乗せて動かすことで、ボールの音を消す」なんていう高等テクニックがあることを知っている日本人の物書きは私だけだと思っていたので、ちょっぴり悔しい。それを想像力だけで思いついたのだとしたら、もっと悔しい。ともあれ、「小説」として読むことができない私には何の感想も書けないので、ブラインドサッカーを知らない読者の感想を聞いてみたいところではありますな。

 それにしてもノンフィクションである。ふだんゴーストライターとして書いている本や自分の前著やコラムなども「フィクションではない」という意味ではノンフィクションではあるものの、こういう狭義のノンフィクション作品に取り組むのは初めてのことなので、書いていてとても神経が疲れるのだった。子供の頃から物書き志向があったとはいえ、いわゆる「ノンフィクション作家」とか「ルポライター」的なものになりたいという野心はこれっぽっちも持ったことがなかった(これを書き上げたとしても自分が「ノンフィクション作家」になるとは思えない)ので、なんだか奇妙な気分だ。ときどき「おれ何やってんだ?」と自問自答したりもする。成り行き任せで暮らしていると、いろいろと思いがけないことが起こるものである。それは刺激があって面白いからいいんだけれども、こういう三人称のノンフィクション原稿をシリアスなタッチで書いているときに、どういうわけか頭の中でNHK「プロジェクトX」における田口トモロヲのナレーションが幻聴されてしまうのは私だけだろうか。これ、文体がこじれるので何とかしてほしい。あっち行けよトモロヲ!







平成二十年四月二十八日(月)  86.0 kg


衆院の早期解散で国民審査闘争を
BGM : The Jimi Hendrix Experience(Disc 4)



 金曜の晩は、某新書の打ち上げで、久しぶりに他人のお金で痛飲。取材の緊張感がないので、べろんべろんになってしまった。べろんべろんはアタマ痛いが楽しい。しかし私はどんなにべろんべろんになってもちゃんと記憶はあるのであって、ややこしい話も覚えている。法曹関係に詳しい編集者に聞いた話だ。裁判員制度が導入されるのは第一審だけだとはいえ、第二審でそれを覆そうとする裁判官は、裁判員制度の導入に積極的な最高裁によって「人事上の制裁」を受ける恐れがあるため、裁判員のシロート判断がそのまま生きるようになる可能性があるというのである。なるほど。すでに光市の件でも俗情に迎合した判断を最高裁がしていることを見れば、それも頷けるところだ。

 しかしその一方で、最高裁が裁判員制度の導入に積極的なのは、裁判への国民参加という政治の流れに抗しきれなくなったため、「陪審員制度でなければよい」と妥協した結果だという見方もある。陪審員制度と違って裁判員制度では評決に裁判官が加わり、無罪評決でも検察側の控訴が認められ、二審以降はプロだけでやれるので、「それぐらいなら、まあよかろう」というわけだ。だとすれば最高裁も「二審以降はシロート考えなんか無視してやろうぜ」ということになるかもしれず、そのへんの出方が現状では読みにくいところである。

 いずれにしろ、最高裁が憲法違反の疑われる制度を導入しようとしていることに変わりはない。つまり、意に反して法廷に引きずり込まれることで精神的苦痛などを受けた裁判員経験者が国家賠償請求訴訟などを起こしても、最高裁は違憲判決なんか絶対に出さないということだ。ほかに違憲立法審査権を持つ者はいないのだから、じつに恐ろしい話ではないか。こうなったら、福田首相にはさっさと衆議院を解散してもらい、総選挙と同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査を、裁判員制度の是非を問う国民投票的な位置づけにして大騒ぎするのがよかろうと思う。この馬鹿げた法律を潰すチャンスが(ほんのわずかな可能性でも)あるとすれば、たぶん、そこしかない。

 土曜日は、二日酔いのまま品川シーサイド駅近くの都立産業技術高等専門学校グラウンドまで行き、元Jリーガー大嶽真人さん(元代表大嶽直人さんの弟)が指導するブラインドサッカーの練習会を見学。大嶽さんもまだ試行錯誤の段階のようだが、こうしてサッカー界の指導者からの知恵を借りるのは、うまくやれば、強化の面でも普及の面でもたいへん意義のあることだと思う。あえて「うまくやれば」というのは、彼らが視覚障害者スポーツ指導の知恵を吸収していけば、という意味だ。それをやっていないがために、視覚障害者の特性に合わない単なる「サッカー教室」になってしまうケースもないわけではない。サッカーの指導者は、どうしてもふつうに「サッカー」をやらせたくなってしまう傾向があるような印象を私は受けている。しかし両者のノウハウをうまく融合できれば、いろいろと面白いアイデアが生まれることだろう。そのとき、何らかの形で「健常者スポーツは文部科学省、障害者スポーツは厚生労働省」という縦割り行政の弊害が出てこないといいのだが。

 日曜日は、いまさらながら平成19年分の確定申告書を作成。1日あれば片づくことなのに、忙しさにかまけていつも先送りにしてしまうのは、とてもいけないことです。と、毎年のように反省だけはしている。昨年、私に一番たくさんお金をくれたのは幻冬舎。僅差で2位に甘んじた祥伝社には、より一層の頑張りを期待したいところである、というのはもちろん冗談です。頑張るのは私だよまったく。

 確定申告を終えてひと息つき、夜はユヴェントス対ラツィオをライブ観戦。生ラツィオを観るのはいつ以来だろうか。ユヴェントスもものすごく久しぶりに観た。ラニエリが監督してるのには笑ったよなぁ。なんで笑うのかよくわかんないけど笑った。デル・ピエーロってば髪の毛増えてね?とも思った。いや、べつに根拠はないです。単なる印象批評。批評ってこともないが。ラツィオではバローニオが10番とキャプテンマークをつけていた。ふーん。そんなことになっていたのであるか。出世したのかし損ねたのか微妙だ。試合のほうは、前半4-0、最終スコア5-2という、乱雑というか乱暴というか粗雑というか、とにかくまあ、いろんな意味で無頓着な内容。ラツィオのプレスがそこそこ効いていたのは序盤の5分間だけ、ユヴェントスのプレスが効いていたのは前半だけだった。それ以降はシワくちゃなワイシャツみたいなゲーム。来年も現役続行を表明しているらしいバロッタ翁だが、ちょっと、さすがにもうダメかもしんない。私と誕生日が2週間しか違わない「2分の1米寿世代」なので頑張ってほしいという気持ちもあるものの、いくら何でも守備範囲が狭すぎ。ブラインドサッカーなら2×5メートルのGKエリア内の勝負なので、4年後のロンドンパラを目指すという手もあるが、どうだろうか。あの反射神経じゃ無理か。無理だよな。







平成二十年四月二十五日(金)  85.4 kg


過剰捜査
BGM : The Jimi Hendrix Experience(Disc 3)



 花壇のチューリップを傘でなぎ倒しているスーツ姿のおっさんの画像が公開された。国分寺駅で目撃した隠し撮りおやじ(一昨日の日誌参照)もそうだったが、スーツ姿のおっさんの不良行為というのは、ひどくみじめだ。ある意味、痛々しい。だが、そんなことよりもモンダイだと思うのは、監視社会の恐ろしさってやつであるよなぁ。全国紙にデカデカと写真をさらして公開捜査するほどの犯罪なのか器物損壊って。画像を公開された時点で、法定刑と同等かそれ以上の制裁を受けているような気がする。犯行の場所も特定されているわけだから、あれ、見る人が見れば誰だかすぐわかりそうだし。進退窮まった本人が自殺でもしたら、警察とメディアの責任問題になるのは必至だろう。一昨日の日誌で、迷惑行為の駆逐のためにヤクザの「インネン力」を借りてみたらどうかという冗談を書いたが、監視カメラで身につくお行儀の良さより、ヤクザの恫喝で身につくお行儀の良さのほうが、まだいくらか健全であるように思う。

 一昨日からBGMのジャケ写が変わっていないが、これは4枚組のボックスセットなのである。ちなみに国内盤のタイトルは「アンリリースト&レア・マスターズ」。高音質にリマスターされた名曲・名演の詰め合わせだ。未発表音源集というとマニア向けの印象があるが、これは至高の「ベスト盤」として初心者が初心者にお勧めできる一箱。ベルベット(っていうのかな)仕立てのパッケージにも高級感が漂っているので、お中元やお歳暮にぜひ。大喜びする人とそうでない人がいることは間違いない。







平成二十年四月二十四日(木)  85.2 kg


パラ予想
BGM : The Jimi Hendrix Experience(Disc 2)



 IBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)のサイトで、北京パラリンピックの5人制サッカーの日程を記載したPDFファイル(Five-a-side football Beijing 2008 match schedule)を見つけた。ちなみに、パラリンピックやIBSAの大会で「Five-a-side football」といえば、それは所謂ブラインドサッカーのことである。ふつうのサッカーやフットサルと区別する正式名称は、とくに存在しない。視覚障害者の柔道や水泳などが、「視覚障害者柔道」とか「ブラインド水泳」などとは呼ばれないのと同じことであろう。で、パラのブラインドサッカーは、9月7日のアルゼンチン対スペインで幕を開ける。一昨年の世界選手権でも、昨年のIBSAの大会でも、この両国はお互いにとっての初戦で対戦した。妙な因縁を感じる。一昨年は1-1、昨年は3-2。スリリングな攻め合いが展開される良い開幕戦になるに違いない。無論それはパラリンピック自体が良い大会になっていれば、の話ではあるが。出場国はそれ以外に、ブラジル、イギリス、韓国、中国。世界選手権では国旗もユニも「イングランド」だった英国チームは、今回どんなユニフォームで登場するのだろうか。

 この大会では、まず6ヶ国の総当たりによるリーグ戦を実施した上で、その上位2ヶ国が決勝、中位2ヶ国が3位決定戦、下位2ヶ国が最下位決定戦を最終日(17日)に行うようだ。1次リーグの最後(15日)に最大の注目カードである中国対ブラジルがセッティングされているので、もし取材に行くなら、その日から見始めれば最低限の目的は達せられるということである。中国とアルゼンチンやスペインの試合も見たいが、北京に1週間も滞在したくないしなぁ。決勝の予想は難しい。個人的な希望をいえば、アルゼンチンがブラジルや中国の高速ドリブラーたちを巧みに止め、ヴェロとロドリゲスのコンビによる得点を積み重ねることで決勝に進出して、これまで個人技だけで何とかなる競技だったブラインドサッカーにさらなる進歩を促す大会になってもらいたいのだが、まあ、なかなかそうもいかんでしょうなぁ。むしろ、決勝で中国とブラジルが再戦して雌雄を決し、世界中のブラインドフットボーラーが「やっぱドリブルだよね」という意識をさらに強める結果になる可能性のほうが高いか。もしかすると、いちばん見てて面白いのは、銅メダルをかけて3位決定戦で再戦したときのアルゼンチン対スペインかも。これは死闘になるぜ。

 ところで、国際視覚障害者スポーツ連盟って、英語名は「International Blind Sports Federation」なのに、どうして略称が「IBSA」なんだろう。「Federation」でも略称を「A」にするのって、よくあることなんですか? 原稿に書くとき、こっちが間違えていると思われかねないので、なんだか困る。英語名をネグって、「IBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)」と表記するのが無難か。







平成二十年四月二十三日(水)  85.8 kg


所沢、国分寺、そして偽装疑惑
BGM : The Jimi Hendrix Experience(Disc 1)



 ゆうべは所沢で、JBFA関係者にインタビュー。なんでまた所沢なのかといえば、相手が勤務している国リハ(国立身体障害者リハビリテーションセンター)が新所沢にあるからである。行く前は果てしなく西武線に乗るような印象があってやや億劫だったが、行ってみると所沢ってあんがい国分寺から近いのね。心理的にはすげえ遠いんだけど。インタビューは「へえ、そうなんですか。面白いなぁ」の連続だったが、それを相手に言われることが多く、どっちが取材を受けているのかよくわからないことになってしまった。すでに30人以上のブラインドサッカー関係者から話を聞いており、近頃は「そのへんどうなんスか?」と逆取材をされることが多くなっている。しかし、それも地道かつディープな取材活動の成果であろうと自画自賛。それぐらいでなければ、この分野における最初の本を執筆するという重責を担う資格はないだろうとも思っている。

 所沢からの帰途、国分寺駅のホームで電車を待っているときに、とても厭な光景を見た。50歳前後と思しきスーツ姿のおっさんが、4メートルほど離れたところに立っていたちょっと色っぽい雰囲気のOL風の女性を、ケータイで撮影していたのである。女性の全身が画面に収まっているところでシャッターを切ったのが見えたので、間違いない。そのケータイにどれだけのコレクションが秘蔵されているのかと想像すると、おぞましくて鳥肌が立った。スカートの中を撮影したわけではないものの、道義的に許されることではない。あれって、どのあたりから迷惑防止条例とかに抵触するんだろうか。「撮影の自由」的な人権があるのかないのかもよくわからない。微妙な感じなので、下手したらこっちが名誉毀損で訴えられかねないと思い、おっさんの横顔に心底からの軽蔑の視線を投げかけつつも放っておいたが、「いま撮った写真、ちょっとモンダイあんじゃないスか?」ぐらいの忠告はしたほうがよかったのだろうか。でも、その直後に飛び込み自殺とかされても寝覚め悪いしなぁ。死ぬほどのことじゃないもんなぁ。

 こういう場合、もしも私がヤクザだったら、「ワレ何しとんじゃコラ。勝手に人の女房の写真撮りくさって、タダで済むと思うとんのかい」的なインネンをつけて、けっこうな額のシノギをゲットしたことだろう。「俺の女房」ではなく「人の女房」と言っておけば、あとで無関係な第三者だとバレても論理的な整合性はつけられる。「誰かのオンナ」ならそれはすべて「人の女房」だ。それでは自分がカネを受け取る道理がなくなるが、まず女性に慰謝料を受け取らせて、その中から手数料を頂戴すればよい。なんてことを考えると、世の中に溢れている「合法的な迷惑行為」を駆逐するには、ヤクザさんたちの「インネン力」を借りるしかないのかもしれないと思ったりもする。たとえば電車が揺れたときにヨロケたフリをして、化粧や飲食をしている人間にくっつき、洋服に汚れをつけさせることなんか、たぶんベンツに傷をつけさせることよりも簡単だ。それで金品をむしり取られる事例が全国で5件も続発すれば、車内マナーはかなり改善されると思う。恐怖によって身についた立ち居振る舞いが、果たして「マナー」と呼べるものなのかどうかは、議論の分かれるところではあるけれど。

 今朝の「スーパーモーニング」によれば、また札幌で視覚障害偽装が疑われている者が見つかったらしい。もちろん、偽装が真実であれば許し難いことである。ただ、その疑惑の人物をカメラで追ったレポートの中身にも、やや慎重さを欠いていると思う部分があった。「見えないはずなのに自転車に乗っています!」とか「家のカギをふつうに開けています!」といった行動を「偽装」の根拠として声高に伝えていたからだ。1級の障害者手帳を持っている本物の視覚障害者でも、自転車である程度の距離を移動できる人がまったくいないわけではない。カギを「まるで見えているかのように」開けることのできる人なんか、山ほどいるだろう。毎日のことなんだから、晴眼者だってカギぐらい目をつぶってでも開けられるはずだ。

 それに、視覚障害者の「見え方」は一様ではない。いや、「見えない」にもいろいろある、と言ったほうがいいだろうか。たとえば、(本人に説明してもらってもよくわからないのだが)視界がマダラに欠けているため、全体の風景はおおむね「見える」ので白杖なしで歩行できるし、拡大読書機を使用すれば文字も読めるものの、視力測定に使うランドルト環(あの「C」があっち向いたりこっち向いたりしてるやつ)は、文字と違って一部から全体の形を推定することができないので、どこが開いているのか判別することができず、そのため視力が出ないという人もいる。視力が出ない以上、いまの規定(両眼の矯正視力の合計が0.01以下)では1級の障害者手帳を取得することに何の問題もない。そういう視覚障害者は、自転車に乗って乗れないこともないだろう。鳥居健人君なんか、義眼だから完全に見えないにもかかわらず、(さすがに市街地を移動はしないものの)空き地で自転車に乗ってグルグルと走り回ることもできる。「ふつうに歩いてるから疑わしい」といったようなワイドショー的短絡が広まったら、あらぬ疑いをかけられる視覚障害者が続出する恐れがあるんである。フィールドを全力で駆け回っているブラインドサッカーの代表選手なんか、みんな疑惑の対象になりかねない。調子こいて「偽装障害者探し」に血眼になり、安直に「怪しい!」を連発していると、あとで痛い目に遭うことになる可能性もあるから、ワイドショー関係者は気をつけたほうがよい。「実はほんとうに障害者でした」なんてことになったら、どんだけ番組関係者のクビが飛ぶかわかりませんぜ。







平成二十年四月二十二日(火)  86.2 kg


上野、西明石、そして裁判員
BGM : The Last Experience / The Jimi Hendrix Experience



 土曜日の晩は上野のドゥービーズで山下広告事務所のライブを鑑賞。「やましたひろつぐ事務所」ではなく「やましたこうこく事務所」と読む。まあ、ほっとけばふつうそう読むわな。だがこれはバンドであって広告事務所ではない。山下広告事務所という会社も存在するが、そこの軽音楽部というわけでもない。かつてフォーバッヂホルダーズオンリーという名で活動していたバンドが、ギターが抜けて4人編成となって以降、ドラムのやまちゃんの会社名をそのまま流用して山下広告事務所という名になったのである。ああ説明が面倒臭い。この日誌には久しぶりに登場するので念のため説明しておくと、4人とも、私が大学時代に所属していた音楽サークルの仲間である。そういう行きがかり上、バンドを結成してから何度もライブに足を運んできたが、彼らもかなり場数を踏んできたせいか、今回は初めて、終演後に「演奏どうだった?」と感想を求められることがなかったので気が楽だった。なので感想はここにも書かない。

 打ち上げに参加して深夜3時に帰宅し、翌朝は7時に起床。酒気が抜けないまま新幹線のシートに体を預け、西明石の国立神戸視力障害センターへ向かう。とても眠く、前日から出張の支度をして上野に泊まらなかったことをひどく後悔した。その日の午前中にJBFA(日本視覚障害者サッカー協会)の総会が開かれ、私は会員ではないのでそこには出席しなかったが、総会終了後に行われた「平成19年度国際大会報告会」と、その後に行われた関西リーグ「こなもんカップ」第1節を取材。これまで秋に開催されていたアジア選手権が来年(第3回大会)は4月から6月あたりに開催されることになったそうで、そのため今年の8月には新たな代表チームの選考会が実施されるという。楽しみなことである。こなもんカップでは、主力選手が東京転勤で抜けてしまい、メンバーが揃うかどうかさえ心配されていた名門・大阪ダイバンズに注目。まずは無事に試合のできる人数が揃っていたので安心したが、それだけではない。3ヶ月前の日本選手権では、ほとんど「フィールドに立っているだけ」だったような初心者選手が、果敢にドリブルでボールを運び、惜しいシュートを放つ姿を見て、その著しい進歩に驚いた。試合も京都プリティウエルに1-0で勝利。さすがに代表監督が率いるチームだけのことはある。残念ながらパラ出場は逃した日本のブラインドサッカーだが、全体の底上げは確実に進んでいるという印象を受けた。西明石に1泊し、翌日の昼に元代表選手のインタビューを1件こなして帰京。

 帰りの新幹線で、「裁判傍聴マガジン」(元木昌彦責任編集/イースト・プレス)の創刊号をちらほらと眺める。こんな雑誌ができるとは、裁判ブームもここまで来たかという感じ。巻頭に<著名人19人に緊急アンケート! 国民が裁判に参加する「裁判員制度」って、ぶっちゃけどうっすか?>という記事があり、賛成派の作家・福井晴敏サンが、その理由として<犯罪の実態を知り、人の運命を決定するタフな役目です。幼児化傾向にある日本人にはいいエクササイズになるかもしれません>と述べていたので、思わずのけぞった。エクササイズ! 人の運命を決定するのにエクササイズ! 法廷を日本人の研修施設みたいなものにしようというのだから、おそるべき発想だと思う。「研修中の幼児」に裁かれるほうの身にもなってみろという話だ。

 同じく賛成派のマンガ家・倉田真由美サンが述べた「理由」もすごい。<法曹界での立身出世、人間関係のしがらみなどから自由な人々が、感性重視で罪を考えられるから。何が正義で何が悪かは所詮多数決で決まる>というのである。か、かかか、感性による多数決ぅ!? 江戸時代の村では、窃盗事件が発生した際、「犯人がわからないから、みんなで入れ札(投票)をして犯人を決めよう」なんてことが行われていたそうだが、それと同じ発想じゃないのかこれは。そういうことじゃマズイからこそ、近代の罪刑法定主義ってもんができたんじゃないの? おまけに倉田サンは、もし自分が裁判員に選ばれたら、<大いに「私情を差し挟ませて」考えることになると思う。今の判決は、裁判官の私情を疑いたくなる、感覚を軽視したものが多いので>とおっしゃっているのだった。ほとんど「私刑肯定論」と言ってよかろう。ほんと怖いです。

 福井サンの「日本人が幼児化傾向にある」という認識にしろ、倉田サンの「裁判員は感性重視で考える」という認識にしろ、ふつうの常識で考えたら、どちらも裁判員制度に「反対」する理由にしかならないはずである。それが「賛成」の理由になってしまうのは、そこに「刑罰は国家による最大の人権抑圧である」という認識が欠けているからではないだろうか。そんな基本認識もない奴らに、文化人ヅラしてベラベラ喋らせるのは、いい加減、もうやめなければいけない。







平成二十年四月十八日(金)  85.6 kg


バントとセント
BGM : Axis : Bold As Love / The Jimi Hendrix Experience



 いやはや、東京の朝はひどい荒天である。傘を「バント」の恰好で持たなければ吹っ飛ばされてしまうほどの強い雨と風。ずぼんがびちょびちょだ。通勤電車の中で白杖を持っている人を見たが、こんな日はみんな大変なんだろうな。傘、両手で持てないもんな。目が不自由だと、歩行時は片手も自由にならないということなのだった。夜、ある選手に会って話を聞く約束があるのだが、それまでにやんでくれるだろうか。

 そういえば、雨の日に目の見えない人と待ち合わせをすると、人々が巻いた状態で手に提げている白いビニール傘が白杖に見えてしまい、いちいち反応して出迎えに行きそうになるので疲れるということも、この取材を始めてから知ったことの一つ。世の中、白いビニール傘が多すぎだ。傘が白杖に見えるということは白杖が傘に見えて視覚障害者だと気づいてもらえない恐れもあるわけなので、「白い杖状のモノ」には何らかの規制をかけてもいいんじゃないかと思うよ。紛らわしいんだよ。そうでなくとも、ビニール傘ばかりの街の風景というのは、どうも貧相でいけない。傘ぐらい、もう少しマトモなものを持ってもバチは当たらないと思う。スーツや鞄や靴にカネかけてらっしゃるエスタブリッシュメントなビジネスパーソンの皆さんも、そのビニール傘一発ですべて台無しになってまっせ。どうせスーツも鞄も靴も身につけたとたんに高級品に見えなくなるタイプの日本人が多いんだから、傘にカネかけたほうがいいよ。

 前に聴いたはずだと思っていた「Axis : Bold As Love」だが、いくら探してもCDが見つからず、どうやらまだ聴いていなかったようなので、買った。でも、すでに別の編集盤などで聴いた曲が多いので、本当に初めて聴いているのかどうかよくわからないことになっている。まあ、楽しいからいいや。ジャケットは千手ヘンドリックス。「セントくん」がダメならこれもかなりダメだと思うのだが、そんなことないんだろうか。ちなみに千手観音の手は1本で25本分なので、40本あれば「千手」なのだということを先日の京都奈良ツアーで学んだ。何がどういう具合に「25本分」なのかは忘れた。千手観音は40本の手にいろんなものを持っているが、傘や白杖を持っているのは見た記憶がないな。べつにどうでもいいけどな。そういや、奈良でセントくんグッズをゲットしなかったのが悔やまれる。いや、まだグッズは出てないのか?







平成二十年四月十七日(木)  85.6 kg


半米
BGM : Live at The Fillmore East / Jimi Hendrix



 ジミ・ヘンドリックスの生前に発表された唯一のライブ盤「Band of Gypsys」と同じステージを2枚組に収録した増強盤が、この「Live at The Fillmore East」である。69年の大晦日から70年の元日にかけて行われたニューイヤーコンサート。カウントダウンで新年を迎えてから「蛍の光(Auld Lang Syne)」を演奏するあたりが、紅白歌合戦とは微妙に違うところだ。もっとも、紅白歌合戦と違うところはほかにもたくさんあるけどね。同じところを探すほうが難しい。紅白歌合戦はフィルモアイーストでやらないし。むしろ「蛍の光」が最大の共通点なのだった。どうでもいいですそんなことは。前作に収録されていなかった「Stone Free」が絶品である。少なくとも私が聴いた5種類ぐらいの「Stone Free」の中では、この「Stone Free」が一番いい。疾走感の点では「Live at Berkeley」も悪くはないものの、そちらは「Stone Free !」のところをジミヘンが一人でシャウトしているのが難点だ。ひょっとしたらマイクがオフになっていたのかもしれないが、そこはやっぱりバッキングボーカルと一緒にキメてもらわないと困るのである。と、ちょっとマニアみたいなことを書いてみた。

 今日で満44歳になった。誰がって私がだ。と、自分自身に言い聞かせないと、それが自分のことだとは思いにくい。そんなハズないんだけどなぁ。別に老けることを否定的に考えているわけではないが、なんかこう、しっくり来ないのだった。自分と年齢をうまく統合できない感じ。43歳は自分のことだと思えたのに、なぜ44歳は自分のことだと思いにくいのか。この1年のあいだに浦島太郎体験でもしていたのだろうか。竜宮城に行った記憶はないが、ブラジルや韓国や大阪や新潟や福岡や松山には行った。そうか、未経験の新しい仕事に挑んでいるせいで新米気分になってんのかもしれないな。しかし実際は、前にも書いたとおり、米は米でも「新米」ではなく「2分の1米寿」である。見た目は自分が思っている以上に老け込んでいるらしく、このあいだも同い年の美容師キリカ姐さんが、私の白髪をしげしげと検分しながら「イイカンジに年取ってるわよ〜」と褒めてくれた。とはいえ、そのキリカ姐さんも驚いたことにその年齢で初めての妊娠中という実にめでたいことになっているのだし、まだ米寿への道を折り返したところかと思うと、残りの人生で結構いろんなことができそうだなぁ、と、思わないでもない。そんなに長生きするつもりかって言うな。







平成二十年四月十六日(水)  85.8 kg


言い訳と溜め息
BGM : First Rays of The New Rising Sun / Jimi Hendrix



 おそらく本日から「わしズム」春号が店頭に並んでいると思われる。今回のコラムはちょっと失敗した。原稿を書いた後で、マクラに使ったネタが「天声人語」とかぶってしまったことは前にも書いたが、忙しさにかまけて「まあいいや」とそのままにしていたら、その後それは世間で大きな話題となり、いま読むと、もンのすンごく間抜けなものになってしまったのだった。辛い。季刊誌の原稿で新しい言葉に早く食いつきすぎるのはリスクが大きいということを学んだ。人生なにごとも勉強である。というか、やはり天声人語子が指摘するようなことを指摘しているようじゃコラムニストとしてダメだということなんだよ。まだまだだな私。どうか、それが3月4日に書かれたことを念頭に置いて読んでいただきたい。以上、言い訳おしまい。

 きのう知り合いがミクシィ日記で指摘しているのを読むまで気づいていなかったのだが、裁判員制度が導入されるのは「一審」だけなのだった。控訴審や上告審はプロの裁判官だけで審理するのである。そっかー。これってみんな知ってたの? 知らなかったのはおれだけ? 今まで、なんでこんなプロの権威を蔑ろにするような制度を法曹関係者が唯々諾々と(というほどではないかもしれないが)受け入れてしまったのか謎だったのだが、そういうことなら理解できる。なるほど、シロートがアホな判断をしても、二審以降でいくらでも修正できるというわけなのだな。自分が被告人になったとき裁判員なんかに裁かれたくないと思っていたが、控訴すればプロにお任せできるということだ。こうなると、ますます制度導入の意味がわからない。私はさほど熱心に議論を追っているわけではないが、この点がほとんど問題視されていないように見えるのが不思議だ。賛成派も反対派も納得いかないんじゃないの? 賛成派は「一審だけでは確定判決に市民感覚が反映されなくなる」と考えるだろうし、反対派は「無駄骨に終わる可能性が高い仕事に無理やり駆り出されるのは御免だ」と考えるはずだと思うのだが違うのだろうか。死刑判決が減るとも言われているが、一審で裁判員がそれを避けたとしても、そういう裁判はたいがい控訴されるわけだから、どうにでもなるじゃねえか。結局、表向きは「市民の皆様のご意見をうかがいました」というアリバイ作りみたいな制度にすぎないのであろう。そんなもん、新聞の世論調査でも参考にしてりゃ済む話である。なんかもう、反対するのもバカバカしくなってきた。







平成二十年四月十五日(火)  85.6 kg


星条旗よ正常なれ
BGM : Live at Woodstock / Jimi Hendrix



 こういう名演を、最初からほぼフルステージを収録した素晴らしい音質の2枚組CDでガッツリ聴けるというあたりが、遅れてきたジミヘン初心者のお得なところである。たまらんよ。ジミヘンたまらん。amazon.co.jpのカスタマーレビューを見ると、<大所帯のバンドがまだしっかりとまとまっていない感じでちょっと散漫になったり、うまくまとまらず乗り切れていない印象を受ける所も>だの、<演奏自体のクオリティーはお世辞にも良好とは言えません。恐らく体調が良くなかったのでしょう。サワリだけを聴きたい人は1枚組みの「Woodstock」を聴けば十分だと思います。本作品は当日の全貌(恐らく)を時代を飾ったドキュメントとして所有したい人向け>だのといったネガティブな評価が目につくわけだが、たぶんこういう人たちは「当日は主催者の不手際でめちゃめちゃ時間が押してしまいジミヘンのステージは朝9時からスタートした」とか「エクスペリエンスが解体してジプシー・サンズ&レインボウズを結成してから日が浅かった」とかいった蘊蓄による先入観を持って音楽を聴いているのだろうと思えてならない。こういう訳知り顔のレビューは初心者に対する害毒にしかならないので、本当にやめてもらいたいものだ。いずれ、こういうものが風説の流布による営業妨害とかで訴えられるケースが出てくるのではないかと思う。それに対して「言論の自由を認めないのか!」などと反論したところで、自業自得というものであろう。そうやって、言論の自由は、権力によって抑圧されるのではなく発信者の無責任によって自滅していくに違いない。高知の刀匠や靖国神社からクレームをつけられた映画監督然り、取材源の精神科医を被告席に座らせてしまったジャーナリストもまた然り。

 だいたい、そんな玄人風レビューを載せている奴にかぎって、<といいつつも「星条旗よ永遠なれ」はいつの時代に聴いても衝撃的です>なんて書いているんだから恥ずかしい。これを「星条旗よ永遠なれ」なんてタイトルで呼んでしまったら、演奏者の言いたいことと真逆じゃんか。言ってておかしいと思えよっつー話である。「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」はスーザのマーチで、米国国歌は「星条旗(Star Spangled Banner)」だと、何度言ったらわかるのだ。ちなみに米国国旗の「星条旗」のほうは「Stars and Stripes」だそうだ。だからスーザが「永遠なれ」と言っているのは国歌ではなく国旗のほうだ。「君が代行進曲」とは違うのだ。そういえば「日の丸行進曲」ってあるのかな。聴いたことないな。話が逸れているが、まあ、CDのライナーなんかでも「星条旗よ永遠なれ」と書いている虚け者がいるので、リスナーは責められないかもな。五輪の表彰式でも間違ってたアナウンサーがいるもんな。要するに、諸悪の根源はいつだってメディアなのだった。もって他山の石とすべし。

 ともあれ、初心者の私はてっきりジミ・ヘンドリックスがウッドストックで即興的に米国国歌を演奏したのだとばかり思っていた(つまりこのときだけの「1点モノ」だと思っていた)のだが、実際はあちこちでしょっちゅう演奏しており、スタジオで多重録音した妙な音源も残っているのだった。知らなかった。しかし私がいくつか聴いた中では、やはりこのウッドストックが一番いい。ただし米国国歌だけを単発で聴いてもダメで、これは必ず前後の曲とセットで聴くべきだろう。その「つなぎ」が、少なくとも私の聴いた中では一番うまくいったのが、このウッドストックの演奏なのだ。「Voodoo Child (Slight Return)」から米国国歌をはさんで「Purple Haze」へとなだれ込んでいく展開は、ライブ演奏に求められる理想を体現しているとさえ言いたくなる。演出では決して生まれない高揚感。ちと褒めすぎている気もするが、とにかくたまらん。

 というか、「いつの時代に聴いても衝撃的」というおまえは、一体いくつの時代を生きているのか。「いまの時代に聴いても」と言いなさい。







平成二十年四月十四日(月)  86.0 kg


ジミと北京とマラドーナ
BGM : Winterland Night / The Jimi Hendrix Experience



 ジミ・ヘンドリックスはしばしばボブ・ディランの名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏しており、なんでそんなにこの曲がやりたいのかイマイチわからずにいたのだが、1968年10月に収録されたこのライブ盤を聴いて、「なるほど」と腑に落ちる感覚があった。11分30秒に及ぶ凄まじい演奏。この曲とこのギタリストが同時代に存在したことは、じつに幸運なめぐり合わせであった。「ストーン」ではなく「ロック」が、ここにはある。

 土曜日は、朝からクーパーフットボールパーク八王子富士森公園へ行き、ブラインドサッカーの「チャレンジカップ2008」を取材。というか観戦。名称には「カップ」とついているが、これはいわゆるカップ戦ではなく、東日本の各クラブが総当たりで戦うリーグ戦である。その第1節。会場に着くなり、先日の日本選手権で準優勝を果たした千葉のハットトリックが諸事情あって解散したと聞かされた。そうなりそうな雰囲気があることは2月頃に誰からともなく聞いてはいたものの、やはり寂しい。普及のことを考えると、チーム数が減るというのは痛手だ。

 ただし考えようによっては、メリットもないわけではない。いまは多くのクラブがギリギリの人数でチームを構成しており、たとえば山梨キッカーズは土曜日にメンバーが揃わず、他チームから選手を借りてたまハッサーズと試合をしたものの、これは練習試合扱いとなり、公式記録上は不戦敗となってしまった。そんな状態なので、どこもチーム内の競争というものが成り立ちにくい。しかしハットトリックの選手たちが分散してあちこちに移籍すれば、移籍先の競争が激化してレベルアップにつながるだろう。つまり「普及」にはマイナスだが「強化」にはプラスもあるということで、まあ、そのバランスをいかに取るかが、この競技における大きなテーマのひとつなのだった。

 さて試合のほうは、開幕戦(対ウォリアーズ戦)でアヴァンツァーレの鳥居健人がいきなり4ゴールと大爆発だ。いずれも右45度ぐらいのエリアから、右足をきれいに振り抜いてゲット。本人によれば、最近はシュートの際に軸足がブレないように心掛けて練習していたという。軸足の重要性は、多くの関係者が指摘するところだ。基本練習に取り組んで結果を出した健人クンはすばらしい。さらに、これもいま取り組んでいるという左足のシュートをマスターしたとき、どれほどのゴールを量産するかと想像すると楽しみでしょうがない。今季からアヴァに移籍した落合啓士のゴールもあって、試合は5-0。ビヴァンツァーレ対T. WINGSは、アヴァからビヴァに移籍した大エース田村友一のシュートを、ハットトリックからT. WINGSに移籍したGK箱守剛がシャープな反応でびしばしと止めまくり、場内からやんやの喝采を浴びていた。しかし最後は守備陣が力尽きて田村にきっちり2ゴールを決められ、2-0。エキサイティングで見応えのあるゲームだった。ところで話は変わるが、会場で協会関係者といろいろと話をしているうちに、どうも北京に行くような流れになった感じ。まだ確定ではないが、可能性大。本はパラの前に出すつもりなので、取材が必要というわけではないものの、そもそも当初から「ブエノスアイレスから北京まで」というビジョンを描いて始めたことだ。行けるものなら、やはり行きたいと思う。

 ブエノスアイレスから北京といえば、聖火リレーである。マラドーナが出走(っていうのか?)を辞退したのが残念でならない。運ぶべき聖火を消すことのできる反体制ランナーは、世界広しといえどもマラドーナ以外にいないと思っていたからだ。リフティングしながら運んだトーチを、豪快な左足のボレーでラプラタ川に叩き込んでほしかった。神の手で投げ込んでもいいです。ひょっとすると、「あいつ、何すっかわかんねえぞ」と案じた中国側がご遠慮願ったのかもしれないよな。そんなこたぁないか。しかし私が主催者側の人間なら、この状況でマラドーナを聖火に近づけたいとは思わない。







平成二十年四月十一日(金)  85.8 kg


突破してどうすんだよ
BGM : South Saturn Delta / Jimi Hendrix



 サンフランシスコの聖火リレーは、直前にルートを変更することで、抗議運動を回避したという。聖火の妨害「愚か者だ」…北京五輪組織委副会長という読売新聞の記事によれば、于副会長は「ロンドン、パリに続き、サンフランシスコでも妨害行為に遭ったが、我々はそれを突破した」と語ったそうだ。敵の裏をかいた「ルート変更」とか「突破」とか、これはもう「聖なるもの」の運び方ではない。麻薬か武器弾薬の運び方である。それが本当に聖なる炎であり、そのリレーが「世界平和を伝えていくための、重要で価値ある手段」だという自信があるのなら、逃げたり無理やり突破したりする必要はなかろう。たとえば反体制運動のデモ行進も、それを阻止しようと実力行使する機動隊の姿を世間に見せることに意味がある。「正義は我にあり」と信じて堂々とリレーし、もし消されてしまったら、その妨害者をテロリストとして糾弾すればよろしい。ただそれだけの話である。火なんか消えてもまたつけられるんだからさ。消されても消されても、また点火して黙々と運び続けるというのが、「聖なるもの」の正しい取り扱い方ではなかろうか。それをコソコソと策略をめぐらして運ぶのは、聖火の冒涜以外のなにものでもない。もっとも彼らにとっては、中華秩序による「平和」もまた、策略や突破によって築くものなんでしょうけども。








平成二十年四月十日(木)  85.8 kg


ボイコットが無理ならネグレクトで
BGM : BBC Sessions / The Jimi Hendrix Experience


 ブラインドサッカー日本代表がパラ出場権を得ていても同じことが言えたかどうかはわからないが、聖火リレーの妨害者たちには是非とも種火を消火するところまで頑張ってもらいたいものだと思う。しかし、その騒ぎが大々的に報道されることで、すでに大会がいつも以上に「盛り上がって」しまっているように感じられ、それは逆に開催国を利することになってしまうのではないかと案じているのは私だけだろうか。聖火リレーの段階でここまで注目された五輪は過去になかったと思う。向けられる視線がネガティブなものだろうとポジティブなものだろうと、世間の関心が高まれば高まるほど、中国がオリとパラを開催することで手に入れる果実も増大してしまうのではあるまいか。そんなことないですか。

 選手たちからチャンスを奪わず、しかし開催国(およびあんな奴らに開催権を与えたIOC)にダメージを与えようとするならば、みんなで大会を無視するのが一番だと私は思う。選手たちにとっては存在し、世間にとっては存在しない大会にしてしまえばいいのだ。国内で負けても代表を辞退しようとせずに「ママでも金」とか意地汚いことを言ってる人なんかは、報道(という名の宣伝)をしてくれないとモチベーションが(もしかしたら収入も)下がるかもしれないが、そんな奴は放っておけばよろしい。まったく報道されないところで(しかも収入どころか自腹を切って遠征し)自分と仲間のために必死で戦っているアスリートは、世の中にいくらでもいる。ともあれ、各国のマスメディアは、「五輪を取材してほしいなら、チベットも自由に取材させろ」と開催国に要求すべきだろう。「国境なき記者団」とかいう人たちが妙な旗をこしらえたりして大ハシャギしているらしいが、そんなお祭り騒ぎを繰り広げて盛り上げにひと役買っている場合ではない。だいたい、記者がニュースの当事者になってどうすんだよ。

 と、大会のネグレクトを考える一方で、パラのブラインドサッカーを取材に行きたいと思っている自分もいたりするのだから困ったものである。わが日本は出場しないとはいえ、やっぱブラジル対中国とか見たいよなー。目眩がするほどの壮絶なドリブル合戦になるのは間違いないもんなー。それに、世界が注視するオリンピックが閉幕した後の虚脱状態の中で、あの人権蹂躙国家が障害を持つアスリートたちをどう扱うかということにも興味がある。中国にホスト国の資格があるかどうかは、オリンピックよりもむしろパラリンピックで明らかになるような気がするのだがどうだろうか。







平成二十年四月八日(火)  86.0 kg


15マイルの旅
BGM : Live at Monterey / The Jimi Hendrix Experience



 春休みに京都と奈良に行ったのは、セガレがどういう風の吹き回しなのか「仏像が見たい」と言い出したからだった。たぶん、妖怪好きの延長線上に生じた興味なのであろう。如来や菩薩や十二神将をぬりかべや砂かけババアを見るように見ることが良いのか悪いのかよくわからないが、まあ、中学や高校の修学旅行でガムとかくちゃくちゃ噛みつつ「たりー」だの「うぜー」だのとほざきながら見るよりは、見たいときに見たほうがいいに決まっている。なので、見飽きるほどの桜花に囲まれながら、大徳寺と金閣寺と龍安寺と仁和寺と北野天満宮と南禅寺と清水寺と興福寺と東大寺と薬師寺と法隆寺と三十三間堂と東寺と東本願寺と西本願寺の15ヶ所にお参りしてきた。リゾート派のわが家には珍しい大観光旅行である。これだけ移動しても「参る」は貯まらないけどな。とにかく、足が棒になりました。いやー、参った参った。








平成二十年四月四日(金)  85.4 kg


そうだ


 京都に行っていたのだ。あと奈良にも行った。
 帰宅したばかりでへとへとなので、とりあえず写真を少し。上から、薬師寺の桜、三十三間堂の桜、京都タワー、仁和寺の桜(か?)、東大寺の桜、法隆寺の桜、そして大仏さん。